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2008年7月22日 (火) 21:02時点における版
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安土宗論(あづちしゅうろん)とは、1579年(天正7年)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗(日蓮宗)の宗論。安土問答とも称される。天正7年(1579)信長の命により、浄土宗の僧貞安・霊誉らと、日蓮僧日珖・日諦・日雄(後に日淵と改名)らの間で行われた。
しかし、これは当時、京都を中心に勢力を伸ばし他宗と衝突を繰り返していた日蓮宗を抑制するために、織田信長が仕掛けたとされ、信長は浄土宗側に加担したとされる。日蓮宗は敗れて処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。
宗論の契機
信長公記などによると、天正7年5月中旬、関東の浄土宗の霊誉玉念(れいよぎょくねん)という長老が上方へ出てきて安土の町で説法をしていた。そこに法華宗の建部紹智と大脇伝介が議論をふっかけた。霊誉長老は「年若い方々に申し開きをいたしましても、仏法の奥深いところは御理解できますまい。お二人がこれぞと思う法華宗のお坊様をお連れ下されば、御返答しましょう」と答えた。
説法の期間は7日の予定だったが、11日に延長して法華宗の方へ使者を出させた。法華宗の方も、では宗論をやろうと京都の頂妙寺の日珖、常光院の日諦、久遠院の日淵、妙顕寺の大蔵坊、境の油屋の当主の弟で、妙国寺の僧普伝という歴々の僧たちが来ることになった。
そしてこの噂が広まり、京都・安土内外の僧俗が安土に集まると騒ぎは大きくなり、信長も伝え聞く事になる。信長は「当家の家臣にも法華の宗徒は大勢いるので、信長の考えで斡旋をするから、大げさなことはせぬように」と、菅谷長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一らを使者として両宗に伝えた。しかし、浄土宗側ではどのような指示でも信長に従うと返答したが、法華宗側は勝つ見込みで奢っていたため承諾せず、ついに宗論をすることになってしまう。
そこで信長は「それなら審判者を派遣するから、経過を書類にして勝負の経過を報告せよ」と申し、京都五山のうちでも指折りの博学で評判の、日野に住む南禅寺の長老・景秀鉄叟(けいしゅうてつそう)を審判者に招いた。そして折り良く因果居士(いんがこじ)が安土に来ていたので、彼も審判に加えて、安土の町外れにある浄土宗の寺浄厳院の仏殿において宗論を行った。
寺内の警備に、織田信澄・菅谷長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一の5人が派遣。法華宗側はきらびやかな法衣を着飾り、頂妙寺日珖、常光院日諦、久遠院日淵、妙国寺普伝、そして妙顕寺の大蔵坊の5人が記録係として、法華経八巻と筆記用具を持って登場。
浄土宗側は、黒染めの衣で、質素ないでたち、関東の霊誉と、安土田中の西光寺の聖誉・貞安(せいよていあん)、信誉洞庫、知恩院助念の4人が筆記用具を持って登場。法論の出席者は以下の通り。
- 浄土宗側―霊誉玉念・聖誉定(貞)安(西光寺)・信誉洞庫(正福寺)・知恩院助念(記録者)
- 法華宗側―常光院日諦・頂妙寺日珖・久遠院日淵・妙国寺普伝・久遠院大蔵坊(記録者)
- 判定者―正明寺の鉄叟景秀・華渓正稷・因果居士・法隆寺仙覚坊
- 名代―織田信澄
- 奉行―菅谷長頼・堀秀政・長谷川秀一
- 目付役―矢部家定・森蘭丸
法論の内容
信長公記などによると法論の内容は以下の通り。
- 霊誉「私が言い出したことなので、私から発言しましょう」しかし、貞安はそれをさえぎって早口で問いを発した。
- 貞安(浄土宗側)問う 法華八軸の内に念仏はありや。
- 法華側答う 念仏あり。
- 浄土側問う 念仏の義あらば、何ゆえ法華は念仏無間(日蓮が説いた四箇格言の一つ)地獄に落ちると説くや。
- 法華側答う 法華の弥陀(阿弥陀如来)と浄土の弥陀とは一体や、別体や。
- 浄土側曰く 弥陀は何処にあろうと、弥陀一体なり。
- 法華側答う 左様ならば、何ゆえ浄土門は法華の弥陀を「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)[1]」として捨てるや。
- 浄土側曰く それは念仏を捨てよというにあらず。念仏をする前に念仏の外の雑行を捨てよとの意なり。
- 法華側答う 念仏をする前に法華を捨てよと言う経文はありや。
