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薩英戦争(さつえいせんそう、英:Anglo-Satsuma War、文久3年7月2日(1863年8月15日) - 7月4日(8月17日))とは生麦事件の解決を迫るイギリスと薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における砲撃事件である。鹿児島では「まえんはまいっさ」(前之浜戦っさ)と呼ばれる。薩英戦争の結果、薩摩藩は攘夷が実行不可能であることを理解しイギリスは幕府支持の方針を変更して薩摩藩に接近した。
生麦事件[編集]
- 文久2年8月21日(1862年9月14日) - 生麦事件発生。横浜郊外の生麦村で薩摩藩の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士・奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷(死亡1名負傷2名)。
交渉[編集]
交渉までの経緯については、備考を参照のこと。
- 文久3年(1863年)
- 5月(5or6月) - イギリス公使代理のジョン・ニールは幕府から生麦事件の賠償金10万ポンドを受け取る。
- 6月22日(8月6日) - ジョン・ニールは薩摩藩との直接交渉のため、7隻の艦隊(旗艦ユーライアラス(艦長J・ジョスリング大佐)、コルベット「パール」(艦長J・ボーレイス大佐)、同「パシューズ」(艦長A・キングストン少佐)、同「アーガス」(艦長L・ムーア少佐)、砲艦「レースホース」(艦長C・ボクサー少佐)、同「コケット」(艦長J・アレキサンダー少佐)、同「ハボック」(艦長G・プール大尉)、指揮官:イギリス東インド艦隊司令長官オーガスト・クーパー中将)と共に横浜を出港。
- 6月27日(8月11日)
- 6月28日(8月12日) - イギリス艦隊はさらに前進し、前之浜沖に投錨。
- 6月29日(8月13日) - 薩摩藩がイギリス艦に奇襲を計画。黒田清隆、大山巌らがスイカ売りに変装し一部が乗艦に成功。ただし実際に斬り込みを行う寸前で作戦が中止され、黒田らは退去。
- 7月1日(8月14日) - 鹿児島城が前之浜沖に投錨する英艦隊の艦砲の射程内と判断されたため、藩主・島津茂久と後見役島津久光は本営を千眼寺に移転した。
砲撃事件[編集]
- 7月2日(8月15日) - イギリス艦隊は薩摩藩の汽船3隻(白鳳丸、天佑丸、青鷹丸)を拿捕する。正午、薩摩藩が陸上砲台80門を用いて先制攻撃を開始。
- イギリス軍は応戦が遅れたが14時、100門の砲(うち21門が最新式のアームストロング砲)を使用し陸上砲台(沿岸防備砲)と同時に鹿児島城北の市街地を艦砲射撃で反撃。近代工場を備えた藩の集成館を破壊。薩摩藩側は汽船と応戦した砲台のほか工場生産能力を失った。薩摩藩の陸上砲台によるイギリス艦隊の損害は甚大で大破1隻・中破2隻の他、旗艦ユーリアラスの艦長・副長の戦死を含む死傷者63人にも及んだ。イギリス側の戦傷者の被害状況は死亡者の殆どは頭部などへの破裂弾(榴弾)の被害を多く受けており、戦闘の様子を伝える当時の新聞挿絵などもイギリス艦隊の頭上で砲弾が炸裂する様子を描いており、薩摩はイギリス艦隊に対して榴弾砲を多用した攻撃を行なったことがうかがわれる(旗艦ユーリアラスの被害の中には、薩摩側の攻撃によるものではなく、アームストロング砲の暴発事故要出典によるものもあったがイギリス海軍は薩摩によるものとして賠償要求に含めている(当時の事件を伝える新聞では負傷者の詳細が掲載されているが、暴発事故には一切触れられていない)。この事故によってアームストロング砲はイギリス海軍から全ての注文をキャンセルされ、輸出制限を外されて海外へ輸出され後に日本にも輸入されることになった)。
- 一方薩摩藩側は物的損害(民家354余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、民間船5隻が焼失)は受けたが、死傷者はイギリス側と比べると8人(死亡者は祗園洲砲台での伍長・税所清太1名のみ)と非常に少ない(鹿児島市街では死者3名、負傷者5名)。
- 7月4日(8月17日) - 16時、イギリス艦隊は旗艦艦長・副長の戦死などの被害甚大より横浜に撤退する。
