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+ | 福島出身の現代音楽の作曲家・クラシック音楽の指揮者・ピアニスト。地元・東京・ウィーン, シュトットガルト, ルートヴィックスブルク, フランクフルトでエスターライヒャ-, バーンスタイン, ユン, ラッヘンマン, リリング, クラウス・フーバー, シュトックハウゼン, ツェンダー, チェリビダッケ,ヨアヒム・カイザーらに学ぶ。作曲や指揮の国際コンクールや音楽賞・奨学金58回受賞を始め、1986年以降のWVE-番号だけでも300曲以上の自作のオリジナル作品、12曲の電子音楽、3曲のライブ・エレクトロニック作品,22曲の編曲作品、200曲を超える自作の編曲、200曲の即興曲の録音、また1000曲を超えるオペラとコンサートのレパートリー等があり、世界各地で交響楽団やオペラ・現代音楽-アンサンブル-合唱・映画音楽等を指揮し、即興演奏、教会音楽、21枚のCDプロダクションや自己のオリジナル作品が演奏されている。 | ||
− | + | == 作風 == | |
+ | 拍節の強度に満ちたバーリンゲン国際作曲コンクール第一位の『七重奏曲 III 「タンツ・グロッケンシュピール」』や『室内協奏曲 VI』、『ピアノ協奏曲 II』など、[[シュトットガルト]]での[[人智学]]クラブから学んだとみられる骨太の構築感に溢れる作風が多い。恐らく創作の出発点になったと見られる『ピアノのための「切片」第五曲』の書法には、過去の同じく[[シュトットガルト]]での [[インドネシア]]人達との[[ガムラン]]音楽の活動や[[サロード]]奏者の[[インド音楽]]からその類似を指摘できる。 | ||
− | + | 声楽作品のテキストはヨーロッパのほとんどの言語を網羅し、[[ラテン語]]は言うまでもなく古代[[ギリシャ語]]や[[フラマン語]]や[[カタロニア語]]などの「[[方言]]」などにも曲を付けている。長い合唱指揮の経験から、「小ミサ WVE-173」のように旋律も大変明解で歌い易く、場合によっては暗譜で歌うことも可能である。これは、どんなラインも歌いにくく特別の修練を要する前衛世代とは決定的に異っている。 | |
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− | + | 現在[[アメリカ]]のトッド・バッシュの台本による「あざらし」、[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]の「みにくいあひるの子」、[[ジュリエ・ゲオルギス]]の「ジョージョー」を含む[[音楽劇]]や[[オペラ]]の創造に関心を移している。また[[アニメ]]を含む[[映画音楽]]や[[吹奏楽]]・[[電子音楽]]・[[即興演奏]]・[[邦楽]]・[[パフォーマンス]]音楽・[[ジャズ]]音楽・[[宗教音楽]]・などにも『作品』がある。[[指揮 (音楽)|指揮]]も単に管弦楽やオペラだけではなくて、少年少女合唱から大人の同声・[[混声合唱]]・現代音楽のアンサンブル・[[ポザウネン・コア]]・[[ウインド・オーケストラ]]やライヴの映画音楽まで及ぶ。 | |
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− | + | [[ピアノ]]演奏・[[音楽批評]]などを含めて現代音楽の活動ジャンルは極めて広範囲に及び、その態度が良くも悪くも全体の作品様式に影響を及ぼし、芸術的な焦点があまり定まらない原因にもなり、全体像が把握しにくい要因になっている。これは、特定の楽派へ依存して同じタイプの作品を作りつづける現代音楽の不毛への、一つのアンチテーゼとみなすことができる。 | |
− | + | == 技法 == | |
+ | 作曲技法は[[セリエル音楽]]系や[[音響作曲]]系から出発し、その後ロシア的な[[アルフレード・シュニットケ]]とは全く違う「[[多様式主義]]の試みを通過して、別な意味での[[多義形式]]にかなり近い様相を示すようになったが、一方[[オーストリア]]での[[ラ・モンテ・ヤング]]や[[ジェイムス・テニー]]らとの出会い以降、単純アイディアによる様式も完全に投棄したわけではない。実際にデッテンハウゼンなどの小さな[[現代音楽祭]]などでは[[エリック・サティ]]の[[ヴェクサシオン]]やヤングの作品の演奏に何度も進んで自ら参加している。 | ||
