山口母親殺害事件
山口母親殺害事件(やまぐちははおやさつがいじけん)とは後に大阪姉妹殺害事件を起こす事になる当時16歳の犯人・山地悠紀夫が2000年7月29日、山口県山口市で当時50歳の母親の頭を金属バットで殴り殺害した事件である。
事件の経緯[編集]
この事件の犯人となった少年(山地悠紀夫)の父親は様々な職を渡り歩いていたが、酒癖が悪くしばしば妻や少年に対し暴力を振るっていた。1995年1月に父親は肝硬変で死亡したが、その後は少年は母親と2人暮らしであった。少年は学校では目立たない存在で、友人も少なかった。小学生時代は、家庭科の教材費を支払うことが出来ず、それを理由に教師からは調理実習で作った料理を食べる資格がないと決め付けられ、作った料理をゴミ箱に捨てさせられたこともあった。中学校時代は少年は「悪魔」と呼ばれたこともあった。中学2年の頃から不登校気味となり、中学3年には3分の2近くを欠席し、修学旅行などの行事にも参加しなかった。
卒業後は高校へは進学せず、しばらく就職先が見つからなかったが、知人の紹介で新聞販売店で働き始めた。だが母親には借金があり、取り立てに迫られたり、家賃や水道料金を滞納していた。生活保護も申し込んだが認可されなかった。6月になって少年は借金のことを知ったが、そのときには既にもうどうしようもないところまで来ていた。事件直前の7月27日と7月28日には仕事を初めて無断欠勤している。その際は同僚が迎えに行き28日の途中から出勤したが、夕方には「母親が借金している」と悩みながら同僚に話しかけていた。また母親には再婚話があり、同僚に対し「僕は邪魔者だから家を出る」とも話していた。
そんな中、2000年7月29日午後9時ごろ、少年と母親は口論となる。きっかけは少年が交際したいと考えていた女性の携帯電話に、母親が無言電話をかけたためであった。そのことを母親に少年は問いただしたが認めず、母親が少年に対し「出て行け」などと言ったことに腹を立て、借金の事も絡んで口論となり暴行を加えた。そして、頭に血が上った少年は金属バットで母親を殴り倒し母親を滅多打ちにし殺害した。大阪姉妹殺害事件では検事に対し母親殺害の際に射精した事を述べたが、これは「返り血を流すためシャワーを浴びたら、射精していたことに気づいた」ということであった。また、この事は母親殺害の際は調べに対し述べていない。7月31日午前1時頃、少年は「母親を殺した」と110番通報をする。山口署員は少年を殺人容疑で緊急逮捕した。
少年は自暴自棄で投げやりな態度が目立っていた。当初、少年は弁護士の選任を行うことを拒否していた。8月2日に県弁護士会から派遣された弁護士と接見した際にも「(弁護士は)必要ない。自分はどうなってもいい」という話をして接見室から出て行った。少年は8月21日に山口地検に「刑事処分相当」の意見書を付けられ山口家庭裁判所に送致され、山口少年鑑別所で調査を受けた。9月14日、山口家庭裁判所は「動機に酌量の余地があり、計画的な非行ではなく、家庭環境に大きく起因していることなどを考慮すべきだ」とし、「長期間の矯正教育を受けさせるのが適当であり、年齢的に見ても矯正は充分可能」として、中等少年院送致とした。少年は9月14日の審判で「客観的に見て許されないことをしてしまった。母が抱えていたものをもっと説明してくれていれば、違う展開になったかもしれない」と語った。
2000年当時は西鉄バスジャック事件や大分一家6人殺傷事件など凶悪な少年事件が話題になっており、その一環のなかで騒がれた。また、加害者・被害者の顔写真が流出しコミックマーケットでもばら撒かれた。だが、他の事件に比べ理由が「母親の借金で口論になった」というものであったため、当時はそれほど凶悪犯罪扱いはされなかった。
少年院退院後[編集]
退院後の2005年11月17日に成長した少年(山地悠紀夫)は今度は大阪姉妹殺害事件を起こした。大阪姉妹殺害事件で逮捕された際には成年だったため実名報道され、少年時代の山口母親殺害事件も取り上げられ、快楽殺人者の始まりの事件とみなされるようになる。被告人は「母親を殺したときの感覚が忘れられず、人の血を見たくなった」と大阪府警の調べに対し述べていた。なお、母親殺害事件の際には広汎性発達障害が疑われたのだが、大阪姉妹殺害事件の精神鑑定では人格障害(非社会性人格障害、統合失調症質人格障害、性的サディズム)であるとされた。
2007年5月31日、山地悠紀夫に死刑が確定した。2009年7月28日、死刑執行された。