立正佼成会

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立正佼成会大聖堂〈本部修養道場〉
立正佼成会大聖堂〈本部修養道場〉

立正佼成会(りっしょうこうせいかい)は、霊友会から派生した法華系の新宗教である。

本尊・教義[編集]

  • 【本尊】 久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊(立像または立画を表装したもの)
  • 【経典】 開結「法華三部経」 (無量義経・妙法蓮華経・仏説勧普賢菩薩行法経)
  • 【主な教義書】 「新釈 法華三部経」 「法華経の新しい解釈」 「仏教の根本義」 「仏教のいのち法華経」 他多数

西田無学が提唱した、在家法華経によって先祖供養を行うという点では霊友会と同じだが、法華経に基づく教義や根本仏教、開祖法話による人間の内面の修養を行いつつ、自他共に救われる修行の推奨(教団では「心田を耕す」と呼ぶ)など、教団独自の特色が色濃く出ている。

歴史[編集]

1938年 - 1957年[編集]

  • 霊友会の有力な信者であった庭野鹿蔵(新井支部・副支部長)と、庭野の勧誘で共に霊友会を信仰していた長沼政は、彼らが所属していた新井支部(当時は支部をまとめる責任者の名前で支部名が呼称されていた)支部長で熱心な法華経行者であった新井助信の強力な勧めもあって、1938年3月5日「大日本立正交成会」(現在の名前に改称されたのは1960年6月1日)を創立した[1]。会の創立に当り、庭野鹿蔵は「日敬」、長沼政は「妙佼」と改名して戸籍登録した。
  • 「揺るぎない信仰心」が培われた時代とされ、庭野日敬開祖会長(当時)と長沼妙佼脇祖(当時・副会長)の信仰指導[2]によって、いわゆる「貧病争」の苦しみから救われ、仏道精進に導くというスタンスで布教活動を行っていた。当時の日本は第二次世界大戦の影響で多くの人々が苦しい生活を強いられていたため、会員の多くは直面する現実的な救われ(人生苦の根本的解決)を求めて修行に励んだ。
  • 一方で戦後急激に拡大した教勢に対しマスコミの耳目を集めることになり、1956年読売新聞が本部用地の取得にあたって不正が行われたとの疑惑を報道する。庭野開祖会長が国会に召喚され事態を説明するに至っている。
  • 1938年
    • 3月5日 庭野日敬は長沼妙佼 他30数名と共に「大日本立正交成会」を創立(会長 村山日襄、副会長 石原叔太郎)
    • 3月20日 庭野日鑛:現会長(当時・浩一)が誕生
  • 1942年
    • 5月7日 本部修養道場(現:発祥の地修養道場)落成・入仏式を挙行
  • 1943年
    • 4月頃 村山日襄会長、石原叔太郎副会長がそれぞれ退任。後継として実質の運営・指導者である庭野と長沼がそれぞれ「開祖会長」「副会長」となり、名実ともに庭野会長・長沼副会長体制がスタートする
  • 1945年
    • 11月15日 本尊「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」を尊牌形式で勧請
  • 1948年
    • 8月11日 宗教法人令により、宗教結社「大日本立正交成会」から宗教法人「立正交成会」となる
  • 1949年
    • 8月28日 青年部(現:青年本部)が発足
  • 1951年
  • 1952年
    • 6月14日 長沼副会長の甥である長沼基之が教団初代理事長に就任
  • 1956年
    • 1月 読売新聞が本部用地取得における疑惑を報道。庭野開祖会長が国会参考人召致され事態を説明するに至り、教団内部でも当時の青年部リーダーが独自に詳細調査を行った
    • 4月30日 衆院法務委員会に庭野開祖会長と長沼広志(立正佼成会本部・佼成学園理事)が参考人召致される
  • 1957年
    • 9月10日 長沼副会長が死去。満67歳。葬儀・告別式は当時まだ弱小教団であった立正交成会において、会員代表・各界の弔問来賓で延べ5千人が参列する。

