「マイク・タイソン」の版間の差分
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− | '''マイク・タイソン'''(Mike | + | '''マイク・タイソン'''(Mike Tyson、1966年6月30日生まれ)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。1980年代後半から1990年代にかけての全盛期には[[パウンド・フォー・パウンド]]ともいわれた、アメリカのヘビー級ボクサーである。身長180cm(慈恵医大での測定値)、リーチ180cm。周囲50cm超の首を誇る。顔と両腕、そして腹部に[[刺青]]を彫っている。絵柄は[[毛沢東]](右腕)、[[アーサー・アッシュ]](左腕)、[[チェ・ゲバラ]](左脇腹)。 |
ヘビー級としては小柄ながら巨漢ボクサーをガードごと薙ぎ倒す桁外れのパンチ力と、ヘビー級史上最速の評価を[[モハメド・アリ]]と分かつスピード、急所を正確にコンビネーションで打ち抜く高度なオフェンス技術、そして相手のパンチをガードのみに頼らず、そのほとんどを空に切らせる鉄壁のディフェンス技術を武器に次々に大男たちをマットに沈め、モハメド・アリなき後のヘビー級の停滞期を打ち破りパウンド・フォー・パウンドの頂点に君臨した。現役時代のみならず、長いボクシングの歴史の中においても、最盛期のタイソンはモハメド・アリと並んで最強ボクサーの有力な候補である。 | ヘビー級としては小柄ながら巨漢ボクサーをガードごと薙ぎ倒す桁外れのパンチ力と、ヘビー級史上最速の評価を[[モハメド・アリ]]と分かつスピード、急所を正確にコンビネーションで打ち抜く高度なオフェンス技術、そして相手のパンチをガードのみに頼らず、そのほとんどを空に切らせる鉄壁のディフェンス技術を武器に次々に大男たちをマットに沈め、モハメド・アリなき後のヘビー級の停滞期を打ち破りパウンド・フォー・パウンドの頂点に君臨した。現役時代のみならず、長いボクシングの歴史の中においても、最盛期のタイソンはモハメド・アリと並んで最強ボクサーの有力な候補である。 | ||
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== 来歴 == | == 来歴 == | ||
− | 家族には5歳年上の兄ロドニーと6歳下の妹デニーズがいる。兄は医師助手として、Los Angeles County-University of Southern California Medical Center に勤めて弟のキャリアを支えており、タイソンのラスベガスでのボクシング戦で何度か目撃された。タイソンは兄についてインタビューされた際に「兄貴とは深い絆で結ばれている。兄貴はいつも立派だったが自分は何もなかった。」と述べている。デニーズは心臓麻痺で1991年に25歳で死去。父親の Jimmy Kirkpatrick はタイソンが2歳のときに家族を捨て蒸発している。以後、家族は母親のローラ・スミスタイソンによって養われる。母親はタイソンが16歳のときにタイソンをボクシングマネージャだったカスダマトの手に託して死去している。以後、ダマトはタイソンの法的保護者になる。タイソンが幼い頃、一家は[[イーストニューヨーク]]などブルックリン区内に住んでいた。経済的な問題で、ブルックリン区近隣の[[フォート・グリース]]等を転々とした後に、タイソンが7歳の時に当時のアメリカ合衆国の中でも最悪の[[ゲットー]]と呼ばれていたブルックリン区ブラウンズヴィルに落ち着き、タイソンはそこで育つことになる。幼少の頃はその内向的な性格(現在でもその独特の甘えたようなイントネーションにその名残がうかがえる。スポーツジャーナリストの[[二宮清純]]はタイソンへの取材を通じてタイソンに対し[[自閉症]]児の様な印象を受けたと語っている。実際、タイソンは自閉症ではないが[[双極性障害|躁うつ病]]と診断されており、長期に渡り[[抗うつ薬|抗鬱剤]]を服用していた)や、大きな近眼鏡を着用していたことが近所の不良少年達に嘲笑され虐めの対象となる。だが、大事にしていたペットの[[鳩]] | + | 家族には5歳年上の兄ロドニーと6歳下の妹デニーズがいる。兄は医師助手として、Los Angeles County-University of Southern California Medical Center に勤めて弟のキャリアを支えており、タイソンのラスベガスでのボクシング戦で何度か目撃された。タイソンは兄についてインタビューされた際に「兄貴とは深い絆で結ばれている。兄貴はいつも立派だったが自分は何もなかった。」と述べている。デニーズは心臓麻痺で1991年に25歳で死去。父親の Jimmy Kirkpatrick はタイソンが2歳のときに家族を捨て蒸発している。以後、家族は母親のローラ・スミスタイソンによって養われる。母親はタイソンが16歳のときにタイソンをボクシングマネージャだったカスダマトの手に託して死去している。