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== 経歴 == | == 経歴 == | ||
=== 日本への連行まで === | === 日本への連行まで === | ||
− | 1920年、中国・[[河北省]][[薊県]] | + | 1920年、中国・[[河北省]][[薊県]]邦均鎮に生まれる<ref>シンプソン(1998)p.204、野添(1975,p.36)。野添(1975,p.36)では出身地を「郡均鎮」としている。</ref>。 |
− | + | 1933年頃から、8年間就学し、1941年頃から日本統治下の憲兵隊に2等兵として勤務する<ref>シンプソン(1998)p.204</ref>。 | |
+ | *野添(1975,pp36,45)は、小学校を卒業後、家業の農業に従事し、1937年、17歳のときに[[人民解放義勇軍]]に入隊、一時帰郷し農業に従事した後、20歳のとき再び解放義勇軍入りしたとしている。 | ||
− | + | 1944年4月7日に労工となり、[[華北労工協会#石門収容所|石門収容所]]に収容される<ref>シンプソン(1998)p.204</ref>。 | |
+ | *劉(1995,pp.11-12,16-30,奥付)は、1944年4月、河北省[[定県]]で鉄道破壊工作の準備のため地勢を探っていたところを[[汪精衛]]政権の[[鉄道護路隊]]に見つかり捕虜となった、としている。 | ||
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劉は死亡報告書の作成もしていたが、花岡出張所の「中山寮」の寮長代理をしていた伊勢智得からの指示で死因を「[[栄養失調]]」や「脳部打撲傷」から「[[コレラ]]」や「[[日本脳炎]]」に書き替えていた<ref>劉(1995)p.95</ref>。また栄養失調が死因のときに「重症胃腸炎」と書いた、とも記している<ref>劉(1995)p.101</ref>。 | 劉は死亡報告書の作成もしていたが、花岡出張所の「中山寮」の寮長代理をしていた伊勢智得からの指示で死因を「[[栄養失調]]」や「脳部打撲傷」から「[[コレラ]]」や「[[日本脳炎]]」に書き替えていた<ref>劉(1995)p.95</ref>。また栄養失調が死因のときに「重症胃腸炎」と書いた、とも記している<ref>劉(1995)p.101</ref>。 | ||
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戦後、[[花岡事件 (戦犯裁判)|戦犯裁判]]の証人の1人として日本に残される<ref>石飛(2010)p.17</ref>。 | 戦後、[[花岡事件 (戦犯裁判)|戦犯裁判]]の証人の1人として日本に残される<ref>石飛(2010)p.17</ref>。 | ||
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戦犯裁判の判決と前後して、日本に残留していた元華人労務者の多くは中国へ帰国したが、劉の出身地の河北省は国共内戦の激戦地となっていたため、劉は裁判の後も中国に帰国せず、日本に残った<ref>石飛(2010)p.81、野添(1975)p.152</ref> | 戦犯裁判の判決と前後して、日本に残留していた元華人労務者の多くは中国へ帰国したが、劉の出身地の河北省は国共内戦の激戦地となっていたため、劉は裁判の後も中国に帰国せず、日本に残った<ref>石飛(2010)p.81、野添(1975)p.152</ref> | ||
− | *石飛(2010,p.81) | + | *石飛(2010,p.81)は、劉が元[[八路軍]]のゲリラだったこと、野添(1975,p.152)は、中国にいた劉の姉妹が既に結婚しており父親のほかに家族がいなかったことも日本に残った理由だった、としている。 |
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1985年6月30日に大館市で開催予定の「花岡事件40周年 中国人殉難者慰霊式」に招待され、同月26日に[[国会議員会館]]で石飛とともに「中国人強制連行問題に光を」と題した意見書を発表<ref>石飛(2010)pp.154-160</ref>。同月30日の式典に参加した<ref>石飛(2010)pp.164-174</ref>。 | 1985年6月30日に大館市で開催予定の「花岡事件40周年 中国人殉難者慰霊式」に招待され、同月26日に[[国会議員会館]]で石飛とともに「中国人強制連行問題に光を」と題した意見書を発表<ref>石飛(2010)pp.154-160</ref>。同月30日の式典に参加した<ref>石飛(2010)pp.164-174</ref>。 | ||