1958年 - 1977年[編集]

  • 1957年9月10日に長沼副会長が死去すると、宗教の役割は人生の悩みや苦しみを解決する事だけでは無く、経典・教義とそれに基づく指導によって人格の向上をめざし、幸せな家庭や平和な社会を築いていくことも重要と位置づけ、長沼副会長ら筆頭に行っていた霊能指導から根本仏教や法華経の研鑽への回帰を強く打ち出し、活動の中心も法華経を背景とする先祖供養・教学研修・人間修養へと移していく。ちなみに教団では長沼副会長存命中の期間を『方便教化の時代』・長沼副会長没後 - 創立40年の期間を『真実顕現の時代』と呼称している。
  • また、他の宗派・教団との連携や交流も早くから着手し、日蓮宗を初めとして[3]神社本庁天台宗妙智会教団PL教団などとの交流も盛んに行った。また、庭野開祖会長が提唱した「宗教対話」の精神に則り、世界宗教者平和会議(WCRP)、新日本宗教団体連合会(新宗連)には創立メンバーとして当初から参加している[4]
  • 1958年
    • 1月5日 本会の本尊が「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊(くおんじつじょうだいおんきょうしゅしゃかむにせそん)」であることを宣言、『真実顕現の時代』を迎える
  • 1959年
    • 9月21日  同年3月、東京・千代田区に国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑が創建されたのを機に、宗教団体として初めての「第1回戦没者慰霊祭(後の千鳥ヶ淵戦争犠牲者慰霊法要並びに平和祈願式典)」を開催。
  • 1960年
    • 6月1日 名称を「立正交成会」から「立正佼成会」に改める
    • 7月16日 庭野開祖会長が大聖堂(現 本部修養道場)に勧請する本尊像に納める法華三部経写経(胎内経)を箱根の三昧荘にて始める
  • 1962年
    • 6月1日 会員綱領を発表(これは立正佼成会青年部綱領を基に加筆したもの)
    • この頃、庭野開祖会長の指示で統一教会の教えを学んでいた青年部50名ほどが同会に転じ、のちに庭野開祖会長秘書(当時)だった久保木修己が統一教会日本教会長になったのを初め、統一教会幹部となる者を多数発生させる事態となった。
  • 1963年
    • 9月14日 庭野開祖会長が「核兵器禁止宗教者平和使節団」副団長として欧米諸国を訪問。ローマ教皇パウロ6世と会見し平和提唱文を手渡す
  • 1964年
    • 5月15日 - 5月17日 立正佼成会大聖堂落成式典
    • 6月30日 青年信徒約50人を連れて統一教会日本教会長となった、元青年部・渉外部長の久保木修己が除籍される(松野純孝・新宗教辞典)
  • 1965年
  • 1969年
  • 1970年
    • 4月28日 立正佼成会普門館落成式典
    • 10月16日 第1回WCRP(世界宗教者平和会議)が京都で開催され、この会の提唱者でもある庭野開祖会長が共同議長を務める
    • 12月18日 ベトナム戦争激化の折、庭野開祖会長が「日本宗教連盟ベトナム視察団」団長として出発
  • 1973年
    • 5月4日 WCRPが国連NGO(非政府機関)として正式加盟
    • 7月18日 第1回「立正佼成会青年の船」がフィリピンなどに就航
  • 1974年
  • 1975年
    • 3月5日 庭野開祖会長がミードビル・ロンバード神学大学院から名誉法学博士号を受ける
    • 4月8日 フィリピン・バターンにフレンドシップ・タワーを建立
  • 1976年
  • 1977年

1978年 - 1997年[編集]

この時代は人々に法華経の教えを弘め、それまでの経典・教義教育・指導での研鑽による人間修養を引き続き行いつつ、地域社会・国家・世界平和の実現に向けて貢献していく活動にシフトして行った。これにより全国各地で「一食(いちじき)を捧げる運動」や「アフリカへ毛布をおくる運動」、「ユニセフ街頭募金」などが始まり、会員たちはこれらを市民運動化へと目指し取り組むようになる。またWCRP(世界宗教者平和会議)を中心に軍縮核兵器の廃絶運動など、宗教協力を基盤とした平和活動を展開していった。

