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− | [[石川県]]出身。旧[[加賀藩]]士・[[大尉|陸軍大尉]]、鈴木知康の息子として生れ、教員・河村寛二の養子となる。 | + | [[石川県]]出身。旧[[加賀藩]]士・[[大尉|陸軍大尉]]、鈴木知康の息子として生れ、教員・河村寛二の養子となる。<ref>出典?</ref> |
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+ | 1946年(昭和21)9月、[[シンガポール華僑粛清事件]]の戦犯容疑で逮捕。 | ||
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== 親族 == | == 親族 == | ||
+ | (出典?) | ||
* 長兄 鈴木実(陸軍[[軍医]]少将) | * 長兄 鈴木実(陸軍[[軍医]]少将) | ||
* 次兄 [[鈴木重康]](陸軍中将) | * 次兄 [[鈴木重康]](陸軍中将) | ||
== 著書 == | == 著書 == | ||
− | * {{ | + | *{{Aya|河村|year=1952}} 河村参郎『十三階段を上る』亜東書房、{{NDLJP|1659774}}{{閉}} |
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− | == | + | ===評価=== |
− | {{ | + | {{Harvtxt|大西|1977|pp=73-74}}によると、河村は、集団検問による選別者を(取り調べや裁判をせず)即時に殺害することに反対していたといい、遺著『十三階段を上る』の中でも、当時の第25軍参謀長・[[鈴木宗作]]に意見したが「軍司令官([[山下奉文]])が決定したことだ」と言われ、軍命に服さざるを得なかった、と記している。同書中で河村は、参謀長が(当時第25軍作戦参謀主任だった[[辻政信]]らの強硬意見を斥けるように)軍議を指導していれば、と愚痴がないわけではないが、今更それをいってもしようがない、と記している{{Sfn|大西|1977|pp=78-79}}。 |
− | == 参考文献 == | + | ==付録== |
+ | === 脚注 === | ||
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+ | === 参考文献 === | ||
* 河村の著書については[[河村参郎#著書]]を参照。 | * 河村の著書については[[河村参郎#著書]]を参照。 | ||
− | * [[秦郁彦]]編『日本陸海軍総合事典』第2版、[[東京大学出版会]] | + | * [[秦郁彦]]編『日本陸海軍総合事典』第2版、[[東京大学出版会]]、2005 |
− | * | + | * 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001 |
− | * 外山操編『陸海軍将官人事総覧 | + | * 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981 |
− | * {{ | + | *{{Aya|大西|year=1977}} 大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、{{JPNO|77032906}} |
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河村 参郎(かわむら さぶろう、1896年10月7日 - 1947年6月26日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。1924年に陸軍大学校を卒業し、1925年陸軍省軍務局付となる。1928年から陸軍派遣学生として東京帝国大学で学び、1931年からフランスに駐在。1934年軍務局付兼対満事務局事務官。1936年には二・二六事件の軍法会議判士を務めた。1938年、北支那方面軍参謀。1941年、歩兵第9旅団長としてマレー作戦に参加。1942年昭南警備司令官としてシンガポール市内の粛清工作を指揮。同年12月、印度支那駐屯軍参謀長。1947年4月にイギリス軍シンガポール裁判(華僑粛清事件)で死刑の判決を受け、同年6月にシンガポール・チャンギーで刑死。死後、辻政信の編により遺著『十三階段を上る』が刊行された。
経歴[編集]
石川県出身。旧加賀藩士・陸軍大尉、鈴木知康の息子として生れ、教員・河村寛二の養子となる。[1]
陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経る[2]。
1917年(大正6)5月、陸軍士官学校を卒業(29期)[3]。
同年12月[4]、歩兵少尉に任官、歩兵第6連隊付となる[5]。
1921年(大正10)中尉[5]。
1924年(大正13)12月、陸軍大学校を優等で卒業(36期)[6][5]。
1926年(大正15)大尉[5]。
1928年(昭和3)4月から1931年(昭和6)3月まで、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部政治学科で学んだ[8][5]。
1931年(昭和6)少佐。同年9月からフランスに駐在(1934年1月まで)[5]。
1933年(昭和8)12月、歩兵第23連隊大隊長となる[5]。
1934年(昭和9)軍務局付[5]兼対満事務局事務官[9]。
1936年(昭和11)中佐[5]。同年3月から7月まで、二・二六事件の軍法会議の判士を務めた[10]。
1937年(昭和12)4月、軍務局軍務課員[11]。
1939年(昭和14)軍務課長[5]。
1941年(昭和16)歩兵第213連隊長[5]。同年10月[12]、陸軍少将に進級し、歩兵第9旅団長に就任。同年12月、マレー作戦に参加。[5]
1942年(昭和17)2月、昭南警備司令官として、シンガポール市内の粛清工作を指揮[13]。
同年12月、印度支那駐屯軍参謀長となり、1944年(昭和19)に駐屯軍が第38軍に改編された後も引き続き参謀長を務めた[5]。
1945年(昭和20)3月、陸軍中将に昇進。陸軍兵器本廠付[5]。同年7月、第224師団長に就任し、編成中に広島で終戦を迎えた[14][5]。
1945年9月、中国軍管区参謀長に就任し、中国復員監部総務部長、中国復員監を歴任した[15][5]。
1946年(昭和21)9月、シンガポール華僑粛清事件の戦犯容疑で逮捕。
1947年(昭和22)4月2日、イギリス軍シンガポール裁判で死刑の判決を受け、同年6月26日、シンガポールのチャンギー刑務所で刑死[16]。
親族[編集]
(出典?)
著書[編集]
評価[編集]
大西 (1977 73-74)によると、河村は、集団検問による選別者を(取り調べや裁判をせず)即時に殺害することに反対していたといい、遺著『十三階段を上る』の中でも、当時の第25軍参謀長・鈴木宗作に意見したが「軍司令官(山下奉文)が決定したことだ」と言われ、軍命に服さざるを得なかった、と記している。同書中で河村は、参謀長が(当時第25軍作戦参謀主任だった辻政信らの強硬意見を斥けるように)軍議を指導していれば、と愚痴がないわけではないが、今更それをいってもしようがない、と記している[17]。