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弟の荘蔵ら兄弟と養鶏業を営み、[[名古屋コーチン]]の元となる海部種を開発(出典?)。
 
弟の荘蔵ら兄弟と養鶏業を営み、[[名古屋コーチン]]の元となる海部種を開発(出典?)。
  
1882年(明治15年)から、同家の開墾場が置かれた[[北海道]]・[[八雲町|八雲村]]で開拓代表委員となり、指導にあたった{{Sfn|大石|1994|p=37}}{{Sfn|豊田|1983|pp=3-6}}。1885年(明治18年)に、八雲町で行なわれていた、[[馬鈴薯]]を原料とする[[澱粉]]製造を産業化する計画を立て、八雲町の開拓民は試行錯誤を経て産業化を実現した{{Sfn|徳川|1973|p=89}}。
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1882年(明治15年)または1883年(明治16年)から、同家の開墾場が置かれた[[北海道]]・[[八雲町|八雲村]]で開拓代表委員となり、指導にあたった{{Sfn|大石|1994|pp=37,126}}{{Sfn|豊田|1983|pp=3-6}}。1885年(明治18年)に、八雲町で行なわれていた、[[馬鈴薯]]を原料とする[[澱粉]]製造を産業化する計画を立て、八雲町の開拓民は試行錯誤を経て産業化を実現した{{Sfn|徳川|1973|p=89}}。
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1900年から1904年まで[[愛知県立明和高等学校|私立明倫中学校]]初代校長<ref>[http://www.tcp-ip.or.jp/~meiwa-hs/history.html 歴史 - 愛知県立明和高等学校] 2016年12月12日閲覧。</ref>。
 
1900年から1904年まで[[愛知県立明和高等学校|私立明倫中学校]]初代校長<ref>[http://www.tcp-ip.or.jp/~meiwa-hs/history.html 歴史 - 愛知県立明和高等学校] 2016年12月12日閲覧。</ref>。
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=== 参考文献 ===
 
=== 参考文献 ===
 
*{{Aya|香山|year=2015}} 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41
 
*{{Aya|香山|year=2015}} 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41
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*{{Aya|長沼|year=2015}} 長沼秀明「[http://www.tokugawa.or.jp/institute/pdf_file/kiyou49-naganuma.pdf 徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味]」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93
 
*{{Aya|大石|year=1994}} 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563
 
*{{Aya|大石|year=1994}} 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563
 
*{{Aya|小田部|year=1988}} 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
 
*{{Aya|小田部|year=1988}} 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192

2018年6月9日 (土) 03:03時点における版

海部 昂蔵(かいふ こうぞう、1850年 - 1927年)は、尾張徳川家家職 [1]海部俊樹の曽祖父にあたる[2][3]

経歴

弟の荘蔵ら兄弟と養鶏業を営み、名古屋コーチンの元となる海部種を開発(出典?)。

1882年(明治15年)または1883年(明治16年)から、同家の開墾場が置かれた北海道八雲村で開拓代表委員となり、指導にあたった[4][2]。1885年(明治18年)に、八雲町で行なわれていた、馬鈴薯を原料とする澱粉製造を産業化する計画を立て、八雲町の開拓民は試行錯誤を経て産業化を実現した[5]

1884年(明治17年)9月、尾張徳川家の当主・徳川義礼英国留学に随行することになる[6][7]。八雲町の開拓委員は片桐助作に引き継いだ。

1900年から1904年まで私立明倫中学校初代校長[8]

1903年(明治36年)12月19日から1914年(大正3年)5月1日まで、尾張徳川家の家令、同年から同家の御相談人を務めた[1]

人物

  • 徳川 (1973 41)は、尾張家の家令を務めていたころの海部について、学者で人格者で、加藤高明も一目置いていたほどの人物、と評している。

著作物

  • - (1917) 海部昂蔵「甲州」雅文会『大正詩文』vol.3 no.4、1917年2月、pp.7-8、NDLJP 1512283/7 (閉)

付録

関連文献

  • 八雲町 (1984) 八雲町史編さん委員会(編)『改訂 八雲町史 上』八雲町、1984年、NDLJP 9571213 (閉)

脚注

  1. 1.0 1.1 香山 2015 1
  2. 2.0 2.1 豊田 1983 3-6
  3. 大石 (1994 62)および小田部 (1988 42)は、海部俊樹の祖父にあたる、としている。
  4. 大石 1994 37,126
  5. 徳川 1973 89
  6. 大石 1994 126
  7. 長沼 2015 86 - 伊藤正徳(編)『加藤高明 上巻』加藤伯伝記編纂委員会、1929年、177-178頁、NDLJP 1240803/130による。
  8. 歴史 - 愛知県立明和高等学校 2016年12月12日閲覧。

参考文献