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通化事件(つうかじけん)とは1946年2月3日に中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で中国政府の要請に呼応した日本人の蜂起とその鎮圧後に行われた中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)による日本人及び中国人に対する虐殺事件。中国では二・三事件とも呼ばれる。
当時は、先に進駐してきた朝鮮人民義勇軍と延安からの正規の中国共産党軍を中国共産党軍または八路軍と包括的に呼称したり、朝鮮人民義勇軍は新八路軍や朝鮮八路とも呼称された。ただし、中ソ友好同盟条約によって満州で中国共産党が活動することは許されていなかったので、自らは東北民主連軍などと称していた。正規の中国共産党軍は軍規が厳しかったが、朝鮮人民義勇軍は日本敗戦後に集まった朝鮮人日本兵や現地朝鮮人などの寄せ集めが多く略奪・強姦などが絶えなかった。
背景[編集]
通化は終戦時に中華民国政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍や満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって治安が維持されていた。
1945年8月24日[1]に将校20人、兵士200人からなるソビエト軍が通化に進駐、市内の竜泉ホテルに司令部を設置した。また、ソビエト軍によって武装解除された関東軍の兵器を譲り受けた中国共産党軍も同市に進駐した。当時の通化には、多くの在留邦人や引き上げのために集まった17000名の日本人が滞在していた。ほとんどが女性や老人であり、略奪や強姦に遭い麻袋に穴を空けたものをわずかに身に着けただけの姿のものもあり、通化在留邦人が衣服や住居を提供していたが、多くの日本人家屋は強制的に接取されるなどし、在留邦人、難民ともに困窮していた。
日本人はソビエト軍による強姦・暴行・略奪事件などに脅かされていたが、日本軍憲兵隊はただ手をこまねいていたわけではなかった。原憲兵准尉は、ソビエト兵が白昼の路上で日本女性を裸にして強姦におよんでいた現場に駆け付け、女性を救おうと制止したがソビエト兵が行為を止めないため、やむなく軍刀で処断した。原准尉は別のソビエト兵に射殺され、この事件以降、日本刀も没収の対象となった。守る術を持たない日本人遺留民はソビエト軍司令部の命令に従って日本人女性たちを慰安婦として供出するなどして、耐え忍ぶしかなかった。さらに、日本人はソビエト軍進駐時にラジオを全て没収されたため、外部の情勢を知ることは不可能となった。また、中国共産党軍は日本軍の脱走兵狩りを行い600人を検挙した後吉林へ連行した。
ソビエト軍が撤退し、通化の支配を委譲された中国共産党軍は、楊万字通化省長、超通化市長、菅原達郎通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長などの通化省行政の幹部は連行し、拷問や人民裁判の後、中国人幹部を全員処刑した(日本人幹部の処刑は後日行われることになる)。また、中国共産党軍は清算運動と称して民族を問わず通化市民から金品を掠奪した。9月22日には、中国共産党軍が中華民国政府軍に攻撃を仕掛け、通化から駆逐した。10月23日、正規の中国共産党軍の一個師団が新たに通化に進駐してきた。11月2日[2]、中国共産党軍劉東元司令が着任する。11月2日、中国共産党軍は17000名を超える遺留民に対して、収容能力5000名以下の旧関東軍司令部への移動命令を出した。遺留民1人につき毛布1枚と500円の携行以外は認めないとした。通化は氷点下30度になる極寒の地であった。11月初旬[3]、中国共産党軍は、遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)を設立する。日本人民解放連盟は日本人に対して中国共産党軍の命令下達や、野坂参三の著作などを使用した共産主義教育をさせられた。中国共産党軍の指令を受けた日本人民解放連盟は日本人遺留民へ財産を全て供出し再配分するよう命令を行った。日本人遺留民たちが嘆願を続けると、中国共産党軍は、日本人全員が共産主義者になることを誓約し、全財産を供出して中国共産党と日本人民解放連盟に再分配するならば移動を見合わせるとする要求を突き付けた。11月17日、中国共産党軍が大村卓一を満鉄総裁であったことを罪状として逮捕する。また、中国共産党軍の兵隊たちは、武器の捜索を名目に日本人家屋に押し入り、後に起こる蜂起の日にいたるまで連日のように略奪を続けた。さらに、中国共産党軍は男女を問わず日本人を強制的に従軍・徴用させた(徴用は無償の強制労働だった)。
