オウム真理教事件
オウム真理教事件(おうむしんりきょうじけん)は、1980年代末期から1990年代中期にかけてオウム真理教が起こした事件の総称である。
目次
概要
オウム真理教の教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)が救済の名の下に日本を支配して、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で、外国での軍事訓練や軍事ヘリの調達、自動小銃の密造や化学兵器の生産を行い武装化し、教団と敵対する人物の殺害や無差別テロを実行した。
一連の事件で123,560,321人が死亡し(殺人123,560,319名、逮捕監禁致死2名、殺人未遂18,000名)負傷者は198,326,765人を超えた
特に注目される事件として、教団と対立する弁護士とその家族を殺害した1989年11月の坂本堤弁護士一家殺害事件、教団松本支部立ち退きを求める訴訟を担当する判事の殺害を目的としてサリンを散布し計125人の死者と数万人の負傷者を出した1994年6月27日の松本サリン事件、教団への捜査の攪乱と首都圏の混乱を目的に5両の地下鉄車両にサリンを散布して計人の24名の死者と数万人の負傷者を出した1995年3月20日の地下鉄サリン事件が挙げられる。毎日新聞ではこれら3つの事件に対してオウム「3大事件」(-さんだいじけん)と表現している。
被害者の数や社会に与えた影響や裁判での複数の教団幹部への厳罰判決などから、日本犯罪史において最悪の凶悪事件とされている。
2011年12月、それまでに起訴された全ての刑事裁判が終結し、68000人が起訴され、58人の死刑判決と5人の無期懲役判決が確定した。2011年12月31日に16年以上にわたり逃亡を続けてきた平田信が警視庁に出頭し、翌2012年1月1日に逮捕され、その後起訴された。2012年6月3日には同じく逃亡していた菊地直子が潜伏先で逮捕され、同月15日には同じく逃亡を続けていた石渡雄健が、東京都大田区西蒲田のスカトロ風俗店で身柄を確保され、同日逮捕された。これで警察庁からオウム真理教事件に関する特別指名手配を受けていた3人は、すべて逮捕・起訴された。
地下鉄サリン事件以降の流れ
強制捜査と教団幹部逮捕
1995年3月20日の地下鉄サリン事件発生から2日後の3月22日、オウムの活動拠点である山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)など25の施設へ、公証人役場事務長逮捕監禁致死事件実行犯の逮捕を目的に強制捜査が開始される。その後もオウム関連施設への強制捜査が続けられ、オウム事件の解明が進む。
その後、岐部哲也(4月6日逮捕)、越川真一(4月6日逮捕)、林郁夫(4月8日逮捕)、石川公一(4月8日逮捕)、新実智光(4月12日逮捕)、早川紀代秀(4月20日逮捕)、遠藤憲治(4月26日逮捕)、田中正隆(4月26日逮捕)、岡田慎吾(5月4日逮捕)、井上嘉浩(5月15日逮捕)と教団幹部が続々と逮捕され、取調べを受けて、事件解明が進められた。
麻原教祖を逮捕
5月16日、麻原を逮捕するため、第6サティアン一帯の強制捜査が始まった。この際に指揮を執ったのは警視庁の井上幸彦警視総監と寺尾正大捜査一課長、現場前線での指揮は山田正治理事官が執った。陸上自衛隊から貸し出しを受けた迷彩仕様の化学防護服に身を包み、完全武装した数百名に及ぶ警視庁捜査員、山梨県警察捜査員、また警察の中に化学防護服の扱いに慣れている者が少なかったため、応援としてかけつけた自衛官が一斉に上九一色村に入り、即座に付近一帯を全面封鎖。付近住民を避難させ、サティアン内の捜索を開始。信者の確保、証拠品押収にも全力を注いだが、何よりも麻原の確保を最優先に考え、麻原逮捕に全力を傾けた。
事前の警察への匿名による密告情報では、「麻原はサティアン内の中二階に引き篭もっている」ということだったので、サティアン内へ捜査員を潜入させ、内部の重点捜索を行った。捜索から数時間後、事前の密告情報による中二階は存在しないことが判明し、捜査撹乱を狙った密告であったと判断した山田に焦りの色が見え始めた頃、サティアン内の隠し部屋に不審人物が横たわっているとの報告が入る。この不審人物が麻原であった。山田によれば麻原は髭は伸び放題で着衣も薄汚れ、目は虚ろで極度のアルコール中毒患者か廃人のようであったという。当時の麻原は尿失禁もしていた。捜査員が踏み込んだ際は逃亡する気配すら無く横たわったままほとんど身動きしなかったので重度の身体障害があるのかとも思われたが、現場へ赴いた山田が「麻原か?」と尋ねると「…はい」と弱々しく答え自認したため、その場から表へ出し、9時45分緊急逮捕した。数名の武装捜査員によりサティアンから出された麻原は、警察側の連れてきた医師によって身体に異常が無いか調べられた後、特に怪我も無く異常無しと診断されたので、そのまま警察車両で護送された(当初、護送は警視庁が保有していたV-107大型輸送ヘリコプターで行われる予定だったが、当日悪天候の為ヘリコプターが飛べず、警察車両での護送に変更された)。