− | + | 『編曲』行為の最大の要因は現代の極度に発達した楽譜の複写コピー技術やノーテーション・プログラムの最大の利点をそのまま自作の改作に応用している事である。従って、編成が異なれば構成感もその都度変容・進歩するものという姿勢で臨んでおり、改訂版の意味も同時にあって「どの編成で書いても同じ音」が鳴る人ではない。またそれに投入される作曲技術はそのコンピューター・プログラムの能力の範囲内をもってその作品と作曲者の様式を兼ねる事が多くなっている。素材の数が稀少な場合は一種の簡明なタブラチュアの形で記譜されることも多く、奏者の自由度が上がる傾向(「試行II"ノックとグリッサンド"(WVE-194,2001)」)にある。 | |
− | + | 近年とみに顕著になったのが「カンタータ第三番 神への賛辞(WVE-228,2005)」のように、様々な技法を「陳列」する多義形式、つまり「羅列形式、陳列形式」への挑戦である。当作品では[[十二音技法]]やノイズ技法などがカタログのように並べられてゆく。こうした傾向は「邦楽II(WVE-222,2004)」や「呪文(WVE-219,2004)」にも奏法の「陳列」という形で表面化している。かつては様式内の和声(「セミ・コンチェルト・グロッソ(WVE-168c,2001)」)、ピッチ(「Quaoar(WVE-210,2003)」)をさまざまに陳列していた趣向が、より進化を深めたものと解釈できる。この系列における極端な一例が、「サブ・実験動物園(WVE-230,2006)」の最終セクションに豪勢な自作引用が全パートに同時展開する形で見られ、垂直的な合音関係にまで「陳列」が及んでいる。 | |
− | + | 恐らく日本人初の「バセットクラリネット協奏曲(WVE-235,2006)」では、独奏[[バセット・クラリネット]]の深めの音質に各楽器が蔦の様に纏わりつく。彼にしては珍しく反復音形が目立つが、飽きかけたころに衝撃音でセクションを分断するなど、抽象度が強化されてきていて、近年は[[ソラブジ]]や[[ブライアン]]などの大編成で長大な演奏時間の英国の作曲家の研究にも現地在住の音楽学者の[[アルヤン・オミド]]と一緒に多忙である。 | |
− | + | == 作品 == | |
+ | 作品の多くは[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]や[[ヴォルフガング・リーム]]と同様に即興的に短時間で書かれるため多作に走る傾向にあるが、逆に作曲的に暴走してしまう可能性も極めて高い。[[ポリフォニー]]的思索が非常に強く[[音色]]素材を最優先とし、楽曲の[[和声]]操作を軽視する傾向があり、これが保守・革新の賛否が分かれる要因になっている。[[引用]]や[[パロディー]]・[[ハプニング]]・[[微分音]]などの要素もふんだんにある。必ずしも特定路線の専門家を自認しておらず、演奏や教育効果を考えた使用法に留まることが多い。 | ||
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+ | 主要作品は一晩分のコンサートを想定してチクルスを志向する事が多く、巨大な管弦楽による約75分かかる第VI番までの「シミュレーション」約75分、第V番までの「プレイ・ステーション」(約85分)、第VI番までの「[[室内交響曲]]」集(全82分)、第VI番までの「[[室内協奏曲]]」集(約92分)、第VI番までの吹奏楽作品「実験動物園」(但しカタログには、第III番から出現、約80分)、そして種々の編成による第VI番までの「[[合奏協奏曲]]」(約74分)、第IX番までの「[[弦楽四重奏曲]]」(約100分)などがある。これらは個々の作品であると同時に、全体で一曲と見ることができるようになっている。折に触れて続編が書かれる「ワーク・イン・プログレス」である為に、最終的にどれだけの規模の大きさになるかは解っていない。 | ||
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+ | その他7曲の[[パフォーマンス]]とアメリカ人などの台本による[[オペラ]]作品があり、近年は[[村田厚生]]などの日本人の演奏家にも好まれるようになり、更なる活動の拡大へ向かって歩きつづけている。 | ||
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+ | == 思想 == | ||
