フローレス島事件

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フローレス島事件(フローレスとうじけん)は、1944年4月14日頃、日本軍政下にあったジャワ島スマランBahasa Indonesia版で、現地の若い女性100人以上が警察本部へ召集されて性病検査らしき処置を受けさせられ、この中から女性20人が選別されて、うち17人が1944年6月頃からフローレス島Bahasa Indonesia版の売春宿で売春を強要された事件。スマランの警察本部に召集された女性たちは、市内のスプレンディッド・ホテルで日本人の医師に器具を膣内に挿入されて処女膜を破られた後、20人が選別されて翌日スラバヤBahasa Indonesia版へ連行され、1ヶ月余の後に逃亡者2人・罹病者1人を除く17人がフローレス島へ連行されて、同年6月頃から、妊娠や罹病などの事情がない限りで1945年8月まで、売春宿での売春を強要された。召集された100人以上の女性のうち20-30人、選別された20人のうち半数以上は、抑留所の外で働いていたヨーロッパ系の女性で、残りはインドネシア人の女性と少数の中国人の女性だった。戦後の対日協力者・戦犯調査の過程で5人のヨーロッパ人女性が事件について証言しており、このうち3人は日本人男性との子供を妊娠してフローレス島からスマランへ戻されている。

事件

1944年当時16-19歳で、スマランに住んでいた5人の女性が、1946年12月、1948年5月および同年8月にスマランないしバタビアBahasa Indonesia版で、対日協力者・戦争犯罪調査担当の警視に証言した尋問調書によれば、事件は以下のようなものだった[1]

警察本部への出頭命令

5人の女性は、1944年4月14日頃かその前日に、警察官からスマランのボジョンBahasa Indonesia版にあった警察本部への出頭を命じられた[2]

  • うち2人の女性は、出頭の前日、自宅に、警察本部への出頭を求める召喚状を携行した警察官が訪問してきて、召喚状に女性の名前を書き入れて手渡された、としている[3]
    • うち1人の女性は、警察官から、出頭命令は憲兵隊の指示によるもので、召喚状に女性の名前を書き入れて渡すよう憲兵隊から指示を受けた、という話を聞いた、としている[4]
  • 別の女性2人は、それぞれスマラン市内の飲み屋・バーで働いてい(て辞職届を提出し)たところ、警察本部への出頭を命じられた、としている[5]
    • うち1人の女性は、警察官に警察署へ連行された、としている[6]
  • 女性の1人は、出頭の目的は告げられなかった、としており[6]、別の女性1人は、「女性の住民登録証を検査するため」と言われた、としている[7]
  • 1人の女性は、警察は、16歳以上の女性に出頭を求めていた、としている[8]

異説

  • ヒックス (1995 54-55)は、ジャカルタ(バタビア)からスマランへ連行された、としているが、戦後バタビアに居住していた女性の証言を聴取した経緯はあるものの、ジャカルタからスマランへ連行された経緯はなかったようである。
  • 山本 (1999 118)は、警察と憲兵が、地元のユーラシアンの仲介人と一緒に女性を連行し、指定した日時に警察署へ出頭するように命令した、としているが、梶村ほか (2008 158-160)によると、1人の女性について、憲兵隊のためにスパイをしていると噂のあった人物が自宅を訪問していたことが報告されているものの、警察からの出頭命令は、女性の勤め先だった飲み屋の経営者の日本人が、女性が辞職願を出したことに反発して警察に通報した結果ではないか、と推測されている。
  • オランダ政府 (1994 53)は、ホテルやレストランでの職歴があり、様々な理由で警察や憲兵に好かれていなかった女性が集められたとし、山本 (1999 118)は、以前にホテルやレストランで働いたことがあると思われた女性は、警察や憲兵から「不人気」だった、としており、両書とも意味がよく分からないが、梶村ほか (2008 158-159,180-181)の2人の女性の証言からすると、憲兵ないし警察が、飲み屋やバーで接客業に就いていた女性に着目し、召集の対象にした可能性があるように思われる。