以後、ダマトはタイソンの法的保護者になる。タイソンが幼い頃、一家は[[イーストニューヨーク]]などブルックリン区内に住んでいた。経済的な問題で、ブルックリン区近隣の[[フォート・グリース]]等を転々とした後に、タイソンが7歳の時に当時のアメリカ合衆国の中でも最悪の[[ゲットー]]と呼ばれていたブルックリン区ブラウンズヴィルに落ち着き、タイソンはそこで育つことになる。幼少の頃はその内向的な性格(現在でもその独特の甘えたようなイントネーションにその名残がうかがえる。スポーツジャーナリストの[[二宮清純]]はタイソンへの取材を通じてタイソンに対し[[自閉症]]児の様な印象を受けたと語っている。実際、タイソンは自閉症ではないが[[双極性障害|躁うつ病]]と診断されており、長期に渡り[[抗うつ薬|抗鬱剤]]を服用していた)や、大きな近眼鏡を着用していたことが近所の不良少年達に嘲笑され虐めの対象となる。だが、大事にしていたペットの[[鳩]]を年上の不良グループの少年たちに虐殺され、我を忘れてその不良達を殴り倒したことから自身の強さに気付き、ボクシングを志した<ref name="zakzak201101">[http://www.zakzak.co.jp/sports/etc_sports/news/20110108/spo1101081521006-n1.htm M・タイソン余生をハトに捧げる…下着姿でたわむれる] zakzak 2011年1月8日</ref>。タイソンはこのときのことを後に、「お袋はストリートで新しい服をかっぱらってきた俺のことを喜んではいなかった。俺はお袋とそのことについてどう思うかと話したり知ろうとする機会がなかった。プロとして自分のキャリアには影響していないが、精神的・個人的に自分の重荷となった。」と語っている。9歳から12歳の間に51回も逮捕され、ついにニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン[[少年院]]に収監。そこで更生プログラムの一環として行われていたボクシングと出会う。その後、少年院のボクシング担当教官だった[[ボビー・スチュワート]]により才能を見出され、繋がりのあった名トレーナー、[[カス・ダマト]]に伝わり、ダマトがタイソンの才能に驚愕し身元引受人となったため少年院を出所後、ダマトの下にてボクシングの英才教育を受けることになる。 |
まずは[[ボクシング|アマチュアボクシング]]でキャリアをスタートし13歳の時に初試合を行った。そして数年間キャリアを積んでいき、その間にジュニア・オリンピックのタイトル等を獲得。その後[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]への参加を狙うが、オリンピック出場を確実視されながらも国内予選の最終選考会の決勝戦でダウンを奪いながら判定負けを喫し、オリンピックへの参加は叶わなかった。タイソンのようにポイントではなくノックアウトを狙うファイタースタイルの選手は、ポイントゲームであるアマチュアボクシングには合わない面もある(最終選考会決勝戦でタイソンを破った[[ヘンリー・ティルマン]]はロサンゼルスオリンピックでは金メダルを獲得。その後1990年にプロで再戦しタイソンが1RKO勝ちを収めている)。 | まずは[[ボクシング|アマチュアボクシング]]でキャリアをスタートし13歳の時に初試合を行った。そして数年間キャリアを積んでいき、その間にジュニア・オリンピックのタイトル等を獲得。その後[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]への参加を狙うが、オリンピック出場を確実視されながらも国内予選の最終選考会の決勝戦でダウンを奪いながら判定負けを喫し、オリンピックへの参加は叶わなかった。タイソンのようにポイントではなくノックアウトを狙うファイタースタイルの選手は、ポイントゲームであるアマチュアボクシングには合わない面もある(最終選考会決勝戦でタイソンを破った[[ヘンリー・ティルマン]]はロサンゼルスオリンピックでは金メダルを獲得。その後1990年にプロで再戦しタイソンが1RKO勝ちを収めている)。 | ||
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1985年3月6日に18歳でプロデビューし、ヘクター・メルセデスに1RTKO勝ちで初戦を白星で飾る。この年、11連勝を飾った直後トレーナーのカス・ダマトが死去。 | 1985年3月6日に18歳でプロデビューし、ヘクター・メルセデスに1RTKO勝ちで初戦を白星で飾る。この年、11連勝を飾った直後トレーナーのカス・ダマトが死去。 | ||