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<!--1985年または1986年の10月には、訪日した[[アウシュヴィッツ強制収容所]]の生存者・[[タデウス・シマンスキー]]を札幌の劉の店に招待して面会し、戦争体験の記録・証言活動をアピールした<ref>石飛(2010)pp.266-267</ref>。--> | <!--1985年または1986年の10月には、訪日した[[アウシュヴィッツ強制収容所]]の生存者・[[タデウス・シマンスキー]]を札幌の劉の店に招待して面会し、戦争体験の記録・証言活動をアピールした<ref>石飛(2010)pp.266-267</ref>。--> | ||
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* 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、{{ISBN|9784779115042}} | * 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、{{ISBN|9784779115042}} | ||
* 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、{{ISBN|4-00-430785-6}} | * 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、{{ISBN|4-00-430785-6}} | ||
+ | * シンプソン(1998) ウィリアム・B・シンプソン(著)古賀林幸(訳)『特殊諜報員』現代書館、1998年、{{ISBN|4768467369}} | ||
* 石飛(1997) 石飛仁『中国人強制連行の記録-日本人は中国人に何をしたか』〈三一新書1164〉三一書房、1997年、{{ISBN|4-380-97008-6}} | * 石飛(1997) 石飛仁『中国人強制連行の記録-日本人は中国人に何をしたか』〈三一新書1164〉三一書房、1997年、{{ISBN|4-380-97008-6}} | ||
* 石飛(1996) 石飛仁『花岡事件』〈FOR BEGINNERSシリーズ74〉、現代書館、1996年、{{ISBN|4768400744}} | * 石飛(1996) 石飛仁『花岡事件』〈FOR BEGINNERSシリーズ74〉、現代書館、1996年、{{ISBN|4768400744}} |
2018年1月14日 (日) 22:29時点における版
劉 智渠(りゅう ちきょ、拼音:liu2 zhi4qu2、1920年-1999年2月4日)は、中国・河北省から日本に連行され、鹿島組花岡出張所で働かされた元華人労務者で、花岡事件の「受難者」の1人。戦後も日本に残留し、札幌で事業を展開、札幌華僑総会を創立した。1951年に手記『花岡事件』を刊行。事件による死没者の遺骨発掘・送還運動に関与し、1953年に華僑代表として遺骨送還船で天津を訪問した。1958年の劉連仁事件では、北海道の山中で見つかった劉連仁を保護。1983年以降、石飛仁らとともに鹿島建設との花岡事件の補償交渉に参加、1985年に耿諄と再会を果した後、花岡事件受難者聯誼会と鹿島との交渉にも関与した。
目次
経歴
日本への連行まで
1933年頃から、8年間就学し、1941年頃から日本統治下の憲兵隊に2等兵として勤務する[2]。
- 野添(1975,pp36,45)は、小学校を卒業後、家業の農業に従事し、1937年、17歳のときに人民解放義勇軍に入隊、一時帰郷し農業に従事した後、20歳のとき再び解放義勇軍入りしたとしている。
1944年4月7日に労工となり、石門収容所に収容される[3]。
同年5月、北京の清華園にあった西苑更生隊に送られる[4]。この頃、大腿部が腫れ始める[5]。
その後、西苑更生隊に収容されていた300人とともに汽車で青島へ送られ、同年7月28日に船で日本へ護送された[6]。
鹿島組花岡出張所時代
1944年8月5日頃に下関に到着した後、汽車で花岡の鹿島組花岡出張所へ連行される[6]。
劉は、医療教育を受けたことはなかったが、到着時から看護係を命じられ、病人の治療をしていた[7]。また、死者の遺体の運搬や火葬を担当していた[8]。
劉は死亡報告書の作成もしていたが、花岡出張所の「中山寮」の寮長代理をしていた伊勢智得からの指示で死因を「栄養失調」や「脳部打撲傷」から「コレラ」や「日本脳炎」に書き替えていた[9]。また栄養失調が死因のときに「重症胃腸炎」と書いた、とも記している[10]。
暴動事件とその後
1945年6月30日の暴動事件の際には、看護班員だったため、病人を連れて裏山に逃げたが、間もなく捕えられ、花岡の派出所の玄関前の小川の縁で正座させられた[11]。事件後、事件前に看護長だった劉玉林が秋田刑務所に入れられたため、看護長を務める[12]。