1998年 - 現在[編集]

  • 教団創立60周年(1998年)を契機に、教団方針として「一人ひとりの心田を耕す」を新たに目標に掲る。要約すると、「無常」という仏教の真理(法)を認識し、いのちの尊さに目覚めていくことを意味する。そして、その喜びを一人でも多くの人々に伝え、みんなが共に幸せを味わえる世界を築いていくことを目指すとある。
  • 1998年
    • 1月1日 「会規」を改正、施行
    • 3月5日 教団創立60周年。総合目標「一人ひとりの心田を耕す佼成会」を掲げる
  • 1999年
    • 7月2日 自自公連立政権に対する教団見解を発表 (これは、創価学会を支持母体とする公明党が、それまで会として政治的に支援してきた自民党と連立与党に参加し、次第に公明党を通じて信仰姿勢、教団の考え方や政治との関わりで相対する創価学会が政府や行政・民間においての影響力が増す事態を踏まえての教団としての考え方・方針を内外に向けて発表したもの)
    • 10月4日 庭野日敬開祖が死去。満92歳。10月10日に挙行された「葬儀・告別式」には会員代表・国内外に渡る各界からの弔問客で本部大聖堂に延べ6万人が参列した。また、この「葬儀・告別式」には、立正佼成会発足以降、交流が皆無となっていた霊友会より、当時の会長であった久保継成氏が参列し宗教界で大きなニュースとなる。また全国の各教会と海外の拠点に向けて衛星回線による生中継で放送が配信され「開祖葬」として挙行された。
    • 11月25日 第7回WCRP(ヨルダンアンマン)に参加
  • 2000年
    • 10月1日 庭野開祖を顕彰する一乗宝塔が建立
  • 2001年
    • 4月11日 同宗連(「同和問題」にとりくむ宗教教団連帯会議)結成20周年式典に参加
    • 7月9日 「靖国神社参拝」に対する意見書を小泉純一郎首相に提出
    • 9月2日 聖エジディオ共同体主催の「世界宗教者平和のための祈りの集い」(スペインバルセロナ)に本会も参加
    • 9月15日 庭野会長が「アメリカ同時多発テロ事件」に対し、哀悼の意を捧げる緊急談話を発表
    • 10月17日 新宗連(新日本宗教団体連合会)結成50周年式典に参加
    • 10月23日 庭野会長が「米国・同時多発テロ事件」をうけ、WCRP主催の「世界の諸宗教指導者による国際シンポジウム」に参加
  • 2002年
  • 2003年
    • 2月18日 イラク情勢に対するアピール文を小泉首相、福田康夫官房長官ブッシュ大統領フセイン大統領(当時)に提出
    • 3月20日 米英軍によるイラクへの武力行使に対し、庭野会長が緊急談話を発表
    • 4月13日 「イラク緊急救援募金」を全国で実施(9月30日まで)
    • 4月15日 中央学術研究所が小泉首相に対し、「クローン人間誕生に対する声明」を提出
    • 4月25日 小泉首相に「『有事関連三法案』に対する意見書を提出
    • 10月28 - 29日 第6回日本・中国・韓国仏教友好交流会議日本大会に本会も参加
