中村紀洋

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中村 紀洋

中村 紀洋(なかむら のりひろ、1973年7月24日 - )は、横浜DeNAベイスターズに所属するプロ野球選手内野手)。

愛称は「ノリ」。家族は妻の浩子(元実業団バレーボール日立の選手)と3女。元プロ野球選手の村上隆行は義兄(妻の兄)。さらに広島東洋カープに所属する中田廉とも遠戚関係にある(中田の母の妹が村上の妻で、村上の妹の夫が中村になる)

来歴・人物

プロ入り前

大阪府大阪市出身。1985年4月17日阪神タイガース読売ジャイアンツの試合を観に行き、バックスクリーン3連発を観客席で見ていた。

大阪府立渋谷高等学校時代は、1990年の全国高等学校野球選手権大阪大会で2年生ながら4番打者として活躍、4本塁打を放つ。守備でも三塁手投手として活躍し、チームを甲子園初出場に導く。甲子園では初戦(2回戦)で敗れたが、大阪府立高校の出場が8年ぶりであったということもあり、話題となる。高校通算35本塁打。

高校時代の同級生に大鳥れい(元宝塚歌劇団花組トップ娘役)がいる。

1991年のドラフト4位で近鉄バファローズから投手として指名を受け、入団。背番号66。同じ73年生まれのプロ野球選手は「第2次ベビーブーマー」と呼ばれた世代であり、イチロー松中信彦小笠原道大石井一久三浦大輔黒木知宏小坂誠薮田安彦など一時代を築いたスター選手が数多く存在する。

近鉄時代

1992年、高卒新人ながら公式戦に出場しシーズン2本塁打を記録(パ・リーグ高卒新人で本塁打2本以上は清原和博田中幸雄以来6年ぶり)。1994年には故障した金村義明の代役として台頭。9月18日日本ハム戦(藤井寺)でサイクル安打を記録した。プロ入り後初の三塁打がこの記録に結び付いた。

1996年から左手首の故障に悩まされる(これまでに左手首の手術を3回受けている)。1997年には、背番号を石井浩郎の着けていた3に変更。1998年には、リーグ2位の32本塁打を放ち、自身初のシーズン30本塁打達成。左手首の故障から完全復活を果たした。

1999年は初の全試合出場を達成し、ゴールデングラブ賞を獲得。2000年にはシドニー五輪の野球競技日本代表として参加も4位に終わる。4位が決まった直後に涙した全日本のメンバーは多かったが、中村はインタビューでテレビカメラの前でも人目を憚らず号泣した。シーズンでは二冠王(本塁打王打点王)を獲得するが、近鉄は2年連続のパ・リーグ最下位。シーズン終了後、推定年俸3億円(1億6,000万円増)プラス出来高払い5,000万円で契約更改シアトル・マリナーズに移籍したイチローに代わり、パ・リーグの日本人最高年俸選手になる。

2001年、開幕前に背番号を、西武ライオンズに移籍した義兄・村上嵩幸の着けていた5に変更。4番打者として活躍し、打点王を獲得した。3・4番合計101本塁打(タフィ・ローズ55本、中村46本)は、1985年での阪神(ランディ・バース54本、掛布雅之40本)を上回る最多記録を更新。翌シーズンにFA権の取得が予想される中、近鉄から複数年契約(推定6年契約35億円)を提示される。しかし、12月26日に「1か月で判断するのは難しかった」と複数年契約を拒否し、推定年俸5億円プラス出来高払い1億円の単年契約を結ぶ。大阪教育大附属池田小学校の慰問活動が評価され第3回ゴールデンスピリット賞を受賞している。

