石井一郎
石井一郎(いしい いちろう、1925年7月15日 - 1973年4月26日)は、ヤクザ、暴力団・三代目山口組初代石井組(現・石井一家)組長。本名 - 山川一郎
山口組直参以前[編集]
福岡県田川郡川崎村(現・田川市後藤寺)で生まれる。 12歳の時、炭鉱夫の父・石井春信が坑内の落盤事故で死去。翌年、母が山川光夫と再婚。一郎も養子に出て、以降「山川」姓を名乗る。しかし、養父・光夫に馴染めず家出。 新潟県で一時工員として働いたが、1944年、満州へ徴兵され、1945年9月 に復員。
復員後、地元田川市にて豊洲炭鉱に勤務するも、生まれ持ったカリスマ性を発揮し、炭鉱夫を集め「人寄せ」を始めた。運悪く三井炭鉱のガス爆発で石井の送った炭鉱夫も犠牲となり、大分県別府市鉄輪の大正館という劇場で働く、その後、大分県杵築郡(現・日出町)の小劇場、衆楽館の用心棒となった。
別府-神戸間を結ぶ関西汽船にて船内賭博を行って資金を得ていた三代目山口組組長田岡一雄の舎弟で小西一家総長・小西音松の実兄・小西豊勝が別府にて小西組を結成。石井はその舎弟となる。 小西組は地元の愚連隊を次々と吸収し、当時の別府を支配してきたテキヤ組織井田組と対立。1949年11月、井田組々長・井田栄作が小西組の襲撃犯に襲われる。その先頭なって活躍したのが、石井であった。 翌年、団体等規正法により、小西組は解散。石井、小西ほか20数名が逮捕される。
服役後、別府に戻った石井は、北九州のテキヤ・村上義一(三代目山口組舎弟)の若衆となる。持ち前の度胸で頭角を表し、1953年石井組を結成。別府市浜脇の貸席「新都」を村上に譲り受け、別府市移動商組合長に就任。本家山口組のバックアップを受け、芸能・相撲・浪曲興行の勧進元となり、井田組を脅かす存在となる。
井田組との1957年3月の抗争(別府抗争を参照)に勝利し、正式に三代目山口組々長・田岡一雄の盃を受け、九州初の直系若衆となる。
山口組直参後[編集]
大阪・ミナミにて1960年8月9日から1960年8月23日に掛けて起きた明友会事件の抗争終結の仲介人となり、石井の名は全国に知ることとなる。
2年後の1962年に石井の舎弟・夜桜銀次が博多で殺害される。(夜桜銀次事件参照)
夜桜銀次事件時の一斉手入れを逃れた石井は、宮崎県延岡市等に転々としたが、程なくして逮捕。別府抗争の保釈も取り消され服役する事となった。
服役中の1967年、警察による頂上作戦により厳しい取締りを受けていた組員を憂慮した石井は獄中により石井組の解散を宣言したが、出所後の1969年に再結成。直後の11月12日に夜桜銀次の組葬を挙行し、その勢力を誇示した。
翌年6月、経営不振により倒産した南九州学園事業部長を組員に脅させ、検挙される。1972年1月19日、大分地裁にて懲役4年の判決を受け、福岡刑務所に収監される。
1973年2月、石井は札幌刑務所に移されたが吐血等の病状悪化により3月、刑の執行を停止され久留米大学医学部付属病院に搬送される。 その報せを受けた三代目山口組々長・田岡一雄は妻・田岡文子を見舞いに出した。
しかし、1973年4月26日午前4時、大量の吐血をして死去。原因は膵臓癌であった。 享年47。
演じた俳優[編集]
- 梅宮辰夫 - 映画「山口組外伝 九州進攻作戦 」(東映、1974年。監督・山下耕作) - 役名「石野一郎」
- 石橋凌 - 映画「実録 夜桜銀次 九州進攻作戦鮮血秘話 1・2 」(東映、2001年。監督・成田裕介) - 役名「石神司郎」
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