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昭和42年生まれ元司法浪人無職童貞職歴無しの赤裸々ブログとは、ブログ主「元司法浪人」氏による人気ブログである。

目次

プロフィール[編集]

  • 1967年3月 - 東京都某区で出生。父は会社員、母は公務員の家庭。
  • 1982年 - 東京都内の某公立中学校を卒業
中学校時代は男女の仲が悪く、女友達なぞ一切いませんでした。個人的には女友達がほしかった。
  • 1982年 - 東京の某私立高校に入学
これが人生の最初の失敗。男子校で女性に縁の無く、毎日悶々とした生活を送る。一発逆転的な発想が生まれたのもちょうどこの時。
  • 1985年 - 東京の某私立高校を卒業
  • 1985年 - マーチ法学部に合格するも蹴って東大理Ⅲを目指す。浪人を継続したがその後文転。
  • 1989年 - 結局現役の時に合格したマーチ法学部に入学。
4浪したせいか、周りになじめず、サークルにも入らず、バイトもせず、ひたすら再受験を検討し、仮面浪人するが諦める。
  • 1990年 - 人生一発逆転をかけて司法試験に挑戦
  • 1996年 - 大学卒業し、司法浪人へ。学校の授業を馬鹿にしすぎて2年も留年してしまう。
  • 1999年 - 択一合格するも、論文で敗北。その後択一すら受からない連敗モードへ。
  • 2005年 - 択一合格。論文Gで敗北。
  • 2010年 - 司法試験から撤退。

高校時代[編集]

女性と付き合ったことがないし、一度も働いたことがない3(2011年07月18日)[編集]

 
今日は三連休の最終日らしい。
三連休なぞ無職の自分にとっては無関係だが、薄着の女性が昼間から街にでてくるのが楽しみである。
特にスカートの短い女性が無造作に地べたに座っているのを視姦するのは30年来の趣味である。

カメラを使ったり、トイレを覗き見たりすれば軽犯罪法や条例に抵触するが、
ただ街中で見るだけではなんの犯罪の構成要件にも抵触しない。
つまり見放題なのだ。

高校が比較的繁華街のそばにあったため、学校が終わったら、よく繁華街で遊んでいる女子高生を見に行った。
最初は女っ気のない学校をすごく恨んだが、恨んでもしょうがないので、
ひたすら見て気持ちを落ち着かせようとした。

高校に入学した時、男子ばかりの教室に愕然とした覚えがある。
異様な雰囲気なのだ。男しかいないその雰囲気に自分は一瞬で嫌になった。
入学3日目にして、都立高校への編入を親に希望した。
しかし、親はせっかく高いお金を払って入れた高校なので、当然認めてくれるはずもなく、
「自分で選んだ高校なんだから最後まで頑張れ」と言っただけだった。

自分が学校を選んだ基準は単に偏差値と進学率だけで、それ以外の何物でもない。
こんなことになるならこの高校に落ちたほうが良かったと思った。

結局学校ではほとんど勉強もせず、ひたすら家との往復を繰り返し、
繁華街に出ては女子の制服を食い入るように見ていた。
性癖も、当初は普通のエロ本で事足りたが、だんだんエスカレートし、SMへ、
どんどんハードなSMへ嗜好が移るようになった。

ハードなSMの独特な世界観は、写真では表現できないので、小説を良く購入した。
結城彩雨がとても好きで、処女作からほとんど購入した。
内容としては、女性が大きな屋敷で飼われたり、普通の女子高生や人妻が主人公の罠にはまって
奴隷に陥れられたりするのである。

いまだにその性癖は変わっていない。
つまり高校生から筋金入りの変態なのだ。
高校入学と同時に変態の世界に足を踏み入れ、30年自分のこの変態趣味に辟易としながらも
ずっと足を洗うことができない。
自分でも気持ち悪いと思いながらも、ずっと自分と同居せざるをえないのだ。
これを脱却するきっかけがあればぜひ教えてほしい。

30年間うっ屈してたまったこの忌むべき性癖を元に戻せるようなきっかけがあればぜひ知りたい。

話は戻るが、現在は女子高生モノより熟女(30代後半~40代)くらいのものを好むようになってきている。
これも、自分が味わえなかった結婚や女性とのデートが禍々しい形で現れているのだと思う。

女性とのデートも仮にこれからあったとしても44の男がするデートと17の男子がするデートでは
人生に与えるインパクトが違うだろう。
17歳はお互いドキドキして出会うし、手をつなぐことも躊躇する。
44ではそんなドキドキはないだろう。
そういう44歳は想像するだけで気持ちが悪い。

つまり、自分の人生ではおそらくそういうドキドキ感は一生味わえないのである。
この喪失感はとてつもなく大きく、いつも自分の心の中を支配している。

そしてその喪失感が禍々しい性癖に形を変えて現れる。
一生変態から抜けきれないのかもしれない。

後悔先に立たず。後悔後を絶たず。(2011年07月18日)[編集]

 
高校時代、何度か積極的に女子と親しくなろうと思ったことがあった。
というのもそばに女子高があり、女子高なら親しくしてくれる女子がいるかもしれないと思った。
しかし、できなかった。

中途半端な倫理観が邪魔をし、当時「ナンパなんて不良のやること」と思い込んで、
声をかけることを完全に躊躇させてしまったのである。

というのもうちの高校は進学校だったが、内部上がりでチャラチャラして勉強もろくにできない奴がいた。
その時、あいつは高校受験を経験していないクズだから近寄らないようにしておこう、と思っていたが、
そんなクズは隣の女子高生に積極的に声をかけ、彼女を作っていた。
そして教室で大声でセックスの話をしていた。

成績も最低で、しょっちゅう遅刻もし、先生にもよく注意されていた。
タバコを吸っているのがばれて2回停学にもなっていた。
自分のなかで彼は、本当のクズだった。

そんなことから、高校時代、セックスは一部の不良がやるものだと思っていた。
だから、セックス話を聞いていても、あれを真似したら自分もあいつと同じようになり、人生転落してしまうと思っていた。
それから、声をかけると思うことは止めようと思った。

ただ、クズ呼ばわりした奴は現在、某大手企業の広報部にいる(はず)。
というのも、ネットでそいつの名前を検索欄に打ち込むと某大手企業の広報担当としてそいつの顔がでている。
さすがに年を取ったが顔つきは昔とかわらずすぐわかる。
神妙な顔をしてマーケテングについて横文字を並べて偉そうに語っている。
その企業の平均年収は700万くらいだそうだ。
彼は企業の顔として、そのくらいか、それ以上はもらっているのだろうか。

そして本当にムカつくのが、あんだけチャラチャラしてたクズが現役で明治の商学部に入ったことだ。
彼が勉強している姿など、一度も見たことがなかった。
彼女と一緒に勉強して、彼女が丁寧に教えてくれたからなのかだろうか。
俺は現役の時そいつの受かった学校のワンランク下の学校にしか受からなかった。
それは本当に悔しくて、結局その学校には行かずに浪人の道を選んだ。
あのクズは散々女をたらしこんで、良い思いをしたのに、大学で負けるなんて絶対に受け入れられないと思った。

でも、自分4年間一人で家で浪人して、結局現役の時に合格した同じ大学に行くことになった。
その後も彼女もおらず、童貞で、それを44になった今も毎日引きずっている。
年収は0で、職に着いたこともなく、44年の人生を振り返っても、何もない。

こんな結末になることがわかっていたなら、倫理も糞もなく声を掛けまくっていればよかった。
本当に悔しい。

44歳の今、禿げあがった額にでっぷりとした体の自分が、街を歩いている女子高生に声をかけたら、
間違いなく逃げられるだろう。
下手をすれば、なんかの条例違反で捕まるかもしれない。

だからあのとき、積極的にいっておけばよかったのだ。
本当に後悔している。

大学受験浪人時代[編集]

一発逆転的な発想(2011年07月18日)[編集]

高校時代、失意の中で過ごした。
さらに大学受験に失敗し、1浪したとき、その失意はさらに大きなものとなった。
そんななかで生まれたのが「一発逆転的な発想」である。
これも異常性癖に次いで自分を支配している。

前述したが、高校時代はおよそ高校生とは思えないほど卑屈な生活を送っていた。
共学に行きたかった、男子校を辞めたかった。たったこれだけが自分を卑屈にしたのである。

共学に行った奴らが彼女を作ったり、バレンタインやクリスマスを楽しんだりする姿を想像し、妬んでいた。
羨ましさが妬みに変わり、妬みが恨めしさに変わり、本当に恨めしくて恨めしくてどうしようもなかった。
この恨めしさをを払しょくするにはどうすればよいか。
これを払しょくするためには失ったものに匹敵するくらいの成果を上げればいいと考えるようになった。
成果を上げれば自然と自分の周りに女子が集まり、失った高校時代を取り戻せると信じ込んだ。

それが大学受験である。

おりしも世は女子大生ブームで、いわゆる3高的な発想が生まれ始めたのもこの時期である。
高学歴を身につければ、女子は周りに寄ってくる。良い大学に行ければ人生逆転できると思い込んだ。

だが、高校時代、自分はほとんど勉強していなかった。
卑屈な毎日を送っていたので、勉強なんてする気が全く起きなかった。
高校3年になったとき、さすがに親からうるさくいわれるようになった。
なので、高校3年のときはその前の2年間に比べ、「多少は」した。
多少というのは今振り返ってみてそう思うのであり、その当時は精いっぱいやっていた。

しかし、今思えば、信じられないくらいの要領の悪い勉強法だった。
日本史を選択していたが、縄文時代の勉強に1カ月費やしたり、教科書をそのままノートに書きうつしたり、
とてつもなく要領が悪かった。
はっきり言って勉強というより作業だった。作業をやることで満足していた。

そんな作業では成果が上がるはずもなく、予備校の模試では第一志望は常に不合格判定だった。
ひのえうま世代であり、受験は比較的楽な世代に生まれていたのにもかかわらず、
模試ではどの大学も不合格判定だった。

ただ、あまり落ち込んでいなかった。
というのも予備校の模試なぞに一喜一憂してはいかんという誰かの言葉を都合のいいように解釈して、
気にしないようにしていたからである。

当然、そんな要領の悪い勉強をしていても成果など生まれるはずもなく、第一志望校どころか、
第三志望も不合格だった。かろうじて第四志望の大学には受かったが、そのときは行かなかった。

そして自分が不合格でもあまり落ち込まなかった。
受験前にどうせ落ちるだろうと思ってしまったのが大きいが、うちの父も大学受験に1浪しており、
1浪くらい仕方ないという思いもあった。

しかし、自分の不合格よりもショックな事実があった。
それは、同級生のチャラチャラしたクズが自分より偏差値の高い大学に受かったことだ。
あんなチャラ男が受かるのになぜ俺が落ちるのか。
高校時代ナンパに明け暮れ、彼女を作り、セックス話にうつつを抜かし、2度も停学したあのクズが、である。

この事実を自分のなかで整理ができなかった。
だから、嘘だと信じ込んで、そのときは忘れようとした。
しかし、消化したと思ったその事実は、卑屈な自分には当然消化できず、鬱屈した状態で大きくなり、
そして醜く腐敗し、さらに自分を卑屈にさせたのである。

その醜く腐敗した感情がその後の自分の人生の素地となったのである。

一発逆転的な発想2(2011年07月19日)[編集]

 
大学受験に失敗し、1浪が決定した。高校受験のようにうまくはいかないとつくづく感じた。
しかし、受験するときに一個の手がかりをつかんだ。
勉強する場でモチベーションが変わるということだ。

自分は、いままで自宅の自分の机で勉強していた。正直3時間まともに座ったこともないだろう。
そばにはテレビもあったし、親もいた。集中力を削ぐものがいっぱいあって、勉強が長続きしなかった。
家で勉強してもうまくはいかないとつくづく感じた。

浪人が決まり、高校に行かなくてもよくなった。
ただ実際は高校3年の3学期以降は受験のため、学校はほとんど休みだった。
浪人すると普通なら予備校に通うところだが、自分はあるきっかけで予備校には通わなくなった。
そのきっかけとは「図書館」である。

家で勉強するより図書館のほうが集中できると誰かから助言され、試しに近所の図書館に行った。
図書館には勉強机が置いてあり、受験生が参考書を開いて勉強できるスペースがある。
机は家よりも大きく、本を数冊開いておけるスペースがあった。
そこで新たな発見をした。

家では全く続かなかった勉強が図書館では集中して続くのである。
3時間4時間勉強しても全然気にならない。集中して机に向かうことができたのだ。
自分の中では革命的だった。

今まですぐ集中力が途切れてしまったのに、こんなに継続して勉強できるのだと。
今思えば、その時の純粋な気持ちを大切にして、日々の勉強にまい進すればよかったのだ。
が、この発見も、一発逆転的な発想のせいで、無にしてしまう。

というのも、ちょっと勉強できたくらいで、有頂天になってしまい、自分がここで勉強すれば、
東大にいけるかもしれない、人生一発逆転が図れるかもしれないと思いこんでしまったのだ。

もともと文系だったのに、なぜか数学を勉強し始め、理系の道へいとも簡単に変更してしまった。
そして東大を目指して勉強を始めた。

朝の8時半には図書館に着き、夜9時まで毎日勉強する日が続いた。
自宅にいるより捗り、成果もついてくると信じていた。
しかし、勉強内容は高校3年の時と同じで、非常に要領の悪いやりかただった。
そのため、一向に成果はなく、ただただ時間を浪費しているだけだった。
秋に受けた東大模試は、下から数えて100人以内のところにいた。

さすがに勉強したと思いこんでいた当時の自分にとってこの結果はつらかった。
しかし、諦めずに続けた。ただ、要領は相変わらず悪いものだった。

1浪したときの冬、少し光明が見え始める。
勉強のやり方が少しづつ変わり、要領が良くなってきたのである。

今までは教科書まる写しする勉強から、問題を解くスタイルに変更し、徐々に結果が出てきたのである。
問題を解いて解説を読み、間違いを修正するというパターンである。
これは今も同じように続けており、自分の勉強法の原点を見つけたのである。
それから勉強も手ごたえがあるものに変わってきた。

しかし時すでに遅く、勉強法を発見した時、共通一次まであと数日というときであった。
勉強法に軌道修正はしたものの、やはり試験には間に合わず、1浪のときは全滅だった。
この時はとても悔しかった。

現役でも1校合格していたのに、1年間浪人して全滅というのは、能力が後退していることを意味するのである。
(今考えれば、現役の時の1校合格も、実力というより、ひのえうま世代の恩恵なのだろう)。

しかし、このときはまだそのような現実をよくわかっておらず、大学に落ちたことより、
2浪してしまうことのショックが大きかった。
このまま来年大学に入学しても現役で入った同級生は大学3年である。
サークルに入ったら、同じ歳の3年に敬語を使わなくてはならないのか、
2歳年下の1年にタメ口をきかれるのか、という通常の人なら到底気にならない瑣末な部分にショックを受けていた。

自分は人一倍プライドと虚栄心が強かった。
中学校時代、部活で学年1個下の後輩に負けた時、その後輩にタメ口をきかれたことがあって、
プライドの高い自分は痛く傷ついた。

実力では負けても、後輩のタメ口がとても許せなかった。
自分が1年の時は先輩の説教も、神妙な顔をしてしっかり聞いていたし、先輩には敬語を使い、
なんでも先輩を優先していた。それが先輩後輩関係だと思っていた。

そんな自分だから、2浪のショックはとても大きかった。
しかし、現実は、2浪どころか、4年浪人することとなる。

一発逆転的な発想3(2011年07月20日)[編集]

 
浪人1年目はほとんど図書館で過ごした。
図書館にはいろいろな受験生が多いが、圧倒的に大学浪人生だった。
そのなかでも朝から通い続けているのは自分と他数名しかいなかった。

そのうち30代くらいのいつも同じ服を着たおじさんがいた。
30代でおじさんとは失礼かもしれないが、顔は30代の顔でも風貌があまりにみすぼらしく、
おじさん臭く見えたのだ。
長髪に無精ひげを生やし、はげかけたグレーの長袖のシャツにジーパンというスタイルで1年中いた。
冬になると紺のウィンドブレーカーを羽織っていた。

彼は司法試験の勉強をしていた。
朝から六法を小脇に抱えていつも自習室の隅の同じ席を陣取る。
鉛筆を耳にかけてボロボロの六法を持っているあたり相当年季が入った受験生という感じだった。

自分は彼を見て、直感的に「ああ、この人は受からないな」と思った。
司法試験の勉強もしたことないのになぜそんなことがわかるのかと聞かれると答えられないが、
彼の勉強スタイルや風貌、すべてが負のオーラを感じた。成功しない人のオーラを感じた。

結局自分が浪人していた4年間、彼も図書館にずっと来ていた。
当時、自分は彼を見て、この人はやっぱり何年やっても受からないんだな、と嘲っていた。
浪人中、彼が何年浪人しているか勝手に考えたことがある。
5年だろうか、10年だろうか。

自分の中で彼を報われない受験生に仕立て上げ、彼を侮辱することで、自分を慰めていた。
10年も受験勉強するなんて信じられない、どっかいかれてる、それももういい年じゃないかと。
自分は大学で彼女を作って、失われた青春を謳歌するんだ、
俺が30代のときは、きっと会社の幹部で、
奥さん子どもいて、一等地にマイホームをもっているんだ。
あんな薄気味悪いオッサンが話しかけても絶対に相手にしないだろう、と。

自分が司法試験の勉強をはじめた時、彼は図書館からいなくなっていた。
合格したのか、撤退したのかはわからない。

その後、自分は司法試験を20年続けてしまうこととなった。
司法試験だけに20年も費やしてしまったのである。

大学受験に現役・仮面を含め青春の貴重な貴重な5年余りを費やし、
死ぬほど後悔したにもかかわらず、
その貴重な時間のおよそ4倍を懲りずに司法試験に費やしてしまったのである。

司法試験については後述するが、
これも自分の人生一発逆転的なある種「無謀な」発想からくる大きな失敗である。

図書館の彼はいまごろ何をしているだろうか。
名前は知らないが、合格していれば、自分の事務所を構えているだろうか。
もし、だめだったとしても、時代はバブルだったし、30代なら再起可能だろう。

自分は40代中盤である。成功のオーラなぞ一度も感じたことがない。

ただただ喪失感だけである。

後悔先に立たず。後悔後を絶たず。2(2011年07月20日)[編集]

 
図書館で勉強をしていた時、一番つらかったのは夕方の時間帯だ。
現役の高校生が授業を終えて図書館に勉強しに来る。
昼過ぎまではまばらな図書館の自習室も、夕方になると受験生でいっぱいになる。

自分は地元の都立高校(共学)を蹴って、私立高校(男子校)を選択した。
単に偏差値と進学率だけで、私立高校を選んで、非常に悔いを残したのは前述した。
図書館には、その都立高校の生徒がよく来た。それもカップルで勉強をしに来ていた。

カップルで勉強。今までの人生で一度も味わえなかったことである。
人生の大半を試験勉強で費やしたが、カップルで勉強など、一度もなかった。
一度もなかったし、一度だけでいいからやってみたかった。

当時、一生懸命勉強しているさわやかなカップルに猛烈に嫉妬した。
仲良さげに肩を寄せ合って勉強してたり、分からない問題をお互いで聞きあったり、
一緒に解いている姿を見ると、とてもとてもいたたまれなくなった。
それをみただけで勉強が手につかなくなることもあった。

それは、自分が高校3年の時に図書館で勉強する選択肢がわかっていれば
現役合格できたかもしれない、
いや、高校1年の時にそれがわかっていたら東大に合格できたかもしれないという気持ちもあった。
それよりなにより、彼女がいればこんな卑屈な人間にならなかったかもしれない、
という気持ちが強かった。