- イギリス側の被害が大きい理由としては戦闘準備不足の上、開戦当時は暴風雨状態であったことから照準が定まらないこともあいまって砲撃頻度が低かった。その上に薩摩藩側の事前演習の標的近くに侵入してしまい(薩摩藩はイギリス艦隊の来襲を事前に知っており、迎撃のため演習を行っていた)、薩摩藩側の砲弾命中率が予想以上に高かったことも挙げられている。
- 一方、薩摩藩側の物的被害が大きかった理由としてはイギリス側の艦載砲が命中率・射程が圧倒的に有利だった為や当時の日本家屋の殆どが木造建築であり、気象条件からも当然の結果として艦砲射撃による火災の延焼は免れなかった。また動く標的である艦隊は薩摩藩側からの反撃を受けにくく、天候の回復にしたがってイギリス艦隊からの一方的な艦砲射撃を受けたことが挙げられる。このとき、鹿児島湾内沖小島付近に集成館にて製造した水中爆弾3基(地上より遠隔操作)が仕掛けてあり英国船が通るのを待ち伏せしていたが沖小島砲台が発砲した為近寄らず失敗した。
- この戦闘での勝敗について上記の様な歴史的事実から『イギリス艦隊勝利説』・『薩摩藩勝利説』・『双方引分け説』等、学者・研究家によって意見が異なっている。尚、イギリスは薩摩に侵入した以前に徳川幕府より多額の賠償金を得ておりイギリス議会はイギリス海軍による鹿児島城下の民家などへの艦砲射撃を、必要以上の不正な攻撃とみなして非難した。
戦争の結末[編集]
- 10月5日(11月15日) - ジョン・ニールと薩摩藩がイギリス大使館で講和。薩摩藩は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払う。しかし、この借用金は幕府に返されることはなかった。
- イギリスは薩英戦争以降、薩摩藩側の兵力を高く評価するようになりフランスに対抗する政治的理由の観点から従来の徳川幕府支持の方針を転換、薩摩藩との関わりを強めることとなる。
備考[編集]
生麦事件発生以前にも2度にわたる東禅寺(イギリス公使館)襲撃事件などでイギリス国内の対日感情が悪化している最中での生麦事件の発生にジョン・ラッセル外相(後の首相)は激怒し、ニール代理公使及び当時艦隊を率いて横浜港に停泊していた東インド・極東艦隊司令官のジェームス・ホープ中将に対して対抗措置を指示した。実は2度目の東禅寺襲撃事件の直後からニールとホープは連絡を取り合い、更なる外国人襲撃が続く際には関門海峡・大坂湾・江戸湾などを艦隊で封鎖して日本商船の廻船航路を封鎖する制裁を検討していた(当時、日本には砲台は存在したもののホープはそれを無力化出来れば巨大な軍艦の無い江戸幕府や諸藩には封鎖を解くことは不可能であると考えていた)。
実際に文久2年11月20日(1863年1月9日)にヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で対日海上封鎖を含めた武力制裁に関する勅令が可決されている。だが、ニールもホープもこれは最後の手段であると考えて文久3年2月4日(3月22日)、ホープの副官であるクーパー少将に戦艦3隻に率いさせて横浜に呼び寄せ、幕府に最後通牒を突きつけて海上封鎖の可能性を仄めかせた。
これを憂慮したフランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールの仲介によって5月9日(6月24日)にニールと江戸幕府代表の小笠原長行との間で賠償がまとまって日本海上封鎖は直前に中断され主犯である薩摩藩攻撃に方針変更することとなり、クーパーに薩摩攻撃を命じることとなる。
なお、ホープは海上封鎖を行っても賠償に応じない場合を想定して陸軍と協議して京都・大坂・江戸を占領する計画も検討したが仮に占領は出来ても天皇や将軍が山岳部に逃げ込んでゲリラ戦に持ち込まれたら不利であると言う結論を出しており、事実上断念している。
参考文献[編集]
- 石井孝『明治維新と自由民権』(平成5年(1993年)、有隣堂) ISBN 4896601157
- JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07060050900、鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳・文久三年(国立公文書館)
関連項目[編集]
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