死罪 (律令法)
死罪(しざい)とは、律令法の五刑(五罪)の一つ。最も重い刑罰で受刑者の生命を奪う生命刑である。日本の大宝律令・養老律令では、単に「死」と記されている。別名として大辟罪(だいへきざい)・死刑(しけい)とも呼ばれる。今日の死刑という呼称もここに由来している。
古代
古代の日本においては「ころすつみ」・「しぬるつみ」という言葉が存在する。これは今日の殺人罪ではなく、死をもって以外に浄化出来ない行いを指していると考えられている。中国の正史である『隋書』倭国伝には、殺人・強盗・強姦は全て死(罪)に処せられたことが記され、また『日本書紀』にも斬(斬首刑)・絞(絞首刑)・焚(焚刑)の3種が存在していた事が記されている。
律令
大宝・養老両律令の死罪では、絞・斬の2つの方法が取られ、斬の方がより重罪者に適用された。これは中国において首と胴体を切り離せば肉体は決して復活する事はないと言われていた事や絞の方が死に至るまで時間がかかるため、その間に恩赦が出される可能性がある(『法曹至要抄』)と考えられたからであるという。絞は受刑者を棒に縛りつけて2本の綱で首を挟みこれを左右逆方向に刑吏が縛り上げる事で窒息死させ、斬は刀をもって首を切り落とした。死罪の執行は市で行って公衆に公開し、刑部省の他に弾正台・衛府の官人が立会い、万一これらの立会人が受刑者の量刑に疑義を挟んだ場合には一旦中断して天皇への奏聞を行って判断を仰いだ。また、当時は処刑された人間の怨念が人々や農作物などに祟る事を恐れて、冬(秋分以後立春以前)に執行される事が定められており、大祀斎日のある日なども避けられた。ただし、皇族と五位以上の貴族は刑部省官人の立会いのもと自宅での自尽を許し、婦人と七位以上の処刑は公開されない決まりとなっていた。
死罪の停止
772年の格により、放火犯と盗賊に対しては新たに格殺(撲殺)が導入されたが、後者に関しては818年に他の窃盗・強盗とともに死罪が廃止された。
聖武天皇の治世であった725年、仏教を信じる天皇の意向で死罪の囚人を悉く流罪にしたのをはじめとして、死罪は五戒の「不殺生戒」の教えに反するとする考えが広がり、810年の薬子の変で藤原仲成が処刑されて以後は死罪の判決が出されても必ず朝廷が流罪(遠流)に減刑するという慣習法が確立して、以後1156年に保元の乱の処理で藤原通憲の奏聞によって源為義ら処刑されるまで26代346年にわたって「死罪の停止」が行われた。
今日、いわゆる死刑廃止論を唱える人々はこの事を「世界史上類のない長期間の死刑停止」と高く評価する。死刑が嵯峨天皇により停止される以前にも、些細な慶事や災異に対しても頻繁に恩赦(特に全ての受刑者を免ずる非常赦やこれに準じた大赦)が出されていたために、死罪の判決を受けた者がまず遠流に軽減され、更に恩赦によって放免される事が多く発生していた。このため、重犯罪者が短期間で釈放されて再び殺人などを犯して更にまた恩赦を受けるという悪循環も発生するようになり、罪のない人々の犠牲の発生があったことにも留意する必要がある。
26代346年の理由は多くの説がある。基本的には仏教の興隆による道徳意識の向上と、日本独自の文化である怨霊思想が発達した時期であることが挙げられる。また、当時の支配階層である貴族は怨霊を極めて恐れており、死刑を実行すれば死刑囚が怨霊となって報復を行い、死後の世界においても五戒の「不殺生戒」を犯した廉で極楽往生出来なくなると信じられていたという。平安初期から中期までは律令制も機能しており、社会や治安は決して全国的に安定していたわけではなかったが、権力機構そのものは安定していたために問題は少なかった。律令制による政治の安定は曲がりなりにも貴族政治という政治体制の続いてきた長さからも理解できる。
崩壊
だが、平安末期になると、律令制の機能は低下、社会の不安定化により治安は崩壊、そのような状況に至っても、貴族達は自分達の死後の安寧を考えて死刑を復活させようとはしなかった。これにより地方では自衛自警のために武士が台頭、再び武力による政権争いの時代となり、貴族社会でも院政下で台頭してきた実務官僚を中心として殺生に対する意識が変わるとともに、現実的対応として死刑が復活した。(日本史上の死刑の廃止参照)。やがて、律令法は武家の台頭に伴い、武家が裁判権を持つようになり、次第に効力を失っていった。
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