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{{Battlebox |battle_name=アメリカ独立戦争 |campaign= |image=[[Image:Rev collage.png|300px]] |caption='''左上から時計周りに''': [[バンカーヒルの戦い]]、[[カナダ侵攻作戦#ケベックの戦い|ケベックの戦い]]における[[リチャード・モントゴメリー]]将軍の死、[[カウペンスの戦い]]、[[サン・ビセンテ岬の月光の海戦]] |conflict=アメリカ独立戦争 |date=1775年-1783年 |place=[[北アメリカ]]東部(今日の [[アメリカ合衆国]]と[[カナダ]])、[[大西洋]]、[[地中海]]、[[カリブ海]] |casus=[[代表なくして課税なし]]、 伝統的権利の侵害、共和主義 |territory=|イギリスはアメリカ合衆国の独立を認め、[[スペイン]]に東フロリダ、[[西フロリダ]]と[[メノルカ島]]を、[[フランス]]に[[トバゴ島]]を割譲 |result=[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]; アメリカ合衆国の独立 |combatant1=アメリカ合衆国 <small>(1776年7月4日以前は[[13植民地]])</small><br/> [[フランス]]<br/> [[スペイン]]<br/> [[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]<br/> [[ポーランド・リトアニア連合|ポーランド]]志願兵<br> [[ケベック州|ケベック]]志願兵<br> [[プロイセン王国|プロイセン]]志願兵<br> オネイダ族<br/> タスカローラ族 |combatant2=[[イギリス]]<br/>[[ロイヤリスト]]<br> ドイツ人傭兵<br/>[[イロコイ連邦]]<br> ブラウンシュヴァイク公国 |commander1=[[ジョージ・ワシントン]]<br/> [[ナサニエル・グリーン (軍人)|ナサニエル・グリーン]]<br> [[ラファイエット]]<br> [[ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー|ロシャンボー伯]]<br/> ガルヴェス伯<br> [[タデウシュ・コシチュシュコ]]<br> [[フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン|シュトイベン男爵]]<br> [[ベネディクト・アーノルド]] |commander2=[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]<br/> [[ウィリアム・ハウ]]<br/> [[ヘンリー・クリントン]]<br/> [[チャールズ・コーンウォリス]](降伏)<br> [[ジョン・バーゴイン]](降伏)<br> ヨハン・ラール<br> [[ジョセフ・ブラント]]<br> [[バナスター・タールトン]]<br> [[ベネディクト・アーノルド]] |notes=<center>([[:en:Military leadership in the American Revolutionary War|more commanders]]) |strength1= アメリカ軍25万名<br> フランス軍15,000名<br> スペイン軍8,000名<br> '''総計:''' 273,000名 |strength2=イギリス軍12,000名 <br> ロイヤリスト50,000名<br> ドイツ人傭兵40,000名<br> インディアン5,000名<br> '''総計:''' 107,000名 |casualties1=戦死または戦病死25,000名、負傷25,000名 |casualties2=戦死または戦病死24,000名、負傷20,000名 }} '''アメリカ独立戦争'''(アメリカどくりつせんそう [[1775年]] - [[1783年]])は[[イギリス]]本国([[グレートブリテン王国]])と、アメリカ東部沿岸のイギリス領の13の[[植民地]]との[[戦争]]である。米国では''' The American Revolution'''('''アメリカ独立[[革命]]''')若しくは'''the Revolutionary War'''('''革命戦争''')と呼ばれ、主に英国では'''American War of Independence'''(アメリカ独立戦争)と呼ばれている<ref>イギリスの著述家は一般に"American War of Independence"または"War of American Independence"を好む。戦争名の使い方についてはOmohundro Institute of Early American History and Culture, ''Bibliography'' at [http://revolution.h-net.msu.edu/bib.html] を参照。</ref>。この戦争によって、植民地の者達がイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。[[1775年]]、革命派は[[13植民地]]政府の全てを掌握すると共に、政治と立法を主に担当する[[大陸会議#第2次大陸会議|第二次大陸会議]]と軍事を担当する[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]を発足させた。翌年、[[アメリカ独立宣言]]を発して、正式に[[アメリカ合衆国]]という国家の形を取った。 戦争の全期間を通して、イギリスはその[[イギリス海軍|海軍]]の優越性によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵力が数において比較的少なかったために支配地域は限られたものになった。アメリカ大陸軍が[[サラトガの戦い]]で勝利して間もない[[1778年]]、[[フランス]]がアメリカ側に付いて参戦した。[[スペイン]]や[[オランダ]]もその後の2年以内にアメリカ側に付いた。[[1781年]]、[[フランス海軍]]が[[チェサピーク湾の海戦]]で勝利したことが引き金になり、アメリカ大陸軍は[[ヨークタウンの戦い]]でイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終わった。[[1783年]]の[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]で戦争が終結となり、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。アメリカ合衆国の独立の社会的背景やその及ぼした影響については[[アメリカ合衆国の独立]]を参照。 == 植民地課税問題 == そもそも、アメリカの植民地人に独立を志向させたイギリス本国による課税の原因は、[[フレンチ・インディアン戦争]](1754 - 1763)による財政危機だった。イギリス政府は1764年に[[砂糖法]]、[[1765年]]には[[印紙法]]を成立させて植民地からの税収増を図ったが、特に[[印紙法]]はアメリカで広範な反対運動を呼び起こし、撤廃に追い込まれた。 [[1767年]]に[[イギリスの議会|イギリス本国議会]]が[[タウンゼンド諸法]]によって新たな植民地課税に乗り出すと、またも反対運動が盛り上がり、[[1770年]]、タウンゼンド関税も撤廃となった。だが、このとき茶に対する税が残されたため、本国の茶は植民地の不満の象徴となった。 [[1773年]]の[[茶法]]によって[[イギリス東インド会社|東インド会社]]の[[茶]]が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月、入港した船の茶を暴徒が港に投棄するという[[ボストン茶会事件]]に発展した。 [[1774年]]、イギリス議会は植民地に対して次々と懲罰的な立法措置を行なった。こうした危機に[[チャタム伯ウィリアム・ピット]](大ピット)は滞英中の[[ベンジャミン・フランクリン]]と協力して議会に植民地との和解をはたらきかけた。しかし、首相[[フレデリック・ノース]]は国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の強い意志を背景に植民地に強い態度で臨む決意だった。 一方、[[1774年]]に13植民地はイギリスの政策に対する方策を協議するため[[大陸会議]]を開いて本国との和解の道を探ったが、打開できないままとなった。 == 1778年までの戦闘員 == === 軍隊、民兵、および傭兵 === 戦争が始まったとき、アメリカには職業的な軍隊も海軍も無かった。各植民地には地元の[[民兵]]隊があり、これを使って自らの防衛に充てていた。独立戦争の前のアメリカでは、イギリス軍が各植民地の民兵隊を補助的に用いていた。この民兵隊の一部を除いてほとんどが開戦時にアメリカ軍に加わった。民兵は装備が簡単なものであり、訓練は少しばかり、通常は制服も無かった。民兵は一回の従軍では数週間から数ヶ月間に限られており、家から遠く離れた所へは行きたがらかったので、通常大規模な作戦には使えなかった。