彼らは、デートの一環として図書館で勉強していた(はずである)。
自分がほしかったものを、年下の彼らが両方手にしている。
彼らは自分より若いのに、自分が求めてきたもののを手に入れ、
さらに今の自分より上のステージに行こうとしている。

図書館の外壁の赤いレンガを見ると、暗い気持ちになるが、
彼らにとってはここは思い出の大切な場所なのかもしれない。
一緒に成績が上がる喜びを分かち合える相手がいて、一緒に努力できる相手がいる。

なぜ、自分はそのような経験をすることができなかったのか。
自分が蹴った高校に通っているくせに、自分が切望し、
切望しても得られなかったものをいとも容易に得た(ように見えた)彼らが羨ましかった、妬ましかった。

しかし、変態性欲に支配されていた自分は、
そんなお門違いな妬ましさや恨みつらみを彼らに向けながらも、
女子高生が足を組みかえたり、スカートを直したりする瞬間は、彼女のスカートの中身をつい見てしまう。
自分の変態性欲は相手を選ばず、むしろ妬ましい相手のパンツを見て、溜飲を下げる。
自分は、彼女のパンツを見てやったのだ。
彼氏は見たかもしれないが、俺も見た。
彼女はきっと俺なんかにパンツを見られたくはなかっただろう、でも俺は見てやった。
悔しいだろ。と勝手に気を晴らしていた。

ただ、当時は今みたいにミニスカートではなかったため、
よほど無理な体勢にでもならない限り見えることはなかったが。

そして、妄想で彼女を凌辱する。
妄想の中で、嫌がる彼女を無理やり凌辱してオナニーに耽る。
そんな毎日を浪人中ずっと繰り返していた。

いまの自分もその時と大して変わっていない。
容貌がさらに醜悪になり、女性との接点は相変わらず皆無である。
街でカップルを見れば、やはり同じことを考える。

後悔は後を絶たない。

後悔先に立たず。後悔後を絶たず。3(2011年07月20日)[編集]

 
家から通っていた図書館へは歩くとゆうに40分くらいかかるが、いつも自転車を使っていた。
図書館は川沿いにあり、川沿いの緑道公園を通って行けば、信号に当たることなく、早く着く。
自転車だと15分くらいだった。

その緑道公園はかなり大きな公園で端から端まで10km以上あった
(現に10kmのマラソンコースもあった)。
自転車でそこを往復すると、たいてい登下校中のカップルがいちゃいちゃしている。
長いベンチに二人で座って、肩を寄せ合っていちゃいちゃしていたり、
仲良く手をつないで笑顔で喋っていたり。
たまに、男が女の子の服の中に手をいれるようないたずらをする。
女の子はその手を振り払うが、まんざらでもない様子だ。

そういう光景を見てしまうと、1日気分が暗くなる。
朝のたった15分で1日とても暗い気分になる。
あんなのを見るくらいなら、公園を通らず回り道をしていけばよかったと後悔する。

だから図書館に着くと、真っ先に自分を諌める。
自分も合格したら、彼女に同じことをすればいいじゃないか、
欲望の赴くままにいたずらをすればいいじゃないか。
笑って許してくれる彼女を作ればいいじゃないか。

そのためには東大に受かるしかないんだ。
東大に受かれば、女は選び放題だし、
自分の言うことをきく女だけを選べばいいんだと、自分を言い聞かせた。

ただ、結果として、東大どころか4年浪人してマーチしか行けなかった。
そして、彼女はもちろん、いちゃいちゃする体験すら、44歳の今になっても、いまだ巡ってこない。
女の子から笑顔で話をされたことすらない。
そもそも、笑顔にいたるまでのプロセス、話をする機会すらないのだ。
もし、自分が突然高校生の女の子の服に手を入れたら、
間違いなく強制わいせつ罪に問われ、逮捕されるだろう。実刑を食らうかもしれない。

だからもう、そういう体験は一生できないのかもしれない。
5体満足に人間として生まれ、普通の家庭に育ち、特に大きな病気もしなかった。
なのに悉く人生の選択を誤り、失敗を重ねた結果、日々悶々として生きている。

後悔は次から次へと生まれてくる。

なんとかなるだろう的思想(2011年07月27日)[編集]

 
2浪が決まった後、大して実績を上げたわけではないのに、落ち込んだ。
しかし、一方で、これだけ我慢しているのだから何か良い結果が出るだろう
という漠然とした自信があった。

この慢心から生まれたのが、「なんとかなるだろう的思想」である。
勉強の質や内容は関係なく、これだけの時間我慢して頑張っているのだから、
なんとかなるだろうという期待感だけが生まれ始めた。

それから、ただ漫然と机に向かっている期間が長く経過した。
図書館でただ漫然と朝から席を陣取り、漫然と数学の問題を解き続け、
そのまま閉館と同時に帰宅するという日々が続いた。
そして翌年の1月に3浪を決定づける出来事が生じる。

ドラクエⅡの発売である。

ファミコンなど歯牙にもかけなかった自分が、初めてはまったゲームである。
このせいでただでさえ漫然と過ごしていた時間がさらに無になり、
ゲームに没頭し、3浪が決定する。

正直2浪のときは人生で一番無駄な時間だったと思う。
それが後々良い薬にはなったのだが、現状を考えるとあまり効果はなかったみたいだ。

さよなら夏の日(2011年07月30日)[編集]

 
2浪の時は日々空虚だった。
漫然と机に向かい、漫然と問題集をめくる日々。

1浪のときは現役に後れを取ってしまったという焦りがあったが、
2浪になりそれすら失われてしまった。

現役の時は1校受かったのに、1浪で全滅してしまった。
理転したものの、国語社会も今まで通りやっていた。
だから現役の時より力が付いているはず、と思っていたが、現実は逆だった。
現役よりも力が衰えていた。
また、それを自分で認識しようとしなかった。

自分は東大医学部を目指すエリート候補生なんだから、合格したら、
現役だろうが1浪だろうが関係ない、と思い込んでいた。

2浪の時はとにかく毎日図書館に通い、毎朝机に向かっていた。
ちょうど夏になると思いだすことがある。

図書館のそばにはプールのある大きなレジャー施設があった。
今はつぶれてなくなってしまったが、夏になると、
このプールには人がたくさん集まっていた。
大きな滑り台や、メインの流れるプール、飛び込み台など、
一通りそろえてある屋外型のレジャープールだ。

自分も小学校・中学校の時、友達や家族と遊びに来たことがあった。
当時、父に連れられ来たが、ここは自分の中では遊園地以上の楽しい遊び場だった。

浪人の時、昼ご飯を食べた後に、すこし散歩することがあったが、このレジャープールの隣をよく通った。
そこに、高校生の男女達が遊びに来ているのを見ると、やはりせつなくなった。
4~5人の男女グループで笑顔でプールに行く。
すごく楽しいんだろうな、幸せなんだろうな、と思い、遠くから眺める。
ああいう笑顔を自分もしてみたい、自分は、高校時代にそんな笑顔は一度もしなかった、
なぜ、自分はこんなとこで1日缶詰なんだと、暗澹たる思いになった。

そのプールは外からもよく見え、遊んでいる姿が見える。
水着姿ではしゃいでいる男女を見ると、本当に悲しくなる。
思春期にああいう経験をしていない自分はどんな大人になるのだろうと不安を抱えた。

ただ、当時はそんな自分に喝を入れ、

「俺は東大医学部に行くんだ。そうすればあんな楽しみなんかいくらでもやったっていうくらい楽しむんだ」

と心に誓いを立てて、また図書館に戻った。

しかし、あれから20年以上経過した今も全く変わっていない。
思春期にああいう経験をしていないからなのかは分からないが、いまだに若い人たちに対して、
屈折した感情を持ち続けたまま年をとっている。
自分が過去に一番恐れていた人間になってしまった。

五体満足に生まれ、大きな病気もせず、普通の家庭に生まれたにもかかわらず、
何一つ、楽しみを享受しなかった。

いまだに全く変わっていない。

同じ夢をずっと30年間見続けるという悪夢2(2011年09月17日)[編集]

浪人していた時、いつも通っていた図書館のそばにはマクドナルドがあった。
浪人時代はお金がないため、マクドナルドなど利用できなかった(当時は高価だった)。

この店は今のマクドナルドと同じくガラス張りで外から中が良く見えるようになっていた。
だから浪人中の時、よく中を覗いていた。
当時は高校生は少ないものの、大学生のカップルが良く利用していた。
カップルを見て自分のモチベーションの起爆剤にしていた。

自分が合格したらきっとここのマクドナルドに彼女を連れてバカ話しながら大笑いするんだ。
隣のプールで一緒に遊んだ後、このマクドナルドに来よう、とよく妄想していた。

努力して東大に行けば、きっと素敵な彼女ができるに違いない。
自分は何もしなくても、女性のほうから言い寄ってくるに違いない。
マクドナルドを通り過ぎた、小さな団地の中にある公園のベンチに座って、
菓子パンの袋を開けた時、自分の妄想タイムが始まる。
菓子パンをかじりながら、当時南野陽子を彼女に見立ててよくそういう妄想に耽っていた。

現在はマクドナルドも隣にあったレジャープールもなくなっている。
代わりに大型量販店ができて、それはそれで今もにぎわっている。
ただ、いまだにこの当時の夢を良く見る。

夢でもいつも外からマクドナルドを外から覗いている。
当時、その店は敷地が広く、庭に子どもが遊べるような滑り台やトランポリンがあった。
子どものはしゃぐ声、隣のレジャープールから聞こえる喚声で、とても賑やかだった。
土日になると、ちょっとしたデートスポットにもなっていた。

マクドナルドの店内を自分がじーっと見ている。
ガラスに映る自分はまだ髪の毛がフサフサだった浪人時代の自分である。
中にいるカップルは、決まって中学校時代のクラスメートだ。
自分は中学時代から時が止まっているため、中学校時代の友人しか夢に現れない。
そして中学校当時カップルと噂されていた二人がよく登場する。
二人はマクドナルドで自分が現実に見たのと同様、笑いながら食事をしている。

自分がそれを外から見ていると、やがてそれに気がつく。
そして、ガラス越しに自分がふざけた真似をすると、
女の子のほうが笑って中に入るように手招きする。

お金も持っていないのに自分は調子に乗って店に入ろうとする。
店は二枚扉になっていて、二枚目の扉を開くと、目を覚ます。

こういう夢を見ると必ず目が覚めてしまう。大抵3,4時間しか経っていない。
そして、とても嫌な気分になる。

いつまでもずるずる過去を引きずりたくないという思いと、
失われた過去をもう取り戻すことができないどうしょうもない辛い思いが交錯して、
いてもたってもいられない気持ちになる。

だからそういう時はあえて何もせず、ボーっとネットを見ることにしている。
勉強しようと思って参考書を開いても、頭の中は堰を切ったように後悔の念だけが渦巻いて
とても本すらまともに読むことができなくなるからだ。

だから2chを見たり、エロ動画を収集したり、全く生産的でない活動をして、
とりあえず気持ちをなだめる。
夜中であれば、ビールを飲んですぐ寝つけるようにする。
ただただ、喪失感は増すばかりである。

大学時代[編集]

狭隘な自尊心(2011年07月31日)[編集]

 
4年間浪人して入った大学は現役の時に受かったことのある1校だけだった。
自分はもう浪人を重ねることはできないと思っていた。
だからこのような結果になっても仕方がないと自分に言い聞かせていた。

大学の入学式。
普通の新入生なら大学での生活に期待や不安で胸が膨らみ、ドキドキしながら迎えるであろう。
ところが、自分は違った。行きたくなかった。

くやしい、4年間も頑張ったのになんでこんなところに行かなければいけないのか、
という思いでいっぱいだった。
もし、現役の時に入学していたら、自分はその年の3月で卒業していたのである。

ただ、それでも入学すれば何か変わるかもしれないという微かな期待もあり、入学式には出席した。
入学式は大講堂が埋まるくらい人がいて、父母も出席していた。
自分は一人で出席したが、久々の人ごみに圧倒された。

もしかしたら、これだけ人がいれば、何か変わるかもしれないと思って、
クラスに入ったが、やはり変わらなかった。
あれほど憧れていた共学に入学したものの、周りは自分より4歳年下である。
自分一人が明らかに浮いていた。

周りがどんどん仲良く話し合っている中、自分は誰からも話しかけられず、
また、話すこともできず、完全にぽつねんと浮いていた。

その日は午前中のみで、大学での授業の紹介など、オリエンテーションのみであった。
このオリエンテーションが終わると、皆一斉にキャンパスの外に向かった。
キャンパスではサークルが勧誘合戦をしていた。
新入生はパンフレットを持っているので、すぐわかる。

自分もパンフレットを持っていたので、一応声をかけられ、勧誘された。
そして、ほいほいついていってしまった。
これが失敗のもとだった。

狭隘な自尊心2(2011年08月04日)[編集]

大学入学式の帰り。
テニスサークルの勧誘があり、ほいほいついていってしまった。
これが失敗の始まりだった。

たしかに、当初は「変わりたい」という自分の欲求があった。
しかし、それを自分で達成するものではなく、他人の何らかの行為によって変わりたいと思う、
実に他力本願的な幼稚な欲求であった。

この幼稚な欲求は他人依存型なので、他人の何らかの行為がないと全く達成されない。
だが、44になった今でもこういう気持ちは持ち続けている。

誘われたテニスサークルは変な横文字のサークルで、全部で20名くらいで女子が数名いた。
部室みたいな部屋には、ちょうど自分と同じく勧誘された1年生が数名いた。

男子はまったく興味がないので何人いたかや誰がいたかなど一切覚えていないが、
女子の顔はきちんとおぼえている。
その後大学内で会うことがあった時も彼女はサークルの人だとしっかり認識していたし、
いまだに覚えている。
数少ない自分と会話した女性の顔はやはり覚えやすい。

このサークルは、巷によくある飲み会メインのサークルではなく、
そこそこきちんと練習する体育会系サークルだそうだ。
勧誘のセリフのなかにも「ただの飲み会サークルはすぐ飽きるから、こっちのほうが良い」
みたいなことを盛んに言われた。

自分はもちろんテニスなどしたことないが、話は少し聞き入って、
女子が喋っているのをひたすら相槌を打っていた。
むこうも真面目そうな自分の風貌に向こうもちゃんとやってくれると思ったのかもしれない。

しかしその後、ちょっと偉そうな人間が入ってきた。

おそらく3年生のキャプテンだ。まわりにも命令口調であれこれ指示していたので、
すぐキャプテンとか部長とかなんだろうなと思った。

そのキャプテンは、他の新1年生の女子にあれこれ面白い話をして勧誘していたが、
自分を見るといきなり

「お前老けてるな、何浪したんだ?」と聞かれ、
「4浪だけど」と答えると、
「はあ?4年間ずっと勉強してたのか?俺の2個上だぞ。お前すごいなあ」

みたいなことを言われ、かなりむっとした。

むっとしたのは、4浪したことをきかれたことではなく、
2歳も年下の男にタメ口で詰られたことだ。
はじめは皆1年だからタメ口でも当然かまわないが、
2歳年上と分かっていてあえてタメ口をきいた彼の態度にものすごく腹がたった。

自分は中学生の時に部活をやっていたが、先輩には絶対に敬語だった。
1歳離れていても敬語を使うべきだが、2歳離れていれば言わずもがなだろう。

その男がキャプテンであることでこのサークルに入ることはないと決意したが、
その後も偉そうな口のきき方をするので、こっちもタメ口で話したら、

「おいおい、先輩への口のきき方間違ってるだろ?」

と逆に言われてしまった。

とても屈辱だった。好きで4浪もしたわけではない。
本来なら東大の医学部に行っていたはずなのだ。
そんな自分が、こんなマーチの虫けら見たいな学部の人間と会話するだけでも、
お前はありがたいと思えと思った。

しかも偉そうな口叩かれて説教までされて、自分の中の屈辱感は筆舌に尽くしがたいものがあった。
そんな屈辱から、そのキャプテンに反論し、あわや喧嘩になりかけた。

そして女子マネージャーみたいなのに止められて、すぐ止めたが、
その男にもう来るな!みたいなことを言われ、言われた通りそのまま部室を出て行った。

せっかく女子と話ができたのに、結局これだ。
やはりレベルの低い人間が通う大学はこういうものなのかと本当に後悔した。

そして後悔し帰路についたとき、自分はこんな大学にいる人間ではない、
やはり医学部に行くべき人間なのだと決意し、1年間仮面浪人することを決めた。

大学に通いながらもう一度受験して、あんな男を見返してやろうと思った。

狭隘な自尊心3(2011年08月13日)[編集]

大学入学初日、サークルの勧誘で自分のプライドを傷つけられ、
ますます学校に行きたくなくなっていた。
そもそも、クラスに入った時から周りの雰囲気になじめかった。
自分のいた法学部は下位のマーチではあったものの、一応看板学部だった。
だから、4浪の自分に対してもまともに会話できる友人くらいはいるだろうと思っていた。

しかし、内情は、当時にしては珍しい茶髪の学生がいるなど、軽い雰囲気だった。
たしかに、いわゆる可愛い女の子も数人いたが、どれも軽い感じの女の子だった。

これが18歳の自分だったら女の子に声をかけたり、
軽い雰囲気を楽しむこともできたのかもしれない。
しかし、当時自分は22歳で、彼らは自分より4歳下である。
自分が高校1年生のとき、彼らは小学生だったのである。
そんな子供たちと仲良くなんてなれるわけがないと思ってしまった。
あんな軽薄な馬鹿どもと一緒に机並べて勉強なんかちゃんちゃらおかしいと思ってしまった。
一日中そればかりを反芻し、繰り返し繰り返し思っていた。
つまりやさぐれていたのである。

もし自分が18なら周りもやさぐれた自分に同情し共感してくれる友達がいたかもしれない。
「実は俺もそうなんだよ、一緒に頑張ろうぜ」と言ってくれる友達ができたのかもしれない。
そういう友達との出会いがきっかけで女友達もできたかもしれない。

しかし、年をとってしまうとこういう時に不利で、明らかに周りより浮いていた自分は、
そのように声をかけてくれるような友人はいなかった。

そんな状態だったので、入学当初から孤立し、自分からも人を遠ざけていた。
ただ、やさぐれているだけでは済まされない事態が出てきた。

それは、大学に入学した以上、皆と同じように授業を履修しなくてはならない。
自分には友達がいないので、授業をさぼってノートを借りることもできないので、
授業にも出なくてはならない。
仮面浪人中はなるべく授業に出たくなかったし、受験勉強に専念したかった。
しかし、そのくせ、自分は履修できるぎりぎりまで科目を登録した。

学校の授業なんて、どうせこの学校の馬鹿な学生相手の授業だから楽勝に違いない。
俺がちょっと頑張ればすぐトップになれるだろう。
なんせ俺は理Ⅲ目指してずっと4年間勉強してたんだから。
だからぎりぎりまで履修しても、余裕で単位がとれるだろうと思いこんでいた。

これが誤算だった。

まず、初めての授業である。初めての授業を受けた時は驚愕だった。
そもそも大学そのものに期待はしていなかったが、
大学の授業に対して自分は一応の期待をしていた。
というのも、高校のときからまじめに授業を受けず、宅浪していたことから、
授業自体久々で新鮮であったということと、
一般的に大学の講義は難しくてついていけないという風評があったため、当時能力を過信していた自分は、
そういう風評が自分を鼓舞させたことにあった。

初めての大学の授業はマイクを持った教授がほとんど板書もせずに喋り倒すいわゆるマス講義だった。
授業の名前は法学入門だったか、そのような名前だった。
個人的には法律の入門知識を丁寧に教えてくれるものだと思っていた。

しかし、これがまったくの見当違いだった。授業内容がまったく肌に合わなかったのだ。
肌に合わなかったというのは、ついていけなかったというのではない。
意味を感じなかったのだ。