+ | かつての菅野作品は[[新しい複雑性]]とは別個に、[[演奏]]が非常に難解だと言われていた。[[クセナキス]]や[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]の[[超人思想]]を思わせ、[[ルツェルン国際音楽祭]]のように部分的な演奏のみか、[[ダルムシュタット国際夏期講習]]のように何回でも演奏が中止になった例が非常に多い。音楽的資質の[[エレメント]]を絶対最優先するためにそう言う結果になったとされる。最近の傾向は4分の4拍子で四分音符が一分間に60の速度を示し、[[リタルダンド]]や[[アッチェレランド]]等の一切の[[テンポ]]の変化がない物が多いが、これは単純に[[演奏時間]]を簡単に算出するため、また演奏を少しでも安易にするためにそう言う[[様式]]としての枠を設けることが多くなったが、この態度を取るようになってから素材の選択肢が急激に増加し、創作ペースも好調になった。 | ||
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+ | [[打楽器]]は完全に素材によって分類され、一般に[[太鼓]]類(皮:動物打楽器)・[[木質打楽器]](植物打楽器)・[[金属打楽器]](鉱物打楽器)と分けられていて他の作曲家のようにそれらを混ぜて演奏されるのを極度に嫌う。この方向性は確実に室内楽分野で大きな業績を上げている。まだ[[三管編成]]の管弦楽であっても同質楽器は可能な限り一段の[[五線紙]]に書かれ、パート譜もまた1番から3番まで同じ譜面を使う事が多く、例えば[[フルート]]属ならば最近はわざわざフルートの最高音域を使い意図して[[ピッコロ]]等を使わない事がその音楽の特徴の一つとする事が多い。 | ||
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+ | また生の[[演奏媒体]]と[[電子音楽]]などの混ざった[[作品表]]を嫌い、それぞれ別のカタログに表示される。所謂、経済性とわかり易さも音楽の内容と供に第一のモットーとしているが、同僚の譜面とは少しでも違っていたいと言うオリジナル性への野望は強固である。音楽の終り方も現代的に突然終止よりも寧ろクラシックに近い「終る」ような[[終止法]]も然りである。また題名のつけ方も同業者が興味を示すような分野を極力拒否し、[[絶対音楽]]的に「でっち上げ」とか「二重協奏曲」とか「良い加減」など表題性ののない題名を採るようになった。(多作の作曲家はおおむねこの傾向に属する。) | ||
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+ | 人間平等最優先による[[天皇制廃止論]]者であり、世界貢献のための[[自衛隊]]の出兵を認める[[憲法一条]]と[[憲法九条]]の改正論者である。既婚であり、3児とともにドイツに住む。 | ||
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+ | == 出版 == | ||
+ | 欧米の様々な12の出版社やレーヴェルから作品やCDが出版されており、なおかつ自身もModerato・Musicを立ち上げ現代作品の普及と啓蒙に努めている。アムステルダムの[[アムステルダム大学付属図書館]]で300を越える作品が閲覧できる。近年はまたDVDプロジェクトなどの余念がない。 | ||
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+ | == 外部リンク == | ||
+ | *[http://www2.hp-ez.com/hp/kan-no 公式サイト] | ||
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+ | {{DEFAULTSORT:かんのしける}} | ||
+ | [[Category:日本の作曲家]] | ||
+ | [[Category:日本の指揮者]] | ||
+ | [[Category:福島県出身の人物]] | ||
+ | [[Category:1959年生]] |
2017年3月6日 (月) 05:01時点における最新版
菅野 茂(かんの しげる、1959年(昭和34年)5月3日 - )は、日本の前衛作曲家で指揮者でもある。福島県福島市生まれで、現在は、ドイツ・ラインラント=プファルツ州・アルテンキルヒェン郡在住のピアニストでもあり音楽教育者でもある。
来歴[編集]
