「日本新聞社」の版間の差分
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'''日本新聞社'''(にほんしんぶんしゃ)は明治から大正時代の新聞社。 | '''日本新聞社'''(にほんしんぶんしゃ)は明治から大正時代の新聞社。 | ||
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社屋は東京府東京市日本橋区蛎殻町であったが、のち東京市神田区雉子町32番地(現・東京都千代田区神田司町二丁目[3])に移転した。 | 社屋は東京府東京市日本橋区蛎殻町であったが、のち東京市神田区雉子町32番地(現・東京都千代田区神田司町二丁目[3])に移転した。 | ||
− | 社長兼主筆として[[陸羯南]] | + | 社長兼主筆として[[陸羯南]]が就任し、編集長は[[古島一雄]]であった。 |
明治21年4月 [[黒田清隆]]内閣で[[大隈重信]]外相が条約改正に着手し、極秘裏に対外交渉を進めたが、条約の要旨がイギリスの「ザ・タイムス」に掲載されそれが新聞「日本」にも記載された。大審院に外国人法官採用する条項があることから、旧自由党系と保守系の新聞が猛反対した。行激論者は「日本」、「政論」、「東京公論」、「東京朝日」であり、政府擁護論は「報知新聞」、「毎日新聞」、「朝野新聞」、「読売新聞」であった。 | 明治21年4月 [[黒田清隆]]内閣で[[大隈重信]]外相が条約改正に着手し、極秘裏に対外交渉を進めたが、条約の要旨がイギリスの「ザ・タイムス」に掲載されそれが新聞「日本」にも記載された。大審院に外国人法官採用する条項があることから、旧自由党系と保守系の新聞が猛反対した。行激論者は「日本」、「政論」、「東京公論」、「東京朝日」であり、政府擁護論は「報知新聞」、「毎日新聞」、「朝野新聞」、「読売新聞」であった。 | ||
− | + | 条約改正問題発生後には、社員及び関係者が増え、[[鳥居素川]]・[[長谷川如是閑]]・安藤正純(鉄腸)・[[正岡子規]]・[[中村不折]]・桂湖村・五百木良三(瓢亭)・[[河東碧梧桐]]・[[阪東宣雄]]・[[岩佐善太郎]]・[[佐々木正綱]]・浅水又次郎(南人)・[[佐藤紅緑]]・石井露月・千葉亀雄・遣沢直幸・丸山侃堂(幹治)・井上藁村(亀六)・[[末永節]](嘯月)・[[磯野徳三郎]]が入社した。 | |
1906年(明治39年)伊藤欽亮が社長となり、立憲政友会から支援を受ける保守系新聞となった。 | 1906年(明治39年)伊藤欽亮が社長となり、立憲政友会から支援を受ける保守系新聞となった。 |
2018年3月25日 (日) 23:08時点における最新版
日本新聞社(にほんしんぶんしゃ)は明治から大正時代の新聞社。
1889年(明治22年)2月11日に新聞紙「日本」発刊した。創立時に杉浦重剛を筆頭にして、巌谷立太郎、平賀義美、谷田部梅吉、宮崎道正、長谷川芳之助、小村寿太郎、高橋健三、谷口直貞、中谷源六、福富孝季、河上謹一、伊藤新六郎、西村貞、千頭清臣、国府寺新作、手島精一、高橋茂の18人が連名した。
社屋は東京府東京市日本橋区蛎殻町であったが、のち東京市神田区雉子町32番地(現・東京都千代田区神田司町二丁目[3])に移転した。
明治21年4月 黒田清隆内閣で大隈重信外相が条約改正に着手し、極秘裏に対外交渉を進めたが、条約の要旨がイギリスの「ザ・タイムス」に掲載されそれが新聞「日本」にも記載された。大審院に外国人法官採用する条項があることから、旧自由党系と保守系の新聞が猛反対した。行激論者は「日本」、「政論」、「東京公論」、「東京朝日」であり、政府擁護論は「報知新聞」、「毎日新聞」、「朝野新聞」、「読売新聞」であった。
条約改正問題発生後には、社員及び関係者が増え、鳥居素川・長谷川如是閑・安藤正純(鉄腸)・正岡子規・中村不折・桂湖村・五百木良三(瓢亭)・河東碧梧桐・阪東宣雄・岩佐善太郎・佐々木正綱・浅水又次郎(南人)・佐藤紅緑・石井露月・千葉亀雄・遣沢直幸・丸山侃堂(幹治)・井上藁村(亀六)・末永節(嘯月)・磯野徳三郎が入社した。
1906年(明治39年)伊藤欽亮が社長となり、立憲政友会から支援を受ける保守系新聞となった。
1914年(大正3年)末、東京・神田雉子町の日本新聞社社屋が火事で焼失し、事業継続が不可能になって12月31日、初代『日本』紙は廃刊した。