「社会主義リアリズム」の版間の差分
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− | 尤も、同じ共産主義国家でも[[キューバ]]のように、ポップでカラフルで抽象的な、堅苦しくなく瀟洒なデザインの[[ポスター]]を量産していた国もあり、いっぽう反共国家でも、社会主義リアリズムと形式的にはそっくりな[[プロパガンダ]]芸術が存在していた国もある。(例としては、やはり新古典主義や写実を源流とする、健康的で民族的な題材を描いた[[ナチス・ドイツ]]の公式芸術など。また、アメリカなどのプロパガンダ用[[イラストレーション]]や[[映画]]でも、古典、写実、強さと健康さの誇示など、同様の嗜好はある。) | + | 尤も、同じ共産主義国家でも[[キューバ]]のように、ポップでカラフルで抽象的な、堅苦しくなく瀟洒なデザインの[[ポスター]]を量産していた国もあり、いっぽう反共国家でも、社会主義リアリズムと形式的にはそっくりな[[プロパガンダ]]芸術が存在していた国もある。(例としては、やはり新古典主義や写実を源流とする、健康的で民族的な題材を描いた[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]の公式芸術など。また、アメリカなどのプロパガンダ用[[イラストレーション]]や[[映画]]でも、古典、写実、強さと健康さの誇示など、同様の嗜好はある。) |
==社会主義リアリズムの源流== | ==社会主義リアリズムの源流== |
2014年5月6日 (火) 18:36時点における版
社会主義リアリズム(しゃかいしゅぎ―)は、ソビエト連邦ほかの公式的な美術・音楽・文学などの表現方法であり、評論の指針。
あるべき芸術の姿とは、社会主義革命が勝利に向かって進んでいる現状を、具体的でわかりやすい方法で描いて賞賛し、人民を思想的に教育する目的を持った芸術、という考え方。
目次
ロシア・アヴァンギャルド
当初、ソビエト連邦が始まった頃は、アカデミックな保守的美術を支えていた貴族やブルジョワ、芸術家たちがほとんど亡命するか処刑されて、芸術界に大きな空白ができた後だった。それまで不遇だった若い世代の先端的なロシアの芸術家たちは、保守的な美術を退け、前衛的で革命的な実験を芸術の世界にまで広げようと、ロシア・アヴァンギャルドの実験を美術・音楽・文学・ポスター・建築などあらゆる分野で試みた。これらは革命直後の気風とも一致し、政府の支持のもと舞台芸術や記念碑案など様々に展開され世界中の芸術家に衝撃を与えた。しかしこうした実験は労働者大衆や一部の政治指導者には難解で支離滅裂だと評判が悪かったことは想像に難くない。また彼ら前衛芸術家の間にも、芸術観をめぐって路線の争いがあった。
プロレタリアート主導の芸術
いっぽうソビエト連邦には、芸術は個人主義的なものではなく、労働者らによって主導され、労働者や革命に貢献しなければならないというプロレタリアートの主導性を重視した政治主導的な芸術観(たとえば、プロレタリア文学運動)も平行してあった。
これはモスクワの指導の下、コミンテルンの各国支部などを通じヨーロッパやアメリカ、日本などでも同時発生的に起こっていた芸術観であった。当時世界中の多くの運動指導者や芸術家がこの考えを支持し、労働者の置かれた現実を把握し掘り下げ、より広汎な人々をプロレタリアートとして自覚させ行動に立ち上がらせるような文学・絵画などの作品を作り続けていた。(1930年代はアメリカでも、美術や文学の世界では、個人的で労働者大衆にはわかりにくい実験的手法よりも、現実に起こった事件や社会の矛盾などを写実的に描く芸術が主流を占めていた。)
社会主義リアリズムの公式採用
1930年代に入り革命後の混乱がおさまり、社会主義国家の建設が軌道に乗り始めた頃、労働者や農民出身の新しい芸術家たちが台頭し、いっぽう革命前からの知識人や芸術家が次第にプロレタリアート主導の芸術を指示する側に回った。これら二つの芸術家の流れを一つにまとめ上げ、社会主義国家のますますの発展のために一人でも多くの労働者大衆を芸術を通じて社会主義建設に目覚めさせ、鼓舞しなければならないという、政治主導的な芸術の動きが強まっていった。そこで前衛芸術家たちの実験や相互の争いをやめさせるいっぽう、労働者大衆に世界の「現実」に対する目を開かせ、革命や社会建設のためにたたかっている労働者を鼓舞するような芸術をつくるべく、1932年のソ連共産党中央委員会にて下記のような「社会主義リアリズム」の方針が提唱され、1930年代前半のうちに文学ほかあらゆる芸術分野の作家大会で公式に採用されるに至った。