2002年7月14日にFA権を取得。右足首痛、持病の腰痛をこらえ、52打席ぶりの一発。11月5日にはFA宣言し、シーズン終了後から「中村紀洋というブランドをまず考えて、近鉄で終わっていいのか」と悩み抜いた末に、FA宣言することを決めたという。12月19日には700万ドルでの2年契約プラス3年目のオプション600万ドルでニューヨーク・メッツと契約合意したと報じられるが、12月20日にこれがメッツの公式HPに載ったことに「そんな球団は信用できない」と激怒し交渉を白紙に戻す。そのため、近鉄と再交渉を行い、監督の梨田昌孝らから慰留されたこともあり、12月21日に近鉄残留を表明した(推定4年契約20億円プラス出来高払い)。この件について中村は「確かにメッツと契約寸前までいっていた。しかしマスコミ関係から合意のネタが飛んできた。ルール違反する球団とは契約できない」とコメントし、代理人を務めた音楽プロデューサーの茂田雅美も当初は「守秘義務に違反したメッツの勇み足だった」とメッツの姿勢を批判したが、後にMLB機構とメッツから「中村側が違約の根拠としている公式ホームページの文書はMLB機構や球団の認可を受けたものではない上に、問題の記事はメッツと無関係の人物の情報に基づいている。今回の交渉に関し、メッツのルール破りは一切ない。また中村と彼のアドバイザーの茂田氏は各球団が選手との契約に先立ち契約内容をMLBに報告する必要があることを知らないと思われる。健康診断にパスした時点で拘束力のある合意が成立する」との声明が出され、茂田氏はこれを受けて「メッツが言うように、合意していたということに関して異論はない」と認め、中村の「メッツのルール違反」というコメントについて「あれは彼の言葉が足らなかった」と語った(音楽プロデューサーを本職とする茂田氏が代理人を務めたのは、中村が節税を目的に設立した会社の監査役を務めた縁から)。

2003年5月半ばに右を傷め6月10日に右膝半月板損傷と診断されるものの、「自分が欠場するわけにはいかないから試合に出ながら治す」と言い、出場し続けた。しかし、ケガの影響で不本意な成績が続き、近鉄もリーグ3位に終わる。アテネ五輪の予選を兼ねたアジア野球選手権への参加を辞退し、10月17日に右膝を手術。これ以降、成績に直結する故障が増える。

2004年右膝のリハビリを兼ねてロサンゼルス・ドジャーススプリングトレーニングに招待選手として参加した。渡米前に歯並びの治療を受けていたが、キャンプで守備練習中にノックの打球を歯に受け、帰国後にオープン戦を欠場し、治療を受けた。アテネ五輪の野球競技には日本代表として参加して銅メダルを獲得した。しかし、試合後の宴会で右足裏を負傷し、9月10日まで欠場した。


欠場中、団野村を代理人として、ポスティングシステムによるメジャーリーグ入りを企図していることが報じられる。11月3日にメジャーリーグ入りの意思を表明。会見で近鉄と2年前に結んだ契約にポスティングシステムによるメジャーリーグ移籍を容認する内容が含まれていたことを明かした。11月8日選手分配ドラフトの結果、合併球団オリックス・バファローズに振り分けられた。12月1日に合併球団が発足、4年契約の2年目を終えた時点で球団が消滅してしまったため、残りの契約期間の年俸(2年分10億円)に相当する保証金を近鉄に要望、うち3億円が功労金として支払われた。近鉄在籍時代に記録した307本塁打は球団記録となった。

2005年1月25日にポスティング申請し、近鉄と業務提携していたロサンゼルス・ドジャースが落札し。2月3日、ドジャースとマイナー契約(推定1年契約50万ドル)を結ぶ。背番号は近鉄入団当時と同じ66に決まった。

この年発生した奈良小1女児殺害事件では被害女子が近鉄のファンで自身の娘と同年代ということもあり、サイン入りの野球用具を贈り霊前に供えられた。

ドジャース時代

4月2日AAA級パシフィック・コーストリーグラスベガス・フィフティワンズへ合流するように通告されたが、4月10日には故障者リスト入りしたアントニオ・ペレスに代わって、念願のメジャー昇格を果たした。しかし、5月8日の試合後、メキシカンリーグでプレーしていたオスカー・ロブレスが40人枠入りしたのに伴い、40人枠から外される。ウェーバー公示にかけられたが獲得を希望する球団が現れなかったためAAA級への降格を了承、再びラスベガスでプレーする。

ラスベガスでは、本塁打こそリーグ17位の22本を放つも、打率.249は規定打席を満たした選手90人のうち85位と低迷、OPS.818は打者優位の本拠地で平均OPS(投手も含む)が.798のチームにあっては平凡であった。守備ではチーム最多の20失策を記録。9月5日にAAA級のシーズンが終了。団野村との代理人契約を解除し、日本球界復帰を目指した。

