北条光時

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北条 光時(ほうじょう みつとき、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将。父は北条朝時。母は大友能直の娘。通称は越後太郎・遠江式部丞・遠江式部大夫。法名は蓮智。兄弟姉妹に時章時長時幸時兼教時時基朝賢北条時実のち宇都宮泰綱毛利広光足利泰氏新田頼氏小野宮通俊に嫁いだ女子など。子に親時盛時政俊道成政茂光朝政通勝観七郎備前宮内大夫に嫁いだ娘ら。

略歴[編集]

父は第2代執権である北条義時正室の子で第3代代執権の北条泰時の異母弟である朝時で、光時はその嫡子に当たる。泰時の没後、北条家の執権職は泰時の嫡孫である経時が継いだが、光時はこれに不満を持っていた。経時が重病に倒れて執権職を実弟の時頼に譲ると、光時は自らが執権になるためかつて経時に将軍職を追われて大殿とされていた藤原頼経を擁立し、さらに三浦光村北条時章北条時長北条時兼北条時幸藤原定員藤原定範らを抱き込んで陰謀を企てた(宮騒動)。しかし時頼に陰謀は露見し、藤原定員・定範父子を禁固して光時は詰問された。光時は落髪して蓮智と称して謝罪した。光村、時章、時長、時兼らは処罰を免れたが、実弟の時幸は出家の後に自害した。また光時派の評定衆である後藤基綱藤原為佐千葉秀胤三善康時らは罷免となり、光時は寛元4年(1246年)6月13日に越後守護職を没収されて伊豆に流された[1]

脚注[編集]

  1. 安田、1991年、P554

参考文献[編集]