警察本部にて

1944年4月14日頃に女性たちがボジョンの警察本部へ出頭すると、大きな部屋に100-150人ほどの若い女性が集められていた[9]。このうち20-30人はヨーロッパ人で、中国人も数人居り、その他はインドネシア人の女性だった[10]

  • 女性の1人は、出頭の日付を同月16日としており[11]、また別の女性1人は14日に出頭命令を受け、翌日(15日)に出頭した、としている[8]
  • 女性の1人は、集っていた女性の中には、召集を受けた女性だけでなく、料理店で働いているところを連れて来られたり、通りを歩いているときに捕まって連れて来られたという女性もいた、と証言しているが[11]、伝聞であり、やや信憑性に劣るように思われる。
  • 1人の女性は、このとき、集った女性たちの名前と住所、年齢が書きとめられていた、としている[12]
  • 1人の女性は、自分に「130番」の番号が割り振られていた、と証言しているので[13]、人数は100人を超えていたかもしれない。

警察本部に集った女性たちに対して、軍服を来た日本人が、壇上に立って日本語で話をした。しかし、女性たちは、意味が分からなかった。続いて、別の日本人(通訳)が、マレー語に訳して話をした。「大勢の日本人兵士が病気になっているので、女性たちは皆、別の建物で日本人の医師による性病の検査を受けなければならない。病気に罹っている女性は薬をもらい、健康な者は検査が済めば帰宅できる。心配することはない。」という趣旨の話だった。[14]

  • 女性のうち1人は、遅れて行ったところ、演説が終った後だった、としている[15]

性病検査らしき処置

警察本部で話を聞いた後、女性たちは全員、「豪華な車」に乗せられて、スマラン市内のゲニ通り(Genielaan)にあったスプレンディッド・ホテルへ移動した[9]。ホテルでは、日本人のホテル経営者とその夫人、その他数人に出迎えられ、ホテルの奥の部屋へ移動した[16]

  • 女性の1人は、警察本部で1泊させられ、翌日スプレンディッド・ホテルへ移動した、としているが[17]、他の4人の女性の証言にはなく[18]、人数も多いので、同日中の移動だったと思われる。
  • スプレンディッド・ホテルは、この事件より前、1944年3月頃まで、慰安所「スマラン・クラブ」として日本軍(南方軍幹部候補生隊)が民間人抑留所から徴用したヨーロッパ人女性に売春を強要させていた施設で(スマラン慰安所事件を参照)、経営者は同事件で有罪判決を受けた軍属の古谷厳とその夫人だった。古谷は戦犯裁判で事実関係を認めたが、スマラン慰安所事件とは全くの別件で、自分は軍に頼まれて場所を提供しただけだった、と抗弁した。[19]

ホテルに到着した女性たちは、広い廊下に集められた[20]。医師らしき日本人が、女性たちに、自分が検査を担当する、と説明をした[8]。女性たちは、廊下に並んで立ち、名前を呼ばれたら1人ずつ小さい部屋に入って検査を受けた[21]。部屋の中からは、先に入った女性が泣き叫んだり、喚いたりする声が聞えてきた[22]

自分の名前を呼ばれて部屋に入ると、中には、白衣を着た日本人の医師らしき人物1-2人と、日本人の看護婦0-1人がいて、他に軍関係者(制服を着た日本兵)0-3人、全部で3-4人がいた[23]。軍服を着ていたのは、フローレス島の売春宿の関係者だった[13]

女性たちは、日本人医師の指示でズボンを脱ぎ、股を開いて小さな寝台かテーブルのような台の上に横になった。日本人医師はニッケルの器具をお湯に浸して消毒した後、女性の膣内に挿入して中で広げるようにした後、引き抜いた。このとき、女性たちは、激しい痛みを覚え、すぐに出血があった。処置が終ると部屋から出るよう促され、別の部屋で身繕いをした。[24]