12月21日、分配ドラフトからドジャース入りまでの間、一時在籍したオリックスへの復帰を表明。推定年俸2億円プラス出来高払い5,000万円の単年契約。背番号は8

オリックス時代

2006年、「帰ってきたで」というキャッチコピーのポスターが製作され、ドラフトによる西武入団から20年ぶりに出身地である関西地方へ戻ってきた清原和博との共演が話題となるが、開幕前に右足に肉離れを起こし、4月28日に左手親指を捻挫。更に5月13日の対ヤクルト戦で木田優夫からの死球を左手首に受けて負傷。負傷した箇所をかばいながら出場している間に右手首も痛めるという故障続きのシーズンとなる。8月11日に左肘に死球を受け途中交代するとその後は試合出場がなく、日本球界復帰1年目は85試合出場、328打数、76安打、打率.238でシーズンを終える。二塁打22、本塁打12はチーム2位を記録した。9月に左手首を手術。

契約交渉では中村が左手首の故障を「公傷」と主張したのに対し、球団側はそれを認めず、60%減の8,000万円(推定)の単年契約を提示。

2007年1月12日までに6回の契約交渉が行われるが合意に達せず、球団側は契約更改を断念。中村の退団が決定する。その後、トレードを試みるも獲得球団はなく、1月17日に正式に自由契約選手となった。中村はオリックスを除く11球団からの連絡を待ちながら、各球団の春季キャンプが始まった2月1日以降も「架空のキャンプイン」と称して自主トレーニングを続ける。なお、この一件がきっかけとなり、2008年9月19日日本プロフェッショナル野球組織日本プロ野球選手会との間で戦力外通告ならびに野球協約を超える大幅な年俸ダウンに関するルールが取り決められた。

2月12日中日ドラゴンズからテスト生としてのキャンプ参加を呼び掛けられ、同15日から同チームのキャンプに参加。ここで入団テストを行い、同25日、育成枠での中日入団が決定(年俸400万円)。背番号は205。これは中日の育成選手が慣例として200番台を与えられることと、近鉄時代に背番号5を着用していた中村に落合博満が配慮したものである。

中日時代

育成枠で中日入団を果たすとオープン戦で結果を残し、リーグ戦開幕直前の3月22日、年俸600万円で支配下選手契約を結び、背番号も99に変更された。開幕戦から公式戦に出場し、序盤は5番や6番を、シーズン後半は故障で離脱した福留孝介の代役として3番を、クライマックスシリーズ日本シリーズでは主に5番を任された。広角に打ち分けるバッティングで打率.293(チーム3位)、2年ぶりの20本塁打(同2位)、79打点(同3位)で日本一に貢献した。9月10日には北京オリンピックアジア予選決勝リーグ日本代表候補に選出された。 日本シリーズでは持病の腰痛が悪化していたため鎮痛剤を射ちながら強行出場し、打率.444(18打数8安打)、4打点と活躍。11月1日の第5戦にて日本一を決め、日本シリーズMVPを獲得した。日本一決定後のヒーローインタビューでは男泣きを見せた。アジアシリーズでは帰国したタイロン・ウッズの代役として4番に起用された。

11月30日に行われた中日との契約更新では、3月の新規契約時より733%アップとなる年俸5,000万円の提示を受けこれを一発で了承し、契約更新となった。記者会見では「契約してくれるだけでもありがたい。額を見ずに判を押すつもりだった」と述べた。