− | その後、通算28連勝し1986年11月22日、29戦目にして[[トレバー・バービック]] | + | その後、通算28連勝し1986年11月22日、29戦目にして[[トレバー・バービック]]に2RTKO勝利し、WBC世界ヘビー級タイトルを獲得。史上最年少(20歳5か月)で世界ヘビー級チャンピオンとなる。翌年、1987年3月7日には[[ジェームス・スミス]]に判定勝ちし、WBA世界ヘビー級タイトルを獲得。さらに同年8月、[[トニー・タッカー]]に判定勝ちして[[国際ボクシング連盟|IBF]]世界ヘビー級タイトルを獲得して3団体統一に成功。1986年と1988年には、The Ring 年間最優秀選手賞を受けた。 |
1988年2月に、元ファッションモデルで女優の[[ロビン・ギブンス]]と結婚。しかし、すぐに離婚した。 | 1988年2月に、元ファッションモデルで女優の[[ロビン・ギブンス]]と結婚。しかし、すぐに離婚した。 | ||
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案の定、プロ入り以来初めての長期ブランクを経た1989年の[[フランク・ブルーノ]]戦では、別人のような緩慢で雑なボクシングを披露した。このブルーノ戦はそれでも勝ったがまともにカウンターを貰い初めてグラつく姿も見せている。タイソンの兄弟子[[ホセ・トーレス]]はこの試合を見て「カスが教えたものは何もかも失われていた。左右への動き、コンビネーション、タイミング、忍耐、最も基本的な左ジャブ……。そして、カス・ダマトと深い繋がりのあったコーナーマン達もそこにはいなかった・・・」というコメントを残している。次戦のカール・ウイリアムス戦では、わずか1Rのフック一発で試合が決したため目立たなかったが、その動きにかつての切れはなく、生放送では解説の[[浜田剛史]]がタイソンのボクシングに首を傾げるような発言をしている。次戦、タイソンは試合を急にキャンセル(ドノバン・ラドックとの防衛戦が決定していた)するなど相変わらずゴタゴタが続き、1990年2月11日に[[日本]]の[[東京ドーム]]で[[ジェームス・ダグラス]]に10RKO負けしてタイトルを失う。これがタイソンのプロキャリアにおける初黒星だった。さらにタイソンの転落は続く。1991年にディズィリー・ワシントンをホテルの一室で[[レイプ]]したとして1992年に刑務所へと収監された(この事件に関してケビン・ルーニーはタイソンがハメられたと見解を出している<ref>Lisa Scott [http://web.archive.org/web/20080226200330/http://www.fightnews.com/scott160.htm Rooney on Tyson!] fightnews.com 2004年4月5日 {{en icon}}</ref>)。 | 案の定、プロ入り以来初めての長期ブランクを経た1989年の[[フランク・ブルーノ]]戦では、別人のような緩慢で雑なボクシングを披露した。このブルーノ戦はそれでも勝ったがまともにカウンターを貰い初めてグラつく姿も見せている。タイソンの兄弟子[[ホセ・トーレス]]はこの試合を見て「カスが教えたものは何もかも失われていた。左右への動き、コンビネーション、タイミング、忍耐、最も基本的な左ジャブ……。そして、カス・ダマトと深い繋がりのあったコーナーマン達もそこにはいなかった・・・」というコメントを残している。次戦のカール・ウイリアムス戦では、わずか1Rのフック一発で試合が決したため目立たなかったが、その動きにかつての切れはなく、生放送では解説の[[浜田剛史]]がタイソンのボクシングに首を傾げるような発言をしている。次戦、タイソンは試合を急にキャンセル(ドノバン・ラドックとの防衛戦が決定していた)するなど相変わらずゴタゴタが続き、1990年2月11日に[[日本]]の[[東京ドーム]]で[[ジェームス・ダグラス]]に10RKO負けしてタイトルを失う。これがタイソンのプロキャリアにおける初黒星だった。さらにタイソンの転落は続く。1991年にディズィリー・ワシントンをホテルの一室で[[レイプ]]したとして1992年に刑務所へと収監された(この事件に関してケビン・ルーニーはタイソンがハメられたと見解を出している<ref>Lisa Scott [http://web.archive.org/web/20080226200330/http://www.fightnews.com/scott160.htm Rooney on Tyson!] fightnews.com 2004年4月5日 {{en icon}}</ref>)。 | ||
− | 6年の[[懲役]]刑を言い渡されたが3年間服役後の1995年に仮釈放され、翌年の1996年3月16日、[[フランク・ブルーノ]] | + | 6年の[[懲役]]刑を言い渡されたが3年間服役後の1995年に仮釈放され、翌年の1996年3月16日、[[フランク・ブルーノ]]を3RKOで破り、WBC世界ヘビー級タイトルを再度獲得し世界チャンピオンへと復権する。なお、服役中に[[イスラム教]]に改宗し、マリク・アブドゥル・アシスという名を持った。同年9月、[[ブルース・セルドン]]を1RTKOで破り、WBA世界ヘビー級タイトルも獲得。再び統一チャンピオンになったが、11月に[[イベンダー・ホリフィールド]]に11RTKOで敗れ、タイトルを失う。翌年6月28日に行われた再戦ではホリフィールドのWBA世界ヘビー級タイトルに挑戦するが、いわゆる「耳噛み事件」を起こし3R終了時に失格負けとなった。この反則行為により1年間のライセンス停止処分を受けた。 |