1946年7月頃、中華民国の駐日代表部の大使館の衛兵として雇い入れられるが、同年10月に辞職し、同郷人が店主をしていた新宿の泰華楼という店で皿洗いとして働き始める[14]。店主に商才を認められ、出資を受けて、札幌で出店することを決め、東京から札幌に移住して同月末に札幌で「小さい屋台のような店」を出店した[15]。
戦犯裁判の判決と前後して、日本に残留していた元華人労務者の多くは中国へ帰国したが、劉の出身地の河北省は国共内戦の激戦地となっていたため、劉は裁判の後も中国に帰国せず、日本に残った[16]
- 石飛(2010,p.81)は、劉が元八路軍のゲリラだったこと、野添(1975,p.152)は、中国にいた劉の姉妹が既に結婚しており父親のほかに家族がいなかったことも日本に残った理由だった、としている。
遺骨発掘運動と証言活動
その後、劉は、札幌で中華料理店「鹿鳴春飯店」を経営[17]。同店を拠点に、札幌華僑総会を設立した[18]。
1950年11月1日に東京・浅草の東本願寺で東京華僑総会の主催で花岡事件の殉難者の慰霊式が催された際には、中華民国駐日代表団の長官に発言を阻止され、退席させられた[19]。
劉は、戦犯事件裁判、華人労務者を虐待した被告人たちが、裁判後に減刑されて十分な処罰を受けなかったことに不満を抱き、花岡事件で自分や死亡した同僚が受けた虐待に対する損害賠償請求を志向した[20]。
日中の講和条約が締結される際に賠償問題について話し合いが持たれることを期待していたが、1952年に日本は台湾の中華民国とのみ講和し、対中賠償問題は事実上棚上げとなった[21]。劉は企業に対する直接の損害賠償請求を考えたが、中華民国代表部や日本政府から国外退去処分などの報復的な扱いを受けることをおそれて自重していた[22]。
1953年に慰霊実行委員会が遺骨を送還した際、華僑代表として遺骨送還船に乗り、天津を訪問[23]。
1958年の劉連仁事件では、北海道石狩郡当別町の山中で見つかった劉連仁を札幌市内の旅館に保護した[24]。
1963年に中国への渡航が認められ、戦後初めて帰郷したが、(父)親は亡くなっていた[25]。
1971年当時、札幌南三条でパチンコ店「同楽」と、新築した「新山ビル」でサウナと朝鮮料理店を経営[26]。
1975年当時、新山観光株式会社の社長をしていた[27]。
鹿島建設との補償交渉
1983年9月1日に、札幌華僑総会で、華人労務者時代の同僚だった李振平、元鹿島組花岡出張所「中山寮」の職員だった越後谷義勇および石飛仁と、鹿島建設に対して賃金支払要求を進めていくことを決め、1984年2月以降、札幌(の劉の店)や東京で行なわれた鹿島建設との交渉に出席して、未払賃金の支払を要求した[28]。
1985年6月30日に大館市で開催予定の「花岡事件40周年 中国人殉難者慰霊式」に招待され、同月26日に国会議員会館で石飛とともに「中国人強制連行問題に光を」と題した意見書を発表[29]。同月30日の式典に参加した[30]。
劉たちが鹿島建設に対して労賃支払を要求していることを新聞報道で知った元華人労務者隊の大隊長・耿諄から書簡を受け取り、同年11月に石飛とともに訪中して耿諄と再会[31]。
1986年以降は新美隆・内田雅敏の両弁護士とともに、中国で結成された花岡事件受難者聯誼会と連携して鹿島建設との交渉を進めた[32]。
1999年2月4日に、札幌(宮の沢?)の病院で心不全のため死去、享年78[33]。
鹿島組からの労賃の受給をめぐって
未払いの主張
1983年以降の鹿島建設と石飛仁や劉らによる未払賃金支払交渉は、劉らに対して「雇用契約」に基づき支払われるべき賃金が支払われていないとしてその支払いを求める交渉だった。劉本人が鹿島建設との交渉の際に労賃が未払いになっていると主張し、「中山寮」の職員だった越後谷義勇も交渉の中でこの主張を支持する発言をし、「華北労工協会」から通訳として鹿島組花岡出張所に派遣されていた于傑臣も同様の証言をしていたという。[34]
- 石飛(2010,pp.85-88)によると、越後谷は、自分は事務員をしていたので、もし支払われていれば必ず分かる、ただ戦後、米軍が介入した後は、物資も与えられ、給料も週給で支払われるようになったが、それは戦時中の労賃の精算ではなかった、として、賃金が未払いになっているとの見解を支持する証言をしていたという。
- 野添(1975,p.171)によると、越後谷は、戦時中、中国人に給料は渡されていなかったが、中国人の隊長は労務者の日報を付けており、戦後、米軍からこれまで労働した分の賃金も全額支払うよう指示があったことと、その後は米国式に給与規定通りの週給が支払われていたことを証言している。
支払いの証拠
鹿島建設は、石飛や劉らの要求を受けて社内で調査を進め、1985年7月31日付で劉にあてた文書の中で、
- 国立国会図書館所蔵のアメリカ軍横浜裁判資料の中に、法廷に出廷した中国人証人の1人が裁判長から自身の領収書を見せられ、証人が金銭の受け取りを認めている記述があること
- 社内資料に1945年12月29日付で「残留華人」あて総額11,000円の支払いが記録されていること
を指摘した[35]。
