芥川龍之介賞

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芥川龍之介賞(あくたがわりゅうのすけしょう)は、純文学の新人に与えられる文学賞。通称は芥川賞文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考、授賞される。

大正時代を代表する小説家の一人芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛1935年直木賞とともに創設し、以降年2回発表される。第二次世界大戦中の1945年から一時中断したが1949年に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円(2008年現在)が授与され、受賞作は『文藝春秋』に掲載される。

2007年現在の選考委員は池澤夏樹石原慎太郎小川洋子川上弘美黒井千次高樹のぶ子宮本輝村上龍山田詠美の9名。選考会は、料亭新喜楽』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その一ヵ月後の授賞式はともに東京會舘で行なわれる。

成立[編集]

芥川龍之介

1934年菊池寛は『文藝春秋』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にて、この年の2月に死去した直木三十五、1927年に死去した芥川龍之介の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。1924年に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し、直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており、両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『文学界』の編集者であった川崎竹一の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎がゴンクール賞ノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに、日本でも権威のある文学賞を設立するべきだ、と書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている[1]。このとき菊池は川崎に、文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され、正式に両賞が設立された。設立当時から賞牌として懐中時計が贈られるとされており、当時の副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として川端康成佐藤春夫山本有三瀧井孝作ら11名があたることになった。

芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが、設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている[2]1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており[3]1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している[4]。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは1956年石原慎太郎太陽の季節」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や、学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく、「太陽族」という新語が生まれ、石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした[5]。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり、1957年開高健1958年大江健三郎が受賞した頃には、新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた[6]。今日においても話題性の高さは変わらず、特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。

選考過程[編集]

(以下は『ダカーポ』2006年7月19日号掲載の「芥川賞・直木賞はこうして決定する」による。これは日本文学振興会スタッフ菊池夏樹への取材に基づくもの)

上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは日本文学振興会から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ、各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6~7回ずつ、計12回~14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。

最終候補作が決定した時点で、候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に築地の料亭・新喜楽1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる。

選考基準[編集]

「新人」の基準[編集]

芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新進作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。野間宏中村真一郎三島由紀夫など戦中の芥川賞中断期に登場した作家は既成作家と見なされてことごとく候補からはずされており、島木健作田宮虎彦、後述する井上光晴のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしば起こった。他方、第5回(1937年)に受賞した尾崎一雄は、受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている[7]。第39回(1957年)に大江健三郎が受賞したときは、大江はまだ23歳の学生作家であったが、すでに本を何冊も出して有名作家となっていたことが議論の的となった[8]。大江の受賞が決定した時には、選考委員の佐藤春夫は「芥川賞は今日以後新人の登竜門ではなく、新進の地位を安定させる底荷のような賞と合点した」と皮肉を述べている。

現在ではデビューして数年経ち、他の文学賞を複数受賞しているような作家が芥川賞を受賞することも珍しくなくなっている。近年では阿部和重が、デビューして10年たち作家的地位も確立していた2004年に芥川賞を受賞し、「複雑な心境。新人に与えられる賞なので、手放しで喜んでいられない」とコメントした。

作品の長さ[編集]

芥川賞は短編・中編作品を対象としており、長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた石川達三は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回(1964年)受賞の柴田翔されどわれらが日々―」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった[9]。第50回(1963年)芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の石川淳は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している[10]。またノーベル文学賞の候補となるなど国際的にも評価の高い村上春樹は芥川賞を受賞していないが、村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、すぐに長編に移行したことが理由の一つに挙げられる[11]

なお「作品の短さ」は、本になったときに読みやすく、また値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている[12]

直木賞との境界[編集]

純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木賞との境界があいまいになることもしばしばある。第6回(1937年)直木賞には純文学の作家として名をなしていた井伏鱒二が受賞しており、直木賞選考委員の久米正雄は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている[13]。社会派推理作家の松本清張は「或る『小倉日記』伝」で1952年に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが、候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった[14]。第46回(1961年)の両賞では宇能鴻一郎が芥川賞を、伊藤桂一が直木賞をとり、このとき文芸評論家の平野謙は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている[15]。同様の事態は第111回(1998年)にも起こり、このときには私小説の作家であった車谷長吉が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた花村萬月、ハードボイルド調の作品を書いていた藤沢周が芥川賞を取ったことで話題となった。