− | 1999年に復帰するも年に1試合程度と試合間隔が極端に開くようになる。2002年6月8日に[[レノックス・ルイス]] | + | 1999年に復帰するも年に1試合程度と試合間隔が極端に開くようになる。2002年6月8日に[[レノックス・ルイス]]の持つWBC、IBF、IBO世界ヘビー級タイトルに挑戦。結果は8RKO負け。2003年6月、暴行容疑で再度逮捕。2004年4月15日、[[K-1]]の試合出場契約を結ぶ。日本国内でのプロモート契約であるが、薬物犯罪者という理由で日本に入国できなかったため、実現は不可能であった。2004年7月30日、復帰戦となるノンタイトルマッチで1R中盤で膝の靭帯を断裂。その怪我が響き、[[ダニー・ウィリアムズ]]に4RKO負け。2004年12月、器物損壊容疑で逮捕。2005年6月12日、前回の試合で傷めた膝を手術し復帰。無名の[[ケビン・マクブライド]]を相手に戦うも、年齢から来る体力の衰え、そして膝の怪我の影響からか動きに精彩を欠き、6R終了後棄権しTKO負け。試合後のリング上でのインタビューで 「もうこれ以上、ボクシングを侮辱したくない」 と、引退を示唆した。正式な引退発表しなかったが、結果的にこれが最後の試合となり、1985年のプロデビューから2005年まで丸20年のプロキャリアに終止符を打った。 |
=== 引退後 === | === 引退後 === | ||
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2020年1月14日 (火) 20:35時点における最新版
マイク・タイソン(Mike Tyson、1966年6月30日生まれ)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。1980年代後半から1990年代にかけての全盛期にはパウンド・フォー・パウンドともいわれた、アメリカのヘビー級ボクサーである。身長180cm(慈恵医大での測定値)、リーチ180cm。周囲50cm超の首を誇る。顔と両腕、そして腹部に刺青を彫っている。絵柄は毛沢東(右腕)、アーサー・アッシュ(左腕)、チェ・ゲバラ(左脇腹)。
ヘビー級としては小柄ながら巨漢ボクサーをガードごと薙ぎ倒す桁外れのパンチ力と、ヘビー級史上最速の評価をモハメド・アリと分かつスピード、急所を正確にコンビネーションで打ち抜く高度なオフェンス技術、そして相手のパンチをガードのみに頼らず、そのほとんどを空に切らせる鉄壁のディフェンス技術を武器に次々に大男たちをマットに沈め、モハメド・アリなき後のヘビー級の停滞期を打ち破りパウンド・フォー・パウンドの頂点に君臨した。現役時代のみならず、長いボクシングの歴史の中においても、最盛期のタイソンはモハメド・アリと並んで最強ボクサーの有力な候補である。
フロイド・パターソンと同門で、独特のピーカブースタイルも共通する。
来歴[編集]
家族には5歳年上の兄ロドニーと6歳下の妹デニーズがいる。兄は医師助手として、Los Angeles County-University of Southern California Medical Center に勤めて弟のキャリアを支えており、タイソンのラスベガスでのボクシング戦で何度か目撃された。タイソンは兄についてインタビューされた際に「兄貴とは深い絆で結ばれている。兄貴はいつも立派だったが自分は何もなかった。」と述べている。デニーズは心臓麻痺で1991年に25歳で死去。父親の Jimmy Kirkpatrick はタイソンが2歳のときに家族を捨て蒸発している。以後、家族は母親のローラ・スミスタイソンによって養われる。母親はタイソンが16歳のときにタイソンをボクシングマネージャだったカスダマトの手に託して死去している。以後、ダマトはタイソンの法的保護者になる。タイソンが幼い頃、一家はイーストニューヨークなどブルックリン区内に住んでいた。経済的な問題で、ブルックリン区近隣のフォート・グリース等を転々とした後に、タイソンが7歳の時に当時のアメリカ合衆国の中でも最悪のゲットーと呼ばれていたブルックリン区ブラウンズヴィルに落ち着き、タイソンはそこで育つことになる。幼少の頃はその内向的な性格(現在でもその独特の甘えたようなイントネーションにその名残がうかがえる。スポーツジャーナリストの二宮清純はタイソンへの取材を通じてタイソンに対し自閉症児の様な印象を受けたと語っている。実際、タイソンは自閉症ではないが躁うつ病と診断されており、長期に渡り抗鬱剤を服用していた)や、大きな近眼鏡を着用していたことが近所の不良少年達に嘲笑され虐めの対象となる。