異説

検査が行われた場所について、山本 (1999 118)は、警察署、ヒックス (1995 54)は、将校クラブ、ヒックス (1995 54-55)は、バタビアの警察署、としているが、梶村ほか (2008 158,166,174,181,186)にある5人の女性の証言にはなく、いずれの証言でも場所はスプレンディッド・ホテルとされている。

女性の選別

女性たちは、処置を受けた後、廊下で名前、職業、住所を書き留められ[25]、既に処置を受けた女性たちと合流した[15]

  • 女性の1人は、このとき、女性たち同士で、どうやら売春婦として働かせられるのではないか、と話をした、としている[25]

全員の処置が終った後で、日本人の男性から、「これから名前を呼ばれる者は残り、他の者は帰宅してよい」と話があり、20人の名前が読み上げられた。20人の女性が残り、他の女性は帰宅した。[26]

20人のうち、8-11人以上の女性はヨーロッパ系で、残る女性のうち1人以上が中国人、他の6人以上の女性はインドネシア人だった[27]

同日夕方、白い制服を着た日本人が日本語で演説をし、続いて別の日本人がそれをマレー語に訳した。「君たちは皆、私の子供だ。何も変なことにはなりはしない。仕方がないんだ。(スラバヤの)タンジョン・ペラクBahasa Indonesia版の食堂で6ヵ月間働いてもらうことになった。スパイがいるかもしれないので、君らに勝手に外を歩き回ってもらっては困る。だから、住み込みだ。」という話だった。話を聞きながら泣いている女性もいた。[29]

  • このとき日本語で演説をしたのは、当時の陸軍大佐、終戦時は陸軍少将ないし中将で、1948年8月頃、戦犯としてバタビアのチピナン刑務所Bahasa Indonesia版に収監中だった人物だった[30]

20人の女性たちは、自宅へ戻ることを許されず、5人ずつ4部屋に分けられて、同日夜はスプレンディッド・ホテルに泊まることになった[31]

女性たちが集合しているところに、日本人3人がやって来て、そのうち1人が女性たちに50ギルダーの日本政府発行の軍票を渡した[32]。お金をもらうときに、或る部屋の同室だった女性たち5人が「お金は要らないから家に帰してほしい」と言って受け取りを断ろうとしたところ、「受け取らないのであれば、最年長の者を殴る」と言われ、5人の中で最も年長者だった女性が殴られた。そこで女性たちは、お金を受け取った。[33]

  • 女性の1人は、事件の前、スマラン市内の日本人が経営する飲み屋の女給の仕事に月給15ギルダー(飲食代無料)で採用されたと証言しており[17]、50ギルダーはこの仕事の月給3ヶ月分余に相当する。

同日夜、ホテルから逃亡しようとした女性もいたが、出口は銃で武装した日本兵が監視していたといい[34]、脱走しようとして日本兵に見つかり、失敗した、としている女性もいる[35]

異説

ヒックス (1995 54-55)は、或る女性の証言として、女性は前金の受取りを拒否し、スマラン・クラブで性的サービスを強要された、としているが、梶村ほか (2008 175-176)にある同じ女性のものとみられる証言では、前金を受け取った、としており、スマラン・クラブで性的サービスを強要されたとの証言はない。

オランダ政府 (1994 53)は、夕方、怒った女性たちの家族や友人たちが大勢ホテルを囲んだ、としているが、梶村ほか (2008 155-191)の5人の女性の証言にはない。

スラバヤ滞在

翌日、1944年4月15日(または16-17日)に、20人の女性たちは日本人(軍人)3-4人に伴われ、汽車でスラバヤBahasa Indonesia版へ連れて行かれ、スラバヤに2ヶ月ほど滞在した[36]

スラバヤで女性たちは、初め特に仕事を与えられず、ケトゥパ通り[map 1]にあった日本人の家に1ヵ月ほど滞在した[37]。ここでも女性たちは日本人に監視されながら、5人1部屋で共同生活を送った[38]