民兵には正規兵のような訓練や規律が欠けていたが、数では勝り、[[レキシントン・コンコードの戦い]]、[[ベニントンの戦い]]とサラトガ、さらに[[ボストン包囲戦]]では正規兵を打ち負かすことができた。米英両軍共に[[ゲリラ]]戦を用いたが、イギリス軍正規兵がいない地域で[[ロイヤリスト|王党派]]軍を抑えるために、アメリカ軍が特に有効にゲリラ戦を使った<ref>Black, ''War for America: The Fight for Independence, 1775-1783'', p. 59. On militia see Boatner, p. 707 and Russell F. Weigley, ''The American Way of War'' (1973), ch. 2.</ref>。 [[画像:Us unabhaengigkeitskrieg.jpg|thumb|イギリス軍に従軍したドイツ人傭兵はヘシアンと呼ばれた。]] 軍事行動を纏めるために大陸会議は[[1775年]]6月に正規軍を(紙の上で)設立し[[ジョージ・ワシントン]]を総司令官に任命した。大陸軍の成長は常に動かしながらのことであり、ワシントンは正規軍と民兵の両方を使い続けた。[[アメリカ海軍]]の起源は、[[1775年]][[10月13日]]の大陸会議で[[大陸海軍]]のための艦船の建造に承認を与えられた時である。この時、4隻の武装船の購入および艤装が認められた。[[アメリカ海兵隊]]の大本も[[1775年]][[11月10日]]の大陸会議決議により結成された[[大陸海兵隊]]であり、[[フィラデルフィア]]のタン酒場を最初の本拠にした。11月10日は海兵隊の誕生の日として現在も祝われている。[[1783年]]の終戦時、大陸海軍と大陸海兵隊は解体された。独立戦争の間、約25万人の兵士が正規兵または民兵として従軍したが、一時期に武装した兵士は最大でも9万人を越える事は無かった。陸軍は当時のヨーロッパの標準的な軍隊から考えれば小さなものだった。ワシントンが自ら戦場で指揮した兵士の数は一番多いときでも17,000名足らずであった。このことは戦術的にそうあることが好まれたせいもあるが、アメリカ軍が弾薬に不足していたために多くの兵士を一度に使えなかった面もあった<ref>Boatner, p. 264では最大のワシントン軍は「17,000名以下」だったとしている; Christopher Duffy (''The Military Experience in the Age of Reason, 1715-1789'', p. 17) ではワシントン軍の最大数は「13,000名に過ぎなかった」と推定している。比較のために、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]は戦場で通常1,000名から2,000名の兵士を指揮していたと Duffy は記している。</ref>。 1775年の初期、イギリス軍は世界で36,000名いたが、戦時には徴募によって確実にこの数字を増やしていた。さらにアメリカ独立戦争のときは、[[ドイツ]]の公子から30,000名の兵士を雇用した。この兵士の多くははヘッセ=カッセから来ていたので、「ヘシアン」と呼ばれた。この軍隊は公子に雇われた職業軍人という意味では傭兵軍であった。ドイツ兵は北アメリカでのイギリス軍兵力の3分の1を占めた。1779年までに北アメリカに駐屯するイギリス兵とドイツ兵の総数は6万名を超えた。ただし、[[カナダ]]から[[フロリダ州|フロリダ]]まで分散した形になっていた<ref>Black, pp. 27-29; Boatner, pp. 424-26.</ref>。 === アフリカ系アメリカ人および先住民族 === [[アフリカ系アメリカ人]]は解放奴隷もまた奴隷のままの者も米英両軍ともに従軍した。イギリス軍は積極的に[[パトリオティズム|愛国者]]の主人に仕える奴隷を徴募した。ジョージ・ワシントンは人員が不足していたので、1776年1月に大陸軍における奴隷徴募の禁令を撤廃した。[[ロードアイランド州|ロードアイランド]]と[[マサチューセッツ州|マサチューセッツ]]では小さいながらも全て黒人の部隊が作られた。またフランス軍と共に[[ハイチ]]から全て黒人の部隊が参戦した。少なくとも5,000名の黒人が革命軍側で従軍した<ref>Revolutionary all-black units: Kaplan and Kaplan, pp. 64-69.</ref>。またイギリス軍側には2万人以上の黒人兵が従軍した.<ref>[http://www.americanrevolution.com/AfricanAmericansInTheRevolution.htm American Revolution - African Americans In The Revolutionary Period]</ref> 。 [[ミシシッピー川]]から東にいた[[アメリカ州の先住民族|先住民族]]の大半が戦争に関わることになり、多くの種族社会はどのように戦争に関わって行くかで分かれた。先住民族の土地がアメリカの開拓者からの侵略に曝されていたために、アメリカに抗戦する道を選んだ先住民族が多かった。およそ13,000名の戦士がイギリス側で戦ったと推定されており、その中でも最大の[[イロコイ連邦]]は約1,500名であった<ref>James H. Merrell, "Indians and the New Republic" in ''The Blackwell Encyclopedia of the American Revolution'', p. 393; Boatner, p. 545.</ref>。 == 北部での戦い 1775年-1780年 == === マサチューセッツ === {{Main|ボストン方面作戦}} 開戦前の[[ボストン]]は多くの反抗的行動が続き、イギリス政府は[[1774年]]に懲罰のためにマサチューセッツ統治法を制定して自治を取り上げた。しかし、このような対策に対しても民衆の間に広がった反抗のために、新しく本国から指名された役人が辞めたりボストン市内に逃げ場を求めたりした。イギリス軍北アメリカ総司令官になった[[トマス・ゲイジ]]中将はボストン市内の本部からイギリス正規兵4個連隊を指揮していたが、市内を外れれば革命勢力の手中にあった。 [[画像:Battle of Lexington, 1775.png|300px|thumb|left|レキシントンの戦い]] [[1775年]][[4月18日]]の夜、ゲイジ将軍はマサチューセッツ州[[コンコード (マサチューセッツ州)|コンコード]]に植民地民兵が保管している弾薬を押収するために700名の部隊を派遣した。革命勢力に属する[[ポール・リビア]]などの伝令が郊外の町を駆け回り、イギリス軍が出動したという警告を伝えた。[[4月19日]]の朝、イギリス軍が[[レキシントン (マサチューセッツ州)|レキシントン]]の村に入ると、77名の民兵が村の緑地に待ち構えていた。銃火が交わされ、数人の民兵が殺された。「1発の銃声が世界を変えた」("shot heard 'round the world")という出来事であった。イギリス軍はコンコードに移動し、3個中隊の分遣隊がノースブリッジで500名の民兵軍と戦ってこれを蹴散らした。イギリス軍がボストンに引き上げ始めると、数千に及ぶ民兵が集まってきて、道路沿いからイギリス軍を攻撃し大きな損失を与えたが、イギリス軍は援兵が到着し壊滅を免れた。この[[レキシントン・コンコードの戦い]]で独立戦争が始まった。 民兵達はボストンに集結し、[[ボストン包囲戦]]が始まった。約4,500名のイギリス援兵が大西洋を渡って到着し、[[1775年]][[6月17日]]、[[ウィリアム・ハウ]]将軍の指揮するイギリス軍が[[バンカーヒルの戦い]]で[[チャールズタウン (ボストン)|チャールズタウン]]の半島を占拠した。アメリカ軍は後退したが、イギリス軍の損失が大きく次の攻撃に移ることが躊躇された。包囲戦は破られず、イギリス軍の指揮官はゲイジからハウに挿げ替えられた<ref>Higginbotham p 75-77</ref>。 1775年7月、新しく指名されたワシントン将軍がボストン郊外に到着し、植民地軍の指揮を執り、大陸軍を組織化した。ワシントンは自軍に弾薬が不足していることを認め、新しい入手源を求めた。武器庫を襲撃したりまた製造も試みられた。1776年末までの軍需物資の90%は輸入に頼った。その総額は200万ポンドに上り、輸入元の大半はフランスからのものであった<ref> Orlando W. Stephenson, "The Supply of Gunpowder in 1776," ''American Historical Review,'' Vol. 30, No. 2 (Jan., 1925), pp. 271-281 in JSTOR</ref>。 手詰まり状態が秋から冬まで続いた。[[1776年]]3月早く、愛国者が[[タイコンデロガ砦]]で捕獲した大砲が[[ヘンリー・ノックス]]少佐によってドーチェスター高地に運び上げられた。