日本の戦争
日本の戦争(にほんのせんそう)は、近代日本を問う歴史的事実に基づいた解明本である。
特徴[編集]
著者:田原総一郎 2000年小学館より発行(文庫版は2005年)。「なぜ、日本は負ける戦争をしたのか」という終戦当時、著者自身が国民学校5年生の時から55年間抱いていた疑問に、明治維新から太平洋戦争勃発に至るまでを「富国強兵」「和魂洋才」「自由民権」「帝国主義」「昭和維新」「五族協和」「八紘一宇」の7章に分け検討し、取材者は25人以上、総参考文献数は105に及ぶ。京都大学大学院法学研究科教授・国際政治学の中西寛は、田原総一郎の”個々の史実と大きな歴史観を結びつける”作業を【ダンテの神曲】と譬え、「主人公と共に地獄から煉獄、そして天国を旅するようだ。」と評している。
富国強兵 「強兵」はいつから「富国」に優先されたか[編集]
明治23年(1890)11月25日、第1回帝国議会が召集され、総理大臣山県有朋は、「列強の間に立って国権を完全に伸張するには国富の兵強からざるものはなし」と衆院で第一党の自由党や野党第二党の改進党の政府に対する「経費節減」要求演説に対し反駁演説を行なった。「富国強兵」を最初に言い出したのは、天明2年(1782)常陸国久慈郡諸沢村生まれ、水戸学の第一人者の藤田幽谷に師事した会沢正志斎であり、藤田の次男は、藤田東湖である。会沢はその著書「新論」で「国学の宜しくたのむべきところのものを陳ぶ。一に曰く、国体。二に曰く、形勢。三に曰く虜情。四に曰く守禦、以て国を富まし、兵を強うするの要務を論ず。五に曰く長計」と説き、原文では「富国強兵」となっている。
この「富国強兵」をアヘン戦争を研究し、清国同様の危機に備えるための結論として採用したのが、開国論者薩摩藩主島津斉彬であり、彼は、島津斉彬言行録では「この場に至りて通商を開かざるは不策にて、とにかくこの方より押掛けて開くを上策とす。ついては、内の差しつかえなきよう、速く物産繁殖の道と軍備をととのえ、彼の軽蔑を受けざるよう国威を張り、通信交易するに外なし」と記され、大小砲、船舶、通信機、ガス灯、またはパン、氷砂糖なども製造した。
この考え方を受け継いだのが、大久保利通であり、彼は生麦事件、薩英戦争で、最新鋭の装備をしたイギリス艦隊の破壊力を目の当たりにし、その和平交渉と軍艦購入、留学生派遣の話をつけ、神戸海軍操練所に藩士を派遣した。大政奉還後の明治4年(1871)岩倉使節団の副使として14カ国を視察した大久保は、産業革命直後のイギリスで紡績工場、造船所、鉄道の車両工場などで最先端技術を見、多量の製品が輸出されている事を知るや「何より富国」と日本の目標を定め、征韓論では、西郷、江藤らに勝ち、内務卿として殖産興業政策を進めた。
しかし、明治11年(1878)、大久保が、石川県士族、島田一郎らにより49歳で暗殺されると、明治13年(1880)当時参謀本部長だった山県有朋は、「隣邦兵備略」を天皇に上奏文として提出した。「富国と強兵とは、古来互いに本末を相成す。これ形成の自然にして、欧州各国の兵備に汲々たる、亦怪しむに足らざるなり。今もし、特に富国は本なり強兵は末なりといわば、民心日に私利に走り、公利のある所を知らず、」と強兵を富国と同格にしようと図った。日清戦争は、帝国議会山県演説から4年後の明治27年(1894)に勃発した。
和魂洋才 大和魂とはそもそも「もののあはれを知る心」だった[編集]
「和魂洋才」は、明治の末には、一種の流行語となっていたと指摘し、文献に記されたものでは、平川祐弘著『和魂洋才の系譜』または近畿大学教授高坂史朗への取材から文豪森鴎外の思想劇『なのりそ』の登場人物の台詞として、表れていることを引用する。『なのりそ』は、明治44年(1911)『三田文学』8月9月号に掲載され、主人公は前某省次官大島崇、その娘てるこ(耳火 子)の婿にと目を懸けている東大法学部出身の広前璉(れん)との会話
大島「欧米の風俗習慣でも、善いものは他山の石として、取って用ゐることに異論はないのです。(少し声を大きくして)唯大和魂丈はなくして貰ひたくないので。」
広前「いや。御同感です。なんでもこれから先、日本の国家社会で有用の材となるには、和魂洋才でなくては行けません。」
大島「いや。これは頼母しい。ははは。((人偏と故)誇大に笑う。広前も主人と顔を見合わせて、附合ひに共に笑ふ)」
大和魂とは、紫式部『源氏物語』「少女(おとめ)」の巻に最初に現われてる。
「猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍らめ。さしあたりては、心もとなきやうに侍りとも、遂の、世のおもしとなるべき心おきて・・・」
この才は、漢学のことであり、和魂漢才とは、処世術と漢学ということだろうか。本居宣長(1730~1801)の「しきしまのやまと心を人問はば朝日ににほふ山桜花」を著者自身の高校、大学で「もののあはれ」だと教えられたことに触れ、『やまとだましい』を『雄武』に転換せしめたのは、宣長没後の門人平田篤胤(1776~1843)だという。
しきしまのやまと心を人問はば朝日ににほふ花や見えまし
篤胤の弟子である大岡隆正(1792~1871)に至っては、
しきしまのやまと心を人問はばわが君のため身をばおもわじ
と教化色の濃い国学へと変遷していく。
西郷、大久保、木戸ら明治維新をやり遂げた薩長の首脳たちは、現実的な大開国主義者であったが、明治20年(1887)近くになり、日本主義的な風潮が、鹿鳴館外交の失敗、農民の蜂起とその弾圧が強まる中、保守層からの内政の統一を求めるように台頭して来た。
明治21年(1888)6月18日、憲法制定を翌年に控え、憲法草案を審議する枢密院で、議長の伊藤博文は、帝国憲法制度の根本精神の所信を開陳し、その中で、「・・・抑(そもそも)、欧州に於ては憲法政治の萌せる事千余年、独り人民のこの制度に習熟せるのみならず、又宗教なるものありて之が機軸を為し、深く人民に浸透して、人心此に帰一せり。然るに我国に在ては宗教なる者其力微力にして、一も国家の機軸たるべきものなし。仏教は一たび隆盛の勢を張り、上下の人心を繋ぎたるも、今日に至ては已(すで)に、衰替に傾きたり。神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すと雖、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。・・・我国に在て機軸とすべきは、独り皇室あるのみ。是を以て此憲法草案に於ては専ら意を此点に用ひ君権を尊重して成るべく之を束縛せざらん事を勉めり。・・・乃(すなわ)ち此草案に於ては君権を機軸とし、偏(ひとえ)に之を毀損せざらんことを期し、敢(あえ)て彼の欧州の主権分割の精神に拠らず。(原文カタカナ表記)」と新国家の背骨を定めた。
さらに、憲法では心の中や道徳までに及ぶ事が出来ないと考えた儒学者元田永孚(ながざね)は、同年2月の地方長官会議での「道徳教育の方針を確立してほしい」という内閣に対する建議などを背景として、「教育勅語」の脚本・演出・振り付けまでを全てひとりで行い、明治23年(1890)10月30日、御名御璽の下、発布した。
その約1ヶ月後に、帝国憲法が施行された。
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