「本妙寺」の版間の差分

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==由緒==
 
==由緒==
1571年(元亀2年)駿府で創立した。開山は智存院日慶dである。山号を徳栄山と称すのは、徳川家が栄えるようにとの願いでつけられたものである。長福寺の檀徒で徳川家に仕えた久世広宣、大久保忠勝、大久保康忠、大久保忠俊、阿倍忠政等が、1571年(元亀二年)家康が岡崎から遠州曳馬(現浜松市)への入城に際し、智存院日慶上人に依頼して駿府に創立された。
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1571年(元亀2年)駿府で創立した。開山は智存院日慶である。山号を徳栄山と称したのは、徳川家が栄えるようにとの願いでつけられたものとされる。長福寺の檀徒で徳川家に仕えた久世広宣、[[大久保忠勝]]、[[大久保康忠]]、[[大久保忠俊]]、[[阿倍忠政]]等が、1571年(元亀二年)[[徳川家康]]が岡崎から遠州曳馬(現浜松市)に入城するに際し、智存院日慶上人に依頼して駿府に創立された。
  
1590年(天正18年)家康が関東奉行として江戸入城するに際して、久世家、大久保家等と共に江戸へ移転した。清水御門内に堂宇を建立したが、徳川家康の江戸築城にあたり替地を飯田橋に得た。牛込・小石川を転々とし、1636年(寛永13年)4代目日円上人の代に本郷丸山に移る。6代目日浄上人の1657年(明暦3年)振袖火事の火元として本堂・庫裡・宝物など悉く焼失、享保年間にも火災をおこし、一山全焼した。その後再建され、現在地へ移転するまで本郷丸山にあった。
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1590年(天正18年)家康が関東奉行として江戸入城するに際して、久世家、大久保家等と共に江戸へ移転した。清水御門内に堂宇を建立したが、徳川家康の江戸築城にあたり替地を飯田橋に得た。その後牛込・小石川を転々とし、1636年(寛永13年)4代目日円上人の代に本郷丸山に移る。6代目日浄上人の1657年(明暦3年)振袖火事の火元として本堂・庫裡・宝物など悉く焼失、享保年間にも火災をおこし、一山全焼したとされる。[[1657年]](明暦3年)正月18日、病死した娘の供養に燃やした振袖の火が、本妙寺の本堂に燃え移り、さらに燃え広がり、江戸城本丸を含む江戸市中のほとんどを焼き尽くした。「明暦の大火」、通称「振袖火事」である。
1911年(明治44年)12月本郷区菊坂町82より巣鴨村大字巣鴨字庚申塚25へ移転。戦災により全焼した。
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その後本妙寺は再建され、現在地へ移転するまで本郷丸山にあった。
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1911年(明治44年)12月本郷区菊坂町82より巣鴨村大字巣鴨字庚申塚25へ移転した。戦災により全焼した。
  
 
== 高麗門 ==
 
== 高麗門 ==
 
山門は、高麗門と呼ばれる形である。高麗門は正面の2本の本柱の上部を冠木で繋ぎ切妻屋根を架け、内部の控えの上にも小さな切妻屋根を架けた門である。
 
山門は、高麗門と呼ばれる形である。高麗門は正面の2本の本柱の上部を冠木で繋ぎ切妻屋根を架け、内部の控えの上にも小さな切妻屋根を架けた門である。
  
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== 本妙寺火元引受説 ==
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「明暦の大火」の原因は、本妙寺ではなかった、との説がある。隣接する幕府老中・[[阿部忠秋]]の屋敷の屋敷が実際の火元で、幕府の体面を保つために本妙寺がその汚名をかぶったとされる。火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにならなかったこと、元の場所に再建を許され、触頭に取り立てられて、大火前より大きな寺院となった。さらに大正時代にいたるまで阿部家が多額の供養料を年毎に奉納していることなどが論拠である。
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明暦の大火における被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大であることから、江戸の三大火の筆頭として挙げられる。
  
 
==文化財==
 
==文化財==
明暦三年大火供養塔
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*明暦三年大火供養塔([[明暦の大火]])
関宿藩主[[久世大和守]]歴代の墓
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*関宿藩主[[久世大和守]]歴代の墓
江戸後期の北町奉行、[[遠山金四郎]]景元墓(東京都指定旧跡)
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*江戸後期の北町奉行、[[遠山金四郎]]景元墓(東京都指定旧跡)
江戸後期の剣聖、[[千葉周作]]墓
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*江戸後期の剣聖、[[千葉周作]]墓
囲碁家元[[本因坊]]歴代の墓
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*囲碁家元[[本因坊]]歴代の墓
棋聖[[天野宗歩]]墓
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*棋聖[[天野宗歩]]墓
日本最初の通訳、[[森本多吉郎]]墓
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*日本最初の通訳、[[森本多吉郎]]墓
  
 
本妙寺公式
 
本妙寺公式

2017年9月14日 (木) 12:02時点における最新版

本妙寺(ほんみょうじ)は、東京都豊島区巣鴨五丁目にある法華宗陣門流の東京別院。山号は徳栄山。院号は総持院。本尊は十界勧請曼荼羅。正式名は「徳栄山 惣持院 本妙寺」

由緒[編集]

1571年(元亀2年)駿府で創立した。開山は智存院日慶である。山号を徳栄山と称したのは、徳川家が栄えるようにとの願いでつけられたものとされる。長福寺の檀徒で徳川家に仕えた久世広宣、大久保忠勝大久保康忠大久保忠俊阿倍忠政等が、1571年(元亀二年)徳川家康が岡崎から遠州曳馬(現浜松市)に入城するに際し、智存院日慶上人に依頼して駿府に創立された。

1590年(天正18年)家康が関東奉行として江戸入城するに際して、久世家、大久保家等と共に江戸へ移転した。清水御門内に堂宇を建立したが、徳川家康の江戸築城にあたり替地を飯田橋に得た。その後牛込・小石川を転々とし、1636年(寛永13年)4代目日円上人の代に本郷丸山に移る。6代目日浄上人の1657年(明暦3年)振袖火事の火元として本堂・庫裡・宝物など悉く焼失、享保年間にも火災をおこし、一山全焼したとされる。1657年(明暦3年)正月18日、病死した娘の供養に燃やした振袖の火が、本妙寺の本堂に燃え移り、さらに燃え広がり、江戸城本丸を含む江戸市中のほとんどを焼き尽くした。「明暦の大火」、通称「振袖火事」である。 その後本妙寺は再建され、現在地へ移転するまで本郷丸山にあった。 1911年(明治44年)12月本郷区菊坂町82より巣鴨村大字巣鴨字庚申塚25へ移転した。戦災により全焼した。

高麗門[編集]

山門は、高麗門と呼ばれる形である。高麗門は正面の2本の本柱の上部を冠木で繋ぎ切妻屋根を架け、内部の控えの上にも小さな切妻屋根を架けた門である。


本妙寺火元引受説[編集]

「明暦の大火」の原因は、本妙寺ではなかった、との説がある。隣接する幕府老中・阿部忠秋の屋敷の屋敷が実際の火元で、幕府の体面を保つために本妙寺がその汚名をかぶったとされる。火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにならなかったこと、元の場所に再建を許され、触頭に取り立てられて、大火前より大きな寺院となった。さらに大正時代にいたるまで阿部家が多額の供養料を年毎に奉納していることなどが論拠である。 明暦の大火における被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大であることから、江戸の三大火の筆頭として挙げられる。

文化財[編集]

本妙寺公式 http://www.honmyoji.org/