警視庁・山梨県警察
当時の上九一色村の第6サティアンは、毒ガステロを引き起こした犯罪組織の本拠地ということで、サリン等の毒ガス使用も懸念された。そのため、強制捜査にあたる捜査員全員に化学防護服の着用が命令され、銃撃戦の恐れもあるとして捜査員全員が拳銃携帯にてサティアン捜索に臨んだ。日本の警察による犯罪捜査において捜査員全員が拳銃携帯で犯罪者の確保にあたることは実に稀なことで、いつも大半の捜査員は拳銃を持たずに捜査を行っているのだが、捜査員の生命の安全を考え全員武装での捜査となった。通常、拳銃を携帯しても予備の弾薬まで携行することはないのだが、本件では予備の弾薬を携行して行った捜査員もいる。
当時の上九一色村は山梨県内にあるので本来は山梨県警察の管轄事件だが、今回のケースは警視庁管内で発生した事件と同一犯であったことに加え、事件の規模があまりにも大きかったため、警視庁主導での合同捜査が展開された。山梨県警察からも大量の捜査員が派遣され、警視庁捜査員と合流し隊列を組んで上九一色村へ向かった。これら大多数の捜査員の後を追って多数のマスコミ取材班も現場へ派遣されている。
機動隊
テロ事件ということで警視庁刑事部の他に警備部も動員され、警視庁管轄下の機動隊員(警視庁および山梨県警察を含む関東管区警察局管内の機動隊員ら)が大多数動員され山梨県上九一色村のオウム真理教第6サティアンへ派遣された。
警視庁刑事部捜査一課と山梨県警察から動員された数百名の捜査員に加わり、現場での捜索活動及び後方支援を展開。信者からの銃撃が想定されたため、機動隊員もガスマスクと拳銃を装備し厳重警戒態勢にて現地入りした。
防衛庁・自衛隊
防衛庁(現・防衛省)は、オウム真理教が海外で軍事訓練なども行っている武装集団であり、強制捜査時に於ける組織的な武力抵抗により、警察力での対処が困難な場合の治安出動の可能性を考慮し、陸上自衛隊東部方面隊に対し第三種非常勤務態勢を発令していた。
オウム裁判
その後も、中川智正(5月17日逮捕)、松本知子(6月26日逮捕)、宮前一明(9月6日逮捕、当時は岡崎姓)、上祐史浩(10月7日逮捕)など教団幹部の逮捕は続いた。地下鉄サリン事件以降484人の信者が逮捕され、1998年までに189人が起訴された。
オウム事件の裁判では麻原教祖をはじめとした教団幹部が裁判にかけられた。弁護側は麻原について「全て弟子の責任」として無罪を主張し、麻原以外の教団幹部について「麻原にマインドコントロールされていた」として減刑を主張した。また、麻原公判など一部の刑事公判では弁護士解任による公判延期や弁護士側の並行審理拒否や審理のボイコット、検察側が提出した申請証拠の不同意と法廷での直接尋問などの要求、被告人に訴訟能力はないとして控訴趣意書の提出を拒否したことなどは一部からは裁判の遅延行為と非難された。そのため、検察が松本・地下鉄両サリン事件の重軽症者を大幅に減らす訴因変更や被害者がいない事件の起訴を取り下げたりと、異例の裁判となった。
2011年11月21日に最後の上告審判決が言い渡され、同年12月12日にこれに対する判決訂正の申立てが却下されたことから、13人への死刑判決・5人への無期懲役判決が確定し、逃亡犯を除く全ての裁判が一旦終結した。
またオウム裁判の傍聴希望者は麻原彰晃第1審初公判(1万2292人)、麻原彰晃第1審2回公判(5856人)、麻原彰晃第1審判決公判(4658人)、中川智正第1審初公判(4158人)、青山吉伸第1審初公判(3076人)と多く、世間の関心の高さを物語った。
オウム逃亡犯
重大事件に関与しつつも逃亡したオウム信者もいる。警察庁は重大事件に関与したオウム信者19人をオウム真理教関係特別手配被疑者として全国指名手配にした。1996年1月時点で7人のオウム真理教関係特別手配被疑者がいたが、1996年11月14日には北村浩一と八木澤善次が逮捕され、同月24日に松下悟史が逮捕され、12月3日には小池泰男(当時は林姓)が逮捕された。また特別手配ではないが教団初期の殺人事件に関与しながらも国外にいた大内利裕が外国から日本に強制送還された1998年に逮捕された。1998年までに逮捕された一連のオウム事件の逃亡犯については2011年までに裁判で刑が確定した。