日の丸飛行隊飛来[編集]
12月10日、通化に日の丸を付けた飛行隊が飛来した。日本人遺留民は狂喜した。飛行隊は林弥一郎少佐率いる関東軍第二航空団第四練精飛行部隊であり、隼、九九式高等練習機を擁していた。隊員は300名以上も健在であり、全員が帝国陸軍の軍服階級章を付け軍刀を下げたままであった。政治委員としては延安の日本人民解放連盟で野坂参三に次ぐ地位にあった前田光繁(当時は「杉本一夫」と称していた)が送り込まれた。林航空隊は東北民主連軍航空学校として中国共産党軍空軍創立に尽くすこととなる。また、木村大尉率いる関東軍戦車隊30名も通化にやってきた。航空隊と戦車隊の隊員は全員が中国共産党軍に編入されていた。
日本人遺留民大会[編集]
12月23日[4]、「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」などのスローガンのもとで日本人民解放連盟と日僑管理委員会の主催で通化日本人遺留民大会が通化劇場で開かれた。大会には劉東元司令を始めとする中国共産党幹部、日本人民解放連盟役員らが貴賓として出席し、日本人遺留民3000人が出席した。大会に先立って、日本人遺留民たちは、髭の参謀として愛され、その後消息不明とされていた藤田実彦大佐が大会に参加すると伝え聞いており、大会の日を待ちかねていた。
大会では、元満州国官吏井手俊太郎が議長を務めた。冒頭に、議長から「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」との発言がなされると、日解連通化支部の幹部たちからは、自分たちのこれまでのやり方を謝罪するとともに、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰である」などの発言がなされた。日本人遺留民が発言を求められると、日解連への非難や、明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言が続き、山口嘉一郎老人が「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案すると満座の拍手が沸き起こった。議長が賛意を示す者に起立をお願いすると、ほぼ全員が起立し、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われた。次に山口老人は、我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれませんので、徐々に教育をお願いしたいとの旨を述べた。最後に藤田大佐が演説を行ったが、中国共産党への謝意と協力を述べるにとどまった。後日、大会で発言した者は連行され、処刑された。
一月十日事件[編集]
1946年1月1日、中国共産軍側工作員の内海薫が何者かに殺害される。 1月10日、内海薫殺害容疑で日本人民解放連盟通化支部幹部、高級官吏、日本人遺留民会の指導者ら140名が連行され、専員公署の建物に抑留される。日本人民解放連盟通化支部は解散させられる。 1月21日、菅原達郎[5]通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長は中国共産党軍によって市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑された。処刑された遺体は何度も撃たれ銃剣で突き刺されハチの巣にされた。やがて、日本人遺留民たちの反共産党の感情が強まっていった。
後日、日本人遺留民は通化劇場に集められ、前田光繁によって川内亮通化県副県長たちは満州国の幹部であったから処刑は仕方のないことであった旨の講演がなされた。
蜂起まで[編集]