だが、大事にしていたペットの鳩を年上の不良グループの少年たちに虐殺され、我を忘れてその不良達を殴り倒したことから自身の強さに気付き、ボクシングを志した[1]。タイソンはこのときのことを後に、「お袋はストリートで新しい服をかっぱらってきた俺のことを喜んではいなかった。俺はお袋とそのことについてどう思うかと話したり知ろうとする機会がなかった。プロとして自分のキャリアには影響していないが、精神的・個人的に自分の重荷となった。」と語っている。9歳から12歳の間に51回も逮捕され、ついにニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監。そこで更生プログラムの一環として行われていたボクシングと出会う。その後、少年院のボクシング担当教官だったボビー・スチュワートにより才能を見出され、繋がりのあった名トレーナー、カス・ダマトに伝わり、ダマトがタイソンの才能に驚愕し身元引受人となったため少年院を出所後、ダマトの下にてボクシングの英才教育を受けることになる。
まずはアマチュアボクシングでキャリアをスタートし13歳の時に初試合を行った。そして数年間キャリアを積んでいき、その間にジュニア・オリンピックのタイトル等を獲得。その後ロサンゼルスオリンピックへの参加を狙うが、オリンピック出場を確実視されながらも国内予選の最終選考会の決勝戦でダウンを奪いながら判定負けを喫し、オリンピックへの参加は叶わなかった。タイソンのようにポイントではなくノックアウトを狙うファイタースタイルの選手は、ポイントゲームであるアマチュアボクシングには合わない面もある(最終選考会決勝戦でタイソンを破ったヘンリー・ティルマンはロサンゼルスオリンピックでは金メダルを獲得。その後1990年にプロで再戦しタイソンが1RKO勝ちを収めている)。
タイソンのアマチュアでの通算成績は記録に残っている中では52戦47勝5敗。ただし、USアマチュアボクシング連盟の管理下にない非公式の試合も多く戦っているため、正確な戦績は不明。
プロボクサー時代[編集]
1985年3月6日に18歳でプロデビューし、ヘクター・メルセデスに1RTKO勝ちで初戦を白星で飾る。この年、11連勝を飾った直後トレーナーのカス・ダマトが死去。
その後、通算28連勝し1986年11月22日、29戦目にしてトレバー・バービックに2RTKO勝利し、WBC世界ヘビー級タイトルを獲得。史上最年少(20歳5か月)で世界ヘビー級チャンピオンとなる。翌年、1987年3月7日にはジェームス・スミスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級タイトルを獲得。さらに同年8月、トニー・タッカーに判定勝ちしてIBF世界ヘビー級タイトルを獲得して3団体統一に成功。1986年と1988年には、The Ring 年間最優秀選手賞を受けた。
1988年2月に、元ファッションモデルで女優のロビン・ギブンスと結婚。しかし、すぐに離婚した。
通算9度の防衛に成功することになるが、1988年に行われたマイケル・スピンクス戦後、カス・ダマトがその生前、絶対に組んではいけないと言っていたドン・キングにプロモートを受けるようになってからは精彩を欠くようになる。一般的にこの1988年までがタイソンの絶頂期と言われている。
この年の前半、ボクシングを始めた頃からの後援者であったビル・ケイトンと共にタイソンのマネージメントを担当し、そしてダマト以外では最もタイソンから信頼されていたジム・ジェイコブスが白血病により突然死去。その頃からドン・キングがタイソンの獲得を狙いタイソンの妻であったロビン・ギブンスに頻繁に接触し取り入ったため、タイソンのチームに亀裂が入り始める。そして年の後半、ダマトの死後からそのボクシング理論を引き継いでタイソンに教えていたケビン・ルーニーを突然解雇。そして、マネージャーのビル・ケイトンも解雇し、ダマトが残したチームはバラバラとなる。その後、タイソンはドン・キングとの契約を正式に結ぶことになる。家族同然だったルーニーはボクシングのトレーナーとしてだけでなく、タイソンのモラルや私生活の監視役でもあった。新しいチーム態勢ではタイソンの周囲に金目当ての「イエスマン」ばかりが集まり、タイソンの私生活は急激に乱れる。離婚騒動、自殺未遂、訴訟沙汰、交通事故、放蕩、練習不足、試合の延期など、リング外でのトラブルの話題が増えていく。
