絹と明察

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絹と明察』(きぬとめいさつ)は、三島由紀夫の長編小説。1964年(昭和39年)、文芸雑誌「群像」1月号から10月号に連載され、同年10月15日に講談社より単行本刊行された。昭和39年度・第6回毎日芸術賞の文学部門賞を受賞。現行版は新潮文庫で重版され続けている。

1954年(昭和29年)に実際の起きた近江絹糸の労働争議をモデルにした小説である。日本及び日本人というものと、父親というものをテーマに、男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描いた作品である[1]

あらすじ[編集]

55歳の駒沢善次郎は近江の駒沢紡績の社長であった。全身、熱意のかたまりのような駒沢は日本的家族意識を掲げ、古く泥臭い会社経営によって業績を伸ばし、他社のいわゆる近代的合理的な大手紡績会社に迫る急成長を遂げていた。駒沢社長は工員たちの労働条件のみならず私生活にも公然と介入し、同族的心情にどっぷり浸かった徹底的な管理体質で労働強化をもたらしていた。駒沢の意識の中には公明正大な善意しかなく、人の良さと包容力とが自然な形でワンマンぶりを形成し、自分が工員たちの父親のように感じていた。

駒沢紡績に凌駕されつつある近代的アメリカ流の経営に専念してきた他社の経営者たちは、その駒沢の破天荒な楽天性を切り崩そうと、業界の内情に通じながら浪人し、政財界の闇にいる岡野を使って駒沢紡績に労働争議を起させようとする。岡野はハイデッカー思想に傾倒し、ヘルダーリンの詩を愛唱する人物だった。彼は知り合いの40歳の芸者・菊乃を駒沢に近づけ、寮母となった菊乃から工場の様子を聞き出し、糸口を探った。

やがて工員同士で恋人となっていた若者・大槻と弘子と知り合った岡野は、徐々に大槻を巧みに誘導し、若い工員たちに労働争議を起させることに成功する。工員たちは勝利を収め、駒沢紡績に漲っていた駒沢善次郎的な体質は、「封建制」、「偽善」の名のもとに葬られることとなった。そして駒沢自身も脳血栓で倒れて入院する。

工員たちの労働争議に誰よりも衝撃を受けた駒沢だったが、彼は死の間際も家族的心情から、仇をした者たちをもゆるし、「四海みな我子やさかいに」という心境にたどり着く。そして駒沢の死の後、岡野は駒沢の椅子に座れる立場となるが、しだいに軽蔑していたはずの駒沢の人間性に惹かれていた自分に気づき、自分の周囲の風景にも偏在する「駒沢の死」を感じ脅かされる。岡野は自分の得る利得はただ永久に退屈な利得につらなる予感がし、「自分が征服したものに忽ち擦り抜けられる無気味な円滑さしかない」と思った。

作品評価・解説[編集]

作者・三島は、「(岡野は)駒沢の死によつて決定的に勝つわけですが、ある意味では負けるのです。“絹”(日本的なもの)の代表である駒沢が最後に“明察”の中で死ぬのに、岡野は逆にじめじめした絹的なものにひかれ、ここにドンデン返しが起こるわけです」[1]と解説している。

経済戦争で西欧諸国がヒステリックな敵意をむき出しにする駒沢流の日本型経営がなぜ“勝つ”のかといえば、それは、北斎広重がその核心をつかんでいたように、苛酷な“自然の理法”を会得し、これを具現していたからで、それこそ彼我の自然観の相違、ひいては文明の相違であろうと、田中美代子は作品解説している。また、「(作者・三島は)当時の理想だった近代個人主義の破産をすでに見透かしていたかのよう」[2]だと述べている。

ハイデッカー思想に傾倒し、ヘルダーリンの詩を愛唱する岡野の人物像は、『鏡子の家』の商社マンとして出世の階段を駆け登った杉本清一郎に似通っていると、松本徹は分析している。そして、岡野は、一旦は挫折し裏社会へ回った清一郎で、そこから復活を果たすまでの彼の虚無主義を踏まえての行動は怜悧でありながらひどく屈折し、悪の色を帯びると解説している[3]

奥野健男は三島から、主人公・駒沢は天皇を象徴的に書き表わしたものだと直接聞いたという[4]。奥野は、「青春のほとばしりのように社長を信じ、あるいはだまされたと怒る若い女性労働者、組合員たちは、戦時中の若い日本国民に違いない」[4]と述べている。

竹松良明は、この奥野の見解を『絹と明察』を読み取る上で極めて重要な示唆が含まれているとし、「三島はこの作品を巧みに過去の時間で充填させ、それによって発現する物語の特異な窯変を狙ったと考えてよい」[5]と述べ、「駒沢の死による岡野の喪失感が、取りも直さず行き暮れた精神が最後に回帰すべき根源的な『故郷』への逢着を意味すること、ここに天皇制に関わる国民感情の文学的形象化という一つの大胆な試みの結語がある」[5]と解説している。また、身じまいの確かさも忘れ、いぎたない鼾をかき、最後に駒沢から嫌われる菊乃の転落の姿は、「天皇制に関わる戦時下の国民感情への無節操な馴れ合い」[5]などの野合の様相が想起されると解説し、「岡野と菊乃との対照形における各々の明暗とその振幅のうちに、いかにも三島作品らしい迷彩の中から一つの確固たる紋様が浮かび上がってくる」[5]の述べている。

おもな刊行本[編集]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 三島由紀夫『著者と一時間(「絹と明察」)』(朝日新聞 1964年11月23日に掲載)
  2. 田中美代子「解説」(文庫版『絹と明察』付録)(新潮文庫、1987年)
  3. 松本徹『三島由紀夫を読み解く(NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界)』(NHK出版、2010年)
  4. 4.0 4.1 奥野健男『三島由紀夫伝説』(新潮社、1993年。新潮文庫、2000年)
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 竹松良明「『絹と明察』論―天皇制にかかわる形象化をめぐって」(『三島由紀夫論集I 三島由紀夫の時代』)(勉誠出版、2001年)

参考文献[編集]

  • 文庫版『絹と明察』(付録・解説 田中美代子)(新潮文庫、1987年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第10巻・長編10』(新潮社、2001年)
  • 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
  • 松本徹『三島由紀夫を読み解く(NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界)』(NHK出版、2010年)
  • 『三島由紀夫論集I 三島由紀夫の時代』(勉誠出版、2001年)

関連項目[編集]

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