- 浄土側曰く 法華を捨つるとの経文あり。浄土経には善立方便顕示三乗とあり。また一向専念無量寿仏ともあり。
- 法華の無量義経には、以方便力、四十余年未顕真実[2]とあり。
- 浄土側曰く 釈尊が四十余年の修行をもって以前の経を捨つるなら、汝は方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか。[3]
- 法華側答う 今言うは、四十余年の四妙中のいずれや。(←40年余の説法のどこにある妙か?、と惚けた)
- 浄土側曰く 法華の妙よ。汝知らざるか。
- 法華側返答なし。閉口す。
- 浄土側重ねて曰く 捨てるか、捨てざるか。重ねて問いしところ、
- 法華側無言。其の時、判者を始め満座一同どっと笑い、法華の袈裟を剥ぎ取る。
天正七年己卯年五月二十七日辰刻
宗論後
宗論が終った直後、頂妙寺の日珖は「妙」の一字に答えられず、群集に打擲され、法華八巻は破り捨てられた。法華宗の僧や宗徒たちは逃げ散ったが、これを織田信澄らが捕え、宗論の記録を信長の下へ届けた。信長は時を移さず、安土から浄厳院へ出向き、法華宗・浄土宗の当事者を召し出して、霊誉と聖誉に扇と団扇を贈り、大いに褒め称えた。審判者の景秀鉄叟には杖を進呈した。
そして大脇伝介を召しだして「一国一群を支配する身分でもすべきことではないのに、お前は俗人の塩売りの町人ではないか。この度は霊誉長老の宿を引き受けたにもかかわらず、長老の応援もせず、人にそそのかされて問答を挑み、京都・安土内外に騒動を起こした。不届きである」と、厳重に申し渡して真っ先に斬首した。
また、普伝を召しだして普伝の業績を問いただした。普伝は一切経のどこにどんな文句があるか諳んじるほど博識である。しかし、何宗にも属していない。彼の行状は、ある時は小梅の小袖、ある時は摺箔の衣装など結構なものを着て、ぼろぼろになると、仏縁を結ぶと称して、これを人々に与えていたそうである。得意顔をしていたが、よくよく調べてみると小袖は値打ちのない紛い物であった。博識の普伝が納得して法華宗に入ったとなれば、法華宗はますます繁栄するからと懇願され、金品を受け取ってこのたび法華宗に属したのである。よい年をして嘘をついていたわけである。「今度の宗論に勝ったら、一生不自由しないようにしてやろうと法華宗から堅い約束をされ、金品を受け取って、役所にも届を出さずに安土に来たことは、日ごろの言い分に反し、不届きである」
さらに信長は追及して「さらに、宗論の場では自分は発言せず、他人に問答をさせて、勝ち目になったらしゃしゃり出ようと待ち構えていた。卑劣なたくらみで、まことにけしからね」と、普伝の首も斬った。残った法華宗の歴々の僧たちへは、次のように言い渡した。「だいたい、武士たちは軍役を日々勤めて苦労しているのに、僧職の者たちは寺庵を結構に造り、贅沢な暮らしをしている。それにもかかわらず、学問もせず『妙』の一字にも答えられなかったのは誠に許しがたい。ただし法華宗は口が達者である。後日、宗論に負けたとは多分言うまい」、そして「宗門を変更して浄土宗の弟子になるか、さもなくば、この度宗論に負けた以上は今後は他宗を誹謗しない、との誓約書を出すがよい」と申し渡した。詫び証文は以下の通り。
敬白 起請文(きしょうもん)の事
- 今度(このたび)近江の浄厳院に於いて浄土宗と宗論をいたし、法花宗が負け申すに付いて、京都の坊主普伝、並びに塩屋伝介が仰せ付けられ候事。
- 向後他宗に対し一切法難(非難)致し可からざる之事(今後は、他宗に対し決して非難はいたしません)。
- 法花一分之儀立て置かる可き之旨、忝く存じ奉り候(法華宗に寛大な御処置を賜りまして、誠にありがたい思いです)。私ども法華宗の僧はいったん宗門を離れ、改めて御許可を得てから前職に就かせていただきます。
天正七年五月二十七日 法花宗
上様、浄土宗様
このような証文を出した[4] 上に「宗論に負けました」と書いてしまったからには、法華宗が負けたことを女子供までもが後の代まで聞き知ることになった。別の文句がいくらでもあったのに失敗した、と歴々の僧たちが後悔していると伝え聞いて、またまた世人はこれを笑いものにした。
建部紹智は境(大阪の泉州・堺市附近)の港まで逃げたが捕縛された。この度の騒動は大脇伝介と建部紹智が発端となったのだから、紹智も首を斬られた。
以上、信長公記の記述による。
脚注・ポイント
この宗論で、最大のポイントとなるのは「方座第四の『妙』」という言葉である。この宗論は、一般的に信長の策略により、浄土宗側の意味不明なその言葉・発言に嵌められたと解釈されている。古来より法華宗側では、この発言を「貞安の卑怯な手」で相手を煙に捲いたとしている。