芥川賞に比べて、直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、檀一雄柴田錬三郎山田詠美角田光代などのように、芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは、柴田錬三郎「デスマスク」(第25回・1951年)、北川荘平「水の壁」(第39回・1958年)など、芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。

批判[編集]

賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりとその商業的な性格を認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため、1937年に財団法人日本文学振興会を創設し両賞をまかなわせるようになったが、同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)[16]。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)プロレタリア文学の傑作のためには、小林多喜二賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。

文学賞に対する批判本『文学賞メッタ斬り!』を著した大森望豊崎由美は、現在の芥川賞の問題点として、選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることをなどを挙げている。また豊崎は改善策として、選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の三分の一は文芸評論家にするなどの案を示している[17]

最年少・最年長受賞記録[編集]

特に若年での受賞や学生作家の受賞は大きな話題となる。最年少記録は、1966年丸山健二の記録が40年近く破られていなかったが、2003年綿矢りさ金原ひとみの同時受賞で大幅に更新された。

最年少受賞記録
順位 受賞者名 受賞年 受賞時の年齢
1 綿矢りさ 2004年(第130回) 19歳11ヶ月
2 金原ひとみ 2004年(第130回) 20歳5ヶ月
3 丸山健二 1967年(第56回) 23歳0ヶ月
4 石原慎太郎 1956年(第34回) 23歳3ヶ月
5 大江健三郎 1958年(第39回) 23歳5ヶ月
6 平野啓一郎 1999年(第120回) 23歳6ヶ月
7 青山七恵 2007年(第136回) 23歳11ヶ月
8 村上龍 1976年(第75回) 24歳4ヶ月
最年長受賞記録
順位 受賞者名 受賞年 受賞時の年齢
1 森敦 1974年(第70回) 61歳11ヶ月
2 三浦清宏 1988年(第98回) 57歳4ヶ月
3 米谷ふみ子 1986年(第94回) 55歳2ヶ月

歴代ベストセラー作品[編集]

ここでは現在までの累計発行部数が100万部を超える受賞作を解説する(作品名は単行本タイトル。発行部数は『ダカーポ』2006年7月19日号に基づくもので、『蹴りたい背中』を除いて単行本と文庫との総計。古い時代のものは正確な売り上げデータが残っておらず売り上げに計上されていないものもある)