板書をノートに書き写そうと思っても、ほとんど板書もないし、
教授の言ったことをノートを取ろうにも、
教授の話が本線なのか脱線なのかすらわからないからノートをとりようもない。
授業を受け終わった後に自分のノートを見ても、数行の走り書きのみで、
教授が何を話していたのかもいまいち覚えていなかった。
こんな授業出席しても意味がないと思った。

今考えれば至極当たり前のことだが、大学の講義は教授の研究分野を学生に発表する場である。
我々を司法試験に合格させようとか、資格を取らせようとかは一切考えていない。
だから、学生も教授の言っていることをまるまるノートに取ろうとせず、
テストに出そうな所だけ淡々とメモすれば良いのである。
そしてそれをテスト前にざっと見れるようにしておけば単位が来るのである。

当時、大学受験向けの勉強しかしていなかった自分に、そのような要領のよさは持っていなかったし、
そもそも自分の能力を過信していたので、自分の肌に合わないという理由だけで、
大学の講義=無意味という風評通りの固定観念をもつようになってしまった。

結局、当時の自分はひたすら教科書や問題集を暗記して勉強するというスタイルだったため、
それを全否定するような大学の講義には全くと言っていいほどなじめなかった。

おまけにマス授業のほとんどが出席を取らなかったので、全くと言っていいほど、授業に出ることはなかった。

これが第2の誤算である。

狭隘な自尊心4(2011年09月01日)[編集]

大学の授業はほとんど出席しなかった。出席を取らない授業は出席しなかった。
語学など、出席必須の授業は出席したが、それ以外はさっぱり出ずに、
相変わらず図書館にこもって受験勉強していた。

大学の授業に出ずに受験勉強を進めても、全く能率が上がらなかった。
7月頃にすでに「もうだめかも」という気持ちを持ちながらも惰性で朝から晩まで図書館にいた。

そのくせ、大学の試験については、
「こんなアホな学校の試験、勉強しなくても余裕でAが来るだろう」くらいに考えていた。
この甘さが自分の悪いところである。

案の定、試験はさっぱりだった。結局1年間に5単位しか取れなかった。
語学1科目と、必修2科目である。
もはやアホ学校でも1,2を争う落ちこぼれとなってしまったのである。

このショックは正直、受験に失敗した時よりもショックであった。

狭隘な自尊心5(2011年09月11日)[編集]

大学は浪人の時よりも気持ちがより開放的になるのではと思い込んでいた。
しかし、逆だった。大学に行って、さらに閉鎖的な性格になった。

もともと、中学時代の自分はとても開放的だったし、友人も多かった。
どちらかというとバランサータイプでよく
「○○(自分)ちゃんはオールマイティーだよね。」とも言われた。
修学旅行でもみんなで写真撮るときには真っ先に誘われた。
その修学旅行の写真はいまだに持っている。

しかし、高校・浪人で全く逆の性格となってしまった。
どちらかというと塞ぎこみがちな性格になった。
しかし、潜在的には昔のちゃらんぽらんな性格も残っていて、
ちゃらんぽらんでネガティブという悪形の極みのような性格となってしまった。

一発逆転的な発想4(2011年10月06日)[編集]

大学1年の時はほとんど学校に行かなかった。ずっと図書館にこもっていた。
本来であれば仮面浪人なのだから、時間もあまりなく、
今まで以上に真剣に勉強に取り組まなければならない時期である。
しかし、ここで弱い自分が出てしまう。

不本意で入ってしまったとは言え、大学生になったという気楽さから、
勉強も以前に比べ気が入らなくなってしまった。
つまり、手を抜くようになってしまったのだ。

それならば、勉強に手を抜いた分、サークル活動をしたり、バイトしたり、
人生でこの時期しかできない交友関係を広げたり、、、すればよかったが、そうはしなかった。

図書館にいるときは図書館にいる女性を見て妄想に耽っていた。
たまに大学に行った時は女子大生を見て妄想に耽っていた。
自分は大学1年の時、すでに23歳になる年だったため、4年生でもみな年下だった。
彼女らを見て妄想に耽ると、ふと、彼女らは自分より年下なのに自分よりは経験豊富なのだろう
という事実を思い知り、嫌な気持ちになることがあった。
そういう時は彼女らを凌辱する妄想をして自分を落ち着けていた。

このときが一番つらかった。
男子校育ちの自分にとっては女子がいる学校に行けたことは本願成就のはずなのに、
こんなにも辛い思いをしなくてはならないのか、サークルとかで腹を割って話をしたり、
一生の友達を見つけたりすることがもうできないのか、と自分を追いつめて考えるようになっていた。

結局、女子との会話の仕方、付き合い方を全く知らないため、女子を遠目で見るだけで、
一切会話等はできなかった。
当然、女子から声をかけてもらうこともなかった。

そして、そんな状態で再び東大受験に挑むも結局失敗した。
すべてがうまくいかない負のスパイラルに陥った。

一発逆転的な発想5(2011年11月08日)[編集]

1年間仮面浪人をして、東大にまた落ちた。
あれだけ頑張ったが、すべて1次で落ちたため、結局東大で試験すら受けることができなかった。

しかし、もう1年頑張っても無理だろうという諦観もあった。
勉強はなんとか続けたいものの、恋人はおろか、友達もいない生活、
家族との会話しかない生活をもう1年続けるというのは無理だった。
究極の選択だったが、大学受験はここで諦めた。このときは本当に辛かった。
死んでしまおうかと思うくらいつらかった。

しかし、自分は恋人と楽しい思い出を作るまで、童貞を捨てるまでは死ねないと思い、再起を決意した。
そのとき在籍していたのが法学部だったこともあって、東大は諦めたが、
文系資格の最高峰である司法試験にチャレンジすることで気持ちを切り替えようとした。

しかし、すぐ切りかえることもできず、
半年くらいブラブラする高校時代のときのような生活を送っていた。
大学に行っても知り合いはいないし、友達もいない、そんな自分を満たしてくれたのが、
上野のポルノショップ巡りだった。

当時、バイトもしていなかったので当然お金はなく、ポルノショップをめぐって自分を慰めていた。
そして上野駅から山手線に乗り、そのまま池袋へ向かって女子高生観察をしていた。
これを学校の無い日や学校帰りに半年くらい続けていた。

一発逆転的な発想6(2011年11月16日)[編集]

司法試験を目指すようになったのは、失われた自分の5年間を取り戻すには
文系資格の最高峰である司法試験に合格するしかないと思ったからだった。

ただ、法曹界を目指すに値する信念があったわけでもなく、突き詰めれば「女にもてたい」という
不純な動機によるものであることには変わりなかった。

当時の心境を今思えば、高校時代に彼女ができていればこんな苦労しなくて済んだのだろう。
一般と同程度の幸せで十分満足したであろう。
しかし、彼女ができなかったことを取り戻そうとして足掻いたが何もできず、
結局変態性欲に走ってしまった。
さらにそれが拍車をかけて今度は人生一発逆転を狙い東大を目指すようになってから、
完全に歯車がくるってしまった。

この時の自分は現状のすべての不満を高校選びを間違えたことに収斂させていた。
そして大手予備校に通い司法試験に合格することを考えたが、しかし、そうはしなかった。

宅浪を長く続けていたせいか、大学の授業に出席して講義を聴くことが全く肌に合わず、
講義形式の授業にはついていけないとその時悟っていた。
そのため、当時流行り始めたカセット通信を選択し、通信講座で勉強を始めた。

大学2年、23歳の秋である。

転落する人生1(2011年12月13日)[編集]

高校時代男子校で彼女ができなかったことを悔み悔んだ挙句、4浪し、
いわゆるマーチ法学部に入学した。

ただでさえ年がいってて周囲から浮いているのに、仮面浪人を決意して、さらに周囲から遠ざかっていった。
このとき自分には友達と呼べる人間はほとんどいなかった。
だから、自分の馬鹿げた選択に対し、誰も忠告しなかった。

今みたいにネットがあれば、当時の環境をネットで相談すれば、皆猛反対するだろう。
一発逆転なんてできるわけがない。たとえ合格しても高校生の彼女などできない。
粛々と学校を卒業し、就職活動をすべきだ。と。

まだ若かった当時の自分はそんなことはこれっぽっちも浮かばず、
ただひたすら「理想の彼女を作るため」だけにひたすら難関資格を目指していった。

司法試験の勉強は主に、テープ学習だった。
授業を録音したテープをテープレコーダーに早回しして聞くという、当時にしては画期的な勉強方法だった。
自分はこの勉強方法に傾倒し、毎日11時間くらい、耳が遠くなるくらいひたすら聞きまくった。
授業1コマが80~90分で2コマで1回だったが、1日2回分きいてた。
早回しで聞いても、講師の話す言葉をほとんどテキストにメモしていったため、1回の授業に4~5時間費やした。

とてもつらい作業だったが、充実していた。法律の基礎が自然と身についた気がした。
この「気がした」というのが、自分の失敗だったことを悟るのは、ここから5年がたった後のことだ。

変態性欲(2011年12月13日)[編集]

大学に入ったものの、自分の理想は満たされず、悶々とする毎日を送っていることには変わりなかった。
キャンパスを闊歩する女子大生を傍目で凝視しつつも、興味なさそうなフリをしながらコソコソ隅を歩いていた。

入学当時黒髪で地味な恰好をしていた女子が、2年3年となると、女子大生として女のフェロモンを放っていた。
そして、相変わらず自分は一人ぼっちだった。
今は非モテサークルやぼっちなど、モテないことも市民権を得つつあるが、
当時の非モテやぼっちは本当にすることがなかった。

自分はひたすら勉強に勤しんだが、やはり仙人ではない以上、
勉強中に性欲が頭を支配して全く手がつかないことがある。

そういう時は、よく官能小説を愛読した。結城彩雨や軍十四郎などを愛読した。
出てくるヒロインはみな貞淑な人妻や男を知らない女学生がほとんどで、主人公の魔の手に嵌るという内容だ。
当時衝撃だったのは彼らの凌辱描写だ。

浣腸が必ずといっていいほどでてくるのだが、浣腸もただの浣腸ではなく、滋養浣腸や空気浣腸など、
その狂気性が群を抜いていた。
自分は女性と付き合ったことがないので、正直女性器が全く想像できなかったため、もっぱらアナルを責める小説が好きだった。
これは未だに同じである。

アナルをいじられればどういう気持ちになるか、男でも多少理解できるし、
何より、アナルは触られるだけでも嫌がる女性が多いため、その顔を想像するのがたまらないのだ。

こういう時にオカズにするのが、大学のキャンパスを闊歩する女子大生だ。
あの高飛車な女を浣腸してひいひい言わせたい。
縛り付けて野外で脱糞させたいと、どんどん妄想に拍車がかかっていた。
この性欲は年をとったら落ち着くのかと思いきや、現在はその時からは何十倍も変態的になっている。

醜い性獣である。

なんとかなるだろう的思想2(2011年12月17日)[編集]

大学在学中はひたすら司法試験予備校の通信講座をテープで聞いて勉強するというスタイルだった。
予備校の講師は自前のテキストを絶賛し、基本書を馬鹿にするような発言をたびたびしていた。
予備校信者となった自分はこの言葉を鵜呑みにし、予備校テキストのみを信用するようになった。
六法すらあまり開かなかった。
学校の授業は意味がないと勝手に決めつけ、授業も仮面浪人の時と同じくほとんど行かなかった。

俺は高尚な司法試験の勉強をしているのだ。
馬鹿どもが集まる学校とは別格なのだ、と慢心していた。
しかし、その慢心が仇となった。まさかの留年である。

民法の勉強をあれだけしたのだがら、民法を落とすわけがないとタカをくくったのが馬鹿であった。
司法試験の試験科目でも要である民法を落としたのである。

学校の試験は司法試験とは全然違うことを認識していなかった。
もっとも、そもそも司法試験の勉強をしてても、大して実力がついていなかった。
それなのに、実力がついていると勝手に思い込んでいたのが原因だった。

1年目の留年の時、親に対しては申し訳ないと思ったが、自分のなかではその事実を過小評価していた。
俺を落とすなんて馬鹿な教授がいるもんだ、と専ら教授を馬鹿にしていた。

ただ、一点だけつらかったのが、ほかに同じ留年した学生を見ると、
みな一様にチャラチャラしてるやつばかりであることだった。
自分はこんなに勉強しているにもかかわらず留年したのに、
このチャラチャラしたクズ共はきっと女と遊びまくって留年したに違いない、
こんなやつらと同じ扱いなのか、と思い塞ぎ込んだ。

このように留年した事実をあたかも不可抗力の事故にあったかのように装い、
自分とは無関係なことと思い込んでいた。
このなんとかなるだろうという発想は、自分の慢心と、
現実から目を背けながら生きる生き方から生まれたものである。
そして、今もなお、この発想は自分の中に強く根付いている。

44歳もそろそろ終わりに近づき四捨五入すれば50代に差し掛かろうとしている。
仕事もせず、家で女子高生との妄想ばかりをしながら、ネトゲやネットしている。
親が元気なうちはいいが、亡くなった後を考えるとぞっとする。

しかし、なんとかなるだろうという発想がどこかにあって、それが次の行動へと踏み出せないようにしている。
本当にどうしようもない。

転落する人生2(2012年01月04日)[編集]

 
大学に通っているとき、なるべく周りの空気に流されないように気を付けた。
時はバブル崩壊が始まりだしたときだが、うちの大学の雰囲気はバブルそのものだった。
といっても、大学の雰囲気を知るほど、他人と会話したり、仲良くしたりしたことはないのだが。

当時は、いつも仏頂面で、一匹狼を演じていた。
そのくせ、周りの目にどういう風に映っていたかをやたら気にした。
自分は4浪していることもあり、自分について、周りからは孤高の人、
近寄りがたい人というイメージを持ってもらいたかった。

当時学部の中でとりわけ美形な女子がいた。
ポニーテールの似合う田中好子に少し似た感じの女子だった。

まわりのアホな男どもがいつも彼女の噂をしていた。
自分も彼女のことが少し気になっていたので、本当はその中に加わりたかったが、
自分が加わるとアホが伝染ると思い、聞き耳をそばだてるだけにしていた。

もちろん自分は女子との付き合い方が全く分からないため、
自分からその女子に積極的に話しかけることなど絶対できなかった。

そして、授業の合間にひょんなことから、その女子の帽子が落ちていたので、
後ろから走り寄り自分が拾ってあげたことがあった。
向こうはそのとき、すごくかわいらしい笑顔でお礼を言ってくれた。
が、自分は女子とまともに会話したことがないため、
その笑顔に必要以上に照れてしまい、うまく応答できなかった。
結局孤高の人よろしく、フン!という感じでやりすごすだけだった。

そのとき、自分は、うまい返しはできなかったことに後悔した。
しかし、彼女は俺の持つ優しくてニヒルなイメージに興味を持つに違いない、と思い込んだ。
もしかすると、彼女をモノにできるかもしれないとまで思った。
普段は凌辱オナニーに耽る俺も、そのときだけは彼女をその対象としなかった。
初恋というほどのものでもないが、たった一瞬の出来事でそのくらい彼女は特別な存在になりかけた。
そして、彼女の中で自分は特別な存在になっているとも思い込んだ。

しかし、数週間後に事件は起きた。

通学途中、学校に行く電車の中で、隣の車両で彼女を見かけた。
俺は胸を弾ませ、用もないのに、隣の車両まで行き、彼女にわかるようにさりげなく前を通った。
そして、彼女の前を通った時、渾身の力をふりしぼって言った。

「おはよう」

しかし、彼女は俺を見てきょとんとした。そして、

「え?」

と言われた。

そして、さらに渾身の力を込めてもう一度言った。そしたら、初めて彼女が

「おはようございます」

と言った。

しかし、そのトーンは明らかに向こうは俺のことを覚えていなかった。
そんな「え?」と「おはようございます」だった。

そのとき、俺の中で何かが崩れた。彼女は自分のことを覚えていない。
好きの反対は嫌いではなく、無関心だと、マザーテレサが言ったことを思い出した。
そうか、彼女にとって俺はまったくの無関心なんだ。
俺は少なくとも彼女に相当な関心を持ったが、彼女はまったく俺に対して、
帽子を拾った俺に対して、関心を持たなかったのである。
嫌いならまだわかる。知らないのだ。無関心なのだ。

屈辱だった。
そんな事件があった後、彼女が早稲田のサークルに所属していたことを風のうわさで知った。
このうわさを聞いた後、さらに司法試験の勉強にのめりこんでいくようになった。

彼女が早稲田のサークルにいるというだけで、自分の中では彼女は高学歴、
当時で言う三高の女なんだと思い込み、それなら俺は弁護士になってやると意気込んで勉強を始めた。
そういう不純な動機から始めれば、うまくいかないのは目に見えていた。
しかし、当時の自分にはまったく見えていなかった。

そして、彼女もまた俺の凌辱オナニーの餌食となった。

転落する人生3(2012年01月22日)[編集]

司法試験の受験勉強は主に図書館か、予備校の自習室でやっていた。
図書館は相変わらず高校生がいっぱいいるので嫌だったのと、
5年以上一か所のところで他人との会話も全くせず勉強していると
気がおかしくなってしまいそうだったからである。

ただ、外界との接触がほとんどないため、
このころの自分は頭の中が法律(というか司法試験ネタ)とエロしかなかった。

会話も司法試験ネタ、いわゆる論証ブロックがああだこうだというような、
一般の人が聞いても何がなんやらまったくわからないような話しかできなかったため、
他人と会話することもなくなっていた。

家に帰れば官能小説(主にSM秘小説を愛読していた)をむさぼり読み、オナニーに耽っていた。
性的嗜好は、周りには秘密にしていたので、そんなこと話題にできないため、
他人と会話の糸口となるような話題のネタはどんどん減っていった。

ただ、予備校に行くと、現役合格者の写真があちこちに飾られており、
合格体験記も一緒に貼ってあってこれが大きなモチベーションとなった。

それらを読んでいると、「論証ブロックさえ押さえておけば大丈夫!」
「基本書は一切読まずに、学校のテキストだけで大丈夫!」といったような予備校の宣伝的なものが多く、
何も考えず書いてあることをそのまま鵜呑みにしてた。
そして次第に予備校の講座で勉強していれば間違いなく合格すると洗脳されるようになった。

すると、大学の法律の授業など、ばかばかしく感じるようになり、
いつも「あんな非効率的な勉強では学力は身につかない」と思い込み、
予備校の授業以外は一切受けないようにしていた。
3年生になるころには出席とる授業以外は一切出席しなかった。

しかし、これが大きな誤りだった。

自分では勉強していたと思ったが、全然できなかった。
そもそも予備校講義をひたすら何回も聞くだけでは何も頭に残らず、
講師の言ったフレーズのみが断片的に残っているだけで、まったく力にはなってなかったのだ。

おまけに勉強を始めて3年目くらいまで、六法をほとんど引くこともなかった体たらくである。
これが仇となり、専門科目をほとんど落とし、1回目の留年を経験する。

ニート時代[編集]

同じ夢をずっと30年間見続けるという悪夢(2011年07月18日)[編集]

高校で男子校に入学して以来、女性と付き合うきっかけを完全に失ってしまった。
中学時代は学校で塾でそこそこの接点はあったと思う。
接点があっても積極的にはいかなかった。

それは前述したように、学校での同級生が同性で遊ぶ方が楽しいという雰囲気に包まれていたため、
あえて積極的に女子と仲良くなろうという気にさせなかったのだ。
ただ、女子と仲良くならなくともそのときは気にならなかった。

あれから30年たつが、いまだに中学校時代の夢を見る。
自分も友達も中学校時代のままの状態で夢に出てくる。
その夢は毎日である。

高校時代はそういう夢を見るのがとても楽しみだった。
なぜなら現実世界では絶対にかかわることのできない女子が夢の中に出てくるのだ。
寝るのが楽しみで、起きている間はとても苦痛だった。
その時はとても楽しい夢だった。