2008年6月15日父の日日本メンズファッション協会・日本ファーザーズ・デイ委員会が主催する「2008年度ベスト・ファーザー イエローリボン賞」を、同年から12球団から1人ずつ選定することを受けて、中日から選出された。京セラドーム大阪でのオリックス対中日戦の試合前に行われた授賞式では、「芸能人がもらう賞だと思っていた。縁がないと思っていたので嬉しい」と大いに照れながら、近鉄・オリックス時代の元同僚・北川博敏と共に表彰された。試合直前には娘3人と記念撮影。4月14日に自身2回目のFA権を取得するが、当初FA宣言には否定的な姿勢で「そんなことより来季契約してくれるだろうか、そのことが心配です」と語っていた。FA権を再取得したことも記者に尋ねられるまではその時期にきたことを知らなかったと言っていた。5月7日から自身が出演する浜乙女のラジオCM(東海ラジオ ガッツナイターのみ)が放送開始。6月17日石川県立野球場での対西武戦で大沼幸二から2ラン本塁打を放ち、通算100猛打賞を達成。また次の打席で、元同僚の岡本真也からサヨナラソロ本塁打を放ち、通算サヨナラ本塁打記録が9本となり、王貞治若松勉を抜き歴代3位となった。11月、中日残留も視野に入れつつ、「他球団からの評価も聞いてみたい」と2度目のFA権行使。11月25日東北楽天ゴールデンイーグルスと1回目の入団交渉を行い、11月29日に正式に楽天への移籍を表明。楽天球団初のFA加入選手となった。

12月5日仙台市内で入団会見。背番号は自身の希望もあり、中日時代と同じ「99」となった。

楽天時代

2009年4月5日札幌ドームでの対北海道日本ハムファイターズ戦でブライアン・スウィーニーから移籍後初本塁打。この日は4安打5打点と大当たりだった。その後は本塁打も全く出ず打率も低調、また持病の腰痛も悪化したこともあり、6月9日から6月25日まで登録を抹消された。一軍復帰後、7月11日の対ソフトバンク戦で佐藤誠から71試合ぶりとなる本塁打を放った。シーズンの前半戦終了時、監督の野村克也は打率2割前後、わずか2本塁打という不調に低迷した中村に対し、「ノリは誤算。もう少し打つと思ったが…」と語った。その後も調子は戻らず8月3日に一軍登録を抹消されると、再登録されることなくシーズンを終えた。結局加入1年目は打率.221、本塁打2本、26打点と、期待とは大きくかけ離れた成績となってしまった。

2010年、序盤は調子が良く、前半はチーム打線が不調に喘いだため交流戦などでは4番を任された。一時は打率3割を記録したが、後半以降は徐々に下降。また、守備でも後半になるにつれイージーミスが目立つようになった。シーズン終盤には走塁中に肉離れを起こして一軍登録を抹消される。10月1日に球団から戦力外通告を受け、退団した。12球団合同トライアウトには参加しなかったが、地元・大阪で自主練習をしながら他球団からのオファーを待つ形となった。2011年2月には徳島インディゴソックスの合同自主トレに参加した。

横浜・DeNA時代

2011年5月23日横浜ベイスターズへの入団が発表された。翌24日に球団事務所で入団会見を行った。入団の話は、前日22日に加地隆雄球団社長より電話があったことが明らかにされた。背番号は中日、楽天時代と同じ「99」となった。

6月8日に一軍登録され、同日の楽天戦(Kスタ)に「7番・一塁手」でスタメン出場した。6月18日横浜スタジアムでの福岡ソフトバンクホークス戦で代打で出場し、杉内俊哉から移籍後初本塁打。この本塁打で同点に追いつき、ターメル・スレッジの本塁打でチームは勝利した。この年は当初は代打要員がメインだったが、対左投手時のスタメンや守備固めでの起用も増えた。10月13日の阪神戦(横浜スタジアム)では、急遽プロ入り初めて二塁手でスタメン出場した。最後まで一軍登録を抹消されることは無く、62試合に出場したものの、打率.209、1本塁打、14打点の成績に終わった。

2012年は新加入のアレックス・ラミレスの故障により、「4番・三塁手」で開幕スタメン出場。その後も主に三塁手や一塁手でスタメン出場。開幕直後から高い得点圏打率を維持し、4月15日読売ジャイアンツ戦で、延長11回、サヨナラ本塁打を放つ。5月4日の中日戦で岩瀬仁紀から同点本塁打を打ち、史上22人目の全球団から本塁打を達成した。2004年以来8年ぶりのオールスターにも選出され、7月20日のオールスターゲーム第1戦では逆転決勝2ラン本塁打を放ち、5人目となる両リーグでのMVP獲得。8月18日に車のイグニッション・キーを回した際、右肘に違和感を覚え、登録抹消。9月4日に一軍復帰。後半戦は数字を落とすも、チームは最下位を独走する中で主軸として活躍を見せた。ゴールデングラブ賞の投票では一塁手として2票差の2位。