  • 女性の1人の証言によると、部屋の鍵を持っている日本人が1人いて、最初の数日は、夜は5人の女性たちと同じ部屋で寝て、寝る前に戸に施錠し、明け方開錠していた。その後は日本人は部屋の外で寝るようになったが、度々女性たちの部屋で寝ようとしたので、女性たちは嫌がって部屋から出て行くように伝えようとした[34]。またこの女性は、家主の日本人の男性から言い寄られたという[39]。別の女性は、自分たち5人が暮らしている部屋で寝ていた日本人は、毎晩のように5人の中の特定の女性と性交をしていた、と証言している[40]
  • 女性の1人の証言によると、食事は悪くなく、衣類、毛布、蚊帳、化粧品などはフローレス島から来た日本人の1人から支給されていて、無料だと思っていたが、後日フローレス島に着いてから代金を払わされた[40]
  • 建物は監視兵が見張っていて、外出は禁止されていたといい、ちょっとした散歩や用事にも日本兵が同行した[41]。またインドネシア人の従業員と関係することも禁じられていた[40]

ケトゥパ通りの日本人の家に滞在していたとき、女性たちは秘かに肉親と連絡を取り、スラバヤまで会いに来てもらった。日本人は当初黙認していたが、肉親がしばしば会いに来るようになると、これを嫌って、女性たちをトラックに乗せ、チサドナウェフ(Cisadane-wef?、チサダナウェフとも)[map 2]の家に移した。女性たちは、同所に1ヶ月半ほど滞在した。[42] ここでも女性たちは5人1部屋で共同生活し、また日本人の監視がついていた[39]

チサドナウェフに滞在していたとき、売春宿の経営者の日本人がやって来て、彼の友人の所で働きたい者はいないか、と尋ね、女性たちのうち6人が志願して連れて行かれた[42]

  • 1人の女性は、他の女性1人とオランイェブルバードにある家に連れて行かれ、別室に閉じ込められて、夜の10時過ぎに日本人将校が部屋に入ってきて女性を強姦しようとしたが、抵抗したのでなんとか切り抜けられた、としている[39]
  • 別の女性は、自身は志願しなかったが、志願して連れて行かれた女性が、1日に複数の日本人と性交をさせられるなど、1ヶ月半の間、「畜生さながらの振る舞い」をさせられた、としている[40]。女性自身は、フローレス島に着くまで、自身に手を出されるようなことはなかった、という[43]

スラバヤ滞在中に、女性たちは何度か脱走をはかったといい、発覚して失敗することが多かったが、20人中2人は脱走に成功した[44]

異説

ヒックス (1995 54-55)は、女性たちは、バタビアでの選考・検査の後、スマランに移されて「スマラン・クラブ」で売春を強要された、としており、朝日新聞 (1992d )は、スマランからバタビアへ移され、約1ヵ月間監禁された、としているが、梶村ほか (2008 155-191)の5人の女性の証言にはない。

フローレス島行

スラバヤ滞在中の某日朝、女性たちは、荷物をまとめてタンジョン・ペラク(港)へ連れて行かれ、目的地を知らされずに、船に乗せられた。2日後、連合軍の飛行機に狙われそうだったため航海は中止された[45]。チサドナウェフの家で14日ほど過ごした後[43]、再び船に乗せられて出港したが、連合軍の飛行機が頭上を飛んでいるのが目撃されたために(潜水艦に狙われそうだったとも)、数日後に引き返した[46]。3度目の航海で、マドラBahasa Indonesia版バリBahasa Indonesia版を経由して、10日ないし2週間ほどかかってフローレス島に到着した[47]

フローレス島への航海には、同島の「食堂の経営者」と称していた売春宿の経営者の日本人と、他に1-2人の日本人が付き添った[48]。脱走した2人のほか、1人が病気のためスラバヤに残留し、17人の女性がフローレス島へ渡った[49]