大砲がイギリス軍を見下ろす形になったので、ハウ将軍は防衛できないと判断し、[[3月17日]]にボストン市を明け渡し、船で[[ノバスコシア州|ノバスコシア]]の[[ハリファックス]]の海軍基地まで移動した<ref>Arthur S. Lefkowitz, "[http://www.magweb.com/sample/amr/c1h01lon.htm The Long Retreat: The Calamitous American Defense of New Jersey 1776], 1998. Retrieved September 10, 2007.</ref>。その後ワシントンは[[ニューヨーク]]市を守るために大陸軍の大半を移動させた。 === カナダ === {{Main|カナダ侵攻作戦}} ボストンでの長い手詰まりの間に、大陸会議は他所で主導権を掴む方策を求めた。大陸会議は当初、フランス系カナダ人を14番目の植民地として加えようと動いていたが、これに失敗するとカナダ侵攻作戦を承認した。その目的はフランス人の多い[[ケベック州|ケベック]]からイギリスの支配を取り除くことであった。 カナダに向けた2つの遠征隊が発進した。[[1775年]][[9月16日]]、[[リチャード・モントゴメリー]]准将が1,700名の民兵を率いて[[タイコンデロガ砦]]を発進し、[[11月13日]]には[[モントリオール]]を落とした。カナダの知事ガイ・カールトンは[[ケベック (ケベック州)|ケベック市]]に撤退した。2つ目の遠征隊は[[ベネディクト・アーノルド]]大佐に率いられた部隊で、東からケベック市に迫ったが、兵站に苦しみまた[[天然痘]]で倒れる者が多かった。11月初めにアーノルド隊がケベック市に到着した時、当初1,100名いた部隊が600名まで減っていた。モントゴメリー隊がアーノルド隊と合流し、[[12月31日]]に[[カナダ侵攻作戦#ケベックの戦い|ケベック市で戦った]]がカールトンのために完璧に敗れた。残ったアメリカ軍は[[1776年]]春までケベック市の郊外に駐屯していたが結局は退却した。カナダはアメリカにおけるよりも多くの部隊を擁し、戦線をしっかりと守った。 アメリカ軍はもう一度ケベックまで押し返すことを試みたが、[[1776年]][[6月8日]]のトロワリビエールの戦いで敗北した。カールトンは今度はアメリカへの侵入を始め、10月には[[バルカー島の戦い]]でアーノルドの水軍を破った。アーノルドはカナダ侵攻作戦の出発点であったタイコンデロガ砦まで退却した。カナダ侵攻作戦はアメリカ軍にとって悲惨な結果に終わったが、アーノルドの工作でイギリス軍による全面的な反抗を遅らせることができた。 このカナダ侵攻により、アメリカはイギリス世論に支持される根拠を失った。「だからアメリカに対して武力を行使することはあらゆる階層と職業の人々に自由に採用され支持されるのだ」<ref> Rockingham to Burke Sept 1776, Watson ''The Reign of George III'' p. 203</ref> ケベックの戦いでジェイムズ・リビングストン大佐の第1カナダ連隊が、またサンピエールの戦いでモーゼス・ヘイゼンの第2カナダ連隊がアメリカ側に付いた。 === ニューヨークとニュージャージー === [[1776年]][[7月4日]]、大陸会議は[[アメリカ独立宣言]]を採択した。 イギリス軍のハウ将軍はボストンから撤退した後でニューヨーク市の奪取に焦点を絞った。大陸軍のワシントンはニューヨークの防衛のために[[ロングアイランド]]と[[マンハッタン]]の間に2万名の軍隊を分けた。イギリス軍が[[スタテン島]]に集結する間に、ワシントンは新しく発行されたばかりの[[アメリカ独立宣言]]を兵士達に読み聞かせた。もはや妥協の余地は無くなっていた。[[1776年]][[8月27日]]、ロングアイランドに上陸した22,000名のイギリス軍は、独立戦争の中でも最大の会戦となった[[ロングアイランドの戦い]]で大陸軍を駆逐し、[[ブルックリン]]・ハイツまで後退させた。ハウはそこで包囲戦を行おうとしたが、ワシントンは軍もろともマンハッタンに脱出できた。 [[9月15日]]、ハウは約12,000名の部隊をローワー・マンハッタンに上陸させ、直ぐにニューヨーク市を支配した。大陸軍は[[ハーレム]]・ハイツまで退き、翌日ハーレム・ハイツの戦いがおこったが、なんとか陣地を確保することができた。ハウがワシントン軍を囲むように動いたとき、大陸軍はさらに後方に退いたうえで、[[10月28日]]に[[ホワイトプレインズの戦い]]が起こった。ワシントン軍は後退を繰り返したので、ハウはマンハッタンに戻りワシントン砦を占領して約2,000名を捕虜にした。捕虜の数はロングアイランドの戦いの時と合わせて3,000名に上った。この後、ニューヨークで悪名高い「監獄船」が始まり終戦まで続いた。この監獄船で独立戦争のどの戦いよりも多くのアメリカの兵士や水夫がほって置かれたまま死んだ。 [[画像:Washington Crossing the Delaware.png|thumb|ワシントンのデラウェア川渡河]] [[チャールズ・コーンウォリス]]将軍がワシントンを追って[[ニュージャージー州|ニュージャージー]]まで進軍し、大陸軍は12月早くに[[デラウェア川]]を渡って[[ペンシルバニア州|ペンシルバニア]]まで後退した。このニューヨークからニュージャージーと続いたイギリス軍の方面作戦も冬に入って一旦停止し、ニュージャージーで冬の宿営に入った。ハウは何度も消耗を繰り返す大陸軍を潰す機会がありながらしくじってはいたが、5,000名以上のアメリカ兵を殺すか捕虜にしていた。 大陸軍の前途は多難であった。大陸軍と共に撤退を繰り返していた[[トマス・ペイン]]は「今が兵士の心を試す時だ」と書き記した。使える兵力は5,000名足らずになっていた。兵士は1年で就役期間が終わるので12月末がくれば、1,400名まで減ることになっていた。大陸会議は絶望のうちにフィラデルフィアを捨てた。ただしイギリス軍の占領に対する大衆の反抗は強くなっていた。 ワシントンは年が改まる前に攻撃することに決め、クリスマスの夜に密かにデラウェア川を渡って[[12月26日]]、[[トレントンの戦い]]で1,000名近いヘシアンを捕虜にした。コーンウォリスはトレントンを再度奪取しようと進軍してきたが、ワシントンはその裏をかき、[[1777年]][[1月3日]]の[[プリンストンの戦い]]でイギリス軍の後衛部隊を打ち破った。ワシントンはアメリカ側の士気を高めることができたので、その後、モリスタウンで冬の宿営に入った。ニュージャージーの民兵は冬の間もイギリス軍やヘシアンに嫌がらせを続け、イギリス軍はニューヨーク市周辺まで撤退することになった。 大陸会議とワシントンは、[[ボストン包囲戦]]のころから[[アメリカ独立戦争の情報戦略|情報・諜報戦略]]を展開しており、占領されたニューヨークを中心とした情報収集、諜報活動では、地域の支援の少ないイギリス軍よりも優位に立っていた。トレントンの戦いの勝利は諜報活動が成果を収めた一例である。ヨーロッパ諸国との情報通信は早くから行われており、この情報優位は終戦まで続くことになった。 イギリス軍の戦略はいつの段階でも国王に対する忠誠を誓って結集してくる王党派の者達の支援を期待していた。[[1776年]]2月、[[ヘンリー・クリントン]]将軍は2,000名の兵士と海軍の船隊で[[ノースカロライナ州|ノースカロライナ]]に侵攻したが、王党派の部隊がムーアズ・クリーク橋の戦いで殲滅されたことを知って引き上げた。6月にクリントンは南部の主要港である[[サウスカロライナ州|サウスカロライナ]]の[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]を占領しようとしたが、この時も南部の王党派の決起を期待していた。これは戦争を遂行するには手軽な方法に見えたが、海軍は砦の攻撃に失敗し、王党派の者が町の背後から攻撃を仕掛けることも無かったので、作戦は失敗した。南部の王党派は組織力が弱く効果を表せなかった。1781年までロンドンの上級官僚は、南部から逃げてきた王党派の言葉を信じて、蜂起があるものと思っていた。 === サラトガとフィラデルフィア === イギリス軍が1777年の作戦計画を練り始めた時に、北アメリカには2つの主力軍があった。カナダのカールトン軍とニューヨークのハウ軍であった。[[ロンドン]]では、[[ジョージ・ジャーメイン]]がこれらの軍隊の作戦を承認したが、連絡の不行き届きと指揮官のライバル意識のために連携がうまく行かなかった。ハウはフィラデルフィアの占領に成功したが、北部の軍隊はサラトガで降伏して失われてしまった。1777年の作戦行動の後、カールトンとハウの2人共に辞職した。 ==== サラトガ方面作戦 ==== {{Main|サラトガ方面作戦}} [[1777年]]に最初に動いたのは[[ジョン・バーゴイン]]将軍に率いられたカナダからの遠征隊であった。その目的は[[シャンプレーン湖]]と[[ハドソン川]]の回廊を確保し、アメリカ植民地全体から見て[[ニューイングランド]]を孤立させることであった。バーゴインの侵略は2方面から行われた。バーゴイン自身は約1万名の兵士を率いてシャンプレーン湖から[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]に向かうものとし、もう1隊はバリー・セントリージャーに率いられる約2,000名の部隊でモホーク川渓谷を下り、オールバニでバーゴインと合流するというものだった。 [[画像:Joseph_Brant_painting_by_George_Romney_1776.jpg|thumb|left|モホーク族の指導者[[ジョセフ・ブラント]]。