2013年は開幕カードは代打要員だったが、程なくして三塁手のレギュラーに定着。5月1日のヤクルト戦(横浜スタジアム)で日米通算2000本安打を本塁打で達成。イチロー、松井秀喜松井稼頭央に次いで史上4人目の記録となったが、「日本のみで2000本を打ちたい」という本人の意向を汲んでセレモニーなどは行われなかった。そして5月5日、ナゴヤドームでの古巣中日戦で8回に中田賢一から左中間を破る2点二塁打を放ち、通算2162試合目で史上43人目の日本通算2000安打を達成した5球団に所属しての2000安打達成は加藤英司に次いで二人目。また、2162試合での到達は史上4番目の遅さ、39歳9か月での到達は8番目に遅い記録。ちなみに、チームメイトのラミレスも同年NPB通算2000本安打達成。6月30日の中日戦では山本昌から先制のソロ本塁打を放ち、史上18人目の400本塁打を達成した。同試合では9回裏にサヨナラ安打を放った。

選手としての特徴

打撃

平均より重く長い88cm/900gのバットを使用する。バッターボックスではホームベースから離れて、捕手寄りに立ち、オープンスタンスの神主打法に構え、テイクバックを大きく取り、左足を大きく上げフルスイングによる長打を狙うスタイルだった。近年はベースから大きく離れるスタイルや神主打法こそ変わらないものの、オープンスタンスを捨てスクエアスタンスに構えていることが多くなっている。広角に強い打球を放つが、同時にバットコントロールも巧みであり、バントもうまい。4番に定着していた近鉄時代はほとんど見せなかったが、チームバッティングが求められる中日に入団してからは、次の1点が欲しい時によく指示が出され、ほぼ成功させている。また、ランナーが出塁していない時に特に打率が良い。本塁打を打った際にはバットを高々と放り上げるパフォーマンスを見せる。また、このパフォーマンスは現役時代の中畑清を意識したものだと後に明かしている。

しかし、中日入団後は本塁打をあまり狙っていないこともあってか、行わないことも多い。2000年から2002年までは3年連続で5月の月間MVPを獲得するなど、5月になると打撃の調子が上がることが多く、「ミスターメイ」の異名を持つ。

近鉄 - オリックス時代は「ホームランの打ち損じがヒット」「ホームランを捨てればいつでもヒットは打てる」とまで豪語し、“ミスターフルスイング”の異名を小笠原道大と分け合う程の豪快なバッティングスタイルが売りであった。5回にわたる左手首の手術の影響で左手の握力は40キロ程度になっており、フルスイングでなければかえって手首に負担がかかり故障が悪化する懸念があったことも、常にフルスイングのスタイルが形成される要因であったという。ただし当時から常々フルスイングのスタイルでありながら流し方向へ強い打球を飛ばすことは非常に多かった。左手の握力が無いが故にインパクトの際に右手でバットを押し込む動作が洗練され、フルスイングする打者でありながら広角打法になったのだという。

中日 - 楽天時代からは特に進塁打が求められる場面で、一・二塁間や右前へのいわゆる「おっつけた」打球を狙うことが多くなった。反面、有利なカウントやゲッツーの心配が無い場面では積極的に引っ張っての長打も狙うこともあり、柔軟なスタイルのバッティングとなっている。

自身と同じくオープンスタンスの神主打法を採用していた落合博満を打撃の「師」と仰いでおり、近鉄時代から度々助言を求めている。落合が日本ハム所属時、中村が出塁時(一塁守備の落合に)「今の打席、どうでした?」と聞くと「遅い」と一言だけ言われた。次に出塁した時も「遅い」の一言だけ。中村は「何のことだろう?」と考えたが、後にこれは「スイングの始動が遅い」との意味で、そうなる原因は「構えに入った時点で90%以上は後ろの右足に体重をかけるべきで、ピッチャーのモーションに合わせて体重を移動させていたのでは遅い」からだとわかったという。