フローレス島へ渡った17人の女性は、女性たちを引率していた日本人が経営する売春宿へ連れて行かれた[50]。部屋数の多い大きな建物で[51]、最初は3人に1部屋があてがわれ、後には1人が1室をあてがわれた[43]

到着後、女性たちには1週間ほど休暇が与えられ、その後、日本兵の客がやって来て、売春をさせられた[52]。売春宿の経営者の日本人は、女性たちに何度も「ひどい扱い」をし、また厳しく監視していたという[53]

  • 或る女性は、スマランのスプレンディッド・ホテルで処置を受けた際の処女膜の傷が完全に治っていなかったため、フローレス島に到着した後、1ヶ月暇をもらったが、まだ傷が完全に治っていない頃、かなり年配の日本人将校と性交を強要された、としている。この年配の日本人将校は、犬のような風貌だったが、彼女には親切で、その後も何度も相手をさせられたという[43]

慰安所生活

売春宿に客としてやって来た日本人は、最初に番台で日本人の会計係にお金を払って切符を買い、その切符を女性たちに渡していた[54]

  • 1人の女性の証言によると、料金は、午前中だと15分で1.5ギルダー、午後6時から8時までは2ギルダー、夜8時から9時までは3ギルダー、終夜だと18ギルダーと決められていて、女性たちは全員、午前中は(兵士)20人、午後は(大抵は下級将校)2人、夜は(将校)1人の相手をすることを義務付けられていた[55]。実際にそのくらいの数の客がやって来ていて、日本人の経営者は女性たちの部屋を巡回していて客が来ているかチェックしており、夜間の客が数時間で帰ったりすると、気が付いて別な客を送り込んできたという[56]
  • 別の1人の女性は、女性たちは1晩にノルマとして5人の客との性交を命じられていたとし、客の要求に応じないと殴打された、としている[57]

女性たちは客になった日本人から受け取った切符を1週間に100枚提出することを義務付けられていた[58]

  • 1人の女性は、ノルマを果さないと、殴られて厳しく監視されることになっていた、としている[59]
  • 年配の日本人将校に気に入られていた或る女性は、同じ将校の相手ばかりしていたところ、他の兵士から不平が出るようになり、憲兵隊から差別しないよう指示が出て多くの兵士の相手をさせられることになり、多い時には17人が列を作って順番を待っていたこともあった、としている。そこで、親しくなった日本人の年配の将校の客から策を授けられて、客としてやってくる兵士にお金を渡して1枚余分に切符を買ってもらい、毎日少数の兵士の相手をするだけで週末に必要な枚数の券を渡すことができた、としている。[59]
  • また別の女性は、身体が弱く、ノルマの数の客をとることができなかったため、切符を売っていた日本人の協力を得て、自分でお金を出して切符を買い足して届けていた、としている[60]

売春宿に客としてやって来た日本人は、切符を買うと必ずサックEnglish版を渡され、使用を義務付けられていた[53]。しかしサックを使わない客が多く、そのことで文句を言うと殴られたという[56]

  • 女性の1人は、食事は十分に支給されていたが、大勢の客が来るため休養はあまりできず、身体を洗う時間がないこともあったため、体調を崩した、としている[56]
  • 売春宿には、週に1度、医者が検診に来て、過マンガン酸塩を洗浄剤として配り、注射を打ったりしていた[61]
  • 女性たちの外出は厳禁されており、建物の周囲には高い塀がめぐらせてあって、外は見えず、建物の門は夜になると施錠されていた[57]
  • 女性の1人は、何度か自殺を試みたが、都度、気付いた日本人に止められたという[62]

或る女性は、フローレス島でバンドンBahasa Indonesia版から来ていた若い女性たちに会ったことがあり、そのうちの1人の、16歳くらいの少女と短時間話をしたところ、彼女たちはバンドンからチモールEnglish版の売春宿へ移されるらしい、と話していた、としている[63]