インディアンだけでなく白人王党派の部隊も率いた。この肖像画は宮廷画家ジョージ・ロムニーが1776年にロンドンで描いた]] バーゴインは6月に進発し、7月初めにはタイコンデロガ砦を占領した。その後、アメリカ軍が木を切り倒して道を塞いだためにバーゴイン軍の歩みは鈍くなった。物資を確保するために分遣隊を派遣したが、8月にアメリカの民兵隊と[[ベニントンの戦い]]を行い決定的に敗れて1,000名近い兵力が失われた。 一方、セントリージャーの部隊は、その半分を[[モホーク]]族の指導者[[ジョセフ・ブラント]]が率いていたが、スタンウィックス砦を包囲した。アメリカの民兵隊と同盟インディアンが包囲されている味方を救出するために向かったが待ち伏せされて、オリスカニーの戦いで蹴散らされた。2回目の救援隊はベネディクト・アーノルドが率いていたが、セントリージャーは包囲を解いてカナダに退却してしまった。 バーゴインの軍隊は総勢6,000名まで減った。このような痛手を受けたにも拘らず、バーゴインはオールバニへの進軍を続けることを決めた。このことが後に大きなしっぺ返しを食うことになった。大陸軍の将軍[[ホレイショ・ゲイツ]]は8,000名の部隊を率いて、[[サラトガ (ニューヨーク州)|サラトガ]]の南約10マイル (16 km)の地点に陣地を築いた。9月、バーゴインは大陸軍の側面を衝こうとしたが、[[サラトガの戦い#フリーマン農場の戦い|フリーマン農場の戦い]]で反撃された。バーゴイン軍の状態は絶望的なものに変わって行ったが、ニューヨークのハウ軍がオールバニに向かっているという期待があった。しかし、そうはならず、ハウ軍は船で回航してフィラデルフィアの奪取に向かっていた。大陸軍には民兵が続々と集まり続けており、10月の初めには総勢11,000名に達していた。次に挑んだ[[サラトガの戦い#ベミス高地の戦い|ベミス高地の戦い]]でも撃退されたバーゴインは[[10月17日]]に降伏した。 サラトガは戦争の転換点となった。ハウ軍によってフィラデルフィアは奪われたが、アメリカの革命勢力は自信と決意を取り戻した。さらに重要なことは、この勝利によってフランスをアメリカ側に付かせてイギリス軍と対決できるようになったことであった。イギリス軍にとってはこの戦争がより複雑なものに変わってきた<ref>Higginbotham pp 188-98</ref>。 ==== フィラデルフィア方面作戦 ==== ハウ将軍は1776年にニューヨーク市を占領して、当時の革命勢力の首都であるフィラデルフィアの占領に目を向けた。ハウは緩くりと動いて、[[チェサピーク湾]]の北端に15,000名の部隊を上陸させた。ワシントンは11,000名の兵士をハウ軍とフィラデルフィアの間に配置したが、[[1777年]][[9月11日]]の[[ブランディワインの戦い]]で敗北して後退した。[[9月26日]]、大陸会議は再びフィラデルフィアを捨てた。ハウはさらにワシントン軍を打ち破ってフィラデルフィアを抵抗もなく占領した。ワシントンは10月初めにジャーマンタウンの近くに宿営していたハウ軍と[[ジャーマンタウンの戦い]]を、さらに12月初めには[[ホワイトマーシュの戦い]]を行ったが、どちらも決定的な勝敗には至らず、退いて待つことにした。 [[画像:Washington_and_Lafayette.jpg|thumb|[[バレーフォージ]]を巡回する[[ジョージ・ワシントン|ワシントン]]と[[ラファイエット]]]] ホワイトマーシュの戦いの後で、ワシントンは[[バレーフォージ]]を冬の宿営所とした。そこはフィラデルフィアから約20マイル (32 km)の所にあり、次の6ヶ月間を過ごした。冬の間に1万名いた軍隊の2,500名が病気と寒さで死んだ。1778年の春、[[フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン|シュトイベン男爵]]の訓練の甲斐あって大陸軍は蘇った。シュトイベンはプロイセンの近代的な戦法を教え、訓練され規律ある軍隊を築き上げた。 イギリス軍の総司令官はハウからクリントンに代わった。フランスが参戦したことにより、イギリス軍は戦略を変えて、[[フランス海軍]]の脅威の対象となったニューヨーク市を防衛するためにフィラデルフィアを放棄した。[[1778年]][[6月28日]]、ワシントンは撤退するクリントン軍を追って[[モンマスの戦い]]を行った。この戦いが北部では最後の大きな戦闘になった。クリントン軍は7月にニューヨーク市に到着したが、それはデスタン伯爵がフランス海軍を率いてアメリカの海岸に現れる直前のことであった。ワシントン軍はニューヨーク市の北にある[[ホワイト・プレインズ (ニューヨーク州)|ホワイト・プレインズ]]に戻った。両軍ともに2年前に対峙した地点に戻ったが、戦争の様相は変わり始めていた<ref> George Athan Billias. ''George Washington's Generals and Opponents: Their Exploits and Leadership'' (1994); Higginbotham pp 175-188</ref>。 == 国際戦 1778年-1783年 == [[1778年]]、北アメリカの反乱は国際的な戦争に変わった。サラトガの戦いで大陸軍が勝利したことを知ったフランスは[[1778年]][[2月6日]]にアメリカ合衆国と同盟条約を結んだ。[[1779年]]6月には、ブルボン家盟約を更新し、[[スペイン]]がフランスの同盟国として参戦した。しかし、スペインは当初フランスとは異なり、アメリカ合衆国の承認を拒んだ。スペインはその植民地帝国の中で同じような反乱を助長するのではないかと神経を尖らせていた。[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]も[[1780年]]に参戦した。3国共にイギリスの力を削ぐことを期待して戦争の初めからアメリカを密かに財政的に援助していた。 さらに[[ラファイエット]]や[[タデウシュ・コシチュシュコ|コシューシコ]]、[[カジミエシュ・プワスキ|プワスキ]]ら[[ヨーロッパ|欧州]]の[[義勇軍]]が参加した。[[1780年]]イギリスの対アメリカ海上封鎖に対し、ロシアの[[エカチェリーナ2世]]の呼びかけで[[武装中立同盟]]が結成され、イギリスは国際的に孤立した。 ロンドンでは、国王ジョージ3世がより多くの軍隊を送ってアメリカを従わせるという希望を諦めていた。というのもイギリスはヨーロッパでの戦争に捉われていたからである。「ペンシルバニアを保持しておこうなどと考えるのは冗談だった」とジョージ3世は言った。ニューイングランドを回復する望みも無くなっていた。しかし、国王は「アメリカの独立は決して認めない。永久に続くように見える戦争を無制限に引き伸ばして、命令に従わない者を罰してやろう」と決心した<ref>George Otto Trevelyan, ''George the Third and Charles Fox: The Concluding Part of the American Revolution.'' (1912) vol 1 p. 4 </ref>。国王の計画は、ニューヨーク、[[ロードアイランド州|ロードアイランド]]、カナダおよびフロリダの3万名の防衛軍を維持し、他の部隊で[[西インド諸島]]にいるフランスとスペインを叩くことだった。アメリカを罰するために国王が考えたことは、アメリカの海上貿易を破壊し、港を砲撃し、海岸に近い町(例えば[[ニューロンドン (コネチカット州)|ニューロンドン]])を襲って燃やしてしまうことであり、アメリカの先住民を送って辺境の開拓地にいる市民を襲わせることだった。これらの活動でアメリカの王党派を刺激でき、大陸会議をばらばらにし、「反逆者を嫌がらせ、気を揉ませ、貧しいままにしておけば、自然にかつ当然の帰結として不満と失望が後悔と自責の念に変わた暁には」国王の権威の下に戻ることを願うようになるとジョージ3世は考えた<ref>Trevelyan, ''George the Third and Charles Fox'' vol 1 p. 5</ref>。この計画は王党派や忠実なアメリカの先住民族の破壊や金のかかる戦争を無制限に引き伸ばすことも意味しており、またフランスやスペインが艦隊を集めてイギリス諸島を侵略しロンドンを占領する危険もあった。イギリスはヨーロッパの連合軍を処理した後で、反抗している植民地を再度従わせる計画にした。 === 海上戦の広がり === {{Main|アメリカ独立戦争の海軍作戦行動|アメリカ独立戦争におけるフランス}} 独立戦争が始まった時、イギリスはアメリカ植民地に対し圧倒的な海軍力を誇っていた、[[イギリス海軍|帝国海軍]]には100隻以上の[[戦列艦]]と多くの[[フリゲート]]やその他小さな艦船があった。ただし、老朽艦が多く、最初の海軍大臣[[第4代サンドウィッチ伯ジョン・モンタギュー|サンドウィッチ伯爵]]が非難していたようにあまり整備が行き届いているとは言えなかった。開戦後の3年間、海軍は主に陸上兵力の移送と商船の護衛に使われていた。アメリカ植民地側には、戦列艦など1隻も無く、イギリスの商船を襲う[[私掠船]]に頼るところが大きかった。私掠船は、フランスが戦争に加担する前からそしてその後もフランスの[[イギリス海峡]]に面した港を拠点として活動していたので、帝国海軍を困らせ英仏関係をこじれさせていたが、その物質的な戦果の割には戦争全体に与える影響が小さかった。