    • 12月8日 自衛隊のイラク派遣基本計画閣議決定を前に、「自衛隊イラク派遣に対する意見書」を公表
  • 2004年
    • 1月下旬 イラクへの自衛隊派遣を受け、山野井克典理事長が談話を発表
    • 4月23 - 28日 第1回仏教とキリスト教のシンポジウム(フォコラーレ運動主催)がイタリアで開催、庭野会長が基調発題を行う
    • 5月下旬 庭野日敬開祖生誕100年の企画概要を発表
    • 6月17日  庭野会長が、新宗連(新日本宗教団体連合会)理事長に就任
    • 7月30日  庭野会長が、日宗連(日本宗教連盟)理事長に就任
    • 12月28日 本会一食平和基金運営委員会が、12月26日に発生したインドネシアスマトラ島沖地震津波災害に対し、総額5200万円の緊急支援を決定
  • 2005年
  • 2006年
    • 1月1日 開祖生誕100年を迎える
    • 3月26 - 30日 第32回IARF世界大会(台湾・佛光山)に立正佼成会も参加
    • 4月24 - 27日 第2回仏教とキリスト教シンポジウム(比叡山延暦寺)に本会も参加
    • 5月14日 開祖記念館 庭野日敬の世界が本部法輪閣横に開館
    • 8月中旬 イスラエル軍とレバノン民兵組織「ヒズボラ」との紛争による中東危機に際し、立正佼成会一食平和基金から1000万円を緊急支援
    • 8月21日  初の「WCRP青年世界大会」、(25日まで、広島、京都)同女性会議が開催(24、25日、京都)され、本会も参加
    • 8月26 - 29日 第8回WCRP「WCRPⅧ」世界大会に立正佼成会が参加・運営の支援を行う
    • 10月25 - 26日 第9回日本・中国・韓国仏教友好交流会議日本大会(京都・奈良)に本会も参加
    • 11月15日 「生誕100年 開祖生誕会」式典が行われる
    • 12月7日 山野井克典理事長名による「臓器移植改正案に対する提言」を改めて発表
  • 2007年
    • 5月2 - 7日 庭野会長が台湾の慈済基金会本部を訪問 釈証厳法師と会談
    • 8月1日 一食平和基金から新潟県中越沖地震の被害に対し、2700万円を緊急支援
    • 8月3 - 4日 比叡山宗教サミット20周年記念「世界宗教者平和の祈りの集い」(比叡山延暦寺)が開催され本会も参加
    • 10月1日ミャンマー国内の安定と秩序回復を祈る声明文」を公表
  • 2008年
    • 1月1日 教団理事・布教本部長の渡邊恭位が第五代理事長に就任
    • 3月5日 教団創立70周年。「み仏さまとの結縁」の名の下、青年各部会員向け本部団体記念参拝(団参)が始まる
    • 4月 教団CIマークの発表とラジオCMの放送開始
    • 9月23日 東京・千代田区の国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて、立正佼成会主催による「第50回千鳥ヶ淵戦争犠牲者慰霊法要並びに平和祈願式典」を開催
    • 10月31日 庭野会長が新宗連(新日本宗教団体連合会)の理事長を退任し、特別顧問に就任

