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棋正社(きせいしゃ)は日本の囲碁の専門家団体。1924年(大正13年)から1941年(昭和16年)まで存続した。
歴史[編集]
1924年の碁界大合同により日本棋院が設立されたが、日本棋院の規約違反となる個人契約を行ったとして、雁金準一、鈴木為次郎、加藤信、高部道平六段、小野田千代太郎五段の5棋士が除名された。そこで、10月25日、新たに棋正社結成を宣言し、11月16日に発会式が行われた。翌年には雑誌「棋友」を買収して、棋正社の機関紙とした。 1925年5月には雁金の七段昇段を発表し、翌年1月に鈴木の七段昇段を発表するが、鈴木為次郎は1926年3月に棋正社を離脱して日本棋院に復帰した。次いで加藤信も1926年8月に棋正社を離脱した。
院社対抗戦[編集]
棋正社は読売新聞を通じて8月20日、日本棋院に対して対抗戦を呼びかけ、「日本棋院対棋正社敗退手合」(院社対抗戦)が行われることとなった。方式は双方の棋士が交替で出場する勝ち抜き戦形式で、初戦は本因坊秀哉と雁金準一(先番)戦で1926年(大正15年)9月27日に開始された。特別に持ち時間一人16時間の持ち時間で、打ち掛けをはさみ6日をかけて打たれた。大乱戦の碁は10月18日に雁金の時間切れ負けで終わった。 読売新聞は「大正の大争碁」として記事にし、観戦記に河東碧梧桐、村松梢風、菊池寛などの文士を配し、大盤による速報を行うなどして人気を博し、発行部数が一挙に3倍になって一流紙入りした。 2局目以降、棋正社は小野田、高部、雁金の3棋士が交互に出場し、日本棋院は橋本宇太郎、岩本薫など実力が段位を上回ると言われる伸び盛りの若手棋士が次々に出場した。不利になった棋正社は神戸にいた野沢竹朝五段を加え、六段、続いて七段を贈って対抗戦に参加させた。 通算42局まで行い、棋正社の14勝26敗2ジゴで終了した。
その後は、小野田千代太郎は対抗戦の途中で日本棋院に復帰し、野沢竹朝は1931年に死去、残るのは雁金と高部、及びそれぞれの弟子だけとなった。
その後の参加棋士としては渡辺昇吉、荒木親吉、小沢了正、大阪の都谷森逸郎、堀憲太郎、堀田忠弘、吉田浩三、橋本国三郎、名古屋の稲垣日省、渡辺英夫などであった。 1941年に雁金が呉清源との十番碁について高部と対立し、雁金の娘婿でもあった渡辺昇吉六段など一門の棋士を率いて棋正社を離脱し、瓊韻社を設立して、高部だけが残ったが事実上は消滅した。
1925年に刊行された『報知囲碁講義録』[1]は、編集者に雁金七段、鈴木七段、高部六段、加藤六段、小野田六段が当たっている。内容は入門編、定石編、布石編、実践解剖編、収束編、雑種編、囲碁の歴史となっている。囲碁の歴史は、囲碁の伝来から書き起こし、令義解「僧尼令」(701年)に
凡僧尼作 音楽及博戯者 百日苦使、碁琴不在制限
と見えることを初出とした。 杜陽雑編に
大中中 日本国皇子来朝 献宝器音楽、上設百戯珍饌以禮焉 王子善囲碁、上勅顧師言侍勅為対手、王子出楸玉局冷暖玉棋子
大中年間(847~860)に日本国の王子が来朝し、宝物と音曲を献上した。帝は返礼に様々な余興や珍味佳肴をととのえて王子をもてなした。王子が囲碁にすぐれていることを知った帝は、待詔の顧師言に命じて一局、打たせることにした。王子は持参した楸玉の碁盤と冷暖玉の碁石を取り出した。
参考文献[編集]
- ↑ 棋正社同人共編『報知囲碁講義録』大棋社,1925年