- 現実を、社会主義革命が発展しているという認識の下で、空想ではなくリアルに、歴史的具体性をもって描く
- 芸術的描写は、労働者を社会主義精神に添うように思想的に改造し教育する課題に取り組まなければならない
日本やヨーロッパ諸国も含め多くの国の芸術界で、ソビエトに続いて芸術を社会主義リアリズムに進化させて、世界のプロレタリアートが革命に結集するようにしなければならないという声が高まった。
社会主義リアリズムの硬直化
しかし、この方針は芸術を、党の政治方針に添った「模範」や「枠」から出ないようにするものとなった。またソビエトにおいてスターリンの独裁体制が固まるにつれ、彼の提唱した「形式においては民族的、内容においては社会主義的」という方針を元に全ての作品が評価されるようになった。美術でも音楽でも文学でも、労働者や農民大衆にもわかりやすく写実的で、ロシアに古くからあった伝統的な画法や旋律、様式をもちいることが求められた。こうなっては、社会主義リアリズムは「リアリズム」とは言いながら、党の許す範囲の現実しか描けないリアリズムへと劣化するはめになった。
- 美術においては画題は限られ、農場や工場などで英雄的に働く労働者など、社会主義の発展を健康的に写実的に描いた絵画が量産された。(社会主義リアリズム絵画は西側の評論家から、「少女が農場でトラクターに出会うような絵ばかり」と揶揄された)また、指導者スターリンの英雄的な像も多数描かれた。
- 建築においても、「スターリン様式」という、労働者大衆に感銘を抱かせるための、装飾的で権威的な新古典主義の超高層ビルがロシア各地や東欧などに建てられた。(スターリン死後は、建築は芸術というより工学として考えられるようになり、プレハブのような簡便で粗末な建物が品質に関係なく大量生産された。)
- 文学においては、西欧のような「普通の人」などを主人公にしたものではなく、普通の「労働者」が英雄として描かれる作品が理想とされ、また弁証法的唯物論を反映することが期待された。
- 音楽においては、プロレタリアートの生活やたたかいを反映した目の覚めるような心を高ぶらせる音楽が求められる一方で、それに反する作品やその作曲家は攻撃の対象になった。特に、1948年にソビエト連邦共産党中央委員であったジダーノフによる主にショスタコーヴィチ批判を目的とした作曲家への一斉攻撃は後に「ジダーノフ批判」と呼ばれ有名である。この時点で社会主義リアリズムは芸術家を統制するための政治家の道具に堕したといえる。
こうした社会主義リアリズムや「形式においては民族的、内容においては社会主義的」といった芸術のあり方は、第二次世界大戦後、東欧諸国や中華人民共和国、北朝鮮など他の社会主義国でも同様に採用されていった。
例として、北朝鮮においては、たとえば美術では伝統的な「朝鮮画」によって、音楽では伝統的な民謡や大衆歌の旋律を活かして、革命の事跡や革命建設のすばらしい達成振り、指導者の比べようのない偉大さなどを写実的に健康的に描くことが基準となっている。
尤も、同じ共産主義国家でもキューバのように、ポップでカラフルで抽象的な、堅苦しくなく瀟洒なデザインのポスターを量産していた国もあり、いっぽう反共国家でも、社会主義リアリズムと形式的にはそっくりなプロパガンダ芸術が存在していた国もある。(例としては、やはり新古典主義や写実を源流とする、健康的で民族的な題材を描いたナチス・ドイツの公式芸術など。また、アメリカなどのプロパガンダ用イラストレーションや映画でも、古典、写実、強さと健康さの誇示など、同様の嗜好はある。)
社会主義リアリズムの源流
ロシアにおいて、政府が芸術を統制したのは、ソビエトが最初ではない。ロシア帝国も秘密警察を持ち、全ての出版物を検閲しており、ロシアの芸術家はこのころから検閲をすり抜け言いたいことを言う術を身につけていた。これらは結局、ソビエトにそのまま(しかも強化された形で)引き継がれてしまった。