大陸会議は1775年10月にアメリカ海軍の創設を承認したが、小さなものだったので主に[[通商破壊|商船への襲撃]]に用いられていた。[[ジョン・ポール・ジョーンズ]]船長が[[1778年]][[3月24日]]に英国艦HMSドレークを捕獲し、アメリカ海軍では最初の英雄になった。この海戦はイギリス海軍に対する最初のアメリカ艦船の勝利でもあった<ref> Higginbotham pp 331-46</ref>。 [[画像:The Siege and Relief of Gibraltar.jpg|thumb|left|ジブラルタル包囲戦]] フランスが戦争に加担したことで、イギリス海軍の優越性はそれ程のものではなくなってきた。しかし、フランスとアメリカの連合軍は[[1778年]]の[[ロードアイランドの戦い]]や[[1779年]]のサバンナの戦いではうまく機能しなかった。その原因の一つはフランスとアメリカの軍事的な優先順位が異なっていたことにあった。フランスは、アメリカの独立を確保する前に、西インド諸島にあるイギリスの占領地を取りたかった。フランスからアメリカに対する財政的な援助は既に厳しい段階に来ていたので、[[1780年]]7月に[[ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー|ロシャンボー伯爵]]が率いる大部隊が到着するまでは、軍事的にあまり有効な結果に繋がるまでには至らなかった。 スペインがアメリカ側で参戦した意図には、[[1704年]]にイギリスに占領された[[ジブラルタル]]と[[メノルカ島]]を奪い返すということも含まれていた。3年以上にわたってジブラルタルの包囲戦を行ったが、イギリス軍守備隊は頑強に守り抜き、[[1780年]]のセントビンセント岬の海戦におけるロドニー提督の勝利の後は補給も適って防衛できた。それでもフランスとスペインは何とかジブラルタルを取ろうとしたが、失敗に終わった。メノルカ島の方は[[1782年]][[2月5日]]にフランスとスペインの連合軍で奪取に成功し、スペインは独立戦争後も正式にイギリスから領有を認められた。 === 西インド諸島およびメキシコ湾岸 === 西インド諸島では多くの戦闘が行われ、特に[[小アンティル諸島]]では何度も支配者が入れ替わることがあった。[[1782年]]4月の[[セインツの海戦]]でイギリス海軍のロドニー提督がフランス海軍の[[フランソワ・ド・グラス|ド・グラス伯爵]]の艦隊を打ち破り、フランスとスペインの連合軍が目指していた[[ジャマイカ]]などイギリス植民地奪取の望みを絶った。[[1782年]][[5月8日]]、スペイン領ルイジアナ総督であったベルナルド・デ・ガルベス伯爵が、[[バハマ]]の[[ニュープロビデンス島]]にあったイギリス海軍基地を占領した。このような結果にも拘らず、フランスが占領した[[トバゴ島]]の小さな島を除いて、1783年の休戦後は西インド諸島での支配関係を開戦前の状態に戻すことで合意された。 [[メキシコ湾]]岸では、ガルベスが[[1779年]]にマンチャックの戦い、バトンルージュの戦いおよびナチェズの戦いでミシシッピ川沿いにあったイギリスの基地を占領した。ガルベスは続いて[[1780年]]に[[モービル (アラバマ州)|モービル]]を占領し、1781年には[[ペンサコーラ (フロリダ州)|ペンサコーラ]]のイギリス軍基地を降伏させた。この結果、スペインは1783年の休戦時に[[東フロリダ]]と[[西フロリダ]]を獲得できた。 === インドおよびオランダ === 北アメリカの戦争の余波は[[インド]]での英仏間の争いにも飛び火し、[[1780年]]の第二次イギリス=マイソール戦争という形になった。マイソール王国の支配者でフランスとの同盟の中心人物であった[[ティープー・スルタン]]が[[チェンナイ|マドラス]]のイギリス政府に対抗した。第二次イギリス=マイソール戦争はマンガロール条約で休戦となった。これはインドの歴史でも重要な文書である。というのも、インドの民族にとって、イギリスに腰を低くして休戦を請わせるように仕向けた最後の機会だったからである。ウォーレン・ヘイスティングはこれを屈辱的な講和と呼び、国王と議会に「イギリス国民の信義と名誉が等しく侵害された」としてマドラス政府を罰するよう訴えた。 [[1780年]]イギリスは[[武装中立同盟]]に関わった[[ネーデルラント連邦共和国]]に対し先手を打って攻撃した。武装中立同盟はヨーロッパの数カ国が中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資輸送の自由を宣言したものであったが、その結果はヨーロッパではイギリスが孤立する形になった。イギリスはネーデルラントが公然とアメリカ反乱軍を援助するのを許したくはなかった。アメリカ独立戦争によって刺激されたオランダ急進派の扇動とオランダ政府のアメリカに対する友好的な態度が、イギリスの攻撃を呼ぶことになった。第四次英蘭戦争は[[1784年]]まで続き、オランダの商業経済に破壊的な影響をもたらした。 == 終戦への道 == === 南部戦線 1778年-1781年 === {{Main|南部戦線 (アメリカ独立戦争)}} 独立戦争の最初の3年間というものは、主戦場がアメリカの北部に限られていた。フランスが参戦してからのイギリスは、王党派が多いと思われる南部に目を向けて、王党派の支援を得られればそこを支配できると目論んだ。南部に注力することはイギリス海軍をカリブ海に近く配置させることができ、フランスとスペインの連合軍の脅威を受けているカリブ海植民地を守りやすくするという利点もあった。 [[画像:Banastre-Tarleton-by-Joshua-Reynolds.jpg|thumb|イギリス軍の[[バナスター・タールトン]]中佐。]] [[1778年]][[12月29日]]、ニューヨークから転進したクリントンの遠征隊が[[ジョージア州|ジョージア]]の[[サバンナ (ジョージア州)|サバンナ]]を占領した。クリントンは続いて[[サウスカロライナ植民地|サウスカロライナ]]の[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]を包囲し、[[1780年]][[5月2日]]に陥落させた。クリントンは比較的少ない損失で南部最大の都市と港湾を確保し、南部制圧への道を切り開いた。 南部の大陸軍はチャールストンで5,000名におよぶ戦力が降伏したために崩壊状態となり、残った兵力は[[バナスター・タールトン]]中佐の追撃をうけ、[[1780年]][[5月29日]]の[[ワックスホーの虐殺]]でまた新たな損失を蒙った。大陸軍は組織だった作戦行動をできなくなったが、それでも[[フランシス・マリオン (軍人)|フランシス・マリオン]]などの[[ゲリラ|パルチザン]]によって抗戦が続けられた。コーンウォリスがイギリス軍の指揮官となり、一方大陸軍は北部からホレイショ・ゲイツを送って南部方面軍の指揮官とした。しかし[[1780年]][[8月16日]]、ゲイツは[[キャムデンの戦い]]で大陸軍始まって以来の大敗を喫し、コーンウォリスに[[ノースカロライナ州|ノースカロライナ]]に進軍する道を与えてしまった。 しかし、コーンウォリスにも事態が変わり始めた。[[10月7日]]、[[キングスマウンテンの戦い]]で彼の一翼を担っていた部隊が完敗した。この戦いは王党派民兵と愛国派民兵の戦いだった。タールトンの部隊も[[1781年]][[1月17日]]、大陸軍の[[ダニエル・モーガン]]将軍との[[カウペンスの戦い]]で決定的な敗北を喫した。 ゲイツの後を継いだ[[ナサニエル・グリーン (軍人)|ナサニエル・グリーン]]将軍は一連の戦いでイギリス軍を消耗させる戦略に出た。それぞれの戦いはイギリス軍の戦術的勝利になったが、戦略的には得る物がほとんど無かった。グリーンは後に有名となるモットー「戦い、撃たれ、立ち上がり、また戦う(We fight, get beat, rise, and fight again.)」で部隊を鼓舞した。コーンウォリスはグリーンの軍隊を打ち破ることもできないままに、北の[[バージニア植民地|バージニア]]への進軍を決めた。 [[1781年]]3月、ワシントン将軍は[[ラファイエット]]をバージニア防衛のために派遣した。若きフランス将校は3,200名を指揮していたが、この地のコーンウォリスが指揮するイギリス軍は補強されて7,200名になっていた。ラファイエットはコーンウォリスと小競り合いを演じたが、援軍を待つ間は決戦を避けていた。コーンウォリスはラファイエットを捕捉することができず、7月にイギリス海軍と連携を取ってニューヨークへ戻る道を切り開くため[[ヨークタウン (バージニア州)|ヨークタウン]]に軍を進めた。 === 北部と西部の戦線 === {{Main|西部戦線 (アメリカ独立戦争)}} [[画像:Ftsackville.gif|thumb|left|[[ジョージ・ロジャース・クラーク]]は冬に290 kmを行軍してカナダ副総督ヘンリー・ハミルトンを捕まえた]] [[アパラチア山脈]]の西とカナダ国境辺りではアメリカ独立戦争が[[インディアン戦争]]と化していた。先住民族の大半がイギリス側に付いた。イロコイ連邦と同じように[[チェロキー]]族や[[ショーニー族]]は部族によって態度を変えたものもいた。 