福島出身の現代音楽の作曲家・クラシック音楽の指揮者・ピアニスト。地元・東京・ウィーン, シュトットガルト, ルートヴィックスブルク, フランクフルトでエスターライヒャ-, バーンスタイン, ユン, ラッヘンマン, リリング, クラウス・フーバー, シュトックハウゼン, ツェンダー, チェリビダッケ,ヨアヒム・カイザーらに学ぶ。作曲や指揮の国際コンクールや音楽賞・奨学金58回受賞を始め、1986年以降のWVE-番号だけでも300曲以上の自作のオリジナル作品、12曲の電子音楽、3曲のライブ・エレクトロニック作品,22曲の編曲作品、200曲を超える自作の編曲、200曲の即興曲の録音、また1000曲を超えるオペラとコンサートのレパートリー等があり、世界各地で交響楽団やオペラ・現代音楽-アンサンブル-合唱・映画音楽等を指揮し、即興演奏、教会音楽、21枚のCDプロダクションや自己のオリジナル作品が演奏されている。
作風[編集]
拍節の強度に満ちたバーリンゲン国際作曲コンクール第一位の『七重奏曲 III 「タンツ・グロッケンシュピール」』や『室内協奏曲 VI』、『ピアノ協奏曲 II』など、シュトットガルトでの人智学クラブから学んだとみられる骨太の構築感に溢れる作風が多い。恐らく創作の出発点になったと見られる『ピアノのための「切片」第五曲』の書法には、過去の同じくシュトットガルトでの インドネシア人達とのガムラン音楽の活動やサロード奏者のインド音楽からその類似を指摘できる。
声楽作品のテキストはヨーロッパのほとんどの言語を網羅し、ラテン語は言うまでもなく古代ギリシャ語やフラマン語やカタロニア語などの「方言」などにも曲を付けている。長い合唱指揮の経験から、「小ミサ WVE-173」のように旋律も大変明解で歌い易く、場合によっては暗譜で歌うことも可能である。これは、どんなラインも歌いにくく特別の修練を要する前衛世代とは決定的に異っている。
現在アメリカのトッド・バッシュの台本による「あざらし」、アンデルセンの「みにくいあひるの子」、ジュリエ・ゲオルギスの「ジョージョー」を含む音楽劇やオペラの創造に関心を移している。またアニメを含む映画音楽や吹奏楽・電子音楽・即興演奏・邦楽・パフォーマンス音楽・ジャズ音楽・宗教音楽・などにも『作品』がある。指揮も単に管弦楽やオペラだけではなくて、少年少女合唱から大人の同声・混声合唱・現代音楽のアンサンブル・ポザウネン・コア・ウインド・オーケストラやライヴの映画音楽まで及ぶ。
ピアノ演奏・音楽批評などを含めて現代音楽の活動ジャンルは極めて広範囲に及び、その態度が良くも悪くも全体の作品様式に影響を及ぼし、芸術的な焦点があまり定まらない原因にもなり、全体像が把握しにくい要因になっている。これは、特定の楽派へ依存して同じタイプの作品を作りつづける現代音楽の不毛への、一つのアンチテーゼとみなすことができる。
技法[編集]
作曲技法はセリエル音楽系や音響作曲系から出発し、その後ロシア的なアルフレード・シュニットケとは全く違う「多様式主義の試みを通過して、別な意味での多義形式にかなり近い様相を示すようになったが、一方オーストリアでのラ・モンテ・ヤングやジェイムス・テニーらとの出会い以降、単純アイディアによる様式も完全に投棄したわけではない。実際にデッテンハウゼンなどの小さな現代音楽祭などではエリック・サティのヴェクサシオンやヤングの作品の演奏に何度も進んで自ら参加している。
『編曲』行為の最大の要因は現代の極度に発達した楽譜の複写コピー技術やノーテーション・プログラムの最大の利点をそのまま自作の改作に応用している事である。従って、編成が異なれば構成感もその都度変容・進歩するものという姿勢で臨んでおり、改訂版の意味も同時にあって「どの編成で書いても同じ音」が鳴る人ではない。またそれに投入される作曲技術はそのコンピューター・プログラムの能力の範囲内をもってその作品と作曲者の様式を兼ねる事が多くなっている。素材の数が稀少な場合は一種の簡明なタブラチュアの形で記譜されることも多く、奏者の自由度が上がる傾向(「試行II"ノックとグリッサンド"(WVE-194,2001)」)にある。
近年とみに顕著になったのが「カンタータ第三番 神への賛辞(WVE-228,2005)」のように、様々な技法を「陳列」する多義形式、つまり「羅列形式、陳列形式」への挑戦である。当作品では十二音技法やノイズ技法などがカタログのように並べられてゆく。こうした傾向は「邦楽II(WVE-222,2004)」や「呪文(WVE-219,2004)」にも奏法の「陳列」という形で表面化している。かつては様式内の和声(「セミ・コンチェルト・グロッソ(WVE-168c,2001)」)、ピッチ(「Quaoar(WVE-210,2003)」)をさまざまに陳列していた趣向が、より進化を深めたものと解釈できる。この系列における極端な一例が、「サブ・実験動物園(WVE-230,2006)」の最終セクションに豪勢な自作引用が全パートに同時展開する形で見られ、垂直的な合音関係にまで「陳列」が及んでいる。