案の定、プロ入り以来初めての長期ブランクを経た1989年のフランク・ブルーノ戦では、別人のような緩慢で雑なボクシングを披露した。このブルーノ戦はそれでも勝ったがまともにカウンターを貰い初めてグラつく姿も見せている。タイソンの兄弟子ホセ・トーレスはこの試合を見て「カスが教えたものは何もかも失われていた。左右への動き、コンビネーション、タイミング、忍耐、最も基本的な左ジャブ……。そして、カス・ダマトと深い繋がりのあったコーナーマン達もそこにはいなかった・・・」というコメントを残している。次戦のカール・ウイリアムス戦では、わずか1Rのフック一発で試合が決したため目立たなかったが、その動きにかつての切れはなく、生放送では解説の浜田剛史がタイソンのボクシングに首を傾げるような発言をしている。次戦、タイソンは試合を急にキャンセル(ドノバン・ラドックとの防衛戦が決定していた)するなど相変わらずゴタゴタが続き、1990年2月11日に日本の東京ドームでジェームス・ダグラスに10RKO負けしてタイトルを失う。これがタイソンのプロキャリアにおける初黒星だった。さらにタイソンの転落は続く。1991年にディズィリー・ワシントンをホテルの一室でレイプしたとして1992年に刑務所へと収監された(この事件に関してケビン・ルーニーはタイソンがハメられたと見解を出している[2])。
6年の懲役刑を言い渡されたが3年間服役後の1995年に仮釈放され、翌年の1996年3月16日、フランク・ブルーノを3RKOで破り、WBC世界ヘビー級タイトルを再度獲得し世界チャンピオンへと復権する。なお、服役中にイスラム教に改宗し、マリク・アブドゥル・アシスという名を持った。同年9月、ブルース・セルドンを1RTKOで破り、WBA世界ヘビー級タイトルも獲得。再び統一チャンピオンになったが、11月にイベンダー・ホリフィールドに11RTKOで敗れ、タイトルを失う。翌年6月28日に行われた再戦ではホリフィールドのWBA世界ヘビー級タイトルに挑戦するが、いわゆる「耳噛み事件」を起こし3R終了時に失格負けとなった。この反則行為により1年間のライセンス停止処分を受けた。
1999年に復帰するも年に1試合程度と試合間隔が極端に開くようになる。2002年6月8日にレノックス・ルイスの持つWBC、IBF、IBO世界ヘビー級タイトルに挑戦。結果は8RKO負け。2003年6月、暴行容疑で再度逮捕。2004年4月15日、K-1の試合出場契約を結ぶ。日本国内でのプロモート契約であるが、薬物犯罪者という理由で日本に入国できなかったため、実現は不可能であった。2004年7月30日、復帰戦となるノンタイトルマッチで1R中盤で膝の靭帯を断裂。その怪我が響き、ダニー・ウィリアムズに4RKO負け。2004年12月、器物損壊容疑で逮捕。2005年6月12日、前回の試合で傷めた膝を手術し復帰。無名のケビン・マクブライドを相手に戦うも、年齢から来る体力の衰え、そして膝の怪我の影響からか動きに精彩を欠き、6R終了後棄権しTKO負け。試合後のリング上でのインタビューで 「もうこれ以上、ボクシングを侮辱したくない」 と、引退を示唆した。正式な引退発表しなかったが、結果的にこれが最後の試合となり、1985年のプロデビューから2005年まで丸20年のプロキャリアに終止符を打った。
引退後[編集]
2006年12月29日、自動車でナイトクラブから帰宅する途中にパトカーと遭遇。衝突しかけた折りに取り調べを受けた際、飲酒運転およびコカイン使用所持(再犯)が発覚したことにより逮捕された。2007年11月19日、禁固1日と執行猶予3年の判決。
2008年5月16日、ジェームズ・トバック監督によるドキュメンタリー "Tyson" が第61回カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映された。同日行われた記者会見では、タイソン本人が作品の題材となった自らの人生について語った。
2009年6月6日、ラスベガスで3度目の結婚式を挙げた[3]。11月12日、ロサンゼルス国際空港で自分と家族の写真を撮ろうとしたカメラマンともみ合いになり暴行をした疑いで逮捕されたが、その後証拠不十分のため不起訴処分となった。
2010年7月2日、メッカ巡礼のためサウジアラビア入りをした[4]。
戦績[編集]
- プロボクシング:58戦50勝 (44KO) 6敗2無効試合
戦 | 日付 | 勝敗 | 時間 | 内容 | 対戦相手 | 国籍 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1985年3月6日 | ☆ | 1R 1:47 | TKO | ヘクター・メルセデス | アメリカ合衆国 | プロデビュー戦 |
2 | 1985年4月10日 | ☆ | 1R | TKO | トレント・シングルトン | アメリカ合衆国 | |
3 | 1985年5月23日 | ☆ | 4R | KO | ドナルド・ハルビン | アメリカ合衆国 | |
4 | 1985年6月20日 | ☆ | 1R 0:39 | KO | リッキー・スペイン | アメリカ合衆国 | |
5 | 1985年7月11日 | ☆ | 2R | TKO | ジョン・アンダーソン | アメリカ合衆国 | |
6 | 1985年7月19日 | ☆ | 3R 2:04 | KO | ラリー・シムズ | アメリカ合衆国 | |
7 | 1985年8月15日 | ☆ | 1R 1:05 | KO | ロレンゾ・キャナディ | アメリカ合衆国 | |