イギリス軍は同盟した先住民族に武器弾薬を与え、ニューヨーク、[[ケンタッキー州|ケンタッキー]]およびペンシルバニアなどの開拓者集落を襲うことを奨励した。[[1778年]]に起こったワイオミング渓谷の虐殺やチェリー渓谷の虐殺に刺激されたワシントンは、[[1779年]]の夏に[[ジョン・サリバン|サリバン]]将軍に兵を与えてニューヨーク西部に遠征させた。サリバンは大きな戦闘もないままに機械的に先住民族の村を破壊し食糧を焼いたので、先住民族はカナダや[[ナイアガラの滝|ナイアガラフォールズ]]地域に逃亡し戻ってくることは無かった。 [[オハイオ領土|オハイオ]]や[[イリノイ郡|イリノイ]]では、バージニアの開拓者[[ジョージ・ロジャース・クラーク]]が[[1778年]]に[[カスカスキア (イリノイ州)|カスカスキア]]とビンセンズのイギリス軍基地を奪い、この地域の先住民族に対するイギリス軍の影響力を殺ごうとした。[[デトロイト]]を本拠にしていたイギリス軍の指揮官ヘンリー・ハミルトンがビンセンズの砦を奪い返した後で、[[1779年]]2月クラークはハミルトンを急襲し砦とハミルトンを捕獲した。 [[1782年]]、グナデンハッテンの虐殺が起こり、ペンシルバニアの民兵が中立であった先住民族約100名を殺した。[[1782年]]8月、独立戦争では最後の会戦となった[[ブルーリックスの戦い]]で約200名のケンタッキー民兵隊が敗れた。 === ヨークタウン === {{Main|ヨークタウンの戦い}} [[画像:Surrender of lord cornwallis at yorktown by john trumbull.jpg|thumb|right|ヨークタウンのコーンウォリス将軍包囲]] 北部、南部および海上の戦いは[[1781年]]のヨークタウン1点に収束した。9月早く、フランス海軍は[[チェサピーク湾の海戦]]でイギリス艦隊を打ち破り、コーンウォリスの脱出の道を閉ざした。ワシントンはニューヨークから急遽大陸軍とフランス軍を南部に移動させ17,000名の大部隊で10月初めに[[ヨークタウンの戦い|ヨークタウンを包囲]]した。コーンウォリス軍の立場は急速に耐え難いものになり、[[1781年]][[10月19日]]、約7,000名の軍隊全員が降伏した。 ヨークタウン降伏によって、イギリス国王ジョージ3世は休戦の方向に進む議会への支配力を失い、この後は陸上での大きな戦闘が無くなった。この時点でイギリス軍はニューヨーク、チャールストンおよびサバンナにまだ合わせて3万名の戦力を保有していた<ref>Number of British troops still in America: Piers Mackesy, ''The War for America: 1775-1783'', p. 435.</ref>。西インド諸島における英仏間の争いは続いていた。アメリカの多くの艦船がイギリスの船を襲っていなければ、イギリスはアメリカに更に増援を送ることも可能であった。 ロンドンではヨークタウン以後に戦争維持派の世論が急速にすぼまり、[[フレデリック・ノース]]首相は[[1782年]]3月に辞任した。翌4月、イギリス下院はアメリカとの休戦法案を通した。1782年11月に休戦の予備協定がパリで結ばれたが、正式の休戦は[[1783年]][[9月3日]]の[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]であった。[[アメリカ合衆国議会]](当時は[[連合会議]])は[[1784年]][[1月14日]]にパリ条約を批准した。最後まで残っていたニューヨークのイギリス軍が撤退したのは[[1783年]][[11月25日]]であった。 イギリスは同盟していた先住民族と何の相談も無いままパリ条約の交渉を行い、アパラチア山脈からミシシッピー川までの先住民族の土地をアメリカに割譲した。先住民族は不満を抱いたまま、幾つかの条約でアメリカにこれらの土地の割譲を渋々認めたが、これに同意しない種族との紛争が続き、その最大のものは[[北西インディアン戦争]]([[1785年]]-[[1795年]])となった。 アメリカ13邦は[[1787年]]の憲法制定会議で統一国家としての枠組みをなす[[アメリカ合衆国憲法]]を制定、翌年発効した。[[1789年]]、新憲法の規定に従って初代大統領に選出されたのは、絶望かとも思われた困難な時期に屈することなく大陸軍を率い、圧倒的なイギリス軍との戦争を戦い抜いたワシントンだった。 == 戦争のコスト == === 人的損失 === アメリカ独立戦争によって失われた人命の総数は正確なところが分かっていない。当時の戦争の常として、病気による死者が戦闘による死者の数を上回っていた。歴史家のジョセフ・エリスは、ワシントンがその軍隊の兵士に[[天然痘]]の予防接種を受けさせたことは、その最も重大な決断の一つだったと示唆している<ref>Smallpox epidemic: Elizabeth Anne Fenn, ''Pox Americana: The Great Smallpox Epidemic of 1775-82'', p. 275. A great number of these smallpox deaths occurred outside the theater of war?in Mexico or among Native Americans west of the Mississippi River. Washington and inoculation: Ellis, ''His Excellency: George Washington'', p. 87.</ref>。 推計ではアメリカ大陸軍側の従軍中の死者は25,000名とされている。このうち8,000名が戦死で、残りの17,000名が戦病死であった。戦病死の中には捕虜として収容されている間に死んだ者8,000名が含まれていた。重傷を負った者、あるいは障害者となった者は8,500名から25,000名と推計されている。つまりアメリカ側の損失は高々50,000名ということになる<ref>American dead and wounded: John Shy, ''A People Numerous and Armed'', pp. 249?50. The lower figure for number of wounded comes from Chambers, p. 849.</ref>。 イギリス海軍には約171,000名の水夫が従軍したが、そのうち25ないし50%は強制徴募によるものだった。約1,240名が戦死し、18,500名が病気で死んだ。一番多い死因は壊血病であった。当時この病気を避けるための一番簡単な方法は、水夫にレモンジュースを与えることだった。約42,000名の水夫は脱走した<ref>British seamen: Mackesy, p. 6, 176.</ref>。 およそ1,200名のドイツ人傭兵が戦死し、6,354名は病死した。ドイツ人傭兵の残り16,000名はドイツに戻ったが、約5,500名は様々な理由でアメリカに残り、結果的にアメリカ市民となった。他の集団、つまりアメリカやカナダの王党派、イギリス正規陸軍、アメリカの先住民、フランスおよびスペイン軍、さらに市民の損失については信頼に足る統計データが無い。 === 財政的コスト === イギリスは約8,000万ポンドを費やし、最終的な国の負債は2億5千万ポンドとなった。このための利息返済だけでも年間950万ポンドとなった。フランスは13億リーブル(約5,600万ポンド)を消費した。フランスの国の負債は1億8,700万ポンドとなり、1780年時点の歳入の半分以上が負債の返済に消えていった。この負債による危機のために政府は大衆の承認もなく税率を上げることができなくなり、フランス革命の大きな要因となっていった<ref> Robert and Isabelle Tombs, ''That Sweet Enemy: The French and the British from the Sun King to the Present'' (2007)p. 179</ref>。アメリカ合衆国は連邦で3,700万ドル、各邦の合計で1億1,400万ドルを使った。これはフランスやオランダからの借金、国民からの借金、および紙幣の多額の発行で補われた。アメリカは1790年代までかかって最終的に負債を解決した<ref> Merrill Jensen, ''The New Nation'' (1950) p 379</ref>。 == イギリスが敗れた要因 == アメリカ独立戦争は、対立した両勢力が元々は同じ国民であったので、外国の地で戦われた内乱という見方もある。とは言っても、アメリカはフランスの援助が無ければ戦いとおすことができなかった戦争でもあった。さらに付け加えれば、イギリスは軍事力において相当に優勢であった。ただし、距離の問題が不利な点であった。援軍も物資も大西洋を越えて運ばねばならなかった。イギリスは港湾都市から一歩離れれば兵站の問題が常に付いて回った。一方アメリカは地方に行けば兵や食糧を補充でき、その環境に順応できた。また、大西洋を越えるということは情報も2ヶ月やそこら遅れて伝わるということであった。