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ガザ地区(ガザちく、قطاع غزة, Qita' Ghazzah、רצועת עזה, Retzuat 'Azza)は、パレスチナ自治政府の行政区画である。中心都市はガザ。
目次
概要[編集]
中東のシナイ半島の北東部、東地中海に面して存在する帯状の地域で、パレスチナの一角に位置する。その名称は中心都市であるガザに由来している。約360 km2ほどの地域に150万人の人々が存在している。ガザ地区の総面積は、例えれば東京23区の約6割の面積に相当する。
現在ガザ地区に住む人々の3分の2は1948年の第一次中東戦争によって発生したパレスチナ難民およびその子孫である。この難民問題の解決策は現在も決定していない。
歴史[編集]
有史の登場から中世まで[編集]
ガザに人間の定住者がいたことが判明しているのは、紀元前6000年頃からである。紀元前3000年頃には、カナンの土地となり、さらに古代エジプトの支配下に入った。紀元前12世紀頃からは、海の民の一派であるペリシテ人が台頭した。その後、エジプト、アッシリア、バビロニア、マケドニア王国といった大国の争奪の舞台となり、紀元前64年にはローマ共和国の支配下となった。一時ローマ属国のユダヤの支配下となるが、その後ローマのユダヤ属州となった。『聖書』にも一部始終が触れられている。
中世には東ローマ帝国、イスラム帝国、エルサレム王国(十字軍)、マムルーク朝がそれぞれ支配した。
大国による支配[編集]
1517年、オスマン帝国がマムルーク朝からガザを侵攻し占領した。ガザの住民は、ユダヤ人以外に多くはエジプトから逃れてきたもので、エジプトの文化が導入された。その後、第一次世界大戦までの400年間、ナポレオン(フランス帝国)の一時的な占領を除き、オスマン帝国の支配下にあった。
第一次世界大戦以降、オスマン帝国を退けたイギリスが国際連盟の承認の下、委任統治領として占領した。1929年に発生したパレスチナ人による暴動により、ユダヤ人の居住は禁止された。
エジプト・イスラエルによる支配[編集]
1948年にイスラエルが独立し、周辺のアラブ諸国との第一次中東戦争が勃発しエジプトが確保した。1967年に第三次中東戦争が勃発するとイスラエルにより確保され、イスラエル人の入植が進んだ。
パレスチナ自治政府[編集]
1993年の中東和平「オスロ合意」によって、ヨルダン川西岸地区の一部と共にパレスチナ自治政府の統治下に置かれた。治安はパレスチナ政府の治安部隊および市民警察軍によって維持されているが、現在も航空管制権と沿岸航行権はイスラエルが保持している。1998年、ガザ国際空港が開港したが、2001年にイスラエルにより破壊された。
また、自治政府発足後も、入植者保護の為にイスラエル軍が駐留し、しばしば空爆を行っていた。2004年には、シャロン首相のアドバイザー、アルノン・サフェル (Arnon Soffer) は 「一発のミサイルには十発のミサイルをもって応じる。女性や子どもも死ぬだろう。女性たちが夫にもうカッサム(ロケット弾)を使わないように懇願するだろう。ガザに閉じこめられた250万人は、イスラム原理主義者に影響され、恐ろしい戦争になる。もし我々が生き残りたいならば、彼らを一日中、毎日、殺し、殺し、殺し続けなければならない」[1][2]
と発言している。
2005年8月までにイスラエルは全てのユダヤ人入植地を撤去、9月には全陸軍部隊をガザ地区から撤退させた(ガザ地区撤退計画)。しかし、直後にイスラーム過激派ハマースが選挙で勝利してパレスチナ自治政府の与党の座に就くと、イスラエルは態度を硬化した。
2006年6月末にはハマース系武装勢力に拉致されたイスラエル兵士(ギルアド・シャリート)1名を救出するため、戦車隊を含む陸軍が侵攻した。その後もハマースによるイスラエルに向けた攻撃とイスラエルによる攻撃は断続的に続いている。
また、検問所はイスラエルとエジプトの管理下にあり、ガザ地区は事実上イスラエルに封鎖されている。ガザ地区の住民は、原則としてこの地区から自由に外に出ることはできない。が、ハーマス等のイスラーム過激派による武器密輸が行われ、対イスラエルに対する攻撃の拠点となっている。それに対応するためにイスラエル軍による空爆はその後も続き、2008年12月に大規模な空爆を伴う地上侵攻が開始され、多数の死傷者が出ている(ガザ紛争 (2008年-2009年))。
ハマース政府[編集]