8 | 1985年9月5日 | ☆ | 1R 0:39 | KO | マイケル・ジョンソン | アメリカ合衆国 | |
9 | 1985年10月9日 | ☆ | 1R 1:28 | TKO | ドニー・ロング | アメリカ合衆国 | |
10 | 1985年10月25日 | ☆ | 1R 0:37 | TKO | ロバート・コーリー | アメリカ合衆国 | |
11 | 1985年11月1日 | ☆ | 1R 0:54 | TKO | スターリング・ベンジャミン | アメリカ合衆国 | |
12 | 1985年11月13日 | ☆ | 1R 1:17 | KO | エディ・リチャードソン | アメリカ合衆国 | |
13 | 1985年11月22日 | ☆ | 2R | TKO | コンロイ・ネルソン | アメリカ合衆国 | |
14 | 1985年12月16日 | ☆ | 1R 1:19 | TKO | サミー・スカフ | アメリカ合衆国 | |
15 | 1985年12月27日 | ☆ | 1R 0:50 | TKO | マーク・ヤング | アメリカ合衆国 | |
16 | 1986年1月11日 | ☆ | 1R 2:16 | TKO | デビッド・ジャコ | アメリカ合衆国 | |
17 | 1986年1月24日 | ☆ | 5R 0:46 | TKO | マイク・ジェームソン | アメリカ合衆国 | |
18 | 1986年2月16日 | ☆ | 6R 1:19 | TKO | ジェシー・ファガーソン | アメリカ合衆国 | |
19 | 1986年3月10日 | ☆ | 3R 2:39 | KO | スティーブ・ゾウスキー | アメリカ合衆国 | |
20 | 1986年5月3日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | ジェームス・ティリス | アメリカ合衆国 | |
21 | 1986年5月20日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | ミッチ・グリーン | アメリカ合衆国 | |
22 | 1986年6月13日 | ☆ | 1R | TKO | レジー・グロス | アメリカ合衆国 | |
23 | 1986年6月28日 | ☆ | 1R 2:03 | KO | ウィリアム・ホシー | アメリカ合衆国 | |
24 | 1986年7月11日 | ☆ | 2R 1:43 | KO | ロレンゾ・ボイド | アメリカ合衆国 | |
25 | 1986年7月26日 | ☆ | 1R 0:30 | KO | マービス・フレージャー | アメリカ合衆国 | |
26 | 1986年8月17日 | ☆ | 10R | TKO | ホセ・リバルタ | キューバ | |
27 | 1986年9月6日 | ☆ | 2R 1:41 | TKO | アルフォンソ・ラトリフ | アメリカ合衆国 | |
28 | 1986年11月22日 | ☆ | 2R 2:35 | TKO | トレバー・バービック | カナダ | WBC世界ヘビー級タイトルマッチ |
29 | 1987年3月7日 | ☆ | 12R | 判定3-0 | ジェームス・スミス | アメリカ合衆国 | WBC・WBA世界ヘビー級タイトルマッチ・WBC防衛1 |
30 | 1987年5月30日 | ☆ | 6R 2:00 | TKO | ピンクロン・トーマス | アメリカ合衆国 | WBC防衛2・WBA防衛1 |
31 | 1987年8月1日 | ☆ | 12R | 判定3-0 | トニー・タッカー | アメリカ合衆国 | WBC・WBA・IBF世界ヘビー級タイトルマッチ・WBC防衛3・WBA防衛2 |
32 | 1987年10月16日 | ☆ | 7R 2:59 | TKO | タイレル・ビッグス | アメリカ合衆国 | WBC防衛4・WBA防衛3・IBF防衛1 |
33 | 1988年1月22日 | ☆ | 4R 2:55 | TKO | ラリー・ホームズ | アメリカ合衆国 | WBC防衛5・WBA防衛4・IBF防衛2 |
34 | 1988年3月21日 | ☆ | 2R 2:54 | TKO | トニー・タッブス | アメリカ合衆国 | WBC防衛6・WBA防衛5・IBF防衛3 |
35 | 1988年6月27日 | ☆ | 1R 1:31 | KO | マイケル・スピンクス | アメリカ合衆国 | WBC防衛7・WBA防衛6・IBF防衛4 |
36 | 1989年2月25日 | ☆ | 5R 2:55 | KO | フランク・ブルーノ | イギリス | WBC防衛8・WBA防衛7・IBF防衛5 |
37 | 1989年7月21日 | ☆ | 1R 1:33 | TKO | カール・ウィリアムス | アメリカ合衆国 | WBC防衛9・WBA防衛8・IBF防衛6 |
38 | 1990年2月11日 | ★ | 10R | KO | ジェームス・ダグラス | アメリカ合衆国 | WBC・WBA・IBF失冠 |