アメリカにいるイギリス軍の将軍がロンドンからの指令を受け取るとき、軍事的な情勢が変わってしまっていることが多々あった<ref>Black, p. 39; Don Higginbotham, "The War for Independence, to Saratoga", in ''The Blackwell Encyclopedia of the American Revolution'', p. 298, 306.</ref>。 アメリカの反乱を抑えようとすると新たな問題を誘発した。植民地は広大な範囲に広がっており、戦争の前は一体ではなかったので、戦略的に重要な地点は一つではなかった。ヨーロッパでは首都を制圧することが戦争の終りを意味していた。アメリカでは、イギリスがニューヨークやフィラデルフィアなどの都市を占領したが、戦争はおわらなかった。また、領土が広いということは、イギリス軍が力で制圧しようとしても広範囲を抑えるに足る兵力が必要となることを意味していた。ある地域を占領したとして、イギリス軍が占領のための兵を置いておかねば、革命軍がそこを再び支配してしまうことになった。占領を維持しようとすれば、次の作戦行動には移れないことを意味した。イギリス軍は戦場でアメリカ軍を敲くには十分な兵力を保持していても、同時に占領を続けるには足りていなかったことになった。この兵力の不足はフランスとスペインが参戦した後は特に重大な問題になった。何故ならば兵力を幾つかの戦線に分散させざるを得なかったからであった<ref>Higginbotham, p. 298, 306; Black, p. 29, 42.</ref>。 イギリスは王党派との連携を保ちながら戦争を遂行するという困難さもあった。王党派の支持は植民地をイギリス帝国の中に留めておくという目的のために不可欠であったが、このために軍事的な制限も起こった。戦争の初期、ハウ兄弟は戦争を遂行しながら和平のための交渉も続けていたので、戦闘のさいの効果を削いでいた可能性がある。また、イギリスは奴隷やアメリカ先住民族を戦争に駆り立てたが、これは王党派の存在を疎遠にしたし、賛否両論のあったドイツ人傭兵の採用よりもさらにその傾向を強めたと考えられる。王党派を繋ぎとめるために、イギリス軍はアイルランドやスコットランドを抑え込むために用いた過酷な手段を使えなかった。これらの制限を付けていてそれでも、潜在的に中立であった植民地の人間が革命派の中に入っていった。これらの要因が組み合わされてアメリカにおけるイギリスの支配は終り、革命派は自らの国、アメリカ合衆国を打ち立てた<ref>Harsh methods: Black, pp. 14–16; slaves and Indians: Black, p. 35, 38. Neutrals into Revolutionaries: Black, p. 16.</ref>。 また、武器の性能にも決定的な違いがあった。アメリカ側の銃は当時バッファローに遭遇する危険性があり、銃身内部に螺旋の溝をいれたことでより射程距離、命中精度、破壊力の高い銃を実現することに成功した。一方イギリス側は旧式の銃であり、物量に勝るものの十分に近づかなくてはならなかったため大きな犠牲を出すこととなった。 == 独立宣言署名州 == [[ニューハンプシャー州]]、[[マサチューセッツ州]]、[[ロードアイランド州]]、[[コネティカット州]](以上、[[ニューイングランド]])、[[ニューヨーク州]]、[[ペンシルヴァニア州]]、[[デラウェア州]]、[[メリーランド州]]、[[バージニア州|ヴァージニア州]]、[[ノースカロライナ州]]、[[サウスカロライナ州]]、[[ジョージア州]]、[[ニュージャージー州]]の13州。 ニューイングランド6州のうち、[[バーモント州]]と[[メイン州]]はこれに含まれていない。バーモント州がイギリスから独立したのは1777年であったが、ニューヨーク州との領土問題を抱えており、連邦への加盟は1791年と遅れた。バーモント州は14番目の州である。また、メイン州は独立宣言の時点ではマサチューセッツ州の飛び地で独立した州ではなかった。同様に、15番目の州である[[ケンタッキー州]]や[[ウェストバージニア州]]はヴァージニア州の一部であった。 ==ヨーロッパへの影響== *フランスについては''[[アメリカ独立戦争におけるフランス]]''を参照。 勝利を喜んだのはアメリカだけではなく[[フランス王国]]もそうだった。熱烈な青年貴族[[ラファイエット]]が参戦した[[フランスブルボン朝]]においては、勝利の後しばらく貴婦人の間に頭に船の模型を乗せた一風変わった髪形が流行した。だが、アメリカ独立戦争における対外援助は既に大きく傾きかけていたフランスの財政を破綻させ、[[フランス革命]]をおこす要因となった。 また[[アメリカ独立宣言]]は[[フランス革命]]に影響を与え、ラファイエットら起草の[[フランス人権宣言]]となって結実した。また独立戦争に参加した[[ポーランド人]]の[[タデウシュ・コシチュシュコ]]は、故国[[ポーランド]]における[[ポーランド分割]]に対抗して反乱を起こした。 なお、アメリカ合衆国の独立を最初に[[国家の承認|承認]]したのは、[[スウェーデン]]であった。[[1783年]]には、友好関係も結んだ。 ==フリーメイソンリーの影響== [[ベンジャミン・フランクリン]]、[[ジョージ・ワシントン]]、[[トーマス・ジェファーソン]]、[[ジョン・ハンコック]]、[[サミュエル・アダムズ]]など主要人物に[[フリーメーソン]]が多かったため、フリーメイソンリーよって起こされた革命と見る説もある。 ==年譜== {| border="1" cellspacing="0" width="100%" |- !style="width:4em;"|[[西暦]] !style="width:5em;"|月日<br /> !内容 |- |[[1754年]] - [[1763年]] |- |[[フレンチ・インディアン戦争]] |- |[[1764年]] |- |[[砂糖法]] |- |[[1765年]] |- |[[印紙法]] |- |[[1767年]] |- |[[タウンゼンド諸法]] |- |[[1773年]] |[[12月16日]] |[[ボストン茶会事件]] |- |[[1774年]] |- |第1回[[大陸会議]]が開かれる |- |rowspan=3|[[1775年]] |[[4月19日]] |[[レキシントン・コンコードの戦い]]で[[独立戦争]]始まる |- |[[5月10日]] |第2回[[大陸会議]]が開かれる。[[1781年]][[3月1日]]まで。 |- |[[6月17日]] |[[バンカーヒルの戦い]]でイギリス軍が辛くも勝つ。 |- |rowspan=4|[[1776年]] |[[3月17日]] |大陸軍により[[ボストン]]解放される。 |- |[[7月4日]] |[[独立宣言]]、[[アメリカ合衆国]]が誕生する。 |- |[[8月27日]] |[[ロングアイランドの戦い]]でイギリス軍が[[ニューヨーク]]を占領する。 |- |[[12月26日]] |[[トレントンの戦い]]で合衆国軍がイギリス軍のドイツ傭兵部隊を破る。 |- |rowspan=4|[[1777年]] |[[1月3日]] |[[プリンストンの戦い]]で合衆国軍が勝つ。 |- |[[9月11日]] |[[ブランディワインの戦い]]でイギリス軍が勝利、[[フィラデルフィア]]を占領する。 |- |[[9月19日]] |[[サラトガの戦い#フリーマン農場の戦い|第一次サラトガの戦い]] |- |[[10月7日]] |[[サラトガの戦い#ベミス高地の戦い|第二次サラトガの戦い]] イギリス軍の[[ジョン・バーゴイン|バーゴイン]]将軍が降伏する。 |- |rowspan=3|[[1778年]] |[[2月6日]] |[[フランス]]が[[アメリカ合衆国]]と同盟し、参戦する。 |- |[[6月28日]] |[[モンマスの戦い]] 北部での最後の戦い |- |[[12月29日]] |イギリス軍が[[ジョージア州]][[サバンナ (ジョージア州)|サバンナ]]を占領する。 |- |[[1779年]] |[[6月]] |[[スペイン]]が[[フランス]]と同盟を結んでいることを理由に参戦する。 |- |rowspan=3|[[1780年]] |[[5月12日]] |イギリス軍が[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]を占領する。 |- |[[8月16日]] |[[キャムデンの戦い]]で合衆国軍が大敗する。 |- |[[10月7日]] |[[キングスマウンテンの戦い]]で合衆国軍が王政派軍を破る。 |- |rowspan=2|[[1781年]] |[[9月5日]] |[[チェサピーク湾の海戦]]でフランス艦隊がイギリス艦隊を破る。 |- |[[10月17日]] |[[ヨークタウンの戦い]]でイギリス軍の[[チャールズ・コーンウォリス]]将軍が降伏する。 |- |[[1782年]] |4月 |イギリス議会が停戦を決議する。 |- |rowspan=2|[[1783年]] |[[9月3日]] |[[パリ条約 (1783年)|パリ講和条約]]が締結される。 |- |[[11月19日]] |イギリス軍がアメリカから撤退する。 |- |} == 人物 == *[[ジョージ・ワシントン]] *[[トーマス・ジェファーソン]] *[[ベンジャミン・フランクリン]] *[[サミュエル・アダムズ]] *[[ジョン・アダムズ]] *[[ジョン・ハンコック]] *[[トマス・ペイン]] *[[パトリック・ヘンリー]] *[[コシューシコ]](タデウシュ・コシチュシュコ) *[[ラファイエット]] *[[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン]] <!