帰還

17人の女性たちのうち3人は、1945年4月頃、フローレス島を離れ、同年5月18日ないし19日にスラバヤへ到着した。3人のうち1人は客として来ていた年配の日本人将校の男性の子供を妊娠しており、別の1人の女性はマラリアで重症になっていた。もう1人が返された理由は不明。[64]

  • 病気を理由にフローレス島を離れた女性は、島を出る際に、売春宿の経営者から450ギルダーを受け取った、としている[65]。この女性は、スラバヤに到着した後、スラバヤの親戚の家に泊まり、翌日その親戚に連れられてスマランの母親のもとへ戻り、その後は、日本軍が降伏するまで自宅で過ごした[65]
  • 妊娠した女性は、妊娠が分かった後、年配の日本人将校の取り計らいで売春宿の外に住居を与えられてそこで1945年4月まで男性と一緒に暮らし、妊娠が大分進んでから、男性と一緒にジャワ島へ向かった。復路も旅程は難航し、最初に帆船に乗せられたがフローレス島に引き返し、その後、飛行機でジャワ島へ戻ったという[66]。この女性もスマランへ戻り、1945年9月3日に赤ん坊を出産した。[66]

別の女性1人は、1945年6月頃に妊娠したため、帆船でジャワ島へ戻ることを許された[67]。この女性は、スマランに戻ってから警察本部で、スプレンディッド・ホテルで女性たちに「私たちは彼の子供だ、何も変なことにはならない」と言った日本人の軍人に遭遇し、「自分が苦労したのはあなたのせいだ」と言うと、日本人の男性は「確かに私はそういった」と言って悔いていた、と証言している[68]

また別の女性3人は、1945年8月に他の女性3人と帆船でジャワへ戻された。このうち1人の女性は、1945年7月頃に妊娠していた。この女性は、ジャワ島へ戻った後、1946年5月に赤ん坊を出産した。[60]

残る10人は、1945年8月に帆船でジャワへ戻った[61]

被害全般について

戦争犯罪調査担当の警視の尋問に対して、1人の女性は、性病検査の時に日本人医師によって引き起こされた終日の出血を別とすれば、身体的な被害は被らなかった、しかし疲労と不快感はあった、と証言しており[69]、また別の女性も、1944年4月14日にスマランでの検査の時の出血以外は、身体の具合が悪かったことはない、もっともフローレスにいた1年くらいの間、非常に疲労感を覚え、体力が低下したのを覚えている、と証言している[60]