また他の法華系宗派では、以下のように説明している。
- 華厳の妙
- 阿含の妙
- 方等の妙
- 般若の妙
この4つを総称して爾前(法華経より前)の妙といい、法華の妙と対比すると説明し、五時八教の教相判釈では、浄土三部経は方等部に位置づけられるから、方座「第三」の妙と言うべき所を、方座「第四」の妙と嘘をつき、捨てるか捨てないのかと質問した詐欺師だ、などと判じている。この質問に混乱した法華側が1~4のどの妙の話なのかと問い返したところ、浄土側は嘘に嘘を重ねて法華の妙だと回答したので、法華側が思考停止に陥ってしまった、またサンスクリット語の法華経には阿弥陀仏の話が出てくるが、鳩摩羅什が翻訳した法華経には、この部分は割愛されているので、
- 浄土側問う 法華八軸の内に念仏はありや。
- 法華側答う 念仏あり。
という冒頭の問答からして、法華宗側は既に間違った回答をしており、負けるべくして負けた宗論だった、と説明している。
田中智学は「こんな事は全く話にならない、それこそお釈迦様でも気がつかない事だ。知って居るのは、世界中に唯一人、劫初(こうしょ=この世の初め)以来何億万年にも誰一人、その唯の一人しか知るものは無い、それは大雲院開山教蓮社退魯大和尚聖誉貞安上人唯一人である。『経文』にも『論文』にも『釈義』にも、かつて登録されない珍妙怪奇の『造り名目(つくりみょうもく)』を以て、相手を煙に捲かうといふのは、モー法義論談の分域を通り越して、残るところは貞安の人格問題だ」(雑誌『毒鼓・殉教号』67頁、獅子王文庫発行)と言及し激しく非難した。
ただし田中智学はこうも述べている。「“方座第四の『妙』”といふのは、追究したら恐らく『方等会座四教並説中第四円教所談の妙』というつもりであらう」(前掲書68頁)
浄土宗の学僧、林彦明(はやしげんみょう)は「専修学報第1号・安土宗論の真相に就て」で、これを指摘した。また作家の井沢元彦も「逆説の日本史」において、この一言で法華宗の負けが決まったと指摘した。
すなわち、もしこの発言が従来より法華宗側が言っている「浄土宗側が卑怯な手を使った」のであれば、法華宗側はその場において「方座第四の『妙』」を意味不明・解釈不能であるという態度を徹底的に貫かねばならず、それをしなかった法華宗側は『造り名目』でないことを認めてしまったことになる。つまり田中智学も認める通り「方等会座(方等座)における四教並説中の『円教』に所談(語っている所)の『妙』である」。
五時八教の教判では、釈迦仏は華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の五時に分けて教えを説いたが、方等時で「蔵・通・別・円」の四教を並説したとされる。このうち「蔵・通・別」は小乗の教えで、第4番目の「円」が大乗の最高の教えとされる。「円教」では当然、妙(妙法蓮華経=法華経)に象徴される完全な教えを説いたとされている。この教判は天台宗の教学で智顗が考案し、それを後の法華宗や日蓮宗が採用継承した。
つまり、貞安の問いである「方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか」というのは、「もし天台教学の考えを以って、法華以前の教えをすべて“方便(真実に導く手だて・手段)”として否定するなら、方等時において説いた円教=妙も捨てるのか、捨てないのか?」というのが真相であるとされる。
したがって、他の日蓮宗派が解釈する「方座『第三』の妙と言うべき所を、方座『第四』の妙と嘘をついた」というのは、単なる誤解であり、第四とは「蔵・通・別・円」の「円教=妙」のことであり、また田中智学が述べた「造り名目」でもないことが明らかと指摘されている。
また法華宗側の日珖・日諦が、後に詫び証文を書いた(書かされたとも解釈される)のは、「方座第四の「妙」」の意味すら分らなかったからに他ならず、だからこそ素直に詫び証文を書いたといわれる。井沢元彦も「もし信長が日蓮法華宗を嵌めたのなら、なぜ素直に詫び証文を書いたのか、また当時の宗教は世俗の権力に徹底的に反抗するのが常であり、大規模な法華一揆を起こさなかったのか」と指摘している。
したがって、信長が日蓮法華宗を不当に弾圧したという歴史学上の見解には疑義が提出されているが、一方では、信長の陰謀というより、かねてから法華宗をどう諌めようか想定していた所へ、折も折、法論を契機として、それを口実にして乗っかっただけ、という指摘やその後、浄土真宗の一向一揆に対して行ったような大規模な弾圧が行われていないことより、経済的に豊かであった日蓮法華宗寺院及び信者から矢銭を調達するための策略であったとする指摘もされている。
参考文献
関連項目
外部リンク