日産・バイオレット

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バイオレット」 (VIOLET) は、日産自動車が生産していた小型乗用車

歴史[編集]

初代 710 / 711型 (1973-1977年)[編集]

1973年ブルーバードU(610型)と併売されていた510型ブルーバードの後継車として登場。従ってブルーバードの派生車種といえる。

510型の直線的でクリーンな外観に対し、710型バイオレットは複雑な曲面で構成されたファストバックスタイルだったため、日本での人気は低迷した。この造形は北米市場の嗜好に合わせたもので、濃色のメタリックに合う、「塗り映え」するプレスラインが選ばれた。ブルーバード譲りのスポーツグレード、SSS(スリーエス)がラリーで活躍したにもかかわらず販売台数は伸び悩んだ。

ボディタイプは当初4ドアセダン、2ドアセダン、2ドアハードトップの3種類。4ドアセダンはその後のマイナーチェンジでノッチバックスタイルへと変更された。のちに5ドアのライトバンが追加されている。

710型
  • 1973年1月、バイオレット登場。
  • 1974年 マレーシアの「セランゴールグランプリ」にて「バイオレットターボ」が総合優勝を飾る。
711型
  • 1976年2月 マイナーチェンジ。
1600ccが51年排ガス規制に適合(同年5月には1400ccも51年規制に適合)、型式呼称も711型に
4ドアセダンをノッチバックスタイルに変更(理由はタクシー乗客の乗降性と運転手の視界向上のため)。
2ドアセダンは廃止。
  • 1977年 第12回サザンクロスラリーに直列4気筒DOHC・16バルブの競技用エンジン、LZ18型を搭載する2ドアハードトップが参戦、総合優勝を飾る。この車両は現在、日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている。
  • 1977年 生産終了。A10型にバトンタッチ。
タクシー仕様

小型車にとってタクシー需要はドル箱であり、このモデルの4ドアセダンにも、610型ブルーバードUには未設定であったタクシー仕様車(5人乗り、3速コラム、前席ベンチシート、L16型1600ccLPG)が設定されていた。510型譲りの4輪独立懸架や無反射メーターの評価は高かったにもかかわらず、ファストバックゆえ好き嫌いが別れ、角度の寝かされたCピラーが客の乗降の妨げもしくはファストバックのスタイルが運転手の視界の妨げとなり、ダットサンブランドのタクシーの中では。かつて無いほどの不評であった。これが原因でコロナを選ぶ事業者が多くなった。故にセダンはノッチバックに改められ、リアサスペンションも低廉なリーフリジッドへ変更されるなど、「割り切った」モデルとなった。

エンジンは昭和50・51年排ガス規制に対応するため、L18型1800ccLPG(NAPS)に変更されている。

1976年7月に810型ブルーバードにタクシー仕様の設定が復活した後も、1977年4月頃まで生産、販売が継続されていた。

2代目 A10 / A11型 (1977-1981年)[編集]

1977年5月20日、フルモデルチェンジでA10型が登場。ブルーバードから独立し独自の形式名が与えられた。

セダンは先代710型のスタイリングの不評を受け、510型ブルーバードの「スーパーソニックライン」をモチーフとしたボクシーで機能的なスタイルへと改められた。そのため輸出向けは、一般地用のDatsan 160Jとは別に、「510」の人気が高かった北米では、Datsun New 510(ダットサン・ニュー・ファイブ・テン)の車名が特別に与えられた。

デビュー時のボディタイプは4ドアセダンと、「オープンバック」と称するハッチバッククーペ、そしてライトバンの3種類。その後1980年には姉妹車のスタンザ・リゾートに準じた5ドアハッチバックを追加している。

2代目バイオレット登場と同時に日産は、スポーティ志向で若者向けの「オースター」、その3ヵ月後の8月には、ラグジュアリー志向で「ミニ・セドリック」と呼ばれた「スタンザ」をそれぞれ姉妹車として登場させてしまう。バイオレットは販売戦略上、やや個性に欠けた、ファミリーカーとしての色合いを強めることになる。