だが、30年間続くとさすがにうんざりする。
夢によく出てくる同じクラスだった田口さんや豊島さんは、自分と同じ44歳である。
夢の中では自分と恥ずかしそうに喋っているが、そんな恥じらいはもうないだろう。
44歳といえば、夢の中にでてきた彼女らの母親の年齢である。
もう田口でも豊島でもなく、別の苗字を名乗って、それぞれの人生を着実に歩んでいるだろう。
自分だけ14歳のときで止まっている。

14歳が人生のピークだったとつくづく感じる。
その時は全く楽しいともつまらないとも思っていなかったその時期が人生のピークだったのだ。
毎日が楽しいというわけでもなかったが、後から振り返れば、それが楽しい毎日だったのだ。
青春というのは残酷で過ごしている間は青春と感じさせず、あとから気づくものらしい。
でも、自分の人生のピークがあのときで終わりなんてとても悲しい。

あの程度が自分の人生のピークだったのだ。
普通の中学生なら当然に過ごせた1年間が自分にとってのピークだったのだ。
ちなみに高校時代以降の夢は一切見ない。
見る夢はすべて中学3年生の時の夢である。

昨晩も体育館で馬跳びをしている女子を筋トレしながら見とれる夢だった。
馬跳びをしている女子は鉢巻きにブルマだった。
自分が中学生の時は体育の時はブルマだったが、今はもう違う。
時代錯誤も甚だしい。

そしてさっき昼寝をしたときに見た夢は、
中学校の裏で同じクラスの女子と胸をドキドキさせながら喋っていた夢だった。
教室掃除のあと、同じクラスの女子と一緒に学校の裏のゴミ捨て場にゴミを捨てに行くのである。
ゴミを捨てに行く間、なぜか自分は積極的に話しかける。
現実ではこんなことは一度もなかったが、夢の中の自分は、
半ばこれが夢であることがわかっていたのだろう。
夢から醒める前にせめて積極的に話しかけて幸せな気持ちを味わいたいのである。
話しかけた相手は、少し恥ずかしそうだけど、楽しそうに話を聞いてくれた。
夢の中は幸せである。

ただ、起きて現実を知ると、その夢は幸せな夢ではなく、むしろ悪夢である。
悪夢を見た人が現実に戻って、「ああ、夢でよかった」と感じるらしいが、自分は違う。

「ああ、夢が現実ならよかった」と思うのである。

ネットで山月記の李徴がよく話題に出る。
李徴は役人という身分まで手に入れたのに、詩人としての名声を手に入れるため、
官職を手放し、放浪し、遁世し、人食い虎に変身してしまう。
李徴の気持ちがわからなくもないが、それでも彼は役人になる過程で、
嫁や子どもも手に入れ、最後に名声を貪欲に手に入れようとしたため、失敗した。

自分は、嫁や子どももおらず、ましてや彼女や気軽に話せる友人もいない。
虎になる前から虎なのだ。

我慢すればきっと良いことがあるに違いないと思い込む(2011年07月20日)[編集]

 
このブログを書いている間、ブログの記入欄の隣に「投票ネタ開催中!!」とあって、円グラフがある。
あなたはなに派といったような軽いものである。
これを見て、自分の頭の中身を円グラフにするとどうなるか考えてみた。

おそらく半分以上占めるのが、「変態性欲」であろう。
次いで占めるのが「一発逆転」だろう。
そして、最後が「我慢すればきっと良いことがあるに違いないと思い込むこと」だろう。
3つ目は少々長いフレーズだが、自分にはこの感覚が常々付き纏っている。

これは自発的なものではない、むしろ他発的なものである。
というのも、自分の父からよく言われたフレーズだった。
どんなにつらくても我慢すればきっと良いことがある。
明けない夜はない、夜明け前が一番暗いのだ、と父はよく言っていた。
よく聞かされ、自分も知らぬうちに意識の根底に刷り込まれていた。

当時は、厳格な父が好きではなかったので、言われても必死に反発した。
しかし、現在は昔ほどの嫌悪感は抱いていない。
もう80近い、耄碌した父に反発しても意味がない、嫌悪感を抱いても何も変わらないのだ。

高校を選ぶ時、父から
「男子校を選べば、女子に脇目も振らずに勉強に励むようになるから、良い大学にも行ける」と助言を受けた。
父も県内一の男子校で3年間、勉強と野球に励み、いわゆる一流と言われる大学を卒業した。

自分もそうなれるかもしれない、男子校に行けば、
女子にわき目も振らずに勉強に没頭するに違いない、と思い込んだ。
私立の男子校は、同じく合格した都立の共学に比べ進学率、偏差値ともに良かった。
ここで、勉強すれば、女子にわき目も振らず、頑張るだろうと思い、進学を決意した。

結果は3年間、いや卒業してからを含めれば30年間、女子にわき目を振って生きている。
なぜ、都立を選ばなかったのか、という後悔の念を3年間もったまま卒業した。

そんなとき、わき目を振るくらいなら、
いっそナンパでもして声を掛けまくって女遊びをすればいいじゃないか、とも思ったこともある。
しかし、それができない。

堂々巡りだが、我慢すればきっと良いことがあるに違いないと思い込んでいるのだ。
変な倫理観が、道を踏み外させないのだ。

でも、今は後悔している。いまさら女の子をナンパなんてできない。
醜悪な容貌の中年が、女子高生を道端で必死に口説けば、
下手すれば児童福祉法違反か、条例違反で逮捕される。
もう、そんなことはできないのだ。

司法浪人のときだって同じことを考えた。
司法浪人している間は、どうせ無職なんだから、
アルバイトでも派遣でもなんでもやって他のスキルを身につければいいじゃないかと。

しかし、できない。
バイトや仕事を始めたら勉強に集中できなくなり、
一生受からなくなってしまうんじゃないかと思ってしまう。

でも、現在は仕事をしたくてもまともな仕事がない。
やるなら法律の知識を生かせる仕事をしたいが、そんな仕事は自分が働けるようなところにはない。
もっと早めに見つけるべきだった。

いままで我慢しても何も良いことなど碌になかった。
でも、なぜかこの感覚が常に付きまとう。だから失敗を重ねるのかもしれない。

この感覚を持っていてよかったと言える日が早く来てほしい。

女性と付き合ったことがないし、一度も働いたことがない4(2011年09月19日)[編集]

自分は女性に全く縁がないんだと思う。周りの女性は母親くらいである。
昭和ひとけた生まれにしては珍しく、父は2人兄弟で、母は一人っ子であるため、
親戚もほとんどいない。
なので、幼いころから女性と知り合う機会がほとんどなかった。

小中学校の時、男が女の子と仲良くするのは格好悪いみたいな風潮があり、
女子と話した機会はほとんどない。
中学校になって、隣の小学校出身の男子が女子と普通に会話をしているのを見て、
とてもびっくりした気がする。
中学時代はそれでも多少は話したこともあったと思う。
といっても、2・3ヵ月に1回くらいだが。

女子を意識し始めたのは中3くらいだろうか。
少し遅いと思うが、そのくらい自分は奥手だったのかもしれない。
女子に話しかけられたりしたときに異常な心拍数になったのを覚えている。
それがいまだに夢に出てくる。人生で最上の幸せだった瞬間なのだろう。

しかし高校にはいると途端にそんな機会がなくなり、まったくの0になる。
そして機会を逸したまま浪人生活に入り、大学を人より長く過ごした。
しかし、女性と会話したのは全くの0である。

なので、いまだにどのように話せばよいのかがわからない。
女性と会話をするのが、こんなにもハードルが高いことかと思う。
せめて姉妹がいればもう少し捗るのにとも思う。

この年になって、奥手の人間なんぞ、気持ち悪がって誰も話しかけてすら来ないだろう。
だが、会話したこともない人間がいきなりナンパしたら、もっと気持ち悪がられるだろう。

この年になっていまだにそんな事をくよくよ考えている。
本当にどうしようもない。ただただ閉塞感が募るばかりである。

女性と付き合ったことがないし、一度も働いたことがない5(2011年09月26日)[編集]

私は純粋な女性が好きであるが、はじけて遊び好きな女性も好きである。
前者は真面目なお付き合いの対象として、後者は体だけの関係の対象としてである。
もちろん両者ともに付き合ったことも、会話したことも、出会ったことすらない。

以前どっかの海外の記事で、性犯罪を犯した50歳くらいの犯人について、
「仕事もせず、独身で、退屈な人生をおくっていた」と書かれていた。
おそらく自分が性犯罪を犯して逮捕され、海外の記事に紹介されたら、
自分もそのように書かれるのだろう。
退屈な人生を送っていたと。
まあ、間違いない。

ただ、自分が本当に人間嫌いで内にこもるタイプであれば、
そういう評価をされても文句は言わない。
しかし、自分はどちらかといえば外交的「だった」のだ。
遊び好きな女の子と夜通し遊ぶのに憧れていたのだ。

だから、このような評価をされたらものすごく凹む。

高校の時、よく繁華街に出かけて高校生のカップルを眺めて過ごすということをやっていた。
眺めて過ごすのは1、2時間ではない。長い時は5時間以上眺めているのだ。
単に憧れだけで休みの日に5時間も眺めているなど、今考えれば尋常ではない。

それだけ、あこがれが強かったのだ。高校生の時に彼女を作るということ。
今考えれば、これが自分の人生の真の意味で目的、生まれてきた理由といっても過言ではない。

高校の時に親に共学に転校したいとお願いしたことがあったが、あっさり却下された。
彼女がほしいとははっきりいわなかったが、男子校だとつまらないと言ったところ、
父も母も男子校・女子校で、勉強に集中した結果、一流大学に進学できたと言っていた。
それを聞いて自分も一流大学を目指したが、この目的が逆に仇となり、
一流大学どころか4年も浪人し、2年も留年してしまう。

そして、この目的はもう達することができなくなってしまった。
なので、それを取り返すべく邪念が自分を支配している。

犯罪者にはなりたくないものだ。

同じ夢をずっと30年間見続けるという悪夢3(2011年12月24)[編集]

自分は中学を卒業して以来、何かにドキドキしたり、ワクワクしたりすることがない。
2ちゃん用語でいえばwktk感が全くなくなった。
中学以来このような感情はなくなってしまった。

でも夢の中では違う。過去にwktkしてた頃の夢をよく見る。
いまさっき目が覚めたので夢の内容を綴る。

舞台は中学校3年。
そういえば夢の舞台はほとんど中3で、中2や中1だったこともない。
さっきの夢は中3のときの担任に叱られる夢だった。
このときの担任は多分30くらいだと思うから自分よりはるかに年下だとおもう。

10人くらいで近くの公園でみんなで泥遊びみたいなことをして遊んでいるなか、
自分は鬼ごっこをしていた。
ただ、実は授業中だったらしく、そのため、10人くらいが始業時間に遅れた。
待ちくたびれた担任にいきなり叱られ正座するよう言われた。
女子を含め皆がしゅんとしている中で、自分だけ担任に反発する。
「今は授業中ではない!」みたいな反発だったと思う。

周りにちら見されながら自分だけ頑張ったけど、やはり授業中なので怒られ、結局正座した。
この時は正座させられても良い思い出だ。

あれから30年経過しても同じような夢をパターンを少し変えて何度も何度も何百回も繰り返し見る。
夢からさめ、起きた後に鏡に映った自分の顔を見るのが本当につらい。
夢占いも何度かしたことがあるが、どれももうすでに分かっていることを改めて念押しされただけだった。
いまの生活に充実感を見いだせないから、このような夢ばかりを見る、と。

でも今からどうやって充実感を取り戻すのだろうか。
もし、仕事を始めてもこの年からやれる仕事なぞ、充実感より絶望感を味わうものばかりだろう。
余暇だって結局今と同じ2chばかりやって過ごすに違いない。
なので、もう後の人生もこの夢をずっと見続けるのだろう。

ほんとうにつらい。

今年で45歳を迎える(2012年01月03日)[編集]

あと3か月で45になる。
自分は早生まれなので、同窓はほとんど45歳になっていることだろう。
歳を重ねるたびに1年間を振り返っていかに無駄な時間を過ごしてきたか、いつも痛感する。
この痛感は20代のころからあった。
もう20代でなくなるときのショック、もう30代でいられなくなるときのショック。

20代、30代で未婚ならやり直しがきくかもしれない。
しかし、40代で、しかも半分過ぎていて恋愛未経験では結婚は相当難しいだろう。
そういう意味で45を迎える今年はその痛感はひとしおである。
普通に考えたらもう無理だろうという絶望感に苛まれる。

でも、心のどこかで何とかなるだろうという根拠のない自信もある。
これが、自分を行動させなかった悪い自身なのだが。

たしかに、司法試験に合格し、弁護士として大成し、
それこそ知事や市長にもなれれば可能性はあるかもしれない。
しかし、現在は司法試験の勉強などしておらず、
もっぱらネットゲームを部屋にこもって昼夜しているだけである。
試験勉強していた時期も、部屋にこもって勉強かネットでズリネタを探す日々だったから、
ほとんど変わりないが。

今年の目標は外に出ること、女性に積極的になること。この2つを実行しようと思う。
家で引きこもっていただけでは出会いなど、ありえないのである。
せめて親が元気なうちに、彼女でも紹介したいと思っている。

家を出る[編集]

ブログは当分休止となりそうだ(2012年03月07日)[編集]

諸々の事情があって家を出て働かざるを得なくなってしまった。
1月3日のブログに外へ出て女性に積極的にアタックしようと決意をしたが、
まったく違うベクトルに行ってしまった。

諸々の事情はまだ進行中なので詳しくは書けないが、
だいたい諸氏の想像のとおりである。
1月26日のブログも書きかけで更新していなかったのだが、
このあとに「その事情の発端」が起こったのだ
(事件とは書かない。突発的なものでもなく、他人のせいにしたくないので)。

そして家を出て、まず部屋を探した。
たまたまURの特別募集物件(いわゆる事故物件)が1件あいていたので、そこに引っ越した。
家賃は1年限定で3万ちょいである。
今は金がなく自宅でパソコンできないため、更新は難しい。

仕事は苦戦するかと思いきや、あっさりきまった。一応塾の講師をやり始めた。
女子高生もいるし、拘束時間も長くないので自分としては最高の職場だ。
1対1の塾は人手が足りないらしく、すぐに採用された(アルバイトだが)。
現在時給900円で研修中である。

ということで、パソコンが使えるようになるまで休止せざるを得ない。

塾でアルバイト[編集]

コメントに勇気づけられる(2012年03月13日)[編集]

たくさんのコメントを頂戴した。
ほとんど私に対する応援的なコメントばかりである。

近況についてだが、仕事は研修から正式に講師として迎え入れられそうである。
室長が自分より一回り上のとても感じの良い方で、自分の状況を共感してくれたのが幸いだった。

また、ほかの講師は皆大学生なので、二回り以上年上の自分に対しては距離を置いており、
誰も話しかけようともしてこない。なので、衝突もなく過ごせている。

もうすぐ45歳だが、誕生日を迎えるまでには講師となっていることを願う。
講師となれば時給900円から1100円へアップするし、何よりシフトが入りやすくなる。

出来の悪い生徒になじられるかと不安だったが、
研修中に英語を教えた中学生はまさに自分の中学生のときのような子であった。
彼は男子校に進学するのだが、彼には自分のようになってほしくないので、
とにかく女子と接する機会を増やすように高校に行っても塾に通うことを勧めた。
彼に通じるとよいが。

生活はいっぱいいっぱいで仕事帰りに半額になった弁当を買い、
1個の弁当を朝と晩に分けて食べている。
自炊したいが、レンジも炊飯器も冷蔵庫もない。そして、家にはもう頼れない。

夜に家の窓を開けると中高生が自転車置き場でたばこを吸ってたむろっているのが見える。
それを1時間に1回は警察が注意にやってくる。
あまり環境のよいところではないが、
単調な毎日よりこういう刺激のある光景が見れるほうが自分にとっては良い。

1か月の家賃が32,000円で、電気もほとんど使わず、風呂も入っていないので、
光熱費と水道代もほとんどかかっていないだろう。
漫喫もあと少しで延長料金を取られるので今日はこの辺にしておく。

大学生を見て鬱になる(2012年03月15日)[編集]

同じ職場に大学生講師が10人ほどいる。
自分に対して声をかけてくるような講師はいないが、
なかにはいわゆるリア充の大学生もいる。

自分から見ればすべての大学生がリア充なのだが、
とりわけリア充の彼は高校大学とエスカレータ式に進学し、現在卒業間近の4回生とのことだ。

彼は1回生のときからこのバイトをやっているそうで、バイトではリーダー的な存在である。
時給もおそらく一番高いのだろう。
見た目もよく、生徒にも職員にも人気がある。
すでに就職は決まっており、来月からは大手損保に就職するそうだ。

4浪した自分は彼の年の時、まだ浪人生だった。
だから自分などと比較するのはおこがましい。自分など、彼の足元にも及ばないのだ。

だから劣等感を抱くことはあっても、世の中は不公平だと思うことなど許されないのだ。
しかし、自分は彼を見てつくづく世の中は不公平だと思ってしまう。

自分は18歳から勉強を続け、およそ30年近く勉強を続けたが、
失うものは多くとも、得るものは何もなかった。
いま44歳で、頭は禿げ上がり、恋愛経験やまともに正社員になったこともない。

でも、勉強は日々続けていた。
毎日毎日好きでもない勉強だけをひたすら続けて、結局、何も得なかった。
彼の倍は生きている自分は、彼の5倍は勉強をしただろう。
いやもっとかもしれない。
好きでもない勉強を彼の5倍、いや10倍やったかもしれない。

それだけやった。

でも、得たものは彼の1000分の1にもならない。何も得なかったのだから。
ましてや人生経験は彼の10分の1にも及ばないだろう。
そして彼との差は、これから一生かかっても埋めることはできないだろう。

仕事帰り、自転車に乗りながらふとそんなことを考えていた。
彼は彼女と一緒に勉強したかもしれない。

自分は図書館の同じ机でそんなカップルを見て頭が沸騰するほど悶々としながらの勉強していた。
目の前で勉強するカップルを見て勉強が全く手につかず、
そばの公園のベンチで自分の空虚な人生を振り返りひとしきり涙したこともあった。

彼は、何の用もないのに繁華街に行ってカップルやパンチラを見に行ったことなどないだろう。
SM小説を探し、5時間も6時間も町を彷徨い歩いたこともないだろう。

むしろ、サークルでバーベキューをやったり、飲み会をやったり、
はたまたプールや海に行って水着で彼女とはしゃいだり、花火を浴衣で見に行ったり、
自分のあこがれの大学生活を、青春を謳歌しただろう。

これから会社に行けば、上司に怒られたり励まされたり、女子職員にアプローチされたり、
同僚と励ましあったり切磋琢磨しあったりするだろう。
そして、そのうち結婚し、子供をつくり、マイホームを持ち、
休日は公園で子供とキャッチボールをするのだろう。

自分がなし得なかったすべてを彼はいとも簡単に成し遂げるだろう。
仮に彼が社会人になってすぐ仕事をやめて法曹をめざし、3回三振したとしても自分の年には及ばない。
それだけの差が開いてしまったのである。

こういう日は寝つきが悪くて困るのだ。朝できる仕事を探そう。

後悔先に立たず。後悔後を絶たず。4(2012年03月22日)[編集]

初の給料が入った。
2月に勤務したのは55時間なので、交通費を含め52000円である。
今の塾は自転車通勤でも交通費が出るため、たいへんありがたい。
家賃を差し引くと2万円残る計算だが、光熱費等を引けば結局手元に残るのは15000円程度だろう。
アルバイトは掛け持ちしないと厳しい。