付録

地図

脚注

  1. 梶村ほか 2008 155-191。調査の経緯については同書p.155-156,164,173,180,185を参照。
  2. 梶村ほか 2008 158-159,166,172,174,180-181,185-186
  3. 梶村ほか 2008 166,172,174
  4. 梶村ほか 2008 166,172
  5. 梶村ほか 2008 158-159,180-181
  6. 6.0 6.1 梶村ほか 2008 180-181
  7. 梶村ほか 2008 185-186
  8. 8.0 8.1 8.2 梶村ほか 2008 174
  9. 9.0 9.1 梶村ほか 2008 158,166,174,181,186
  10. 梶村ほか 2008 174,181,186
  11. 11.0 11.1 梶村ほか 2008 166
  12. 梶村ほか 2008 181
  13. 13.0 13.1 梶村ほか 2008 166-167
  14. 梶村ほか 2008 166,174,181
  15. 15.0 15.1 梶村ほか 2008 186
  16. 梶村ほか 2008 160,166
  17. 17.0 17.1 梶村ほか 2008 158
  18. 梶村ほか 2008 166,174,181,186
  19. 梶村ほか 2008 147
  20. 梶村ほか 2008 181,186
  21. 梶村ほか 2008 166-167,174,181,186
  22. 梶村ほか 2008 166-167,174,181,186
  23. 梶村ほか 2008 160-161,166-167,175,181-182,186
  24. 梶村ほか 2008 160-161,167,175,181-182,186
  25. 25.0 25.1 梶村ほか 2008 175
  26. 梶村ほか 2008 175,182,186
  27. 梶村ほか 2008 175,187
  28. 梶村ほか 2008 167
  29. 梶村ほか 2008 186-187。梶村ほか (2008 161)によると、別の1人の女性は、スラバヤで仕事に就いてもらう、と説明を受けた、としている。
  30. 梶村ほか 2008 188
  31. 梶村ほか 2008 161,175
  32. 梶村ほか 2008 161,167,176,187
  33. 梶村ほか 2008 176,187
  34. 34.0 34.1 梶村ほか 2008 176
  35. 梶村ほか 2008 182
  36. 梶村ほか 2008 158,161,167,176,182,187
  37. 梶村ほか 2008 158,161,167,167,176
  38. 梶村ほか 2008 168,176
  39. 39.0 39.1 39.2 梶村ほか 2008 177
  40. 40.0 40.1 40.2 40.3 梶村ほか 2008 168
  41. 梶村ほか 2008 168,183
  42. 42.0 42.1 梶村ほか 2008 168,177
  43. 43.0 43.1 43.2 43.3 梶村ほか 2008 169
  44. 梶村ほか 2008 161-162,177-178,183
  45. 梶村ほか 2008 168-169,177
  46. 梶村ほか 2008 169,177
  47. 梶村ほか 2008 161,169,177
  48. 梶村ほか 2008 161,178,183
  49. 梶村ほか 2008 177-178,183
  50. 梶村ほか 2008 158,162,183,187
  51. 梶村ほか 2008 162,169,183
  52. 梶村ほか 2008 158,162
  53. 53.0 53.1 梶村ほか 2008 178,183
  54. 梶村ほか 2008 162,169-170,178,183
  55. 梶村ほか 2008 178。別の女性は、切符は1.5ギルダーだった、と証言している(梶村ほか 2008 169-170)。
  56. 56.0 56.1 56.2 梶村ほか 2008 178
  57. 57.0 57.1 梶村ほか 2008 162
  58. 梶村ほか 2008 169-170,178,183
  59. 59.0 59.1 梶村ほか 2008 169-170
  60. 60.0 60.1 60.2 梶村ほか 2008 183
  61. 61.0 61.1 梶村ほか 2008 179
  62. 梶村ほか 2008 163
  63. 梶村ほか 2008 187-188
  64. 梶村ほか 2008 158,163,187-188
  65. 65.0 65.1 梶村ほか 2008 158,163
  66. 66.0 66.1 梶村ほか 2008 171
  67. 梶村ほか 2008 187
  68. 梶村ほか 2008 187,188
  69. 梶村ほか 2008 178-179

参考文献

  • 梶村ほか (2008) 梶村太一郎・村岡崇光・糟谷廣一郎『「慰安婦」強制連行』金曜日、2008年、ISBN 978-4906605415
  • 山本 ホートン (1999) 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン「日本占領下インドネシアにおける慰安婦 − オランダ公文書館調査報告」(pdf)(財)女性のためのアジア平和国民基金「慰安婦」関係資料委員会(編)『「慰安婦」問題調査報告・1999』(財)女性のためのアジア平和国民基金、1999年、107-141頁
  • ヒックス (1995) ジョージ・ヒックス(著)濱田徹(訳)『性の奴隷 従軍慰安婦』三一書房、1995年、ISBN 438095269X
  • 吉見 (1995) 吉見義明『従軍慰安婦』〈岩波新書〉岩波書店、1995年、ISBN 4004303842
  • オランダ政府 (1994) 安原桂子「日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」日本の戦争責任資料センター『季刊戦争責任研究』No.4、1994年6月25日、46-58頁、NDLJP 4427963/25 (閉)
  • 朝日新聞 (1992d) 「慰安婦『強制』を裏付け・問われる日本の対応」『朝日新聞』朝刊31面、1992年7月22日