その一方で、バイオレットは日産のWRC参戦の主力マシンとなり、1979年1982年の「サファリラリーで4大会連続総合優勝」という快挙を成し遂げた(ちなみに、1979年と1980年は2バルブヘッドエンジン搭載のグループ2マシン、1981年と1982年は4バルブヘッドエンジン搭載のグループ4マシンでの参戦)。また、この4連覇は全て元FIA評議委員長でケニア在住の故・シェカー・メッタ (Shekhar Mehta) が日産ワークス時代にドライブしたもので、WRC史上初の「同一ドライバーで同一イベント4連覇」という記録を打ち立てている。

国内ではスーパーシルエットレースに参戦するなど、強烈なスポーツイメージも兼ね備えていた。

A10型
  • 1977年5月 モデルチェンジでA10型が登場。同時発売で姉妹車の「オースター」も登場した。
    • 8月 姉妹車の「スタンザ」が登場。
A11型
  • 1978年5月 53年排出ガス規制適合でE-A11/PA11型へ移行。
    • 9月 スポーティ仕様の「1600GX/GX-EL」を追加。
  • 1979年6月 マイナーチェンジによりヘッドライトが丸型4灯から角型4灯に変更。
    • 第27回サファリラリーに参戦。総合優勝を飾る。
    • 富士スーパーシルエットレースに海外ラリー競技用エンジンLZ20B型にターボチャージャーを装着したLZ20B/T型エンジンを搭載した「バイオレットターボ」が参戦。ドライバーは柳田春人が勤めた。
    • 3月 富士300キロスピードレース 10位
    • 5月 富士グラン250キロレース 7位
    • 9月 富士インター200マイルレース 7位
    • 10月 富士マスターズ250キロレース 優勝
  • 1980年 5ドアハッチバック(1600ccのみ)・女性仕様1400ファンシーGL(ATのみ、セダン・オープンバック)追加。
    • 第28回サファリラリーに参戦。総合優勝を飾る(2連覇目)。
    • 前年に引き続き、富士スーパーシルエットレースに「バイオレットターボ」が参戦。ドライバーは柳田春人が勤めた。
    • 3月 富士300kmスピードレース GTIIクラス 優勝
    • 9月 富士インター200マイルレース GTIIクラス 優勝
    • 10月 富士マスターズ250kmレース GTIIクラス 優勝
  • 1981年 フルモデルチェンジにより「バイオレットリベルタ」と車名を変更。
    • 第29回サファリラリーに参戦。総合優勝を飾る(3連覇目)。
  • 1982年 第30回サファリラリーに参戦。総合優勝を飾る(4連覇目)。
この年は後継ラリーマシンとしてS110型シルビアベースの新型グループ4マシンが用意されていたが、信頼性などの問題を抱えていたため、サファリラリー4連覇目が掛かっていたシェカー・メッタは既に生産終了していた前年型のPA10型グループ4マシンを選択した。これを快く思わなかった日産はワークス・バックアップを拒否。このため、メッタはプライベーターとして参戦することになってしまった。
参戦したメッタのマシンは、前年までの日産トリコロールカラーではなく、白いボディにマールボロ・レッドがペイントされていた。
結果として、S110型シルビアベースの新型マシンは信頼性不足によるマシントラブルによって徐々に遅れ、最高位は3位。対するメッタのバイオレットは総合優勝し、見事4連覇を達成した。メーカーのプロモーションではなく、勝負を優先したメッタはラリー史に名を残すことになったが、この一件以降、日産とのワークス契約がかわされることは残念ながらなかった。
PA10型のサファリラリー歴代優勝マシンは現在、メッタのマールボロ・カラーマシンも含めて全てが日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている。

3代目 T11型 (1981-1982年)[編集]

1981年9月のモデルチェンジにあたりFF化され、「バイオレットリベルタ」の名称となった。広告では、旧来の不人気車のイメージを払拭すべく、「バイオレット」を小さくし、単に「リベルタ」と呼んでいた。姉妹車のオースターも「オースターJX」、スタンザも「スタンザFX」と名称を変更したが、一般には従来通り「バイオレット」、「オースター」、「スタンザ」と呼ばれていた。