また、引退後に野球評論家として活動していた落合に、毎年のようにキャンプ中指導を仰いでいた。シーズン中も「調子はいいんですが、打球が上がらなくて本塁打が出ないんです」と相談し、「変に打球を上げようとすると調子を崩すから気にするな、お前ならそのうち自然に本塁打を量産できる」と回答されたこともあった。

中日時代には監督となった落合の勧めで試合前のバッティング練習時にはオープンスタンスを修正していたが、腰痛持ちであること、長年親しんだフォームであることなどもあってか、試合の時には自然とオープンスタンスになっている。また、左手首への衝撃を和らげるためにサミー・ソーサを参考にして1999年頃からバットのグリップにテープを巻き、グリップエンドに左の薬指まで指を掛けるようになった。落合の指導を受け、打撃フォームを見直した際、止めるように言われたが、変えることはなかった。

守備

主に三塁手としてプレーする。重心を低く、打者に対しやや斜めに構えた守備姿勢から打球に反応し、逆シングルやイレギュラーバウンドへの対応でグラブ捌きが光る。高校時代に投手経験があり、近鉄時代のキャンプ中には投球練習で140km/h以上を計測することもあった強肩を併せ持つ。ボテボテの打球にはランニングスローで素早い送球をみせる。

三塁手としての評価は高く、ゴールデングラブ賞を7度獲得している。自身もサードのポジションにこだわりがあり、中日からFA宣言をしたのも落合監督から「守備範囲が狭い」ことを理由に三塁手失格と判断されたのが一因であった。

腰に持病を抱えていることもあり、守備面で負担の軽い一塁手として出場することも多い。中日時代の2007年シーズン中盤から2008年まではリードしている試合の終盤になると守備に難のあるタイロン・ウッズに代わって一塁に回った。楽天移籍後も試合終盤にフェルナンデス山崎武司の代わりに一塁の守備に就いた。横浜時代の2012年には一塁手として75試合に先発し、ファーストでのゴールデングラブ獲得にも意欲を見せた。但し2013年には、こちらも故障を抱える左膝の負担の関係から三塁手のポジションを狙う発言もしている。

近鉄時代は強肩を買われ、2001年の日本シリーズ第4戦[1]をはじめ度々遊撃手として出場した。ドジャース時代には内野4ポジションすべての守備に就いている。横浜移籍後の2011年10月13日には日本では初めて二塁手でスタメン出場した。また、出場機会こそないが、横浜での一年目は尾花高夫監督の指示で捕手の練習にも取り組んだ。

真喜志康永(現:オリックス・バファローズ一軍内野守備コーチ)は『ベースボールクリニック』誌のインタビューにおいて、「中村は守備練習が好きで率先してやっている」と語った。本人曰く、「昔から走り込みが嫌いで、ノックで足腰をつくっていた」という。

初回の守備位置に就く時、必ず自分が守る場所に向かって帽子をとって一礼をする。

詳細情報

年度別打撃成績



[[|球

団]]












