ただ、初任給をもらって、泣きたくなった。それは、労働の対価に対する喜びではない。
そう、「もっと早くに働いておけばよかった」ということだ。

自分が高校時代、女子と仲良くなれるチャンスを探すため、アルバイトをしたいと親に言ったことがある。
しかし、「学生時代は勉強に専念しろ」と言われ却下された。
また、続けて「お金を稼ぐことは大変なことだ。
今、たっぷり勉強できるのだから、それに専念すればよい」とも言われた。
高校1、2年の時など全く勉強していなかったくせに、その言葉に妙に納得し、額面通り受け止めた。
そのため、受験生活でアルバイトはずっとやらないでいた。

でも、今の仕事をして、給料を手にして改めて思うのは、
高校時代からアルバイトをすべきだったということだ。

自分は高校時代、アルバイトもせず、勉強もせず、毎日悶々としながら家でマンガやSM雑誌を読みふけっていた。
そんなことに貴重な青春を浪費するなら、
アルバイトをして汗を流して労働の楽しさを感じたほうが、よっぽどマシだった。

「高校時代、女っ気はなかったけど、アルバイトを一生懸命頑張って働くことの楽しさを覚えた」

と振り返ったほうが、その後の人生の精神衛生上にもよかった。
さらにはアルバイトをすれば、女子との出会いもあったかもしれない。
女子と会話する力が身についたかもしれない。うまくいけば彼女ができたかもしれない。
運命を変えられたかもしれない。

仮にアルバイトをして受験を失敗したとしても、
そのぶん好きなアルバイトをしていたのだからしょうがないと、どっかで割り切っていただろう。

自分の場合、周りが共学に通い楽しんでいるのに、
自分は男子校で毎日悶々とした高校生活を強いられていた。

これが強い劣等感となり、その劣等感が腐のエネルギーとして受験勉強の原動力となっていた。

「負のエネルギー」ではない。

負のエネルギーは家が貧しいから貧しさから脱出しようとか、昔、辛いいじめや虐待に遭ったから見返してやるため、
頑張るときのエネルギーである。

自分の場合、そんな尊大なものではない。
ただ、高校時代に女子と知り合いたかったのに、知り合うことができなかった、
共学に行きたかったのに共学に行かなかった、という醜い醜い劣等感である。
だからあえて「腐のエネルギー」とする。

そしてその腐のエネルギーは、自分の願望を解消しないと消えなかった。
結局、大学受験に失敗した後、不本意な大学生活では、そんな自分の願望はかなうことができず、
司法浪人として20年も無駄な時間を送ってしまうのである。
そう思うと、高校の時の後悔が津波のように押し寄せ、いてもたってもいられなくなる。

そうだ、そういや、高校時代ちゃらちゃらしてたあいつはアルバイトをやっていたとか。
男子中出身のくせに隣の女子校の生徒をナンパしていたのは、
アルバイトで得たコミュニケーション能力だったのかもしれないとか。
あいつは高校時代アルバイトもし、ナンパもし、現役で明治に行って、一流企業で働いているとか。

かたや俺は変な倫理観が邪魔をしてアルバイトを我慢し、悶々とし、何もなかった高校時代を過ごし、
そのまま4年間浪人し、あいつよりレベルの低い大学に進学した、、とか。

クラスで一番まじめだったあいつは休み時間も勉強していた。
あいつは彼女がほしくないのか、ゲイなのかと薄々馬鹿にしていたのに、現役で医大に進んだ。
ひのえうま世代とはいえ、自分は4年かかっても受からなかっただろう。
もしかしたら、彼はもう結婚し、家庭を持っているかもしれない。

自分はひたすら腐のエネルギーを受験勉強にぶつけていた。

結果、何も得られなかった。

今年で45歳を迎える2(2012年03月27日)[編集]

3月25日で45歳になった。

アルバイトも結局、研修生を脱することができず、講師はお預けとなった。
誕生日は日曜だからと言って特別なことはせず、ひたすら家で高校の数学の勉強をしていた。
マンガ喫茶に行ってブログの更新をしようと考えたが、それもやめた。
生まれてから45回誕生日を迎えたことになる。

この誕生日という響きには、懐かしさとむなしさが同時にこみ上げてくる。
自分が中学校のときまでは、誕生日になると、友達を家に呼んで盛大に誕生日会をやった。
うちは裕福ではないが、中流家庭なりのごくふつうの誕生日会を友達と過ごし、とても楽しかった。
誕生日が学校の修了式と重なっていたため、
成績が悪くて落ち込むこともあったが、そんなことも忘れて楽しんだ。
今もたまにその時の夢を見る。

しかし、それ以来、かれこれ30年くらい誕生日を祝っていない。
実家にいたときは親がケーキを買ってきたりしていたが、それも高校生までだ。
男子校にいて悶々としていた頃、誕生日が近づくと、
周りの共学の連中は誕生日プレゼントを男女間でやりとりしているのだろうと
想像してむしゃくしゃしていた。
だから高校の時の誕生日は、すべてむしゃくしゃしながら過ごしていた気がする。

親がケーキを買ってきても、毒づいて一切口にしなかった。
それを見て親はあきれていた。
高校卒業してからは親もケーキも買わなくなったが、
20歳の誕生日に高級レストランに連れて行ってもらった。
20歳は成人になった記念なんだから、酒でも飲んではどうかという意味だったのだろう。

ただそのときは浪人生で、しかも3浪が決定したときだったのでむしゃくしゃしていた。
それだけでなく、男子校のときの悶々とした気持ちも引き摺っていたので、
食事中に普段持ち歩いたこともない英単語帳を見ながら早食いして先に帰った。

彼女のいる奴は二人っきりでお祝いしているかもしれないのに、
なんで俺は親と一緒にレストランなんだよ、とイラつきながら帰りの電車で涙を飲んだ記憶がある。

それ以来、誕生日はむしゃくしゃするので、なるべく誕生日になったことを意識せずに、
いつも通り過ごそうと努めている。

たまにネットのブログで、友達と大勢で誕生祝いをしたあと、
彼女と二人っきりで誕生祝いをしたという記事を見かける。
そこには、カラオケで友達同士で上半身裸になって馬鹿騒ぎしている画像と、
おそらくそのあと撮ったのであろう彼女とキスをしている画像が貼られている。
ブログの主は、別に芸能人でも、有名人でもなく、ただの学生である。

自分は彼女と二人っきりで祝うのも好きだが、大勢で馬鹿騒ぎしながら祝うのも好きである。
二人っきりで祝うのは憧れで、大勢で祝うのは懐かしさである。
こういう夢のような誕生祝いを、
ただの学生ごときが二つ同時にかなえているのを見ると腸が煮えくり返って卒倒しそうになる。
そしてその後、いつものむなしさが訪れる。

もしかしたら一生こういう誕生日祝いはできないのかもしれない。
そう思うと、たまらなくむなしくなる。

仮にできたとしても、50歳の誕生日に友達とカラオケボックスで裸になって朝まで騒いだと言えば、
眉を顰めるだろう。
その前に馬鹿騒ぎに付き合ってくれる友達などいないだろう。

失われた青春の価値はとても大きい。
人生で最も楽しく輝ける時間を無為に過ごした切なさとむなしさで胸がいっぱいになる。

だから、誕生日は何も考えずに過ごすよう努めている

今年で45歳を迎える。3(2012年03月29日)[編集]

 
仕事で受け持つ子で、すこし苦手な子がいる。
今度高校生になる中学3年生の男の子だ。

彼は乱暴者でも不真面目でもない。友達も多く人気者である。
高校に合格した後も、週に1回程度、塾に来て、たまに自分が授業を受け持つことがある。

なぜ彼のことが苦手なのかというと、そこははっきりわからない。
しかし、おそらく彼は自分に対してはあまり好意を抱いていない。
なんとなく雰囲気でわかるのだ。

室長の計らいで、彼に対してはビシビシやるのではなく、
塾をペースメーカーにして高校になっても続けるよう指導してほしいとのことだった。
要するに、勉強も大事だが、とりあえず楽しませろということだ。

自分も昔は、よく休み時間に友達と騒いだりしたので、
面白い話をして楽しませるのは得意である。
しかし、悲しいかな、ネットもテレビもないので、あまり持ちネタがない。
なので、昔ネットで得た知識を自分の体験談のように面白話としてよく使った。

すると、彼は、最初のうちは笑ってくれたが、自分の話に飽きてきたのか、
最近そうそう笑わなくなってきた。
話がワンパターンなのか悩み、多少デフォルメしながら話をした。
しかし、今日はとうとう冷静に突っ込まれた。

まず、「先生って、見かけによらず若いよね」と言われた。
それを聞いて、最初よくわからなかった。
続けざまに「先生の話って、みんな嘘くさいし」と言った後、「浅い」と言われた。

あまりのショックにとっさに返答できなかった。
彼がはじめに言った「若い」は、「若さ」ではなく「幼稚さ」だろう。
「お前は幼稚だ。」と言えば当然角が立つ。
ましてや、相手は一応先生なのでオブラートに包んで、「若いね」と言ったのだろう。
「若い」は褒め言葉でもあるから、暗に「幼稚」だという意味でも、
そこは推して知るべしで、すぐ受け止めるべきだった。

しかし、そんな簡単なことに気付かなかった自分を見て、彼は落胆し、
よりストレートに言い直したのだろう。お前は薄っぺらいと。

中学校3年生に自分の底の浅さを指摘されたのだ。
結局2秒間黙って、出たのが「先生をあまり馬鹿にするなよ」という、
自分でも胸糞悪くなるくらいのコピペ返答だった。

彼は決して自分を馬鹿にしたわけではなかった。
自分の人格を冷静に客観視し、指摘したのだ。
むしろ、大人ならなかなかできない指摘をしてくれた彼に感謝をしなければならないくらいだ。
しかし、そんな何も悪くない彼に対して、自分はヒステリーを起こすような真似をしたのだ。
その後、自己嫌悪に陥った。

彼はそのまま自分の返答に応酬するでも、謝るでもなく、
そのまま黙って机の上の教科書に目を落とした。
そのまま一言も発言しなかった。
自分がネットから拾って作った底の浅い話加え、およそ講師とも思えない言動に辟易し、
彼は自分との関係を断絶したのだ。

繰り返すようだが、彼の当初の発言は、自分を慮ったいわゆる後見的な発言である。
彼もそう言えば、KYな自分でも多少は分かると思ったのだろう。
しかし、実態は彼の予期したものを上回るKYだった。
想定外の幼稚な人間だったのだ。

彼は自分が言わなくても良いことを言わないとわからない人間だったということに気が付き、
落胆し、改めて指摘した。
真実を指摘したのだ。
そして、考えられないことに、なんと仮にも法曹を目指していた人間が、
真実を指摘されてヒステリーを起こしたのである。
もう救いようがない。

そのまま気まずい空気で90分の授業が終了した。
授業後、彼のファイルに授業記録を記入しながら彼の生年月日を見ると、平成8年生まれとあった。
平成8年といえば、自分が30の時である。
大学卒業して2年目、自分が司法浪人を始めて間もないときに生まれたのである。

そんなつい最近生まれたばかりの子供に薄っぺらいと思われたと思うと、
悔しくて悔しくてに堪えられなかった。
そして帰り道、いつもの漫画喫茶まで自転車に乗りながら考えた。
思い起こせば、自分は作り話を構成するのは得意でも、不意に突っ込まれると、
うまく返すことができなかった。
なんというか、アドリブがきかないのだ。
だから話がいつも一方的になってしまい、相手が話の途中で自分にボールを投げても、返さないまま終わってしまう。
悩み事の相談をされても、「先生が昔○○のとき、~で、大変だった。先生は~」と結局、自分語りで終わってしまう。
相手の立場に立って物事を考えたり、相手の話を敷衍させることができないのだ。
卓越した笑いのセンスを持っている人なら、それでもかまわないだろう。

しかし、いい年して自分が自分がと自分の話しかしない、しかもつまらない。
45歳の大人が子供相手にもつまらない自分の話しかしない。

そう考えると自分の幼稚さに虫唾が走る。

大学生を見て鬱になる2(2012年04月07日)[編集]

自分が働いている職場には10名ほどの講師がいる。
そのうち女性の講師は全部で4名おり、全員大学生である。

以前にも書いたことだが、自分は彼女らを見て、かわいいというより、
大人の女性だなあと感じてしまう。
「お姉さん」という目で見てしまうのである。
自分の中での「女子」は中学3年で成長が止まっているため、
45歳の今になっても女子大生を見ると「大人」と感じるのである。

しかしその反面、彼女らには、つい「年上の格好良さ」を見せようと演じてしまう。
彼女らの前では、格好良く見せようとしてしまうのだ。
自分の中での「女性」はクールでちょい悪な男性が好きなはずだから、
彼女らの前ではいつも以上に孤高の人を演じて、彼女らに関心を抱かせようとするのだ。

ただ、45歳の今になってはいくらクールに振る舞っても、女性からまったく声はかからない。
かくして、そんな孤高の人は、彼女らといまだ一度もコミュニケーションをとることができない。

他方、男性講師も皆大学生だが、彼らを見ても女子大生と同じ感覚が湧かないのが不思議である。
もっとも普段彼らと会話することは全くないため、
彼らがどういう人間かはほとんどわからないし、興味もわかない。
ただ、そのうち1人苦手な男性講師がいる。

彼もおそらく大学生である。
肌は黒く、茶髪のショートヘアーでヒゲを短く整えており、
塾に来るときはサッカーの本田がかけているような金縁のサングラスをかけている。
女性講師からはエグザイルのなんとかに似ていると言われるなど、コワちゃらい感じである。

自分もちょい悪を演じているのだが彼は見た目だけのちょい悪である。
でも、彼はそれが「格好良い」といわれ、自分は言われたことがない。
彼はちょっとした服装の変化にもすぐ気付かれる。
自分は何をしても気づかれない。これはいったい何の差なのか。

そんなちょい悪な彼でも仕事においてはフットワークが軽く、
室長の言いたいことを即時に把握してすぐ行動に移すという行動力を持っている。
そのため、室長は彼に何かと仕事を任せることが多い。
最年長の自分は仕事を任せられたことはないが、20歳そこそこの彼には様々な仕事を任せるのである。

自分もパソコンについては、そこそこの知識はある。ネットが主だが、もう10年以上使い続けているからだ。
だから、パソコンの仕事は彼にやらせるより自分が適任のはずである。
でも、パソコンを使った仕事でも、室長は自分ではなく彼に頼む。
そういうのを見ると、なんだかやるせなくなる。

また、これも自分と違って、生徒に面白い話をして楽しませることもできるため、生徒から人気があり、
休み時間はいつも彼の周りに人だかりができている。
そして彼が話すときはいつも大声だ。まるで吉本の芸人のように大声で話したり、笑ったりする。

そんな彼は、いつも講師室に入るなり、得意の大声で周りの講師をいじったり、馬鹿話をして場を和ませており、
講師室ではムードメーカーとしての役割を果たしている。
自分が彼の話を聞いてもあまり面白いとは思わないが、同世代ではあれが面白いと感じるのだろう。
彼にいじられる方も、まんざら悪い気ではなさそうだ。
彼が講師室にいないときも講師の間ではよく彼の話をして笑っている。
要は憎まれないキャラなのである。この辺は自分と正反対である。

その一方で、彼は目上の人間に対しては体育会系なノリで接する。
その体育会系なノリが、上司である室長からも気に入られているのか、室長としょっちゅう長話をしている。

自分は仕事中ほとんど講師室で室長のそばにいるが、室長と最初の面接以来、5分以上話したことはない。
何気ないコミュニケーションが取れないのだ。
彼はもはや室長からは単なるお気に入りから「特別な存在」として認識されている。
その証左として、彼は塾の駐車場に堂々と自分の車を止めている。
しかも、室長公認で止めているのだ。
学生のくせに車を持っていることだけで腹立たしいのに、
塾に来るのにわざわざ車で来て、どや顔で駐車場に止めているのだ。

自分はそんな彼が好きになれない。理由は単純な嫉妬以外何物でもない。
学生のくせに車に乗るなんて、運転免許も持っていない自分にとっては妬ましくて仕方がないし、
あんなふざけた話ばかりしてて講師になれるのに、自分がいまだ研修生なことも納得がいかないし、妬ましい。

また、女性講師と笑いながら喋っているのも妬ましくて仕方がない。
そんな単純な嫉妬から、彼をあまり好きにはなれなかった。

しかし、一点だけ評価するところがある。
彼は周りの講師のほとんどをいじってきたが、自分だけに対しては、決していじろうとしないことである。
体育会系ならではの年上に対する敬意があるのだろうか、彼は自分を笑いのネタに使ったことは一度もなかった。
いくらボンボンのエグザイルでも、二回り以上も年上の人間には敬意を払っており、
そこは意識的にきちんと線引きしているのである。

当然と言えば当然だが、自分も中学校時代の水泳部で上下関係を学んだからよくわかる。
年上の先輩をネタにすることなんて不謹慎極まりないのである。
このくらい、中学生でも知っている常識である。
さすがのエグザイルも、そこはきちんとわきまえていたのだった。
そこだけが唯一彼を評価できる点だった。

…はずだった。その唯一の評価が覆る出来事が起こった。

数日前、天候が著しく悪く、さながら台風のような日があった。
その日は休んでいる生徒が多かったが、講師も電車の関係でいつもの半分くらいしか来ていなかった。
自分もすぐに帰ってよかったのだが、そのとき男性陣から一番人気のある女性講師も残っていたため、
彼女とのコミュニケーションを作る絶好のチャンスと考え、自分も敢えて残った。
いつもクールに振る舞ってばかりでは会話の糸口を掴めない、
ここでは二人きりのときに思い切って声をかけてみようと考えた。

彼女はハーフのような顔立ちをしており、顔だけでいうとおとぼけキャラのローラに似ている。
いつも笑顔で皆を和ませるため、、周りの職員にも人気がある。
彼女は大学でチアリーディングをしており、いつも黒髪をポニーテールのようにして後ろで結んでいる。
生徒からも人気があって何名も担任として抱えている。だから、台風の日でも出勤せざるを得ないのだ。

彼女の情報はだいたい知っている。
というのも、以前室長が講師名簿を見ている隙に背後から覗き見し、
彼女の通っている大学や生年月日、住所も覚えたのだ。
男性講師が何歳でどこの大学などまったく興味すらわかないが、女性に対しては別である。
勉強ではほとんど機能しない暗記力も、こういう時には20代に負けないくらいの力を発揮する。

その日、最後まで授業があったのはエグザイルとローラだけだった。
最後の授業をしている間、自分はひとり講師室に残って予習をする振りをしながら、
彼女に話しかけるためのネタを考えていた。
しかし、彼女はエグザイルと一緒に講師室に入って、ずっとエグザイルと喋っていたため、
結局チャンスは巡ってこなかった。

夜になると雨はほとんどやんでいたが、室長はエグザイルに、自分ら2人を車で送るよう提案した。
自分は、正直彼の車に乗りたくなどなかったが、
これまた彼女と話せるかもしれないチャンスと考え、期待に胸を膨らませた。

エグザイルは「いいっすよ」みたいな返事をして、車に乗せることを快諾した。
これは絶好の機会だ、これを逃すわけにはいかないと思った。しかし、そこで問題が起きた。
自分はかれこれ20年くらい車に乗ったことがない。

両親は車の免許を持っていなかったので、幼いころから数えるほどしか車に乗ったことないからだ。
だいたい、電車か自転車を利用していた。
最近乗った最も古い記憶は、20年くらい前に乗ったタクシーである。
そのため、車に乗る要領がいまいちわからない。

しかし、彼らの手前、ほとんど車に乗っていないことを知られたくなかった。
彼らの前では人生経験を積んだ大人でありたいのだ。

夜10時近くに、塾のシャッターを閉め、隣の駐車場に向かった。
そして、彼の車をはじめて目にしたとき、やはり戸惑ってしまった。
どういうタイミングで乗ればいいのかわからなかったのだ。