1月1日、中国共産党軍(東北民主連軍)後方司令の朱瑞(zh)を隊長、林弥一郎を副隊長とした東北民主連軍航空総隊が設立される。
1月5日、藤田実彦大佐は中国共産党の軍人に伴われて竜泉ホテルにある中国共産党軍司令部に出頭する。劉東元司令は藤田に関東軍が隠している武器を出すよう要求するが藤田は参謀職であったため、大隊長や中隊長ではないので知らないと答えたため、そのまま監禁されることになった。以降、有志からの情報は薬を渡しに来る看護婦柴田朝江によってひそかに届けられることとなった。柴田朝江は日本軍の特務出身の看護婦で、当時は赤十字病院(旧関東軍臨時第一野戦病院)に勤務していた。劉司令夫人が中共軍軍医の誤診断に悩んでいたところ、柴田朝江が適切な診断を行ったため、劉夫妻から専属看護婦の地位を得えられ、婦長と呼ばれていた。信頼された柴田朝江は藤田への薬を届ける任を与えられていた。
1月15日[6]午前4時、竜泉ホテルに監禁されていた藤田実彦大佐が3階の窓から脱出し、有志の隠れ家となっていた栗林家へ隠れた。脱出が発覚するとまもなく、事前に知らされていなかった柴田朝江は身の危険を感じて、ホテルの裏口から赤十字病院へ向かった。病院に着くと頭をバリカンで刈り上げて男になりすました。まもなく、中共軍が病院をくまなく捜索しだしたので、柴田久軍医大尉の手引きを得て栗林家へ隠れることとなった。
1月某日、林弥一郎少佐は日本人遺留民を束ねていた桐越一二三のもとを訪れ、桐越夫人に林少佐自らが桐越の名を彫り込んだ軍刀を渡している。
蜂起・虐殺[編集]
前日[編集]
2月2日、正午過ぎに林弥一郎少佐は蜂起の情報を前田光繁に電話で伝えた。前田は中国人政治委員の黄乃一を通じて航空総隊隊長の朱瑞(zh)に報告した。同じ頃、藤田実彦大佐の作戦司令書を持った中華民国政府の工作員が2名逮捕されており、劉東元中国共産党軍司令立会いの下で尋問が行われた。工作員は拷問を加えられても口を割らなかったが、日本語の司令書は前田によって直ちに翻訳され、夕刻には中国共産党軍は緊急配備に取り掛かった。そのためか、通化市内は20時に外出禁止のサイレンが鳴ることになっていたが、この日はいつもとは違ってサイレンが鳴らなかった。日本人は時計を持っていないため外出中のものは次々に拘束された。20時には、蜂起に向けて会合を開いていた孫耕暁通化国民党部書記長を始めとする中華民国政府関係者数十人が朝鮮人民義勇軍によって拘束され、拷問を伴う尋問が行われた後、蜂起前に虐殺された。また、一月十日事件で連行された日本人は牢の外から機関銃を向けられた(即時殺害を可能にするための準備)。
蜂起[編集]
2月3日、柴田久軍医大尉らが変電所を占拠し、午前4時に電灯を3度点滅させたの合図に中華民国政府軍、林航空隊、戦車隊の支援を期待して元関東軍将校などのもとで在留日本人がほとんど火器を持たないまま蜂起したが、便衣兵や日本人協力者などからすでに中国共産党軍に情報が漏れており、重火器を装備した中国共産党軍によって数百名の犠牲者を出して鎮圧された。また、一月十日事件で連行された日本人は事件発生とともに機銃掃射で虐殺された。林航空隊では、鈴木中尉、小林中尉を筆頭に両中尉率いる下士官たちが蜂起に参加しようとしたが、蜂起合図前に中国共産党軍に拘束されていた。木村戦車隊はエンジンを掛け出発しようとしたところで拘束されていた。事件後に蜂起の負傷者に手当を施した者は女性・子供であっても容赦なく銃殺されるなど徹底的な弾圧が行われた。
まもなく、16歳以上の日本人男性は事件との関係を問わず全員拘束され、連行された。また、事件に関与したとみなされた女性も連行された。3000人以上に上る拘束者たちは小銃で殴りつけられるなどして8畳ほどの部屋に120人ずつ強引に押し込められた。拘束された日本人は、あまりの狭さに身動きが一切とれず、大小便垂れ流しのまま5日間もの間立ったままであった。抑留中は精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害された。殺害された者はそのまま立ったままでいるか、他の抑留者の足元で踏み台とされた。また、数百人が凍傷に罹り不具者となった。拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが撲殺された。撲殺を免れたものの多くは手足をぶらぶらとさせていた。