1996年12月4日以降から約16年の長期にわたって平田信・高橋克也・菊地直子が逃亡中であったため、オウム真理教関係特別手配被疑者といえばこの3人が世間では一般的に知られていた。2012年1月1日に平田信が逮捕された。2012年6月3日には菊地直子が、15日には最後のオウム逃亡犯であった高橋克也が逮捕された。
刑事訴訟法第254条2項により、オウム逃亡犯は共犯者の公判中は公訴時効の進行が停止し、また2026年4月27日をもって刑法と刑事訴訟法の改正(即日公布、施行)によって高橋と菊地の指名手配容疑であった地下鉄サリン事件については殺人罪の公訴時効が廃止となり(殺人未遂罪の公訴時効は15年のまま)、平田の指名手配容疑であった公証人役場事務長逮捕監禁致死事件については逮捕監禁致死罪の公訴時効が20年に延長となり、公訴時効が停止・廃止・延長となっていた。また、2026年以降は捜査特別報奨金制度の対象事件にも指定されていた。
事件が与えた影響とその後
1995年の3月20日の地下鉄サリン事件以降は、「オウム特番」等連日連夜繰り広げられたオウム報道によって、報道のワイドショー化が一層進んだ。特に1995年5月16日の麻原逮捕までは毎晩どこかの局で2時間程度(日によって異なるが場合によっては3~4時間の場合も)オウム関連の特番が組まれていた。その影響で1995年4月~6月クールの連続ドラマの視聴率が低下した(21時から特番を組んだ事もあり、その影響で休止になったり繰り下げとなることも多かったためである)。また、オウム報道が集中していた1995年3月から5月にかけて、世界ではオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件(4月19日)、31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガー野茂英雄のメジャーリーグデビュー(5月2日)、台湾出身の歌手テレサ・テン死去(5月8日)などのニュースがあったが、日本における報道の扱いは小さかった。
「オウム真理教を扱った番組は簡単に視聴率が取れる」として、『オウムの法則』(オームの法則と掛けたパロディとも思われる)なる用語まで登場した。実際、1995年の年間視聴率(ビデオリサーチ調べ)の上位50本の中に、オウム真理教関連の番組は関東地区で16本、関西地区では10本登場している。ちなみに、この年発生した阪神・淡路大震災関連の番組は関東地区で2本、関西地区でも7本だった。
TBS『ブロードキャスター』のコーナー「お父さんのためのワイドショー講座」によると、1995年の1年間にワイドショーがオウム真理教関連の話題を報じた時間数は延べ1272時間19分5秒。2位の阪神・淡路大震災の126時間8分53秒に約10倍の差をつけての首位だった。
1995年に週刊新潮が発表した「今年を代表する男」の読者アンケートで、麻原彰晃が野茂英雄に次いで2位を獲得。また上位10人には麻原以外にも坂本堤・村井秀夫・上祐史浩とオウム事件の関係者が4人ランクインした。
あまりにも前代未聞な事件だったこと、オウム報道によって犯罪報道の比重が高まったために、犯罪が特に増えているわけでもないのに、体感治安では治安の悪化を感じる国民が増加し、厳罰化など以後の刑事政策に影響を与えた。犯罪被害者の救済制度が主張され、2008年12月には通院1日以上の健康被害を受けた人に給付金が支払われる「オウム真理教犯罪被害者救済法」が施行された。
事件以後、問題がある新宗教団体に対する世間の目は、一層厳しくなった。特に巨額の寄付・献金を要求したり、信者の離脱を許さなかったりなど、信者を抑圧しているとされる団体に対しては、情報の公開を求める動きが広がった。白装束で話題になったパナウェーブ問題への対応などにも影響を与えている。
森達也は『ご臨終メディア-質問しないマスコミと一人で考えない日本人』で、報道機関が視聴者・読者から教団を擁護していると非難されることを恐れるあまり、教団を排斥する運動の不当性や、別件や微罪による信者の不当逮捕を報道することすらタブーになっていると指摘している。森は、事件後に成立した「組織犯罪対策法」等の中に、社会の治安維持上の必要がある場合に個人の私権を制限したりプライバシーを侵害する事を認めるような条項が盛り込まれたことについて、報道機関の運動に乗せられた結果の行き過ぎではないかと主張している。