まず、彼は、車のキーをリモコンのように押すと、車のランプみたいなのが光ったが、
それが何を意味するかわからず、呆然と立ち尽くしてしまった。
車からカチャという音が聞こえたような気もしたし、それが開錠を意味するものなのかもしれない。
しかし、はっきりわからない以上、ドアを開けるわけにもいかなかった。

すると、エグザイルは「開いてるよ」と言った。
ああ、さっきのはやはり開錠の音だったのか、最近の車は鍵を使わなくてもドアを開錠するのかと、
科学の進歩はすさまじいなと思った。

そして同時に、エグザイルの言葉遣いに疑問を抱いた。
「開いてるよ」という言葉は、年上の先輩に使う言葉ではなく、同世代か年下に使う言葉である。
いわゆるタメ口である。この疑問が自分の中で膨れ上がった。
なぜ彼はタメ口なのか、二回り以上年上の人間とわかっていて彼はタメ口を使ったのか、
いやそれはない、そんなことは許されるはずがない。
そして逡巡した結果、なるほどこれはローラに向けて言ったのかと善解し、疑問に一応の決着をつけた。

そんないきなりのエグザイルのタメ口につまづいたが、いつもクールなちょい悪を振る舞う自分は、
こんなことに取り乱したことを知られてはならないと思いつつ、先輩の威厳を改めて見せつけるように、
車のドアを格好良く開けて挽回しようと試みた。
車のドアの開閉くらいはなんとなく知っているからだ。

そして、助手席のドアの取っ手に手を伸ばしたら、
「いや、後ろ行って」と言われ、さらなるショックを受けた。

また、タメ口だ。しかも、今回のは間違いなく自分に向けてだ。
おそらく、さっきのタメ口もローラではなく、自分に言っていたのだ。
しかし小心者の自分はこの2発を食らっても、すぐには信じることはできなかった。

待てよ、これは自分に対する親しみをこめて言っているに違いない、と良いほうに考えた。
しかし、体育会系なノリの彼にそんなはずはなく、自分を目下に見ている説のほうがかなり有力となり、
一気に不快になった。

しかも、ローラを助手席に乗せて、自分を後部座席に座らせるつもりなのだ。
ただでさえ家まで近いのに、これではローラと全くコミュニケーションが取れないではないか。
自分の淡い期待はまたも絶望に変わった。
ただ、いまさら乗りたくないというわけにもいかず、つつがなくドアを開け、後部座席に乗り込んだ。

そして、久々の車に3度目のショックを受けた。
車の中はテレビで見た車と同じでカーナビがあって、革張りのシートに、いまどきの音楽が流れていた。
自転車しか乗らないので、車の内部構造はまったくわからなかったが、車の中はまさに異世界だ。
若者が車にあこがれる気持ちがよくわかる。

なんだか悔しかった。
自分は車の免許すら持っていないのに、
たかだか20歳かそこらの糞ガキがこんな立派な車に毎日乗っていることに腹が立った。

自分が彼の年のときは、まだ浪人生だった。
車どころか、自転車に乗って、毎日必死にペダルをこぎながら図書館を往復し、
図書館では向かいに座って勉強している女子高生を見て、悶々としていた。
そんな時期だった。
だから車を買うなど考えたこともなかった。免許取得ですらおくびにも出たことがなかった。

しかし、彼はそんな自分の数歩先、いや何十㎞先の人生を歩んでいる。
それが悔しくて仕方がなかった。

車の中はオレンジかシトラスかわからないが、柑橘系の香りが車特有の独特の臭いを打ち消していた。
ローラも入るなり、「いい匂い」と言っていたが、自分はそうは思わなかった、いや思いたくなかった。

先のエグザイルのタメ口で一気に不快にな自分にとっては、
ローラのエグザイルに対する肯定的な発言も許さなかった。

車の中でエグザイルの言動を何度も反芻し、怒りで発狂しそうだった。
仕事の上では彼のが立場が上だが、さすがに二回り上の人間に対する態度ではないだろう。

その怒りを感じつつも、やはり小心者の自分はつい自己弁護してしまう。
ひょっとすると彼のさっきの言葉は、とっさに一番言いやすい言葉が出てしまっただけではないか、
体育会系にもかかわらず思わずタメ口になってしまったのは仕事がオフになって
つい気が抜けてしまったからではないか、
もしやエグザイルはローラの前で少し格好つけようとしただけではないか、
と自分を落ち着けるため必死の善意解釈を繰り返していた。


そしてある決意をした。
自分の不安を打ち消すために、彼が車の中で助手席のローラとの話に、
あえて後部座席から自分が入ろうと考えたのだ。
さっきは2発とも単純な一言に過ぎなかった。
だから、その2発で上下関係を判断するのは難しい。
彼と2語以上の会話をすれば上下関係がはっきりする。
そのときの彼の言葉遣いで、彼のなかでの上下関係を認識できると判断しようと試みた。

この試みには勝算があった、
2語以上の会話であれば、さすがのエグザイルもタメ口を使うことは憚られ、
おそらく敬語を使ってくるだろうと確信した。
そして、ローラの前で自分の方がエグザイルより上であることを誇示するチャンスと思った。

そして、彼とローラがくだらない話をした後、相槌をうつように「○○ですよね~」と言った。
自分はエグザイルの先の言動で侮辱されて腹が立ってしょうがないため、本来自分はタメ口でもよかった。

しかし、そこは大人の余裕と見せかけた小心者の本音で、敢えて敬語を使って接した。
ローラはきちんと「ですねー」と反応したが、なんと、エグザイルは自分の相槌を無視したのだ。

20歳そこそこの若者に45歳の人生の先輩がわざわざ相槌を打ったのに、無視しやがったのだ。
よしんば運転中だとしても、ローラとの話は漏らさず反応していたのに、
自分の初めての一言に対しては「無視」なのだ。
普段職場ではおふざけキャラとして同僚のちょっとした反応でも見逃さず拾うのに、
彼らに比べ遥か遥か先輩の敬語による相槌に無視を決めたのだ。

怒りを超えて悲しくなってしまった。

そして、同時に、もしかして彼を怒らせてしまったのではないかという不安が頭をよぎった。
もし彼が怒っているならば、これ以上の彼の話への介入はさらなる刺激となり、
本当に怒りだすかもしれない。
言葉の達者な彼が本気になって怒れば、自分は太刀打ちできない。
また、自分は車に乗せてもらっている立場上、完全に自分の分が悪い。
それを棚に上げて応戦すれば、間違いなく彼女の前で失態を晒すことになる。

普段全くコミュニケーションをとらなくクールなちょい悪を演じているのに、
ちょっと喋ったら怒られたなど、恥の上塗りである。
それだけは避けなければと思った。
そして、そう思わざるを得ない自分が情けなくなり、悔しくて悔しくて仕方がなかった。
そんなこんなで2語以上の会話を交わすという当初の目的も暗礁に乗り上げてしまった。

しかし、年上のプライドからか、本当は不安でたまらないくせに、
自分も先のエグザイルの言動で先輩の威厳を傷つけられたことは許さないぞという態度だけは示し、
ローラにだけはわかってもらおうとした。

なぜなら、もしエグザイルに自分が不快な態度が知られてケンカを売られたら敵うはずがない。
だから、エグザイルには気づかれず、心優しいローラにだけは、この男のプライドが伝わるよう、
細心の注意を払って仏頂面を決めた。

そして、自分の家の近くの信号で止まったので、彼に「この辺で大丈夫です」と伝えた。
すると、彼は「え?あー、はい」と答えて、やおらハンドルを切って車を止めた。

そのとき、彼の「え?」は明らかに不機嫌が8割入っていた。
おそらく車線変更をしなくてはならない関係で、
もう少し早めに止めるべきことを伝えなければならなかったのだ。
それなのに、直前で止めるように言った自分に呆れと怒りを感じたのだろう。

ここで反省すべきなのに、楽観主義の自分はそうは考えず、
あとのエグザイルの「はい」というどうでもよい返事に安堵してしまったのだ。

「はい」は年上に対する敬語であることから安堵したのだ。
自分に対して、一部ではあるがエグザイルが敬語を使った。
安心した、なんだ自分に対しても敬語じゃないかと思った。
もし、目下の人間なら「はい」と言わず、「うん」とか「ああ」だろう。
そこに一瞬の安堵をした。

その後、そんな一瞬の安堵も奈落の底に突き落とす出来事が起こる。
致命的なミスを犯してしまったのだ。
彼の底にくすぶっていた怒りの炉心を露呈させてしまうようなミス犯しててしまったのである。
原因は、突き詰めて言えば、人生経験不足だ。

自分は車の降り方を知らなかった。
通常車を降りるときは歩道側のドアを開けるのに、自分はそれすら知らなかった。
もちろんまったく何も知らなかったわけではない。

狭い歩道側から降りたら車のドアがガードレールに当たって傷つけてしまうかもしれないという、
さしてどうでもいいことは気づいたのだが、肝心なことはわかっていなかったのだ。

そして、彼の不機嫌を察しているにもかかわらず、
自分は先の仏頂面の延長でそんなの気にしていないような振りをしながら、
さらにタメ口で上から目線で「おーありがと」と言って、思いっきり車道側のドアを開けたのだ。

するとエグザイルに「なにしてんだ、危ねーだろ!!」といきなり怒鳴られた。
耳を疑うような怒声に一瞬心臓が止まった。

さらに、同時に車の後ろから走ってきたバイクに急ブレーキを踏ませてしまったのだ。
バイクに乗っていた人に少し驚いた顔で「大丈夫ですか?」と言われたので、
大丈夫ですと答えると、そのまま走り去って行った。

自分は彼に「すいません!」と謝ったが、もはや彼の怒りは頂点に達していた。
「ちょっと考えればわかるでしょ。なんで後ろ確認しないの?」と続けざまに怒られた。
完全にタメ口である。

しかもそれは明らかに目上の人間が使う言葉で自分を叱った。
先の一瞬の安堵は地獄の底に叩き落とされた。

恥ずかしくて憤死しそうだった。
よくよく考えなくても、自分のミスに対しての至極当然の怒りである。
あわや事故になるようなミスをしでかしたのは自分だから、怒られるのはもっともだ。

しかし、恥ずかしさはそこではない。30近く年下の男に怒られたのだ。
しかもきつい言い方で怒られたことがショックだった。
今まで逡巡していた彼の自分に対する目線は明らかになった。
彼は自分に敬意を払うつもりなぞさらさらなかったのだ。
すべてが、この怒声で改めて思い知らされた。

もう自分のミスなどどうでもよかった。
そんな彼の怒っている顔を見て、申し訳ないという気持ちは生まれなかった。

ただただ自分が情けなくて情けなくて仕方がないという気持ちと、
先輩に対するタメ口が許さないという気持ち、
そして、なにより普段クールに演じている自分が、
こんなことで怒られるのをローラに見られたことがつらかった。

そして怒られている最中、気になったのが彼女の顔である。
彼女が今どんな表情をしているか気になった。
たしかに怒られるべきミスをしてしまったのは自分である。
しかし、彼は人生の先輩に対してあるまじき怒声で怒鳴ったのであり、これは許されることではない。
そこはローラも自分に対して気の毒に思い、心配してくれるはずだと思い込んだ。
だから、彼女の顔がすごく気になった。
優しい心の持ち主の彼女なら、
自分の些細なミスよりエグザイルの無礼な態度のほうが許せないと思うはずだし、
自分に肩を持ってくれるはずだと信じた。

彼女はきっと、心配そうな顔で自分を見ているに違いないと、そう信じて、彼女の顔をちらっと見た。

この期待はあっさり崩れ去った。彼女の顔はまったくの「無表情」だった。
今まで見たことがないくらいの「無表情」だった。
いつも笑顔の彼女の無表情など、見たことがなかった。
彼女の無表情は何を意味しているのだろう。
おそらく、いや、間違いなく「怒り」を表しているのだろう。
自分に対して怒っていたのはエグザイルだけではなかったのだ。
彼女も自分のどんくささと勘違いに怒っていたということに、やっと気が付いた。

そして、うなだれながら自宅に帰った。
そもそも彼は自分に対して敬意があったからいじらなかったのではなかったのだ。
ここが勘違いの始まりだった。

彼は自分を認識していなかったのだ。
だから、いじるほど関心すらなかったのだ。無関心だったのだ。
そしてそれはローラも同じだった。

あそこの塾にいる人間みながそうなのかもしれない。
自分など、いてもいなくてもどっちでもいいのだ。
むしろいないほうがよいのだろう。

20年間、司法試験の勉強を続けたのは、皆を見返してやりたくて、女にもてたくて始めた。
しかし、20年頑張っても結果をだせなかったら、このざまである。
女にもてないどころか、関心すら寄せられない。
クールに気取っても、何の関心も抱かれなかったのだ。

そう思い、いつものように塞ぎ込んだ。

今年で45歳を迎える。4(2012年04月14日)[編集]

中学校2年生のとき、担任の先生が35歳くらいの独身の男の先生だった。
頭ははげ散らかっていたが、すごく人の好い先生で、いつも笑顔の優しい先生だった。

その先生が担任になった当初、周りの友達から
「あの先生、独身らしいぜ」と言われ、「えー、やっぱり」と咄嗟に言った覚えがある。

先生は人柄は良いものの、その容貌は決して良いものではなかった。
あの容貌では結婚できないんだろうと薄々感じていた。
そして、先生自身もからかわれることを知ってか、よくネタにしていた。
授業中に、「結婚手前までいっても、なかなかそこからが難しいんだよなあ」
と言って、皆を大爆笑させた記憶がある。
自分も当然爆笑した。
この爆笑は完全に侮蔑の感情である。

あるとき、お調子者の生徒が、先生に独身ネタでしつこく馬鹿にしていた時、
先生が怒り出したことがある。

「いい加減にしろ!」と言って、皆の前で長々と説教された。
説教の内容は決して独身ネタについてではなく、
他人を馬鹿にするようなことは言うな、という内容だった。
そして怒った後、先生は悲しい表情をしていた。
皆その顔を見て、やっぱり先生は独身であることを気にしていたんだと思い、
以来、皆そのネタに一切触れないようにした。
それに気づいてか、先生自身もその話をあまりしなくなった。

自分も先生のことをとても不憫に思った。
当時の自分の中では、30代の男性は皆結婚して子供がいるイメージがあった。
自分の親ですら30代では結婚していた。
だから、35歳くらいで独身というのは、ほんとにかわいそうだなあと勝手に心配していた。

しかし、その先生は自分が3年生になった直後に結婚し、学年便りに自分の結婚式の写真を載せていた。
「やっと結婚しました」みたいな冗談交じりのコメントが載っていたことを覚えている。

そのときも、自分の元恩師の結婚の写真を見て、おめでとうという祝福の感覚はなかった。
むしろ、こんなに年をとって結婚しても何もめでたくないだろう、と思った。
この年で結婚って嫌だなあ、自分はもっと早く結婚しよう、というのが当時の率直な感想である。
子供心にあった自分の未来予想図は20代で結婚し、子供を持つことだった。

しかし、45歳になった現在、子供心にあった未来予想図は1個も実現していない。
結婚はおろか、彼女すら、女友達すら、女性との会話すら、いまだに実現できていない。
アルバイトは始めたものの、職歴らしい職歴もない。

ちょうど10年前、自分がまさに先生と同じ35歳の頃だった。
うちの母が電話で、誰かとよもやま話をしていた。その電話の中で、
「うちの息子はまだ独身なのよねー。誰かいい人いないかしら」と半ば冗談で言った。

これを隣の部屋で聞いたとき、怒りではなく、むしろ、嬉し恥ずかしな気分になったのを覚えている。
独身と言われて、なんとなく誉められたような気分になったのだ。
まだ女性とまともに会話したことすらない自分が、
「独身」というカテゴリーに入れてもらえたことが嬉しかった。
女性経験値0の自分が、「独身」という一段上のクラスにレベルアップした感覚になったのだ。
これは今も同じで、独身と言われるとなんとなく嬉しい。

塾の生徒に自分が独身であることを告げた時、小さい子であればあるほど、素直に驚かれる。
独身だと告げた後でも、何度も生徒から「先生、独身なんですかあ?」とふざけて訊いてくる。
おそらく、彼らの心の中には中学2年当時の自分のような、侮蔑と嘲笑の感情があるのだろう。
しかし、自分は不思議と、それを侮蔑や嘲笑とはとらない。むしろ、うれしいのだ。

「独身」という言葉に優越感に浸れるのである。

中学校2年の担任の年をもう10年くらい上回ってしまった。
自分が勝手に不憫に思っていた先生ですら、35歳の時点で結婚手前までいったことがあるのだ。
あれだけ先生を馬鹿にしていた自分は35歳の時、セックスはおろか、恋愛もしたことがない。
たしかに、先生同様薄毛で、容貌も決して良いものではなかったが、45歳の今も変わっていない。

初恋すらまだなのだ。
しかも、先生を10歳上回った時点で、独身と言われて優越感に浸っているようでは先が思いやられる。

後悔先に立たず。後悔後を絶たず。5(2012年04月24日)[編集]

新たな仕事を探さないといけなくなった。シフトが入ってないのだ。

塾のシフトは、毎月15日までに各自翌月の予定のうち、都合の悪い日を表に記入し、サインをする。
そして、室長が表を見て、25日までにシフトを決めていく。
講師は自分以外は学生だが、それぞれ予定があるようで、×が結構な数をつけられている。
NGな日には×を入れるのだ。

自分は常に真っ白である。特に予定などない。
シフトがなくても、急な呼び出しがあればすぐ応じて向かえる。
家にしかいないからだ。

今月はGWの関係もあるのかいつもより1日早く出た。
来月のシフトは週1しか入ってなかった。
週1回では4時間入れても1か月で1万ちょっとだ。これでは生活できない。

室長に異議を申し立てようと思ったが、返す刀でクビを宣告されるのが怖くて、
結局何も聞けずに終わってしまった。
ほかの講師たちは×がいっぱいついているのに、その隙間を縫ってシフトを入れている。
7時以降×を入れているにもかかわらず、7時までの授業を入れられている講師もいる。

なのに、自分は週1なのだ。ということは何らかの因果関係があって、このシフトなのだ。

しかし、因果関係のもととなる原因が何なのかは、わかるようでわからない。
原因は全て自分が予測したものに過ぎないため、因果関係に明確な論拠がないのだ。
明確にいえるのは、自分またはそれ以外に何らかの「原因」があって、
週1のシフトという「結果」が生じたということだけだ。
これが自分で簡単に修正できる原因ならば、すぐに修正して臨み、結果を変えることができよう。
しかし、およそ修正不可能な重大な原因であれば、何をやっても結果は同じだろう。

この原因を室長に直接聞くこともできるが、上記の理由でなかなか聞けない。
もし、修正不可能な原因を突き付けられ、
これが修正できなければ君はクビだといわれることも考慮に入れれば、すぐに聞くことは藪蛇だろう。
しかし、原因は自分にあるのか、それとも新たなバイトが入ってくる等の政策的判断か、これだけでも知りたい。

4月のシフトごときでこんなに動揺してはいけないと思いつつ、やはり小心者の自分は気になる。
そもそも、このシフト表は、外の皆が見える場所に張り出されており、あまり好きではない。
シフト表を見ると、別な理由で「嫌な気持ち」になるのだ。

学生講師たちが、アルバイトとサークル、学校とのバランスを考えてシフトを組んでいる。
こういうのを目の当たりにすると、いろいろ想像し、辛くなるのだ。
学業優先とは言っても、アルバイトでお金を稼いで、サークル活動や飲み会、デートや旅行など、
学生らしい遊びも同時にこなして学生生活を謳歌している。
塾では生徒に偉そうに勉強しろと言っているくせに、
自分は旅行やコンパなどにうつつを抜かしているのである。

自分ももっと楽をしていれば今の人生がどんなにか変わっただろうと、つい思ってしまう。
学生時代から10年くらいは、まさに自習室一色だった。
「自習室と自宅の往復」だけに費やしたのである。