政治への考え方と関わり[編集]

活動・動向[編集]

  • かつて創価学会と立正佼成会は、お互い教勢を伸ばす途上においての活動に、様々な行過ぎや人権侵害等の公共の福祉に反するものがあるという訴えが各方面より度々なされた上に(創価学会の折伏大行進は数多のトラブル(一部は刑事事件に発展)や人権蹂躙と、佼成会の霊感指導は多くの問題と誤解を生むこととなった)、戸田城聖創価学会第二代会長(当時)主導の下、先述の折伏大行進で「西の天理教」と共に「東の立正佼成会」を撲滅掃討させよとの運動が全国的に繰り広げられたため、昭和20年代後半から40年代初頭に掛けて創価学会と立正佼成会での非難合戦は他教団をしのぎ熾烈を極めた。またこうした動向が国会でも取り上げられる問題となり、衆議院法務委員会の調査結果に基き、1956年3月6日、不当な宗教活動に対して警告を発する「不正なる宗教活動に対する決議」が満場一致でなされたことがある。
  • 1956年(昭31年)教勢の急激な拡大による、佼成学園をはじめとする教団本部関連施設の建設用地取得に絡む不正取引などに始まる読売新聞の報道等によって、教団幹部を含む会員延べおよそ7万人の大量退会騒動に発展する。 そして霊能指導を行っていた長沼のカリスマ性故の「長沼教祖・庭野会長待望論」・「長沼新教団独立論」が水面下で一部の教団幹部より発せられ騒動になる(いわゆる「連判状事件」)など、庭野をはじめ長沼や教団幹部・会員自身も教団内外において激動の時期であった。 前出の創価学会折伏事件とともに庭野開祖会長と長沼副会長は教団としての一大試練と受け止め、「第一の階梯」「第二の階梯」「第三の階梯」として教団と会員同士の結束と教義の明確化、教義の指導・教化の充実を図るべく、庭野開祖会長と長沼副会長を筆頭に会員総出で布教活動と機構改革に奔走することとなる。(後年この事を庭野開祖会長は自ら修業精進し戒める礎として自著に残しており昭和33年からの「真実顕現」時代の切っ掛けともなっている) そして青年部内に「報道事実調査委員会」という内部組織が立ち上がり、読売側の報道内容の真偽の精査と共に、会員の勧誘方法や運営に当たっての諸問題を会長・教団に提言した(翌1957年〔昭32年〕9月10日に長沼副会長は死去する)。
  • ここ数年は東南アジア地域において教勢の伸出が盛んである。
  • そして草創期より社会奉仕活動が大変活発で、第二次世界大戦当時は会の所有地のうち、布教活動に必要な場所以外の土地を、開祖会長はじめ会員有志で自ら耕し、収穫された作物の一部を生活に困窮する会員や地域の人々に配布したのが始まりである。近世では先項記述の「一食を捧げる運動」、「ユニセフ街頭募金」、「アフリカに毛布を送る運動」など教団を挙げて行う活動(または官民合同の慈善事業)と、各教会単位で地域の清掃奉仕、施設慰問、障害者施設の奉仕活動などが行われている。また毎年5月の第3日曜日を「青年の日」とし、全国の青年部員が各教会単位で企画準備したイベント、慈善作業、ユニセフ街頭募金などが行われており、この日の正午に「平和の祈り」という黙祷を捧げている。また、「青年教育課程」となる仏教や佼成会の教えを学ぶ勉強会があり、多くの青年部員が受講している。
  • またWCRP(世界宗教者平和会議)などの後方支援もしており、1970年10月と2006年8月に京都で開催されたWCRPⅠ・WCRPⅧ(第1回・第8回世界宗教者平和会議)総会と各部会の運営・側方支援を会を挙げて行ったり、新宗連(新日本宗教団体連合会)や日宗連(日本宗教連盟)などを通じた他宗派や他宗教団体との協調・連携活動も活発である。立正佼成会自体は日蓮宗系の宗教団体であるが、比叡山延暦寺を通じて天台宗との繋がりも大きい。

施設[編集]

関連施設・団体[編集]

病院[編集]

文化団体、施設・教育機関[編集]

出版[編集]

保険・その他マネジメント事業体[編集]

  • 立花産業
  • 佼成ライフプラン(葬祭業・保養施設、有料老人ホーム、通所および訪問介護施設などの管理運営)

脚注[編集]

  1. 初代会長は村山日襄、副会長は石原叔太郎(ともに国柱会の出身)であったが、実質の会の運営・指導は庭野・長沼のコンビで運営されていた
  2. 主に法華経読経による先祖供養九星による方位学や五大真理による姓名鑑定・媒体者などによる霊能指導を行っていた
  3. 池上本門寺お会式の参加や身延山久遠寺・小湊 誕生寺の団体参拝は現在でも頻繁に行われている
  4. 1963年には、核兵器禁止宗教者平和使節団の一員として庭野開祖会長が訪欧、時のローマ教皇パウロ6世と謁見するなど、仏教の枠組みを超え他の宗教とも積極的に交流を重ねた
  5. 蓮舫さんが参院選出馬表明 立正佼成会が支援予定

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

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