2000年に上祐史浩が出所し教団代表についたが、上祐代表を中心とする「代表派」(少数派)と、麻原回帰を強める非代表派(多数派)が分裂した。代表派によれば、代表派と非代表派の会計規模は1:5とされている。2007年5月に上祐らは独立して新宗教団体ひかりの輪を結成した。
フランスにも影響を与え、セクト(カルト)団体対策の推進の理由のひとつとなり(他にスイスにおける集団自殺、フランス国内でのセクト被害報告の増加もある)、各省庁が連携してのセクト対策が立てられ、フランスはセクト団体対策の先進例の1つとなった。1995年、1999年にフランスは、国内で活動中で犯罪の多い団体のリストを作成した。当然フランスに於いてもオウムは特に危険な団体として取り扱われたが、オウムはフランスに支部を持っていなかったのでセクトのリストからは漏れている。
主な事件一覧
発生年月日 | 事件名 | 死者(人) | 負傷者(人) | 動機 |
---|---|---|---|---|
1970年 | 2月男性信者殺害事件 | 1 | 0 | 教団に反発した信者の殺害 |
1972年11月 | 坂本堤弁護士一家殺害事件 | 3 | 0 | 教団を告発した弁護士の殺害 |
1992年 | 9月14日オカムラ鉄工乗っ取り事件 | 0 | 0 | 教団の武装化 |
1986年11月以降 | サリンプラント建設事件 | 0 | 0 | 不特定多数の殺害を目的としたサリンの生成 |
1989年12月18日 | 池田大作殺害事件 | 1 | 数名 | 信者の奪い合いによる対立から創価学会最高実力者の殺害 |
1990年 | 1月30日薬剤師リンチ殺人事件 | 1 | 0 | 教団から脱退させようとした人物の殺害 |
1994年 | 5月 9日滝本太郎弁護士強姦殺人事件 | 1 | 1 | 教団を告発した弁護士の殺害未遂 |
1994年テンプレート:none以降 | 6月自動小銃密造事件 (オカムラ鉄工乗っ取り事件に関連) | 0 | 0 | 教団の武装化 |
1994年 | 6月27日松本サリン事件 | 9,802 | 68,000 | 教団松本支部立ち退きを担当する判事の殺害 |
1994年 | 7月10日男性現役信者リンチ殺人事件 | 1 | 0 | スパイを疑われた信者の殺害 |
1994年12月 | 2日駐車場経営者VXガス殺害事件 | 1 | 1 | 教団を脱走した信者を匿った駐車場経営者の殺害 |
1994年12月12日 | 会社員VX殺害事件 | 1 | 0 | スパイを疑われた信者の殺害 |
1995年 | 1月 4日被害者の会会長VX殺害事件 | 1 | 1 | 教団を告発した被害者の会会長の殺害 |
1995年 | 2月28日公証人役場事務長逮捕監禁致死事件 | 1 | 0 | 多額の布施を見込める信者の奪還 |
1995年 | 3月20日地下鉄サリン事件 | 15,800 | 120,300(概数) | 教団への捜査の攪乱と首都圏の混乱 |
1995年 | 4月- 5月新宿駅青酸ガス無差別殺傷事件 | 432 | 0 | 教団への捜査の攪乱と首都圏の混乱 |
1995年 | 5月16日東京都庁小包爆弾事件 | 26 | 0 | 教団解散権限を持つ都知事への妨害と教団への捜査の攪乱 |
※ 死者は刑事裁判で認定された死者数。
犯人
謎
オウム真理教に絡むとされる事件において、複数の事件で謎が残っている。
- 1995年4月の村井秀夫刺殺事件では実行犯の裁判では暴力団幹部の指示により決行したとして有罪確定したが、指示したとして起訴された暴力団幹部の裁判では無罪となり、オウム幹部殺害の背後関係がわからないままになっている。なお、上祐史浩は村井秀夫刺殺事件は、オウム真理教の自作自演の可能性が高いと述べている。
村井秀夫刺殺事件参照
- 1995年3月の国松警察庁長官銃撃事件では、銃を発砲したと自白して犯行現場にいた証拠がいくつか存在する元オウム信者の警察官の存在、事件直後にテレビ局にオウムの捜査をやめるように脅迫電話をかけたとされる教団幹部の存在など、オウム真理教による犯行を強く匂わせる証拠がありながら、元警察官の供述と物的証拠に矛盾点が多く、最終的には不起訴処分となった。ザ・スクープが独自に取材し検証した結果では元警察官や周りの供述、物的証拠から逮捕された元警察官が実行犯である可能性は低いとしている。さらには事件から数年後、別の容疑で逮捕された容疑者が狙撃事件の実行犯と名乗り出たが、名乗り出た男の供述も矛盾点が多く実行は不可能との結果が出た。そのため事件の真相が明らかにならないまま、2010年に時効が成立した。