--robert hasomeris--> == 脚注 == {{reflist}} == アメリカ独立戦争を題材にした作品 == ==== 映画 ==== *[[パトリオット (2000年の映画)|パトリオット]] The Patriot (2000年、[[ローランド・エメリッヒ]]監督) ==== ゲーム ==== *[[独立戦争 Liberty or Death]] == 関連項目 == *[[アメリカ合衆国の独立]] *[[ボストン茶会事件]] *[[イギリス東インド会社]] *[[北米植民地戦争]] *[[民主主義]] *[[アメリカ大陸諸国の独立年表]] *[[武装中立同盟]] *[[フランス革命]] *[[独立戦争]] *[[第2次百年戦争]] *[[米英戦争]] *[[フリーメイソン]] *[[パトリオット (2000年の映画)|パトリオット]](映画) *[[アメリカ独立戦争の情報戦略]] *[[アメリカ独立戦争の海軍作戦行動]] *[[アメリカ独立戦争における女性達]] *[[アメリカ合衆国の歴史 (1789-1849)]] == 参考文献 == <div class="references-small"> *Black, Jeremy. ''War for America: The Fight for Independence, 1775-1783''. (2001). Analysis from a noted British military historian. *Boatner, Mark Mayo, III. ''Encyclopedia of the American Revolution.'' 1966; revised 1974. ISBN 0-8117-0578-1. Military topics, references many secondary sources *Chambers, John Whiteclay II, ed. in chief. ''The Oxford Companion to American Military History''. Oxford University Press, 1999. ISBN 0-19-507198-0. *Duffy, Christopher. ''The Military Experience in the Age of Reason, 1715-1789''. (1987). ISBN 0-689-11993-3. *Ellis, Joseph J. ''His Excellency: George Washington''. (2004). ISBN 1-4000-4031-0. *Fenn, Elizabeth Anne. ''Pox Americana: The Great Smallpox Epidemic of 1775?82''. New York: Hill and Wang, 2001. ISBN 0-8090-7820-1. *Greene, Jack P. and J.R. Pole, eds. ''The Blackwell Encyclopedia of the American Revolution''. Malden, Massachusetts: Blackwell, 1991; reprint 1999. ISBN 1-55786-547-7. 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New York: Oxford University Press, 1976 (ISBN 0-19-502013-8); revised University of Michigan Press, 1990 (ISBN 0-472-06431-2). Collection of essays. * J. Steven Watson; ''The Reign of George III, 1760-1815.'' 1960. standard history of British politics. [http://www.questia.com/PM.qst?a=o&d=22810670 online edition] * [1] http://www.biographi.ca/EN/ShowBio.asp?BioId=36577&query=Moses%20AND%20Hazen </div> == 外部リンク == {{Commons|Category:American Revolution}} * [http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/america/declar.htm アメリカ独立宣言(全訳)] * [http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/docs/paris2.htm パリ条約(全訳)] * [http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/america/ 『アメリカ独立戦争』著者のページ] *[http://www.badley.info/history/American-War-of-Independence-USA.general.html Chronology of the American Revolutionary War] *[http://www.loc.gov/rr/program/bib/revolution/home.html Library of Congress Guide to the American Revolution] *[http://www.dean.usma.edu/history/web03/atlases/american%20revolution/index.htm Battlefield atlas of the American Revolution] West Point Atlas *[http://users.snowcrest.net/jmike/amrevmil.html American Revolutionary War History Resources] *[http://www.army.mil/cmh-pg/reference/revbib/revwar.htm Entry to US Army Center for Military History, a huge bibliography] * [http://revolution.h-net.msu.edu/bib.html , political bibliography from Omohundro Institute of Early American History and Culture] *[http://www.americanrevolution.org/hispanic.html Spain's role in the American Revolution from the Atlantic to the Pacific Ocean] *[http://www.americanrevolution.com/AfricanAmericansInTheRevolution.htm African-American soldiers in the Revolution] *[http://www.besthistorysites.net/USHistory_Independence.shtml American Revolution & Independence] *[http://www.redcoat.me.uk/index.htm Buried History of the American Revolution] *[http://www.pbs.org/ktca/liberty/ Liberty - The American Revolution] from PBS *[http://revolutionarywar.cloudworth.com/ American Revolutionary War 1775-1783 in the News] *[http://www.haldimand-collection.ca Haldimand Collection] Haldimand Collection, 232 series fully indexed; extensive military correspondence of British generals *[http://www.pbs.org/wgbh/aia/part2/2narr4.html Africans in America] from PBS {{秋の加筆コンクール}} {{DEFAULTSORT:あめりかとくりつせんそう}} [[Category:アメリカ独立戦争|*]] [[Category:18世紀のヨーロッパ史]] [[Category:独立戦争]] [[Category:18世紀の戦争]] [[Category:革命]] [[Category:1770年代]] [[Category:1780年代]] {{Link FA|no}}