ロシア芸術における社会主義リアリズムの源流は、19世紀の新古典主義にさかのぼる。またロシア文学やロシア美術の写実主義において、広大な帝国の農村で貧窮する人々を描いた作家たちにも重要な関連がある。なかでも、マクシム・ゴーリキーの芸術に関する哲学が社会主義リアリズムの理論に大きな影響を与えた。彼の作品『母』(1907年)が最初の社会主義リアリズム文学とされ、かれの評論『社会主義リアリズムについて』が「ソビエト芸術」の必要性を論じた。
社会主義リアリズムのおわり
西側諸国
西側諸国では、第二次大戦後、世界の芸術界への社会主義の浸透に脅威を抱いたアメリカが、CIAやその傘下の「文化自由会議」などを用い、世界各国に抽象表現主義やポップアートなどアメリカの現代美術や、アメリカ文学を普及させる資金援助や工作を行った。これは本当に功を奏したかは不明だが、西側の芸術家たちのほとんどは、左翼である者も社会主義リアリズムからは硬直性を嫌って離れていった。
ソビエト
ソビエトでは、ロシア・アヴァンギャルドや西欧の前衛的な手法はブルジョワ的であってプロレタリア的ではないと徹底的に排除された。ロシア・アヴァンギャルドを主導した作家たちは転向したり流刑され処刑されたり、多くは欧米へと活路を求め亡命していった。また、第二次大戦後、スターリンの没後もボリス・パステルナークやアレクサンドル・ソルジェニーツィンら多くの文学者が弾圧された。また、フルシチョフが1962年にある展覧会で抽象絵画を観て「まるでロバの尻尾で描いたような絵だ」(あるいは、「ロシア・アヴァンギャルド時の『ロバの尻尾』派みたいな絵だ」)とこきおろした「ロバの尻尾事件」によって、以後長い間、抽象画など欧米式の現代美術は公認されなかった。
ところがソビエトの1960年代から末期にかけて、地下に潜んでいた反体制の現代美術家らは、ネオダダやポップアートにならい、社会主義リアリズムの凡庸な画風を流用してそれらを皮肉った作品を量産した。これが後に「ソッツ・アート」と呼ばれる。1974年にはモスクワ近郊の野原でソッツ・アートや様々なスタイルの抽象絵画、抽象彫刻などを含めた現代美術展が開催されたが、当局がブルドーザーと放水車で会場と作品を完全破壊する事件が起き、これで西側は「地下美術家」の存在を知った。彼らには、ポスター画家や絵本作家に憂き身をやつしてさらに潜伏するか、海外へ亡命するかの選択しかなかった。80年代後半以降、ソッツ・アートの作家たちはアメリカなどで脚光を浴びるものの、敵であるソビエトが崩壊してしばらくたつと社会主義リアリズムもろとも沈み、社会主義批判以上の射程を持っていた作家しか残っていない。
ゴルバチョフ時代にいくぶん表現の自由が緩和され、社会主義リアリズムに対する激しい論争も起こったが、結局、社会主義リアリズムは1991年のソ連崩壊まで公式芸術であり続けた。現在は、東欧でもロシアでも、アメリカや西欧に倣いつつも、辿ってきた抑圧や耐久の歴史をも反映させた、独自の文学や美術や音楽を作り出している。
中華人民共和国
1949年に毛沢東率いる中国共産党により建立された中華人民共和国も、ながらく農民の現実に即した社会主義リアリズムか、あるいは伝統的な中国美術が公式芸術であったが、1980年代終わりの改革開放から地下芸術家が現れ始め、全く政府の援助を受けられない中、自分や他人の身体を酷使したパフォーマンスや、社会主義リアリズムの美術教育で身につけた超絶的な写実技法を使った不愉快な絵画など、過激な実験的美術を展開した。
1990年代末には世界の美術界の新星としてヴェネツィア・ビエンナーレなどで大きく紹介され、欧米の脚光を浴びた(多分に、実験的美術家の存在や政治・表現の自由を一切認めない中国共産党への圧力も込められてはいたが)。21世紀初頭の現在では、彼ら現代美術家は地上に現れ、政府や地方は再開発された街のために巨大な抽象彫刻を発注し、欧米のコレクターや中国の新興成金達は北京や上海の画廊街やアーティスト村に大金を抱えて殺到するという、過熱状態にある。
このような現代美術全盛の中で社会主義リアリズムは、今でも新年のカレンダーや、中国共産党や有人宇宙飛行などの宣伝ポスターなどに使用され公式芸術としての地位を細々と保っている。
関連項目
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