安部公房』(第25回・1951年)130万部
「戦後派」の代表的作家の一人安部公房の作品。『壁』は3部からなるが受賞作は第1部にあたる「壁―S・カルマ氏の犯罪」で、名前を失った男の奇譚を描くシュルレアリスム風の前衛的な作品であった。石川利光「春の草」との同時受賞で、こちらは対照的に古風な作品である。選考委員のなかでは川端康成丹羽文雄瀧井孝作が強く推し、「退屈」として宇野浩二が反対したが、他の委員が前者に同調するかたちで受賞が決まった。
石原慎太郎太陽の季節』(第34回・1956年)102万部
前述したように「太陽族」という新語とともにブームを巻き起こし、芥川賞の話題性を決定付けた作品である。裕福な家庭で育った若者の無軌道な生活を描いたもので、奔放な性描写が話題となった。選考では最終的に藤枝静男の「痩我慢の説」との対決となり、この2作に対し選考委員の意見が分かれた。委員のうち舟橋聖一石川達三がそれぞれ欠点を指摘しつつも「太陽の季節」を終始積極的に支持、佐藤春夫、丹羽文雄、宇野浩二が強く反対し、最終的に瀧井孝作、川端康成、中村光夫井上靖が前者に同調した。作者が弟の石原裕次郎から聞いた話が題材になっており、1956年に映画化され、裕次郎も脇役として出演、これが石原裕次郎のデビュー作となった。
大江健三郎 『死者の奢り・飼育』(第39回・1958年)109万部
「飼育」が受賞作。大江は前年度の第38回にも「死者の奢り」で候補となっていたが、このときには開高健「裸の王様」が受賞。開高の受賞時丹羽文雄は「技巧の点では大江のほうが上だが、視野が狭くて落ちた。開高は作品に傷はあるけれども、故島木健作の持っていたシンの強さがあり、視野も広い」としている[18]。「飼育」は大江の故郷である四国の村を舞台に、子供である「僕」と村人に捕らえられた黒人兵との関係を描いた作品で、当時の大江はサルトルの影響を強く受けた作風であった。「飼育」は選考委員の間で評価の高さは一致したものの、前述の通りすでに大江が有名作家となっていたことが議論の的となり、「今回は賞無しというのも少し淋しいかと思って」(瀧井孝作)というような意見から受賞が決定した。舟橋聖一は「死者の奢り」にこそ賞を出したかったという選評を行なっている。
柴田翔されどわれらが日々――』(第51回・1964年)186万部
東京大学の学生を主人公に、当時の学生運動を背景にして描かれた青春小説。血のメーデー事件による革命への気分の高揚、六全協での挫折が物語の主軸となっており、当時の若者に広く読まれた。選考では前述のように280枚の長さが問題となったが、「他の候補作品にくらべて力倆は抜群」(石川達三)、「読み出すとスラスラ読めるので、却って、落ちた作の五十枚前後のほうが、読むのに骨が折れた」(丹羽文雄)といった意見から受賞が決定した。柴田はその後ドイツ文学者として活躍している。
庄司薫赤頭巾ちゃん気をつけて』(第61回・1969年)160万部
安保闘争などの学生運動を背景に、日比谷高等学校の男子生徒の一日を軽妙な文体で描いた作品。庄司は本名の福田章二としてデビューし、9年の沈黙を経て本作を発表した。「さようなら怪傑黒頭巾」などに続く4部作の第1作にあたり、作風にはサリンジャーなどのアメリカ文学からの影響が指摘されている。田久保英夫「深い河」との同時受賞。選考では三島由紀夫石川淳らから激賞を受けている。
村上龍限りなく透明に近いブルー』(第75回・1976年)354万部(単行本131万部、文庫223万部)
作者の実体験に基づき、米軍基地に近い町でドラッグとセックスに溺れる若者をLSD的な感覚で描いた作品。センセーショナルな内容が話題となり、歴代受賞作で最も売れた作品となった。選考では意見が真っ二つに分かれ、「因果なことに才能がある」と評した吉行淳之介のほか、丹羽文雄、中村光夫、井上靖が支持したが、永井龍男、瀧井孝作が強く反発。受賞後も江藤淳が酷評するなど論議を起こした。受賞作は村上自身の手により1979年に映画化されている。
池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ』(第77回・1977年)126万部
三田誠広『僕って何』との同時受賞。池田はすでに版画家として国際的な評価を得ていたため受賞は大きな話題となった。作品は池田自身を思わせる主人公がアメリカの撮影スタジオで、日本の妻と国際電話で会話しながら目の前のアメリカ人女性のヌードを観察する、というエロティシズムを全面的に押し出したもの。1979年に池田自身により映画化されている。選考では中村光夫から高い評価を受けたが、永井龍男は「空虚な痴態」「これは文学ではない」と授賞に抗議し、この作品と上記の村上の受賞を理由に選考委員を辞任している。
綿矢りさ蹴りたい背中』(第130回・2003年)127万部(単行本のみ)
綿矢は17歳のときに『インストール』でデビュー、芥川賞受賞時は19歳で、20歳の金原ひとみと同時授賞し最年少記録を大幅に更新、単行本は『限りなく透明に近いブルー』以来28年ぶりのミリオンセラーとなった。受賞作は周囲に溶け込めない女子高生とアイドルおたくの男子生徒との交流を描いたもので、唯一反対した三浦哲郎を除く選考委員の票をすべて集め受賞が決定。「高校における異物排除のメカニズムを正確に書く技倆に感心した」(池澤夏樹)、「作者は作者の周辺に流行しているだろうコミック的観念遊びに足をとられず、小説のカタチで新しさを主張する愚にも陥らず、あくまで人間と人間関係を描こうとしている」(高樹のぶ子)と各選考委員から高評価を受けた。綿矢の受賞と前後してこの時期10代~20代前半の作家のデビューが相次ぎ、若年層の活躍を印象付けた。

太宰治の落選について[編集]

第1回芥川賞では、デビューしたばかりの太宰治も候補となった。太宰は当時パビナール中毒症に悩んでおり、薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった川端康成は、太宰について「作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる悩みがあった」と評していたが、これに対して太宰は強く憤り、『文藝通信』に「川端康成へ」と題する文章を掲載、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す、さうおもった。大悪党だと思った」と川端をなじった。これに対し川端も翌月の『文藝通信』で「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁した。また太宰は選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り、第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、第3回以降しばらく「1度候補に挙がった者は以後候補としない」とする規定が設けられ、受賞の機会が奪われることとなった。佐藤はこれらの経緯を「小説 芥川賞」と題して詳しく描いている。