2007年6月11日、ハマースがガザ地区を武力で占拠し、パレスチナ解放機構主流派のファタハは「クーデター」と批判した。イスラエルは経済制裁を強化し、再び大規模な侵攻を計画しているといわれている。ファタハ支持者を中心に、ガザ地区から脱出しようとする動きも見られる。ただし、日本では「ガザ脱出へパレスチナ人殺到」[3]と報じられたが、実数では数百人程度で、ガザ地区の人口比としてはそれほどでもないという指摘もある。
ハマース政府とイスラエルの対立[編集]
2008年1月9日に、アメリカのブッシュ大統領のイスラエル及びパレスチナ歴訪を機に、ハマースはイスラエルへのロケット弾攻撃を行った。イスラエルは報復にガザ地区を完全封鎖し、国連の援助車両さえ閉め出された。1月15日には、イスラエル軍がガザ市街地に侵攻。連日空襲を行っている。1月20日には封鎖により燃料が底を突き、ガザ地区唯一の発電所が操業を停止した。この結果、パレスチナの電力の1/3(イスラエル側の主張によれば、1/4)が供給されなくなった[4][5]。
2008年1月23日、エジプトとの国境の町ラファハで検問所近くの壁が爆破され、ガザ住民がエジプト側に流入した[6]。その後も流入は続いており、不足している食糧や燃料を買い求めてガザへ戻る人々が列をなした。エジプト側は、当初は住民への同情もあり、非武装である限り容認した。1月25日に規制を始め、ハマースの同意を得た上で、2月3日に再封鎖された[7]。これは、買い出しの時間的猶予を与えたための措置である。
イスラエルは2月27日より、ハマース側のロケット弾により犠牲者が出たことへの報復として(ただし、ロケット弾攻撃自体は、イスラエルの空襲で、ハマース側に5人の犠牲者が出たことによる)、空襲を激化させ、さらに3月1日には地上部隊を侵攻させた。2月27日より、地上部隊を引き揚げた3月3日までの6日間だけで、パレスチナ側は110人以上、イスラエル側は3人の犠牲者が出ている。イスラエルのバラク国防相は3月2日、「ハマースは対価を払うことになる」と述べ、攻撃を続ける意向を示した。報道[8]によれば、空襲ではサッカーをしていた10~15歳の少年4人など、未成年者の犠牲者が相次いでおり、イスラエルの無差別攻撃も指摘されている。また、エジプトは負傷者の手当のため、一時的に検問所を開いて往来を認める措置を取った。
3月6日、アムネスティ・インターナショナルのイギリス支部など、イギリスの8団体[9]によれば、人口150万のうち80%が食料援助に依存。2006年の63%より悪化し、失業率は40%に達するなど、人道状況が1967年の占領開始後で最悪になったとする報告書を発表した。2009年1月4日の早朝にイスラエル軍が侵攻を開始した(ガザ侵攻 (2009年)を参照)。
2011年2月18日、ガザ発電所のディラール・アブ・シシ副社長がウクライナ滞在中に、イスラエルによって誘拐され、イスラエル国内に拘禁された。シシはウクライナへの移住を予定していた。イスラエル側は、ハマースの武器製造に貢献したことを逮捕の被疑として挙げたが、シシの妻はハマースとは無関係であると主張している[10]。また、シシが発電機をイスラエルからの輸入が必要な高品質ディーゼルエンジン燃料専用機から、エジプトからの輸入でまかなえる通常のディーゼル燃料対応に改良したことが、イスラエル側に睨まれたとする報道もある[11]。イスラエルの行為はウクライナの主権侵害であり、国際法違反であるが、問題にされることはなかった。
2014年7月7日にはハマス側がイスラエルに対してロケット弾攻撃を開始、イスラエル側も密輸用のトンネルなどの施設を目標に空爆を開始して大規模な武力衝突に発展した。詳細は、ガザ侵攻 (2014年)を参照のこと。
地理[編集]
自治体[編集]
- ガザ (Gaza)
- ラファフ(ラファハ)(Rafah)
- ハーンユーニス (Khan Yunis)
- アバサン・アル=カビーラ (Abasan al-Kabera)
- デイル・アル=バラフ (Deil al-Balah)
- ジャバーリヤー (Jabalia)
- ベイト・ハーヌーン (Beit Hanoun)
- ベイト・ラーヒヤー (Beit Lahiya)
産業[編集]
綿花や天然ガスの掘削。ガザは「ガーゼ」の語源であるという説もある。
現在製造業をはじめとする産業は壊滅に近い状況にある。イスラエルによるたびたびの侵攻に加え、イスラエルとエジプトによる封鎖のため、輸出ができなくなっているのもその理由である。
資源[編集]