ボディタイプは4ドアセダンと5ドアハッチバックの2種類。チェリーとその後継車パルサーに次ぐ日産の前輪駆動車であり、新開発のCA型エンジンを搭載し、日産の世界戦略車として位置づけられた。だが、駆動方式と2000ccのモデルの有無を除けばブルーバード(排気量は1600cc、1800cc、2000cc)と同じ排気量のバイオレット(排気量は1600cc、1800cc)が旧日産系販売会社(ブルーバード販売会社)において競合してしまい、販売台数は低迷していた。そこで日産は翌1982年にバイオレットをフルモデルチェンジさせ、クラス下のパルサーをベースにした1500ccの排気量をもつ「リベルタビラ」となった(ブルーバード販売会社取り扱い)。姉妹車のオースターとスタンザは、翌1983年にマイナーチェンジされ、継続販売された。

4代目 N12型(1982年-1986年)[編集]

1982年6月に、バイオレットリベルタがフルモデルチェンジされて登場した。初代バイオレットから数えて4代目にあたり、車名から「バイオレット」の文字が消え、「リベルタビラ」と変更された。

バイオレットリベルタが、4ドアセダンと5ドアハッチバックの2種類のボディがあったのに対し、リベルタビラは4ドアセダンのみであった。また、バイオレットリベルタのフルモデルチェンジ版という位置付けからパルサーに設定された1300ccエンジンは設定されなかった。レパードTR-Xと同じ角型4灯式ヘッドランプだった。

1982年の4代目バイオレット(N12型リベルタビラ)の発売によりT11型はオースタースタンザのみとなった。

1983年5月 低速域から作動する1500ターボ(E15ET)を発売。グレードはSSSターボであった。ブルーバード販売会社で扱うことからブルーバードの弟分というイメージが強かった(同様にラングレーはスカイラインの弟分という位置付けがなされた)。

1984年5月 マイナーチェンジ。既存の1.5GF-Eはスポーティ志向になりSSS-Eに改称。

5代目 N13型(1986年-1990年)[編集]

1986年10月登場。ボディは4ドアセダンと3ドアハッチバックの2種。パルサーが先にモデルチェンジされ、後からラングレーと同時にモデルチェンジされた。このモデルから3ドアがラインナップに加わる。

1990年8月にパルサーがフルモデルチェンジされると同時に、バイオレットは姉妹車のラングレーとともにパルサーに統合される形で消滅した。この時期の日産は販売店の統廃合が進められ、姉妹車の整理をしていた時期でもあった。

車名の由来[編集]

車名の「バイオレット」は英語ですみれの意味である。また「リベルタ」はイタリア語で自由と独立を、「ビラ」はイタリア語で別荘と公園と田舎の家を表している。

CM[編集]

初代、2代目はCMキャラクターに俳優藤岡弘(現:藤岡弘、)を起用した。藤岡は、テレビ朝日刑事ドラマ特捜最前線』のイメージもあり、日産自動車は提供スポンサーで、車両協力もしていた。

4代目前期型のCMには、同じ日産系販売会社(ブルーバード販売会社)の取扱車種であった、F30型レパードのCMキャラクターを務める加山雄三と、910型ブルーバードのCMキャラクターを務める沢田研二が起用され、テレビCMでは、F30型レパードの横に立つ加山雄三と、910型ブルーバードの横に立つ沢田研二が共に登場し、最後には共に「僕たちの新しい仲間をよろしく」と述べた後に互いに微笑んで締めくくるCMであった。上記のセリフはカタログの表紙にも2人の写真とともに記載されていた。キャッチコピーは「若きスーパースター。リベルタビラ」。4代目後期型のキャッチフレーズは「SSSダンディ・リベルタビラ」。

5代目前期型のCMのコピーは「快足L・V・Loveより簡単。L・V」。5代目後期型のCMキャラクターには、野球解説者で元参議院議員江本孟紀が務めていた。後期型のCMコピーは「江本の選択」。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]