明けても暮れても自習室ばかりだった。
いつも大きなリュックに六法や教科書をはち切れんばかりに収めていた。
朝、択一の過去問を持っていくかどうかで逡巡し、
切れたカバンの取っ手をガムテープと安全ピンでぐるぐる巻きにしながら、
登山家か通信兵みたいな恰好で出かけた。

昼間は歩いて5分ほどの小さな公園で、夏は親が作ったおにぎり、
冬はコンビニの肉まんとピザまんを交互に食べていた。
飲み物は100円自販機で買うジョージアのコーヒーである。

そんな生活では飲み会なぞ行かなかったし、いまだ居酒屋に行ったことすらない。
自習室の窓から見える本屋と定食屋の看板を思い出すと、今でも気が滅入る。
結局、その後も似たような生活を今まで続けてきたのだ。
択一に途中で合格しなければ、未練もなく止められただろう。
中途半端に択一に合格したがために、何年も費やすことになったのである。
択一合格というプライドだけが増幅し、結局、何も財産は残らなかったのである。

塾でも、1人、孤高の人を演じている。
ほかの大学生のガキより一段上にいる、そんな孤高の人を演じていたいのだ。
ただ、プライドだけでは演じきれない。
周りの学生講師たちが話をすれば、聞き耳立ててしまう。
講師の週末の予定なども、喋ったこともないのに、よく知っている。
スカート姿の女性講師が屈めば、その隙にスカートの谷間を覗き込んでしまう。
ほとんど見えないのだが、つい反射的に覗く癖がついてしまったのだ。

こういう姿がばれたのだろうか、だから、シフトを入れてもらえなくなってしまったのだろうか。
想像が想像を呼び気が気でならなくなる。

転落する人生4(2012年04月28日)[編集]

仕事を探す関係で何通も履歴書を書いている。
返事があれば良い方で、ほとんど返事すらない。
ただただ写真と履歴書が無駄になっていくだけである。

履歴書を書いていて痛感したのが、他人に言える趣味や特技が一切ないことだ。
ネットが趣味といえば趣味だが、なんとなくイメージが悪い。
そのため、履歴書に書くのは気が引けてしまう。

たしかにネットが趣味と言っても内実は単なるズリネタ探しだし、現在はそれすらしていない。
本来は旅行や英会話といった趣味らしい趣味をかくのが筋なのだろう。
しかし、高校3年の修学旅行以来、旅行も行ったことがない。
ここ20年東京から出たことすらないのだ。
また、英会話なぞ、外人と会話したこともないのに書けるわけがない。

こうして考えると、自分は人生のほとんどを受験勉強に費やしてきたことになる。
高校卒業してから受験勉強以外何もしていない。

昔、野村克也が「生涯一捕手」と言っていたが、自分は差し詰め「生涯一受験生」だろう。
26年という記録的な現役期間を過ごしたその野村でさえ、45歳で引退しているのに、
自分は26年間好きでもない受験勉強に費やした結果、いまだ就職活動中である。

そして野村は26年間の実績を買われ、監督を歴任するが、自分は何一つ今に生きていない。
就職するのすらままならないのである。
野村と比較するのはおこがましいが、人生とは何と皮肉なのだろうと思ってしまう。

狭隘な自尊心6(2012年04月30日)[編集]

職場で歓送迎会があったそうだ。
今年の3月で大学を卒業し、塾を辞めた講師と、
新たに入った研修生の歓送迎会を近くのイタリアン風居酒屋で行ったそうである。

自分は歓送迎会に参加できなかった。何の連絡も招待もなかったため、
参加できなかったのである。
自分が歓送迎会があったことを初めて知ったのは事務員から会費の払い戻しを受けたときである。
塾では給料日にイベントの費用とするため、500円の会費を集めている。
イベントのたびにお金を徴収するのは学生にとっては酷だとの配慮から、
財布に余裕のある給料日にお金を徴収しているのだ。

なるほど、この塾はアットホームが売りであり、募集広告にも懇親会があると謳っていた。
アルバイトをしながらサークル気分も味わえるのが謳い文句である。
自分は今までそういったイベントとは無縁の生活を送っていた。いや、送らざるを得なかった。
イベントに参加したくてもそういうチャンスが皆無だったのだ。

だから、こういうイベントがある組織に参加するということは自分にとっては絶好のチャンスだった。
そこで女子と会話ができるかもしれない。
もしかすると、女子と無縁の生活に終止符を打てるかもしれないと期待をした。
いや、それ以上のことを想像し、期待をしていた。

なのに、自分もイベントに参加できると思い会費を納めたのに、何の連絡もなかった。
もしかすると自分が生活苦にあることを慮って敢えて誘わなかったのかもしれない。
しかし、自分も2月に勤め始めたのだから、この歓送迎会において歓迎される側に入っていいはずである。
この仕事を始めてから初めての歓送迎会なのだ。
生活費に顧慮して歓迎しないという理屈は、いかにもおかしい。
歓迎される地位に立つ必要性と相当性は十分ある。

よしんば時期が外れて歓迎される地位になかったとしても、会費を納めているのだから、
少なくともイベントに参加できる権利はあったはずである。
なのに何の連絡もなく、会に欠席した人として扱われるのは背理である。

自分が歓送迎会の参加の張り紙を見落としていたり、
または聞き落としがあって参加できなかったのなら自己責任といえよう。
たしかに、お店の名前を聞いて、そんな名前を講師室の会話の中でちらほらあった記憶はある。
しかし、自分に対しては誘いどころか会話すら一切なかったし、張り紙もなかった。
自分に歓送迎会があるのですが、いかがですか?
という一言があってもいいのはずなのに、一切なかった。
もしあれば当日でも参加していた。

参加の手続きが何ら保障されず、一方的に欠席扱いとされるのは心外である。
どうせなら自分に知られず、徹底的に隠れてやってほしかった。
終わった後に知らされるなんて、心外を超えて怒り心頭である。
こういうイベントに参加したかったからなおさらだ。

飲み会や合コンなどのイベントには特別な思いがある。
今まで居酒屋に入ったこともないし、飲み会を一度もやったことがない。
テレビドラマでやっているようなコンパには尋常じゃない憧れがある。
飲み会の席で違う自分を出せたかもしれない。
自分の殻を破れたかもしれない。
そういう思いがあるからイベントに参加したいのである。

しかも普段話さない女性講師と一緒に肩を並べて話ができれば一石二鳥である。
何十年も女子と会話していない期間に終止符を打てるのだ。
何より、こういうイベントで自分のイメージアップを図れるチャンスなのだ。
年が離れているのでなかなか話しかけにくかったが、
酒の席では器の広い人だと思われたかもしれない。
自分のクールでちょい悪なイメージからクールで素敵な人というイメージに変わったかもしれない。
そう思われたいから、こういうイベントに参加したいのだ。

改めて言うが、イベントに参加できれば薄明りの望みはあった。
仕事での自分の評価についても聞けたかもしれない。
室長に仕事に対するアピールをできたかもしれない。
講師になれるチャンスを掴めたかもしれない。

いや、何より女性講師が自分の隠れた魅力に気が付くかもしれない。
それがきっかけで友達になれるかもしれない。彼女ができるかもしれない。

そう思っていたのに、この仕打ちだ。

4月に新しく入った研修生はもうすでに講師の間に入って馴染んでいる。
歓迎されたんだし、当然である。自分は変わらず孤高の人である。
自ら孤高の人を貫いているとはいえ、この状況はいささか不安である。
5月からシフトも減ってしまうし、今後、講師のチャンスを掴むことはいっそう難しくなる。

事務員から会費の返還を受けるとき、茶封筒に小さく自分の名前と金額が鉛筆書きされていた。
そして、事務員の手元にはもう一通の茶封筒があった。
おそらく、自分以外に会費の返還を受ける人物がいるのだろう。
気にはなったが、歓送迎会があることを知らされなかったショックで、
その時は誰だか判別することができなかった。

当然誰であるか気になったので、用もなく受付のあたりをうろうろした。
そして、事務員のいない隙に事務机の引き出しを覗き見した。
するとその茶封筒に薄く鉛筆書きしてある人物の名前が誰であるかわかった。

最近講師になったばかりの男性である。彼の名前が茶封筒に鉛筆で薄書きしてあった。
彼も歓送迎会に呼ばれなかったのである。

彼は大学生で、2月にこの仕事を始め、4月に講師になったばかりである。
とすれば、今回の歓送迎会において、
彼も自分同様歓迎される地位にある必要性と相当性はあるはずである。
彼も自分と同じように歓送迎会への参加の正当性を主張できるのだ。

そう、彼も呼ばれなかったのだ。彼も自分と同じ仕打ちを受けたのだ。
こういうひどい仕打ちを彼に対してもするのか、この塾はそんなひどいことをするのかと憤慨した。

しかし同時に、
「良かった、誘われなかったのは自分だけではなかったのか、彼も誘われなかったのか」
と、一瞬ほっとしてしまった。

そのため、彼とはほとんど喋ったことがなかったが、急に親近感が湧いてしまった。
共産主義国が仮想敵国を作って一致団結するのと同じ感覚だ。
自分も塾に対して憤慨する気持ちがあるが、きっと彼も同じ思いを塾に対して抱くだろう。

なぜ歓送迎会に参加できなかったのか、彼も同じ疑念に苛まれるだろう。
自分と一緒に室長に詰め寄ることも考えられよう。
ただ、自分は彼の二回りも上の大人である。

一緒になって塾を仮想敵国に作り上げようというのでは、あまりに幼稚である。
ここは彼に同調せず、むしろ彼を勇気づけてやらなければならない。
この事件での一番の理解者は、同じ仕打ちを受けた自分しかいない。
二回り以上年上の自分が、彼の怒りを諌めて勇気づけてやらなければならないのだ。

彼にどう伝えてやろうか思案した。

「俺も誘われなかったから大丈夫だ、お前の気持ちは痛いほどよくわかるが、
  怒りの矛先を室長に向けてはならない。ここはぐっと堪えるんだ。」

と伝えてやろうか、それとも、

「自分も数多の辛い体験をしてきた、こんなことは些細なことだ、気にするな」と伝えてやろうか、いろいろ考えた。

こう考えるうちに、自分の気分も楽になったことに気が付いた。
彼を慰め、勇気づける方法を考えることで、まさに自分自身が慰められていたのだ。
むしろ、最初から自分の傷を癒す目的で茶封筒にある名前を覗き見たのかもしれない。

しかし、もはやそんなことはどうでもいいのだ。
こういうネガティブな体験でも、それが1人だけではないと思うと心理的負担がだいぶ違う。
ネガティブな体験を、誰かと共有し合えばかなり楽になるのだ。
そして、心理的負担が軽くなった分、親近感も湧いてくる。
そういう意味で彼に感謝しなくてはならないのかもしれない。

歓送迎会に意図的に呼ばなかったのは確かにひどいことである、
だが、そういうひどい体験を通じて、彼と「一緒に乗り切ろう、一緒にがんばろう」と団結できれば、
自分の受けた仕打ちなど、痛くもかゆくもなくなる。
むしろそれによるプラスの効果の方が大きいのだ。
彼と友達になることができれば、今の孤独から少し解放されるかもしれない。
年は離れているから友達は難しいかもしれないが、やっと普通に話せる同僚ができるかもしれない。

自分が受験勉強で辛くて辛くて仕方がなかったのは、
受験の苦しみを共有できる友達が一人もいなかったことも原因の一つだ。
これが解消できていれば、自分の人生も大きく違っていたかもしれない。
そんな風に彼に同情することで、自分のショックを和らげていた。
しかし、そんな同情も見当はずれだったことを思い知らされた。

彼のことが急に気になり、彼の5月のシフトがどうなっているか確認した。
自分と同じようにシフトを入れてもらえないのかと心配したのだ。
しかし、彼は自分と違い5月もきっちりシフトが入っていた。
それを見て、ほっとした反面、
「シフトは入れてもらえてるのか、そこは自分と一緒じゃないんだな」とちょっと落胆した。

が、その後にその落胆を上回る強烈な衝撃を受ける。
ふと4月の彼のシフト表をめくった。
歓送迎会の日、彼のシフトは前後二日にわたり丁寧に×がつけられ、
横に小さく「新歓合宿」と書かれていたのだ。
そう、彼は歓送迎会の日、新歓合宿だったのだ。

そもそも彼は呼ばれなかったわけではなかったのだ。
サークル活動の新歓合宿とバッティングしたため、サークルを優先したのだ。
単純に考えればすぐ気が付くことなのに、まったく気が付かなかった。
強制参加ではないのだから、いくら歓迎される立場にあったとしても欠席するのは当人の自由である。
そこまで考えなくとも、最初からシフトを確認すれば容易にわかることだ。

しかし全く気が付かなかった。てっきり彼も自分と同じ仕打ちを受けたと思い込んでしまった。
そして丸2日間、彼を勝手に同情していた。その2日間が走馬灯のように自分の中を駆け巡った。

会費の返還を受けたとき、会に参加できなかった怒涛の憤慨が沸き起こったこと、
受付で彼の名前を発見したときは、屈折した安堵が自分を癒したこと、
そして2日間、彼に対していらぬ同情をして自分を慰めていたことが自分の中をぐるぐる駆け巡った。
しかし、その2日間、彼が自ら欠席していたかもしれないという疑問はいっさい沸かなかった。

自分の狭隘な自尊心がその疑問を覆い隠したのだ。

自分は今この仕事以外何もしていない。だからこの仕事が今の自分の生活の中心である。
しかし、他の皆はそんなことはない。仕事以外に学校に通ったり、サークル活動に励んでいるのだ。

彼は自分と同じ2月に仕事を始めてもう講師である。
そんな奴が講師になれて、自分はまだ研修中で、しかもシフトすら入れてもらえない。
その現状が改めて自分に突き刺さる。
むしろ、切羽詰まった現状が、こんな激しい思い込みをさせたのかもしれない。

いや、そうではない。現状のせいではない。自分の捻くれた自尊心がそうさせたのだろう。
ただ、自分「だけ」を呼ばなかった理由を知りたい。これだけは不思議で仕方がない。

もし、自分が他の講師のなかでも浮いていると思われたのであれば、
むしろ積極的にイベントに参加させて打ち解けさせるべきだろう。
なぜ、こんな姑息な手段で参加させようとしなかったのか、そこが本当に不思議である。

あの頃にもどりたい(2012年05月10日)[編集]

もう、ここ30年も「幸せ」や「喜び」を感じたことがない。
ずっと、無駄に時間を過ごしてきた。
自分の幸せや楽しさとは何か?それは、そんなに難しいものではない。
実に簡単なものなのだ。

青春を謳歌したい。それだけなのだ。よく夢に出てくる風景がある。

アラ50の人間が言うと笑われるかもしれないが、自分の夢はこんな感じだ。
学校の体育祭や文化祭で友達と一緒に何かを頑張ったり、作り上げたり、
そこで、友達と一緒に笑ったり、泣いたり。
友達同士で旅行に行って、海や川で思いっきりはしゃいだり。
自分はそんなことで幸せを感じるのだ。
そんな安っぽい青春ドラマみたいなもので究極の幸せを感じるのだ。

残念ながらそういう青春は経験できなかった。
高校時代は、男子校で進学校だったので、そういう経験は皆無だった。
結局、ずっと教科書との毎日を送っていた。
合格すれば、きっとそういう思いができるだろう、と夢見て勉強を続けてきた。
合格すれば、自分の感じる幸せを実現できるだろうと思って、勉強を続けてきた。

しかし、もうできない。もう遅いのだ。
昔は夢の中でも、自分は体育祭や文化祭で皆に混ざって、一緒に泣き笑いしてはしゃいでいた。
朝起きると現実を知り、愕然とした。

最近はそうではない。夢の中では、自分は楽しんでいる人間を遠目に見ているだけだ。
夢の中でも現実と同じ、中に加わることもできなくなった。

50歳で何かの試験に合格したり、目標に到達することができたとしても、
その時から自分の青春を謳歌しようなんて無理だろう。
その怨嗟が、30年間、何度も繰り返されて夢に出てくる。

15歳ですでに人生が終わってしまったのだ。もし可能ならあの頃に戻りたい。
あの頃に戻って、自分の夢をかなえたい。自分の夢をかなえて、スタートラインに立ちたい。
他の多くの人間と一緒に、人生のスタートラインに立ちたいと思う。

先週、某運送会社で荷物の仕分け作業の短期の仕事を何回かした。日給は9500円だ。
時間帯は夜の10時から朝の8時までで、休憩時間は2時間。

仕事の内容はきつかったが、それ以上にきつかったのが周りの雰囲気だ。
塾と違い、中高年層も結構多く、その雰囲気は異様だった。
男だらけで、何かこう異様な雰囲気なのだ。女性がいないと、こうなってしまうのか。

自分が初めて男子校である高校に行った時の感覚を思い出した。
そうだ、こんな感じだ。進学校だったが、なんとなく雰囲気が似ている。

そういう意味で、まさに底辺の仕事だった。
人生のピークを終わらせてしまった後悔と諦観の渦が職場全体に渦巻いている。
そんな感じだ。

しかし、今は続けてできる仕事がないから仕方なくやるしかない。
こうやって、また人生を無駄に使ってしまうのか。

あの頃にもどりたい2(2012年05月14日)[編集]

仕分けの仕事は、苦痛である。苦痛の原因の一つに時間が過ぎるのがとても遅いことがある。
塾の仕事とは比べ物にならないくらい、時間が過ぎるのが遅い。

そんな仕分けの仕事中、ずっと同じフレーズが頭の中をぐるぐる廻っている。
フレーズといっても、音楽の一部だったり、言葉ではない。
同じ思考回路というか、同じ思考パターンが何度も何度も頭の中を廻っているのだ。

それは、自分の人生の敗因を探り、ひたすら後悔し続けるという思考パターンである。
人生の敗因を探り後悔する思考パターンが、仕事の最中ずっと絶え間なく、
まさにヘビーローテーションで頭を廻っている。
本当に嫌になる。

小学生のころ、父によく言われた。
勉強をきちんとしていい大学に行かないと将来ろくな仕事がないぞと。
父は幼少時代とても貧乏で、疎開していた頃は食うものも無く貧しい思いをしたが、
勉強だけは頑張って諦めず続けてきたから大学にも行けたのだと。

言われる都度、「あー、はいはい。わかってるよ!」と、反発した記憶がある。
「わかってるよ」というのは、反発しつつも、父の言い分についてはどこかで納得していたためである。

当時は偏差値全盛時代で、大学の偏差値が年収に直結していた時代である。
東大卒=官僚=田園調布に住むという構図が出来上がっていたのだ。
その当時は、子供でも良い大学に行かなくては人生とんでもないことになることくらいなんとなく認識していた。

でも、実際たいして勉強はしていなかった。
塾には通っていたが、宿題もいつもサボって怒られていた。
しかし、このままずっと勉強しないでいると、将来とんでもないことになるという恐怖感はあった。
だから、いつかはきちんと勉強しなくちゃいけないとは思っていた。
勉強は嫌で嫌で仕方ないけど、勉強しないといけないという認識は、恐怖感として持っていた。
父の忠言は、恐怖感という形ではあるが、意識の根底に刷り込まれていたのだ。
しかしそれが妙な倫理観となり、その後の様々な場面での自分へのブレーキとなった。

高校時代、アルバイトをしたり、バイクの免許を取ったりするのが流行ったが、
これらに嵌ると将来とんでもないことになるという恐怖感があり、一切しなかった。
自分と同じマンションに住んでいた中学校時代からの友人がいた。
彼は、無類のバイク好きだった。
アルバイト代でバイクの免許を取り、バイクで北海道まで行ったことなどをよく自慢していた。
彼は当初から大学に行くことを諦めており、専ら高校生活をアルバイトに費やしていた。
よくアルバイトで月10万稼いだとか自慢していた。
それを聞いて、「すごいね」と言いつつ、こいつは将来肉体労働しかないなと侮蔑していた。