39 | 1990年6月16日 | ☆ | 1R 2:47 | KO | ヘンリー・ティルマン | アメリカ合衆国 | |
40 | 1990年12月8日 | ☆ | 1R 2:27 | TKO | アレックス・スチュワート | アメリカ合衆国 | |
41 | 1991年3月18日 | ☆ | 7R 2:22 | TKO | ドノバン・ラドック | アメリカ合衆国 | |
42 | 1991年6月28日 | ☆ | 12R | 判定3-0 | ドノバン・ラドック | アメリカ合衆国 | |
43 | 1995年8月19日 | ☆ | 1R | 失格 | ピーター・マクニーリー | アメリカ合衆国 | |
44 | 1995年12月16日 | ☆ | 3R 2:32 | KO | バスター・マシスJr | アメリカ合衆国 | |
45 | 1996年3月16日 | ☆ | 3R 0:50 | TKO | フランク・ブルーノ | 英国 | WBC世界ヘビー級タイトルマッチ |
46 | 1996年9月7日 | ☆ | 1R 1:49 | TKO | ブルース・セルドン | アメリカ合衆国 | WBA世界ヘビー級タイトルマッチ・WBC防衛1 |
47 | 1996年11月7日 | ★ | 11R | TKO | イベンダー・ホリフィールド | アメリカ合衆国 | WBA失冠 |
48 | 1997年6月28日 | ★ | 3R | 失格 | イベンダー・ホリフィールド | アメリカ合衆国 | WBA世界ヘビー級タイトルマッチ |
49 | 1999年1月16日 | ☆ | 5R 2:59 | KO | フランソワ・ボタ | 南アフリカ共和国 | |
50 | 1999年10月23日 | NC | 1R 3:00 | 無効試合 | オーリン・ノリス | アメリカ合衆国 | |
51 | 2000年1月29日 | ☆ | 2R 1:03 | TKO | ジュリアス・フランシス | 英国 | |
52 | 2000年6月24日 | ☆ | 1R 0:38 | TKO | ルー・サリバーゼ | アメリカ合衆国 | |
53 | 2000年10月20日 | NC | 2R | 無効試合 | アンドリュー・ゴロタ | ポーランド | |
54 | 2001年10月13日 | ☆ | 7R | TKO | ブライアン・ニールセン | デンマーク | |
55 | 2002年6月8日 | ★ | 8R 2:25 | KO | レノックス・ルイス | 英国 | WBC・IBF・IBO世界ヘビー級タイトルマッチ |
56 | 2003年2月22日 | ☆ | 1R 0:49 | KO | クリフォード・エティエンヌ | アメリカ合衆国 | |
57 | 2004年7月30日 | ★ | 4R 2:51 | KO | ダニー・ウィリアムズ | 英国 | |
58 | 2005年6月11日 | ★ | 6R 3:00 | TKO | ケビン・マクブライド | アイルランド |
脚注[編集]
- ↑ M・タイソン余生をハトに捧げる…下着姿でたわむれる zakzak 2011年1月8日
- ↑ Lisa Scott Rooney on Tyson! fightnews.com 2004年4月5日 (英語)
- ↑ タイソン氏3度目の結婚 ボクシングニュース「Box-on!」 2009年6月12日
- ↑ マイク・タイソンさん、メッカ巡礼 服役後に入信 朝日新聞 2010年7月4日
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- BoxRec – Mike Tyson
- highlight
- Mike Tyson unOfficial Site
- The Ultimate Mike Tyson Fan Website
- マイクタイソン特集(ビデオやトレーニング内容など)
前王者 トレバー・バービック |
第12代WBC世界ヘビー級王者 1986年11月22日 – 1990年2月11日 |
次王者 ジェームス・ダグラス |
前王者 ジェームス・スミス |
第34代WBA世界ヘビー級王者 1987年3月7日 – 1990年2月11日 |
次王者 ジェームス・ダグラス |
前王者 トニー・タッカー |
第4代IBF世界ヘビー級王者 1987年8月1日 – 1990年2月11日 |
次王者 ジェームス・ダグラス |
前チャンピオン フランク・ブルーノ |
第19代WBC世界ヘビー級チャンピオン 1996年3月16日 – 1996年9月24日(剥奪) |
空位 次タイトルホルダー レノックス・ルイス |
前王者 ブルース・セルドン |
第42代WBA世界ヘビー級王者 1996年9月7日 – 1996年11月9日 |
次王者 イベンダー・ホリフィールド |
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