O
P
S
1992 近鉄 11 27 27 4 6 1 0 2 13 5 0 0 0 0 0 0 0 8 0 .222 .222 .481 .704
1993 8 12 9 1 1 0 0 0 1 1 0 0 0 1 2 1 0 4 0 .111 .250 .111 .361
1994 101 215 192 23 54 13 1 8 93 36 0 0 2 2 19 1 0 49 2 .281 .343 .484 .827
1995 129 528 470 62 107 19 1 20 188 64 0 1 3 1 51 1 3 92 12 .228 .307 .400 .707
1996 110 454 411 60 112 15 1 26 207 67 4 1 0 0 39 3 4 89 7 .273 .341 .504 .845
1997 128 519 455 54 109 22 3 19 194 68 3 2 2 3 54 5 5 105 13 .240 .325 .426 .751
1998 132 564 481 74 125 14 1 32 237 90 1 1 2 2 74 3 5 114 12 .260 .363 .493 .856
1999 135 601 514 83 134 23 0 31 250 95 3 0 1 3 79 0 4 116 21 .261 .362 .486 .848
2000 127 564 476 82 132 26 0 39 275 110 1 1 0 5 80 5 3 112 17 .277 .381 .578 .959
2001 140 637 525 109 168 25 0 46 331 132 3 2 0 3 104 8 4 106 26 .320 .434 .630 1.064
2002 140 602 511 87 150 27 1 42 305 115 2 1 0 0 86 10 5 136 10 .294 .400 .597 .997
2003 117 456 381 54 90 14 1 23 175 67 1 1 0 2 72 4 1 96 18 .236 .357 .459 .817
2004 105 462 387 59 106 16 1 19 181 66 0 0 0 1 73 8 1 88 13 .274 .390 .468 .857
2005 LAD 17 41 39 1 5 2 0 0 7 3 0 0 0 0 2 0 0 7 3 .128 .171 .179 .350
2006 オリックス 85 359 328 39 76 22 0 12 134 45 0 1 0 2 26 2 3 70 10 .232 .292 .409 .701
2007 中日 130 521 457 64 134 24 0 20 218 79 2 1 4 8 51 3 0 87 18 .293 .359 .477 .836
2008 140 557 493 56 135 20 0 24 227 72 0 1 10 3 50 4 1 119 11 .274 .340 .460 .800
2009 楽天 77 294 263 16 58 11 0 2 75 26 0 1 1 1 29 2 0 41 11 .221 .297 .285 .582
2010 129 521 473 51 126 23 0 13 188 64 0 1 1 2 44 2 1 84 18 .266 .329 .397 .726
2011 横浜
DeNA
62 126 115 6 24 3 1 1 32 14 0 1 0 2 9 0 0 27 1 .209 .262 .278 .540
2012 126 500 442 50 121 24 1 11 180 61 1 1 0 6 50 1 2 72 14 .274 .346 .407 .753
2013 122 473 431 37 121 19 1 14 184 61 1 0 0 5 32 1 5 66 20 .281 .334 .427 .761
NPB:21年 2254 8992 7841 1071 2089 361 13 404 3688 1338 22 17 26 52 1024 64 47 1681 254 .266 .353 .470 .825
MLB:1年 17 41 39 1 5 2 0 0 7 3 0 0 0 0 2 0 0 7 3 .128 .171 .179 .350
  • 2013年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 横浜(横浜ベイスターズ)は、2012年にDeNA(横浜DeNAベイスターズ)に球団名を変更