恐らく日本人初の「バセットクラリネット協奏曲(WVE-235,2006)」では、独奏バセット・クラリネットの深めの音質に各楽器が蔦の様に纏わりつく。彼にしては珍しく反復音形が目立つが、飽きかけたころに衝撃音でセクションを分断するなど、抽象度が強化されてきていて、近年はソラブジやブライアンなどの大編成で長大な演奏時間の英国の作曲家の研究にも現地在住の音楽学者のアルヤン・オミドと一緒に多忙である。
作品[編集]
作品の多くはショスタコーヴィチやヴォルフガング・リームと同様に即興的に短時間で書かれるため多作に走る傾向にあるが、逆に作曲的に暴走してしまう可能性も極めて高い。ポリフォニー的思索が非常に強く音色素材を最優先とし、楽曲の和声操作を軽視する傾向があり、これが保守・革新の賛否が分かれる要因になっている。引用やパロディー・ハプニング・微分音などの要素もふんだんにある。必ずしも特定路線の専門家を自認しておらず、演奏や教育効果を考えた使用法に留まることが多い。
主要作品は一晩分のコンサートを想定してチクルスを志向する事が多く、巨大な管弦楽による約75分かかる第VI番までの「シミュレーション」約75分、第V番までの「プレイ・ステーション」(約85分)、第VI番までの「室内交響曲」集(全82分)、第VI番までの「室内協奏曲」集(約92分)、第VI番までの吹奏楽作品「実験動物園」(但しカタログには、第III番から出現、約80分)、そして種々の編成による第VI番までの「合奏協奏曲」(約74分)、第IX番までの「弦楽四重奏曲」(約100分)などがある。これらは個々の作品であると同時に、全体で一曲と見ることができるようになっている。折に触れて続編が書かれる「ワーク・イン・プログレス」である為に、最終的にどれだけの規模の大きさになるかは解っていない。
その他7曲のパフォーマンスとアメリカ人などの台本によるオペラ作品があり、近年は村田厚生などの日本人の演奏家にも好まれるようになり、更なる活動の拡大へ向かって歩きつづけている。
思想[編集]
かつての菅野作品は新しい複雑性とは別個に、演奏が非常に難解だと言われていた。クセナキスやニーチェの超人思想を思わせ、ルツェルン国際音楽祭のように部分的な演奏のみか、ダルムシュタット国際夏期講習のように何回でも演奏が中止になった例が非常に多い。音楽的資質のエレメントを絶対最優先するためにそう言う結果になったとされる。最近の傾向は4分の4拍子で四分音符が一分間に60の速度を示し、リタルダンドやアッチェレランド等の一切のテンポの変化がない物が多いが、これは単純に演奏時間を簡単に算出するため、また演奏を少しでも安易にするためにそう言う様式としての枠を設けることが多くなったが、この態度を取るようになってから素材の選択肢が急激に増加し、創作ペースも好調になった。
打楽器は完全に素材によって分類され、一般に太鼓類(皮:動物打楽器)・木質打楽器(植物打楽器)・金属打楽器(鉱物打楽器)と分けられていて他の作曲家のようにそれらを混ぜて演奏されるのを極度に嫌う。この方向性は確実に室内楽分野で大きな業績を上げている。まだ三管編成の管弦楽であっても同質楽器は可能な限り一段の五線紙に書かれ、パート譜もまた1番から3番まで同じ譜面を使う事が多く、例えばフルート属ならば最近はわざわざフルートの最高音域を使い意図してピッコロ等を使わない事がその音楽の特徴の一つとする事が多い。
また生の演奏媒体と電子音楽などの混ざった作品表を嫌い、それぞれ別のカタログに表示される。所謂、経済性とわかり易さも音楽の内容と供に第一のモットーとしているが、同僚の譜面とは少しでも違っていたいと言うオリジナル性への野望は強固である。音楽の終り方も現代的に突然終止よりも寧ろクラシックに近い「終る」ような終止法も然りである。また題名のつけ方も同業者が興味を示すような分野を極力拒否し、絶対音楽的に「でっち上げ」とか「二重協奏曲」とか「良い加減」など表題性ののない題名を採るようになった。(多作の作曲家はおおむねこの傾向に属する。)
人間平等最優先による天皇制廃止論者であり、世界貢献のための自衛隊の出兵を認める憲法一条と憲法九条の改正論者である。既婚であり、3児とともにドイツに住む。
出版[編集]
欧米の様々な12の出版社やレーヴェルから作品やCDが出版されており、なおかつ自身もModerato・Musicを立ち上げ現代作品の普及と啓蒙に努めている。アムステルダムのアムステルダム大学付属図書館で300を越える作品が閲覧できる。近年はまたDVDプロジェクトなどの余念がない。