受賞作一覧[編集]

第1回から第10回[編集]

選考委員:川端康成佐藤春夫瀧井孝作久米正雄(直木賞兼任、第3回・第5回欠席)、佐佐木茂索(直木賞兼任)、山本有三(第2回まで)、小島政二郎(第2回以降、直木賞兼任)、室生犀星(第2回以降、第5回欠席)、菊池寛(第3回のみ)、横光利一(第4回以降)、宇野浩二(第6回以降、第7、17-20回欠席)

第11回から第20回[編集]

選考委員:川端康成(第13回欠席)、佐藤春夫(第18回欠席)、瀧井孝作、久米正雄(第11回-第13回欠席、第16回まで)、佐佐木茂索(第11、15回欠席、第16回まで)、小島政二郎(第17回まで)、室生犀星(第17回まで)、横光利一(第11、12、14、17回欠席、第20回まで)、宇野浩二、片岡鉄兵(第13回以降、第14回-第16回欠席、第19回まで)、白井喬二(直木賞兼任、第13回のみ)、河上徹太郎(第17回以降)、岸田国士(第18回以降、第19回欠席)、火野葦平(第18回以降)

第21回から第30回[編集]

選考委員:川端康成、佐藤春夫、瀧井孝作、宇野浩二、岸田国士(第27、28回欠席、第30回まで)、石川達三(第25回欠席)、坂口安吾(第30回まで)、舟橋聖一丹羽文雄

第31回から第40回[編集]

選考委員:川端康成、佐藤春夫(第36回欠席)、瀧井孝作、宇野浩二、岸田国士、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、井上靖(第32回以降)、中村光夫(第34回以降)、井伏鱒二(第39回以降)、永井龍男(第39回以降、直木賞選考から異動)

第41回から第50回[編集]

選考委員:川端康成(第43、46回欠席)、佐藤春夫(第46回まで)、瀧井孝作、宇野浩二(第45回まで)、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、井上靖、中村光夫、井伏鱒二(第47回まで)、永井龍男、高見順(第47回以降)、石川淳(第47回以降)

第51回から第60回[編集]

選考委員:川端康成(第50、51回欠席)、瀧井孝作、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、井上靖(第51、57回欠席)、中村光夫、永井龍男、高見順(第53回まで)、石川淳、大岡昇平(第55回以降)、三島由紀夫(第55回以降)

第61回から第70回[編集]

選考委員:川端康成(第64回まで)、瀧井孝作、石川達三(第65回まで)、丹羽文雄、舟橋聖一、井上靖、中村光夫、永井龍男、石川淳(第65回まで)、大岡昇平、三島由紀夫(第63回まで)、安岡章太郎(第66回以降)、吉行淳之介(第66回以降)

第71回から第80回[編集]

選考委員:瀧井孝作、丹羽文雄、舟橋聖一(第73回まで)、井上靖、中村光夫、永井龍男(第77回まで)、大岡昇平(第73回まで)、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作(第76回以降)、大江健三郎(第76回以降)、開高健(第39回以降)、丸谷才一(第79回以降)

第81回から第90回[編集]

選考委員:瀧井孝作(第86回まで)、丹羽文雄、井上靖(第89回まで)、中村光夫、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作、大江健三郎、開高健、丸谷才一

  • 第81回(1979年上半期) - 重兼芳子 「やまあいの煙」、青野聰 「愚者の夜」
  • 第82回(1979年下半期) - 森禮子 「モッキングバードのいる町」
  • 第83回(1980年上半期) - 該当作品なし
  • 第84回(1980年下半期) - 尾辻克彦 「父が消えた」
  • 第85回(1981年上半期) - 吉行理恵 「小さな貴婦人」
  • 第86回(1981年下半期) - 該当作品なし
  • 第87回(1982年上半期) - 該当作品なし
  • 第88回(1982年下半期) - 加藤幸子 「夢の壁」、唐十郎 「佐川君からの手紙」
  • 第89回(1983年上半期) - 該当作品なし
  • 第90回(1983年下半期) - 笠原淳 「杢二の世界」、高樹のぶ子光抱く友よ

第91回から第100回[編集]