1999年11月、パレスチナ自治政府はイギリスのブリティッシュ・ガス社とガス田探索の契約を結び、2000年、ブリティッシュ・ガス社はガザ沖に天然ガスを発見した。契約では、ガス田の権利の6割をブリティッシュ・ガス社が、1割をパレスチナ自治政府が持つ[12]。
しかし、イスラエルはガザ地区を実効支配したハマースに資金が流れることが我慢ならず、パレスチナのガス田を自国のガスパイプラインに結ぼうとブリティッシュ・ガスと交渉中である。ガス田利権が、ガザ侵攻の理由の一つという指摘もある。
漁業についても、オスロ合意では沿岸20海里の漁業権を保障していたが、イスラエルは一方的に沿岸3海里(5.556㎞)以内に制限し、違反と見なした漁船を攻撃している[13]。事実上、ガザの排他的経済水域は無視され、イスラエルが資源を寡占している。
交通[編集]
域内[編集]
エジプト領時代は、カイロとの間に鉄道が敷かれていたが、イスラエルの攻撃で破壊され、イスラエルが占領後は復興していない。 現在、地域内に地下鉄を含む鉄道は整備されておらず、主要な交通機関はバスである。またタクシーも利用されている。
域外[編集]
外部との交通は、全てイスラエルとエジプトによって遮断されている。唯一の空港であるヤーセル・アラファト国際空港は1998年に開港したが、2001年イスラエル軍による攻撃で損壊し、現在運行を休止している。
唯一の海港であるガザ港は、イスラエルによって制海権が握られ、武器密輸を理由に漁船以外の利用を禁じられており、貿易や外国への出入国はできない。救急医療要員や援助物資を運ぼうとした小型船がガザ地区入りしようとしたが、イスラエルに追い返されている[14]。
陸路は、エレツ、ラファ、カルニ、スファ、ナハル・オズなどの検問所を通してのみ通行可能で、他はイスラエルの築いた分離壁によって封鎖されている。ラファ検問所はエジプトの、それ以外はイスラエルの管理下にあり、外部との出入りを「治安上の理由」で厳しく規制しており、危篤状態の病人であっても許可はなかなか下りないという[15]。
エジプト政府は2011年5月28日、ラファ検問所の常時解放を開始した。常時解放は人のみが対象だが、金曜日と祝日を除く毎日午前9時から午後5時まで女性と18歳未満と41歳以上の男性はエジプトのビザなしで出入りができるようになった[16]。
脚注[編集]
- ↑ http://cosmos.ucc.ie/cs1064/jabowen/IPSC/php/art.php?aid=7954
- ↑ 『エルサレム・ポスト』[1]、英語
- ↑ 『毎日新聞』2007年6月20日
- ↑ 共同通信社「ガザで大規模停電 イスラエルが燃料供給停止」
- ↑ CNN「ガザ停電、イスラエルからの燃料供給停止で」
- ↑ BBC NEWS - Gazans flood through Egypt border
- ↑ APF通信 エジプト軍とハマス、ガザの境界壁を閉鎖
- ↑ サッカーの少年らガザで20人死亡 イスラエル軍空爆 2008年02月29日09時12分 『朝日新聞』
- ↑ 『産經新聞』(共同通信社記事)「ガザの状況は40年で最悪 支援団体が報告書 2008.3.6 22:50」
- ↑ 『ハアレツ』 Published 15:02 11.03.11 Latest update 15:02 11.03.11 Hamas demands explanation from Ukraine over Gazan's disappearance
- ↑ ジョナサン・クック Human Rights Israel admits role in disappearance of Gaza engineer
- ↑ War and Natural Gas: The Israeli Invasion and Gaza's Offshore Gas Fields (Michel Chossudovsky)、英語
- ↑ AI Index: MDE 15/002/2010 イスラエル及び被占領パレスチナ地域 窒息させられている: イスラエルによる封鎖下のガザ地区 - アムネスティ・インターナショナル
- ↑ CNN 2008.12.30 Web posted at: 16:30 JST Updated - CNN イスラエル海軍艦船とガザ救援の小型船が衝突と、退去命令で
- ↑ アムネスティ・インターナショナル ガザ地区封鎖の被害者たち
- ↑ 毎日新聞 2011.5.28 Web posted at: 11:31 JST Updated -エジプト:ガザ入り口のラファ検問所開放