彼とは高校卒業後連絡を取っていないため、どうなったかは知らない。
しかし、45歳の現在、自分は16歳の頃の彼ほど稼いでもいない。
月10万以上もらったことなど、今までの人生で一度もない。
16歳の高校生がすでに到達した収入を45歳になってもいまだ到達していないのだ。
今の自分は当時侮蔑していた彼より稼いでいないのだ。

自分はこんな無様になるために勉強してきたのではない。
4浪もして東大医学部をめざし、20年もかけて法曹を目指してきたのではないのだ。
朝から晩まで自習室にこもり、外の天気もわからない中で勉強してきたのではないのだ。
街を歩くカップルを見て悶絶しながら、嫌で嫌で仕方がない勉強を続けてきたのではないのだ。

女にもて、高収入で、周りから尊敬される仕事をしたい。そのために勉強してきた。
人生でもっとも貴重の大半を勉強に費やしたのは、そういう仕事をしたいから勉強してきたのだ。

昔は「営業職」が自分にとっての最底辺職だった。
他人に頭を下げて愛想笑いをするなんて絶対に嫌だ。
そういう仕事をせずに済むためには勉強するしかないと思って、勉強していた。

しかし、現在ハローワークでも営業の仕事は、この年齢で未経験では全く声もかからない。
荷物の仕分け作業で生計を立てるなど、30年の受験勉強中、思いついたことすらなかった。
最底辺と思っていた仕事を凌駕するさらに底辺の仕事など、考えたこともなかった。

どうせなら若いうちに死ぬほど遊び、やりたいことをやっておけばよかった。
その結果、この仕事をするなら、まだ諦めもついただろう。
このままでは死ぬに死にきれない。
こういう思考パターンが仕事中、何度も何度も頭を廻っている。

仕分けの仕事は単純である。
ローラー式のコンベアから次々流れてくる荷物を種類ごとにコンテナに分ける。
荷物が来ない間はコンベアを見て、荷物がこないかどうかを見守る。
それだけである。

しかし、肉体的侵襲はハンパない。荷物は外から重さがわからない。
ゴルフバッグが続くと、腰が持たなくなる。
監視の目があるため、おちおち休んでもいられない。

配送場は深夜でもうるさい。
金属のこすれあうキーキーと乾いた音が耳をつんざく。
あちこち錆びているコンベアのローラーの悲鳴だ。
ローラーと自分の人生の後悔の悲鳴が間断なく襲ってくる。
この年齢で、肉体労働と深夜勤務のコンボは予想以上に辛い。

大学生を見て鬱になる。3(2012年05月19日)[編集]

仕分けの仕事と塾の仕事を比べれば、やはり塾の方が良い。
肉体的疲労が少ないのもあるが、なにより塾には女性がいるのだ。
職場に女性がいる点で塾のアドバンテージは大きい。

コミュニケーションをとったことはないが、女性がいるだけで全然違うのである。
もし高校も共学に行っていれば、このように毎日楽しかったのかもしれない。

塾の女性とは女性講師であり、彼女らは女子大生である。
自分より二回り以上年下だが、あえて「女性」と呼んでいる。
「女子」と表現すると違和感があるため、女性と言っている。

以前も同じことを書いたが、彼女らには大人のイメージがあるから、
女性と言った方がしっくりくるのだ。だから「女子」ではなく、「女性」なのだ。
塾の講師室では、男女ともに良く喋る。

自分はこの塾に来るまで、女性が男相手にこんなにも喋るとは思っていなかった。
自分が女子といた最新の記憶は中学時代であるが、
男女同士で賑やかに喋っている姿を見たことがない。
テレビや街中でもよく喋る女性を見かけるが、
生でこんなにまじまじと見たのは初めてである。

自分の中学校は女子の数が少なく、男女比2:1くらいだった。
また、女子と仲良くすると冷やかされる風潮があったせいか、
男子と女子は一線を置いていた。
男子は男子同士で固まり、女子は女子同士でグループを作っていた。

そんななかで女子と付き合っている男はいたが、よく冷やかされてた。
自分もどちらかというと冷やかす側にいて、男友達と一緒に、付き合っている男女を見つけては、
後ろを走って追っかけたりして、よくからかっていた。
当時の自分はまだ幼すぎて、女子のこともよくわかっていなかった。
このことは今も後悔している。

なぜ、自分も一歩踏み出して女子に近づかなかったのかと。
爾来、女友達も一人もいないし、まともに会話したこともないままである。
そして40代になった今でも、女子に対しては中学時代のそんなイメージを引き摺っている。

しかし、塾の女性講師は、よく喋る。
自分は孤高の人を演じているため興味のない振りをしているが、
会話の内容は常に聞き耳を立てて聞いている。
特に男性講師と女性講師との会話のときは聞き漏らさず、すべて聞いている。

彼女らの好きな食べ物や、学校での専攻、誕生日などほとんど知っている。
直接会話したことはないが、彼女らの友人の誕生日パーティーをやった場所や、
旅行先で泊まったホテルの名前、家族構成も知っている。

これらは、ちょっときいただけでも覚えてしまう。
直接会話したことがないにもかかわらず、彼女らの会話の内容ならすぐ覚えてしまうのだ。
司法試験の勉強で、定義や論証ブロックを何べん読んでも頭に入らなかったのに、
こと彼女らに関しては脈絡のないフレーズでもすっと覚えてしまう。

しかし、彼女らの会話を聞くと、複雑な気持ちになる。
自分の理想とする女子に比べ恥じらいがないというか、良く言えば成熟しているのだ。
自分の理想とする女子よりはるか大人なのだ。

外見も中身も、彼女らはやっぱり「女子」ではなく「女性」なのだ。

彼女らは何でもあけすけに喋る。
男性との間の会話もよどみなく世間話をし、自分の感じたことを素直に語っている。

自分の中の女子は違う。
自分の中の女子、つまり自分が理想とする女子は、男子と喋る時も緊張してうまく喋れず、
仮に喋れたとしても嬉し恥ずかしな感じで喋る女子である。
これは決して奥ゆかしい女子を求めているのではない。
派手で遊び好きでも、男性の前ではつい緊張してしまう。
大人の化粧をしていても、男性と喋るときはドキドキしてうまく喋れない。
そんな女子が良いのだ。

彼女らは違う。
彼女らは男性と話すときでも、昨日起こった出来事などぺらぺらと話す。
彼女らは男性と会話しても特段の抵抗を感じない。

すでに男性との会話に対する免疫を持っているのだ。
いや、男性そのものに対する免疫が出来ているのだ。
さらにすでに男性への態度も確立している。
男女間おける自分の立ち位置、スタンスともに出来上がっているのだ。
自分が想像していた女子と大きく違う。

自分など、いまだに女子が出てくる夢を見るだけで、朝、頭がぼーっとしてしまう。
女子と会話した夢を見た時など、起きた後も数時間ドキドキが止まらなくなる。
そして、その日はそのことで頭がいっぱいになってしまう。

そんな彼女らの会話に聞き耳を立てるのは、単なる性的な興味だけではない。
自分の理想を捨てきれないからだ。

彼女らは大人の女性でも、きっと女子っぽいところがあるはずだ、
男性に聞きにくい素朴な疑問があって、
それを聞けずに困っているはずに違いないと、そう思い込んで聞き耳を立てている。

そして、そばにいる自分に対して、おそるおそる「こんなとき、男性はどう思うんですか?」
と話しかけてくれてくれるに違いないと期待している。
いまだ会話すらしたことはないが、この期待は捨てていない。

いつも家に帰ると、職場で話していた彼女らの会話を再現し、
咄嗟に質問された時の回答を自分なりにシミュレーションをする。
自分ならこういうアドバイスをするとか、こういう態度で話すとかのシミュレーションをする。
特に男性講師が女性講師と話していた時は、自分が男だったらこう答えるとかのシミュレーションもする。
しかし、いまだに会話すら実現していない。

理想への道は遠い。

何もない(2012年07月03日)[編集]

 
塾をクビになり、仕分けの仕事を何度かやったが、現状は変わらない。
資金に余裕がないため、そうそう遠回りもしてられない。

このブログもマンガ喫茶から投稿しているが、
マンガ喫茶は主にハローワーク代わりに使っているので、ブログの更新もままならない。
いつも中途半端に入力しては諦めを繰り返し、だんだん面倒になり、
ついには更新すらする気が起こらなくなった。

塾の仕事に未練があるため、せっせと応募を繰り返しているものの、
やはり以前のような環境の塾は45の人間には全くない。
あれが奇跡だったのだ。今となれば痛感する。

塾でクビを宣告されたのは、室長ではなく本部の人間だった。
そこの塾ではクビが初めてだそうで、室長がわざわざ呼んだのだろう。
本部の人間は自分より30後半くらいの若造だった。
年は若くとも社会経験豊富そうな、そんな感じの若造だった。

そんな若造からクビを宣告された。
クビ宣告する当初は、一見申し訳なさそうな顔をしていた。
しかし、途中から反論は一切許さないというような実にふてぶてしい顔となり、
さらに後半には、むしろ反論ウェルカムな得意げな表情となっていた。
自分はクビを言い渡されたが、結局何も言えなかった。

若造は、自分が労働契約法違反やらなんやらを言ってくるに違いないと思ったのか、
反論を封じるため、採用面接のときの資料みたいなものももってきていた。
しかし、終始その資料に触れることはなかった。
資料を使わずとも、こんなヤツ一捻りでつぶしてやると思ったのだろう。

そして、自分は何も言わなかった。完全に若造の雰囲気にのまれてしまったのだ。
自分は司法試験の受験生だったということで、議論は強いと自負していた。
だから周りから一目置かれていていると思っていた。
周りが声をかけてこないのも、自分にやりこめられるのを警戒しているのだと思っていた。
いつも周りの会話を盗み聞きしては、自分ならこう返すのになと考えながら、シミュレーションしてきた。
しかし、そんなシミュレーションはてんで役に立たなかった。
反論が怖くて何も言えなかった。

そして、状況の悪いことに、クビを宣告されたのは少人数用の教室である。
薄い壁一枚隔てているが、ほかの講師もいた。
そんな状況で反論すれば、ほかの講師も覗きに来るだろう。
そして裏で嘲笑するだろう。

今考えれば絶対ないと思うが、自分のした反論に対し、
ほかの講師も加勢して反論してきたらどうしようという不安もあった。
少なくとも彼らには格好をつけたかった。狭隘な自尊心がここでも自分を追い込んだ。

そして何もなくなった。

塾をクビになってから[編集]

変化の年・・・ 2014年01月11日(土)[編集]

ずっと更新ができなかった。しようと思えばできたのだが、ずっとそのままにしていた。

日雇いバイトが朝早いため、ブログを書く余裕がなかったことと、ネタがあっても、ブログがだんだん注目されるにつれ、ちゃんと推敲しないといけなくなり、面倒になってきたのも理由である。近況は、現在実家にいて短期のバイトを繰り返している。塾をクビになった後、日雇いバイトを繰り返していたが、それだけでは生活ができなくなったため、紆余曲折があった後、親元に再び舞い戻ってきた。

ただ、この1年は自分の人生にとって大きな変化をもたらした年であった。今までの人生で初体験をいくつも経験した。

  • 原付の免許を取ったこと。
  • 原付を購入したこと。
  • 原付で遠出をしたこと。
  • 初心者講習を受けたこと。

振り返ればすべて原付絡みではあるが、大きな変化のあった年であった。まず、なぜ原付の免許を取ろうとしたのか?

それは、短期のバイトや派遣の登録でも履歴書と身分証明の両方を要求する所があり、そのとき保険証だと嫌な顔をされるため、身分証明を取得することの必要性を強く感じた。そして、写真入りの身分証明と言えば、やはり運転免許証であり、運転免許証と言えば車の免許である。車の免許は、教習所に通う費用と時間を考えると、無理なのでいったんは諦めていた。ただ、原付は1回の試験で簡単に取得できることを思い出し、安易に取れるものと思い、挑戦した。原付の免許程度であれば一発で取れるとタカをくくっていたが、実際はそんなことはなかった。4回も落ちてしまった。

原付の免許ごときに4浪したのである。10代の若者が大勢1回で合格しているなかで46歳の自分が4回も落ちたことは屈辱に他ならなかった。試験場も、初めて行ったときは迷って遠回りしたが、どうせ1回しか来ないんだし、道を覚える必要もないとおもっていたが、まさか5回も行くことになるとは思わなかった。結局、駅から試験場までの近道まで覚えてしまった。

1回目は駅前の講習を受けただけで本当に何もやらずに受けたため、箸にも棒にもかからない点で落っこちた。しかし、それなりにショックを受けた。

その帰り道、昔、この免許は底辺の不良がとるもんだ、人生エンジョイしている馬鹿者がとる試験だと思っていたことを思い出した。以前、自分が留年してた当時、大学の教室前の廊下で、アホそうな大学生が、ピザ屋のバイトのために原付免許を受けたが、一発で受かったことを同じくアホそうな顔の大学生に自慢したら、「今頃原付かよ」と馬鹿にされていた。

そう、アホでも通る試験なのである。そんな試験に、なぜ自分は落ちるのか。そういう意味で勉強せずに受けたくせにショックを受けていた。そのため、2回目3回目は多少なり勉強した。しかし、2回目も3回目もダメだった。東大司法試験を目指していた自分が、司法試験択一試験まで通った自分が、原付ごときに落ちるなんて、弘法も筆の誤りとでもいうのか、こんなこともあるもんだなと思った。そして、そもそもこんな試験、身分証明を作ることを目的として受けただけで、合格してもさしてうれしくはない、だから、不合格でもなんてことはないと、自分に言い聞かせて慰めていた。

ただ、やはり悔しかった。近道のはずの駅まで道がとても遠く感じた。そして、4回目の試験前には、ちゃんと勉強した。なので、さすがに受かるだろうと思った。合格発表がアナウンスされる会場は、オッサンもいたが、ほとんど若者ばかりである。自分の隣にいた若者は、知性的とは程遠く、ボクシングの亀田みたいなヤンキー少年だった。自分にとって、この会場にこんなやつと一緒にいることだけでも屈辱だった。

そして自信のあった4回目も落ちていた。隣の亀田は合格していた。しかし彼はさして喜んでいなかった。書類を丸めて手に持ち、口をへの字にしたまま合格者列に並んでいた。おそらく原付免許程度じゃそれほど喜ばないのだろう。亀田ですら受かるのに、自分は落ちていた。もはやショックというより、自我が崩壊した。ヤンキーでも受かる試験に落ちるのか、これは加齢による記憶力の減退なのかと自問自答し、このままの半端な気持ちでは受からない、本当に真剣に勉強しようと思うようになった。身分証明を作るだけという安易な気持ちを捨て、原付に乗りたいと、原付に乗って道路に出たいという目的意識を切り替えた。こう思わざるを得なくなったことは正直屈辱極まりないが、そうも言ってられなかった。このままでは受からないのである。

図書館で朝から夕方まで原付の勉強をした。まさに受験生時代と同じである。休憩の間も、外で標識を見て暗唱していた。

5回目の試験では出来は、今思えばほぼ完ぺきだったが、その時は何問か怪しいところもあり、気持ちは5分5分だった。やっと合格していた。このときの喜びは自分の人生で最大のものだったかもしれない。悔しいが、それくらい嬉しかった。

試験に受かった後、講習を受け、免許を手にすると、今度は原付がほしくなった。今思えば、まるで高校生である。

我慢すればきっと良いことがあるに違いないと思い込む…2014年01月12日(日)[編集]

昨日久しぶりにブログを更新した。

ほぼ下書きの状態でアップしたが、長期休載を断ち切るのが目的だったので、そこは気にしないことにした。一般の人は読んで決して気分がよくなるものではないので、さして読まれないだろうと思っていたが、反響が大きいことに改めて驚く。

このブログを始めたきっかけは、単純な「同類探し」である。赤裸々に自分を晒すことで同類を見つけて傷をなめあおうというのが魂胆だった。司法浪人時代、よく、ネットで「40代 司法浪人 ブログ」と検索して、自分と似た境遇の人たちの悲惨さを見て溜飲を下げていた。

しかし、悲惨な境遇を見ても、その過去を見ると、家族がいたり、童貞でなかったり、核心的な部分が自分の来歴とずれていたため、いまいち共感できなかった。30代ならごくわずか似たような境遇の人はいるが、30代であれば、まだやり直しもきくし、仕事も見つかるであろう点で、やはり共感できなかった。結局、自分と同じ世代で、同じ考え方を持っている人間を見つけることは出来ず、自分でブログを書くことにした。

ただ現在、「40代 司法浪人 ブログ」で検索すると、ほとんど自分のブログである。そこでやっと気付いたのだ。そう、社会から断絶された期間が長くなればなると、自分の境遇を理解してくれる人間がどんどん少なくなることに。そして、いわゆる最狭義のぼっちとなるのだ。

自分は、もともとごく単純な一般的な人間だった。高校時代、ほかの男子高校生と同じように、ごくごく一般的な悩みを抱えていたのである。

「高校生の彼女または女友達がほしい」

これだけである。男子高校生ならおそらく誰しもが持っている「一般的な悩み」であるし、解決はそれほど困難ではない。しかし、当時の自分は、この悩みは一過性のものだと思って我慢し、解決しようとしなかった。放置しても解消するどころか、この悩みがどんどん肥大化し、解決が難しくなっていった。

女欲しけりゃナンパでもすれば?と思われるかもしれない。たしかに、そうすれば解決できるかもと考えたこともある。しかし、当時、ナンパなど、ごく一部の不良しかしていなかった。不純な行為なのである。当時、自分が好きな女性のタイプは、奥手タイプの女性である。ナンパを嫌うような女性がタイプの女性なのである。

もし好きな女性が現れたとき、こちらがナンパ行為に及び、逆に変な目で見られて嫌われたら元も子もない。そう考えるとますます及び腰になり、そして、そもそも女子と喋ったことすらないのにナンパなぞ出来るわけがない、その策は止めよう、となったのだ。そして、当時の自分はこう考えたのである。

「女子としゃべれないと、これから大学に行ったとき間違いなく浮いてしまう。大学生で、女子と付き合ったことがなく童貞だなんて、恥ずかしくて言えない。」

そして、どうすればよいかと考えた時、誤った選択肢を選んだ。そうだ、勉強し、一流といわれる大学に行けば、高校時代に彼女がいなかったことも言い訳にできるだろう。一流大学に行けば、彼女がいなかったことを言い訳にできるうえ、むしろその真面目さが受けて女子が自然と寄ってくる。その中から選べばいいじゃないか。

高校1年の時、父に共学へ転校したいと言った時、同じようなことを言われたので、あながち間違った選択肢ではないと思っていた。

しかし、そんな不純な動機では身を粉にして勉強には打ち込めず、結局、彼女いない歴を糊塗するためにどんどんハードルを上げ続け、気がつけば膨大な時間が過ぎていった。

そして、それから30年後、46歳、もうすぐ47歳の男がいまだに「高校生の彼女または女友達がほしい」と、思っているのである。できれば、大部屋で、男女4名くらいで、ジュースやポテチを持ち寄って皆でトランプをしたい。人生ゲームとかしたい。そんな幼稚な欲求を未だに持っているのである。

今思えば、初めから女子にアタックすればよかったのだ。彼女いない歴の言い訳のため、職歴無しを取り繕うため、高齢童貞を取り繕うため、そのために貴重な貴重な青春時代を費やした。その結果、まともに人と会話することすらできなくなっていた。

さらに、あまりの女日照りに、性的興味は変質し、SMものや恥辱ものなど、極度のマニアックな性行為でしか興奮しなくなってしまった。もはや最狭義の精神異常者である。