選考委員:丹羽文雄(第92回まで)、中村光夫(第94回まで)、安岡章太郎(第95回まで)、吉行淳之介、遠藤周作(第95回まで)、大江健三郎(第91回まで)、開高健(第91、97、99回欠席)、丸谷才一(第93回まで)、三浦哲郎(第94回以降)、田久保英夫(第94回以降)、水上勉(直木賞選考委員より異動、第100回まで)、古井由吉(第94回以降)、大庭みな子(第97回以降)、河野多恵子(第97回以降)、黒井千次(第97回以降)、日野啓三(第97回以降)

  • 第91回(1984年上半期) - 該当作品なし
  • 第92回(1984年下半期) - 木崎さと子 「青桐」
  • 第93回(1985年上半期) - 該当作品なし
  • 第94回(1985年下半期) - 米谷ふみ子 「過越しの祭」
  • 第95回(1986年上半期) - 該当作品なし
  • 第96回(1986年下半期) - 該当作品なし
  • 第97回(1987年上半期) - 村田喜代子 「鍋の中」
  • 第98回(1987年下半期) - 池澤夏樹 「スティル・ライフ」、三浦清宏 「長男の出家」
  • 第99回(1988年上半期) - 新井満 「尋ね人の時間」
  • 第100回(1988年下半期) - 南木佳士 「ダイヤモンドダスト」、李良枝 「由煕」

第101回から第110回[編集]

選考委員:吉行淳之介(第110回まで)、開高健(第101回まで)、大江健三郎(第102回より復帰)、丸谷才一(第102回より復帰)、三浦哲郎(第109回欠席)、田久保英夫、古井由吉、大庭みな子、河野多恵子、黒井千次、日野啓三

第111回から第120回[編集]

選考委員:大江健三郎(第114回まで)、丸谷才一(第118回まで)、三浦哲郎(第117回欠席)、田久保英夫、古井由吉、大庭みな子(第115回まで)、河野多恵子、黒井千次、日野啓三、石原慎太郎(第114回以降)、池澤夏樹(第114回以降)、宮本輝(第114回以降)

第121回から第130回[編集]

選考委員:三浦哲郎(第130回まで)、田久保英夫(第124回まで)、古井由吉、河野多恵子、黒井千次、日野啓三(第122回欠席、第126回まで)、石原慎太郎、池澤夏樹、宮本輝、村上龍(第123回以降)、高樹のぶ子(第126回以降)、山田詠美(第129回以降)

第131回から[編集]

選考委員:古井由吉(第132回まで)、河野多恵子(第136回まで)、黒井千次、石原慎太郎、池澤夏樹、宮本輝、村上龍、高樹のぶ子、山田詠美、川上弘美(第137回以降)、小川洋子(第137回以降)

参考文献[編集]

選評は『芥川賞全集』に収録されている。

  • 永井龍男ほか『芥川賞の研究』みき書房、1979年
  • 永井龍男『回想の芥川・直木賞』文藝春秋、1979年
  • 『芥川賞全集』文藝春秋、1982年-
  • 『ダカーポ』2006年7月19日号「特集・芥川賞、直木賞を徹底的に楽しむ」マガジンハウス
  • 大森望、豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』シリーズ、PARCO出版、2004年-

脚注、出典[編集]

  1. 梅田康夫「芥川賞裏話」『創』1977年3月号初出、『芥川賞の研究』124頁-125頁
  2. 永井龍男、佐佐木茂作「芥川賞の生まれるまで(対談)」『文学界』1959年3月号初出、『芥川賞の研究』10頁-11頁
  3. 前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁
  4. 遠藤周作、開高健「対談 芥川賞」『文学界』1963年9月号初出、『芥川賞の研究』158-159頁
  5. 前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁
  6. 前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁
  7. 前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』133頁
  8. 前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』147頁
  9. 前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』149頁
  10. 前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁
  11. 「なぜ村上春樹は芥川賞をとれなかったのか?」『ダカーポ』2006年7月19日号、28頁-29頁
  12. 「データでみる芥川賞・直木賞」『ダカーポ』2006年7月19日号、18頁-19頁
  13. 橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」『小説新潮』1964年1・2月号初出、『芥川賞の研究』117頁-118頁
  14. 前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』140頁
  15. 前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』148頁
  16. 前掲 橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」、『芥川賞の研究』70頁
  17. 「文学賞大国ニッポン―両賞の位置は?」『ダカーポ』2006年7月19日号、34頁-35頁
  18. 前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁

関連項目[編集]

いずれも出版社の主宰する非公募の純文学新人賞。

外部リンク[編集]

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