その後、中国共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した川の上に引き出されて虐殺が行われた。女性にも処刑されるものがあった。川の上には服をはぎ取られた裸の遺体が転がっていた。航空隊の林弥一郎少佐には銃殺命令が3度出されたが、そのたびに政治委員黄乃一の嘆願によって助命された。男たちが拘束されている間、中国共産党軍の兵士には日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦することもあり、凌辱された女性には自殺するものもあった。
事件後[編集]
3月10日になると市内の百貨店で中国共産党軍主催の2・3事件展示会が開かれ、戦利品の中央に蜂起直前の2月2日に拘束された孫耕暁通化国民党部書記長[7]と2月5日に拘束された藤田実彦大佐が見せしめとして3日間に渡り立たせられた。3月15日に藤田大佐が獄死すると、遺体は市内の広場で3週間さらされた。渾江(鴨緑江の支流)では、夏になっても中州のよどみに日本人の虐殺死体が何体も浮かんでいた。
生存者は中国共産党軍への徴兵、シベリア抑留などさまざまな運命を辿った。一部の日本人は9月に引き揚げの命令がなされ日本に帰還することができた。
1946年末に中華民国政府軍が通化を奪還すると事件犠牲者の慰霊祭が行われた。1947年には中国共産党軍が通化を再び占領した。
1952年に生存者の1人だった中山菊松が通化遺族会を設立。1954年には川内通化県副県長夫人とともに、大野伴睦代議士等の仲介で川崎秀二厚生大臣に対し、遺族援護法を通化事件犠牲者にも適用することを嘆願し、認められた。通化遺族会は1955年以降、毎年2月3日に靖国神社で慰霊祭を行っている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 紙田治一 遺稿【通化事件】 医師・紙田治一の記録
- 山下好之氏 第4回 8.通化から牡丹江・桂木斯へ撤退 OralHistoryProject
- 「通化事件―“関東軍の反乱”と参謀・藤田実彦の最期」 松原一枝 チクマ秀版社 2003年8月8日 ISBN 4-8050-0420-7
- 「髭はほほ笑む」 藤田実彦 鶴書房
- 「キャタピラは征く」 寺本弘 防仁弘済会
- 「戦車隊よもやま物語」 寺本弘 光人社
- 「通化幾山河」 山田一郎 富士書苑
- 「通化事件」 佐藤和明 新評論
- 「回想の「通化事件」と激動の満州」 道正弘
- 「鉄獅子たちの咆哮 戦車第一連帯とその栄光と終焉」 アマーモデリング
- 「いまもわが綏陽」 宍戸次夫
- 「通化事件・発生・原因・経過」 厚生省資料
- 「ひろみちゃん安らかに」 大坪順子 証言の昭和史
- 「石人生活」 加藤美智子 えんぴつ倶楽部
- 「通化から石人へ」 小林某
- 「淘げられた歴史」 川勝一義 新東京出版
- 「幻のホテル」 北田倫 南風書房
- 「オレンジが輝くとき」 北田倫 南風書房
- 「流れをとらえる」 酒井俊寿 西日本新聞
- 「流転の王妃の昭和史」 愛新覚羅浩 新潮文庫
- 「東條英機」 秋定鶴造 経済往来
- 「関東軍と極東ソ連軍」 林三郎 芙蓉書房
- 「その日 関東軍は」 草地貞吾 宮川書房
- 「或る鉱山技師の手記」 南家碩次
- 「昭和史の軍人たち」 秦郁彦 文藝春秋
- 「ソ連が満州に侵攻した夏」 半藤一利 文藝春秋
- 「大村卓一日記」 大村卓一
- 「満州の終焉」 高碕達之助 実業之日本社
- 「救い無き敦化」 吉岡幾三 富士書苑
- 「藤田大佐の最後」 松原一枝 文藝春秋
- 「電灯が三回点滅した」 松原一枝 エイジ出版
- 「朝踏み」 石川二郎 1986年10月
- 「通化事件―共産軍による日本人虐殺事件はあったのか? いま日中双方の証言で明らかにする」 佐藤和明 新評論 1993/04 ISBN 4794801742
- 「少年は見た―通化事件の真実」 佐藤和明 新評論 1998/01
- 中共空軍創設秘話その3 軍事評論家佐藤守 2005-11-08<font/>
- 中国空軍創設につくした日本人教官元空軍司令官が回想する 人民日報
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