石飛は「書類の上では支払済とされているが、実際には支払われていない」と考えていたが、その後、石飛自身が終戦直後に鹿島組から劉に5万円が支払われたという記録を見つけたといい、鹿島側からも、社内の調査で労賃の受取を示す劉らの拇印が押された賃金台帳が見つかったとの報告を受けた[36]。
証拠の確認
1991年6月に石飛、劉らと鹿島建設との交渉が終えられたとき、「共同提案事項」と併せて、劉と李振平は鹿島側が示した、拇印の押された賃金台帳を確認し、金銭のやり取りがあったことを認めて交渉を終えた[37]。
「告白」
1995年7月1日に劉は、石飛が花岡の信正寺で主催するシンポジウムで鹿島からの5万円受領の件を「告白」することになっていたが、当日欠席した[38]。石飛(2010,pp.310-311)によると、当日、劉を探して信正寺にやってきた中国人強制連行を考える会のメンバーが石飛らに暴行を加えたという。
著書
- 劉(1995) 劉智渠(述)劉永鑫・陳蕚芳(記)『花岡事件-日本に俘虜となった中国人の手記』岩波書店、1995年、4002602257
- 初版『花岡事件-日本に俘虜となった一中国人の手記』中国人俘虜犠牲者善役委員会、1951年
- 中国語訳『花岡惨案』世界知識社、1955年
付録
脚注
- ↑ シンプソン(1998)p.204、野添(1975,p.36)。野添(1975,p.36)では出身地を「郡均鎮」としている。
- ↑ シンプソン(1998)p.204
- ↑ シンプソン(1998)p.204
- ↑ 劉(1995)pp.30-32
- ↑ 劉(1995)p.35
- ↑ 6.0 6.1 劉(1995)p.49、シンプソン(1998)p.204
- ↑ シンプソン(1998)p.207。劉(1995,pp.93-94)は、劉は大腿部の腫れが治らず作業に苦痛が伴ったため、華人労務者隊の大隊長だった耿諄のとりなしで病室勤務の看護班員に配属してもらった、としている。
- ↑ 石飛(2010)pp.18,176、シンプソン(1998)pp.212-214
- ↑ 劉(1995)p.95
- ↑ 劉(1995)p.101
- ↑ 石飛(2010)pp.237,238
- ↑ シンプソン(1998)p.207
- ↑ 石飛(2010)p.17
- ↑ 野添(1975)p.151
- ↑ 石飛(2010)pp.83,115、野添(1975)pp.36,152。石飛(2010,p.83,115)は1947年10月、野添(1975,pp.36,152)は1946年10月に札幌に移住したとしている。
- ↑ 石飛(2010)p.81、野添(1975)p.152
- ↑ 石飛(2010)pp.16,83,115
- ↑ 石飛(2010)pp.16,83
- ↑ 石飛(2010)pp.56-57、野添(1992)p.226
- ↑ 石飛(2010)pp.83-84、野添(1975)pp.157-158
- ↑ 石飛(2010)pp.83-84
- ↑ 石飛(2010)pp.83-84
- ↑ 石飛(2010)p.85
- ↑ 杉原(2002)p.179、石飛(1996)pp.120,165
- ↑ 野添(1975)p.158
- ↑ 石飛(1997)p.114
- ↑ 野添(1975)p.36
- ↑ 石飛(2010)pp.12-16,78-85,98-101,115
- ↑ 石飛(2010)pp.154-160
- ↑ 石飛(2010)pp.164-174
- ↑ 野田(2008)p.275、石飛(2010)pp.195-196,214-218
- ↑ 石飛(2010)pp.291-293
- ↑ 石飛(2010)pp.315,379
- ↑ 石飛(2010)pp.69,84-88,120-121,126-127,139
- ↑ 石飛(2010)pp.188-189
- ↑ 石飛(2010)pp.191,203-204,295
- ↑ 石飛(2010)pp.303-304
- ↑ 石飛(2010)pp.310-311
参考文献
- 劉の著書については#著書を参照。
- 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042
- 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、4-00-430785-6
- シンプソン(1998) ウィリアム・B・シンプソン(著)古賀林幸(訳)『特殊諜報員』現代書館、1998年、4768467369
- 石飛(1997) 石飛仁『中国人強制連行の記録-日本人は中国人に何をしたか』〈三一新書1164〉三一書房、1997年、4-380-97008-6
- 石飛(1996) 石飛仁『花岡事件』〈FOR BEGINNERSシリーズ74〉、現代書館、1996年、4768400744
- 田中(1995) 田中宏「解説」(劉,1995,pp.173-198)
- 野添(1975) 野添憲治『花岡事件の人たち-中国人強制連行の記録』〈「人間の権利」叢書16〉評論社、1975年