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1998年9月16日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(大阪ドーム)、9回裏に河本育之から中越逆転サヨナラ3ラン ※史上201人目
  • 150本塁打:2000年5月26日、対日本ハムファイターズ9回戦(大阪ドーム)、1回裏に新谷博から左越2ラン ※史上113人目
  • 200本塁打:2001年6月13日、対福岡ダイエーホークス12回戦(福岡ドーム)、7回表に吉田修司から右越ソロ ※史上72人目
  • 1000試合出場:2001年9月2日、対日本ハムファイターズ27回戦(東京ドーム)、4番・三塁手で先発出場 ※史上375人目
  • 1000本安打:2002年5月29日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(大阪ドーム)、5回裏にネイサン・ミンチーから左中間へ3ラン ※史上209人目
  • 250本塁打:2002年8月18日、対西武ライオンズ21回戦(西武ドーム)、1回表に張誌家から左越2ラン[2] ※史上43人目
  • 1000三振:2003年7月30日、対福岡ダイエーホークス18回戦(福岡ドーム)、7回表に斉藤和巳から ※史上33人目
  • 300本塁打:2004年6月4日、対千葉ロッテマリーンズ12回戦(千葉マリンスタジアム)、6回表に高木晃次から右越2ラン ※史上29人目
  • 1500試合出場:2007年5月6日、対横浜ベイスターズ9回戦(ナゴヤドーム)、5番・三塁手で先発出場 ※史上151人目
  • 1000打点:2007年7月5日、対広島東洋カープ10回戦(ナゴヤドーム)、4回裏にジャレッド・フェルナンデスから左翼フェンス直撃2点適時二塁打 ※史上29人目
  • 1500本安打:2007年9月26日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、1回表に高橋尚成から左前安打 ※史上95人目
  • 350本塁打:2008年6月7日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に星野八千穂から左越2ラン ※史上22人目
  • 100猛打賞:2008年6月17日、対埼玉西武ライオンズ3回戦(石川県立野球場
  • 300二塁打:2010年5月8日、対北海道日本ハムファイターズ7回戦(函館オーシャンスタジアム)、5回表にダルビッシュ有から右翼線二塁打 ※史上55人目
  • 1500三振:2010年8月18日、対オリックス・バファローズ21回戦(スカイマークスタジアム)、5回表に近藤一樹から ※史上10人目
  • 2000試合出場:2011年10月4日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、8回裏に一塁手で出場 ※史上43人目
  • 1000得点:2012年5月20日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(横浜スタジアム)、1回裏に唐川侑己から左越2ラン ※史上38人目
  • 3500塁打:2012年9月28日、対読売ジャイアンツ戦20回戦(横浜スタジアム)、2回裏に内海哲也から右前安打 ※史上26人目
  • 1000四球:2013年4月27日、対阪神タイガース5回戦(横浜スタジアム)、6回裏に川﨑雄介から ※史上14人目
  • 2000本安打:2013年5月5日、対中日ドラゴンズ9回戦(ナゴヤドーム)、8回表中田賢一から左中間2点適時二塁打 ※史上43人目
  • 350二塁打:2013年5月23日、対福岡ソフトバンクホークス2回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、2回表に大隣憲司から中越二塁打 ※史上36人目
  • 400本塁打:2013年6月30日、対中日ドラゴンズ12回戦(横浜スタジアム)、2回裏に山本昌から左越ソロ ※史上18人目
MLB、NPBにまたがった記録
その他の記録
  • 通算満塁本塁打:14本(歴代2位タイ
  • 通算サヨナラ本塁打:10本(歴代単独3位
  • 通算サヨナラ安打:17本(歴代単独3位
  • サイクル安打:1回=1994年9月18日、対日本ハムファイターズ25回戦(藤井寺球場)
  • 代打満塁本塁打:1回=2007年10月6日、対東京ヤクルトスワローズ24回戦(明治神宮野球場)、6回表に花田真人から
  • シーズン満塁本塁打:3本 2回(2000年、2001年)
  • 17試合連続安打(2010年5月4日 - 5月29日)
  • 5試合連続本塁打(2000年6月3日 - 6月9日)
    • 全て両翼100m以上の球場での達成は史上初
  • 1試合9打点:2001年5月29日、対日本ハムファイターズ10回戦(東京ドーム)
  • オールスターゲーム出場:9回 (1995年、1996年、1999年 - 2002年、2004年、2012年、2013年)
    • 両リーグで本塁打:史上5人目
  • 1試合5四球:2003年5月3日、対日本ハムファイターズ7回戦(大阪ドーム) ※リーグタイ記録
  • 1試合3本塁打:4回 (1997年9月20日、2000年9月7日、2001年5月29日、2008年7月29日)
  • 3打席連続本塁打:4回 (1997年9月20日、2000年9月7日、2001年9月8日 - 9月9日、2008年7月29日 - 8月3日(球宴期間明け))
    • 1997年9月20日、2000年9月7日の記録はいずれもレフト・センター・ライトに打ち分けての3打席連続本塁打で、これは史上初であり、広角に打てる証明といえる。
  • 同一球団40HRコンビ(2001年 近鉄ローズ55本塁打・中村46本塁打、2002年 近鉄ローズ46本塁打・中村42本塁打)
  • 全球団から本塁打[3]:2012年5月4日、対中日ドラゴンズ6回戦(横浜スタジアム)、9回裏に岩瀬仁紀から左越同点ソロ ※史上22人目

背番号

  • 66 (1992年 - 1996年、2005年)
  • 3 (1997年 - 2000年)
  • 5 (2001年 - 2004年)
  • 8 (2006年)
  • 205 (2007年 - 同年途中)
  • 99 (2007年途中 - 2010年、2011年途中 - )

登場曲

脚注

  1. 指名打者の使えない神宮球場での試合
  2. 右足首痛、持病の腰痛をこらえ、52打席ぶりの一発。
  3. 達成時に存在の全球団であり、自身が所属した近鉄からは記録していない

関連項目

本作のタイトルは、中村紀洋の愛称"ミスターフルスイング"をモチーフとしており、また本作に登場する伝説のスラッガー村中紀洋は中村紀洋をモデルとしたキャラクター。

外部リンク

テンプレート:近鉄バファローズ1991年ドラフト指名選手