ワールドトレードセンター (ニューヨーク)

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ワールドトレードセンター
ツインタワー[1]
WTC
 
施設情報
所在地 アメリカ合衆国ニューヨーク
建設期間 1966年 - 1973年
使用目的 オフィス[2]
設計 ミノル・ヤマサキアントニオ・ブリッティオッチ
施工
所有者
高さ
アンテナ/尖塔
(最頂部)
528m
屋上 417m
最上階 411m
技術的詳細
階数 110 階
延べ床面積 約148,600m2 (両タワーの有効オフィススペース)
エレベーター数 208基 (両タワー、業務用を除く)
skyscraperpage

ワールドトレードセンターまたは世界貿易センター (World Trade Center, WTC) は、かつてニューヨークマンハッタン区のローワー・マンハッタン(マンハッタンの南端)に位置していた商業センターである。

かつて、ワールドトレードセンターは「ワールドトレードセンター・コンプレックス」という、5万人の勤務者と1日20万人の来館者のあるニューヨーク最大のオフィス/商業センターであった。 コンプレックスは1WTCから7WTCまでの7つのビルによって構成されたが、特にその中心となっていたツインタワー(1WTCおよび2WTC)は完成時に世界一の高さを誇り、2棟の巨大な直方体が並び立つ姿はニューヨーク市やマンハッタンのシンボルとなっていた。日本で単にワールドトレードセンタービルといえばこのツインタワーのことを指した。

しかし、2001年9月11日9/11テロアメリカ同時多発テロ)によってツインタワーが崩壊し、その衝撃を受けたコンプレックスの他のビルも全壊した。その跡地はテロ後長らくグラウンド・ゼロと呼ばれ、再建計画をいかにするかが世界中の関心を集めていたが、現在ではフリーダム・タワーを含む新WTCビル群の再建が進んでおり、敷地も「ワールドトレードセンター・サイト」と呼ぶことが定着してきている。

敷地

WTCの敷地はかつて「ラジオ・ロウ(ラジオ横丁)」といわれた電気部品街・倉庫街のほか、ハドソン川横断鉄道のターミナルビルがあった。偶然にもこれも双子のタワーで、22階建てで二ブロックを占める程の大きさがあり、1908年の建設当時は世界最大のオフィスビルであった。地下にハドソン川を渡るニュージャージー州からの通勤鉄道の終着駅があったが、その経営はモータリゼーションによって破産状態にあった。

増大する海外貿易のための大規模な商業取引センターをニューヨークに作るという案は第二次世界大戦直後からあり、1946年にニューヨーク市によって設立されたワールドトレード社がいくつかの建設案を作成したものの、資金不足などで計画倒れとなっていた。この計画に関わっていたデイヴィッド・ロックフェラー1950年代後半からマンハッタン各地でリンカーン・センターなど都市の数十ブロックを丸ごと再開発する計画を進めていたが、ローワー・マンハッタンで再度ワールドトレードセンターを作る計画を始め、1960年にニューヨーク港湾公社(1930年に設立されたニューヨーク・ニュージャージー両州にまたがる港湾地域の開発を目的とした公団、1972年にニューヨーク・ニュージャージー港湾公社と改称)のオースティン・トービン総裁に提案した。

第二次大戦中から総裁を続ける実力者トービンと港湾公社は、ワールドトレードセンター計画を強力に推進することにし、最終的に場所をハドソン川横断鉄道でニュージャージー州との交通も便利なハドソン川沿いの現在の敷地に決定した。老朽化した一帯を再開発で全て更地にし、巨大なオフィスビルを複数作って貿易関係の企業を集積させ、税関施設や港湾公社などの貿易ビジネスをサポートする機関も全て含めたワールドトレードセンター・コンプレックスの建設がこうして決定したのである。さらに、ハドソン川横断鉄道を港湾公社運営による新鉄道にし、その駅も新築して敷地内を走るニューヨーク市地下鉄との乗換駅とし、交通ターミナルを構築することにした。

設計

ファイル:World Trade Center Building Design with Floor and Elevator Arrangment.svg
ツインタワーの典型的なオフィスフロアの平面図 と、エレベーター運行概念図
ファイル:World Trade Center NYC Sander Lamme.jpg
1WTC上層階の北側の窓から見た2WTC (下に見えている道路の右側が基礎搆掘削によって出た土砂で埠頭を埋め立てて創ったワールドフィナンシャルセンターの南端部)

設計にはコンペの結果日系アメリカ人建築家ミノル・ヤマサキの案が選ばれ、敷地の大部分を低層ビルや公共の広場(プラザ)とし、隅に二棟の直方体 (63.4m × 63.4m × 415m) の超高層ビルを建てるという、ワールドトレードセンター・コンプレックス計画が1964年に発表された。

この案は、より多いオフィススペースを必要としていた施工主を満足させるものだった。ビルの有効面積を増やし賃貸収入を上げるため、フロア内には一本の柱もない大空間を可能とさせる、ヤマサキのチューブ構造が功を奏した。ビルの中央にエレベーターやライフラインを集中させ、それらを多くの支柱で囲み、さらに外壁全体に鉄骨の支柱を配して重さを支える、いわば鳥かごの中に鳥かごがあるような構造であった。これら外壁支柱はそれぞれ地下から立ち上がり、4階付近で三本に別れ、そのまま110階まで達するもので、その結果全く同じ床面積が1階から最上階まで続くという非常に効率的なものだった。またニューヨーク港に面したローワー・マンハッタンは風が強く、超高層ビルへの影響が懸念されたが、チューブ構造の柔軟性はタワーの中心部(55階付近)を最大振幅させるため、暴風時でも最上階付近ではほとんど揺れを感じないという優れた設計だった[3]

さらにエレベーターの効率的な運行のため、44階と78階に乗換階「スカイロビー」を設け、高速エレベーターをスカイロビーに直行させ、ここからさらに各階行のエレベーターに乗り換えさせるという方式にした。これは限られたエレベーターシャフトを超高層ビルで最大限有効に利用する画期的方法で、このような運行システムを採用したのはツインタワーが世界初だった。各タワーには低層階専用、中層階専用、高層階専用、スカイロビー(44/78階)直行、最上階(展望台/レストラン)直行、あわせて104基のエレベーターが設けられた。

200階建てのビル一棟にしたり、複数の高層ビルで敷地を埋めず、110階建て二棟にしたのは、一棟だと退屈に見えがちな四角いビルも二棟並べばシンボリックになり、その分直方体のシンプルさが際立つことと、またビルをヒューマンスケールを超える高さにしたり、大容積のビルが密集した塊にはしたくなかったことだと言われる。また働く人や観光客に安ぎを与えるため、ヨーロッパの古い都市の大聖堂と家々に囲まれたプラザを模した5エーカーの広さの「プラザ」(後に総裁の名をとってトービン・プラザと呼ばれた)を敷地中央に作った。足元のエントランスの部分は外壁支柱が地上付近でカーブを描いて一本から三本に分かれる形状のため、上層部で支柱を密集させつつ足元では建物への出入りのための十分な幅が確保できた上に、荘厳なゴシック建築イスラム建築を思わせるような趣をかもし出すことに成功した。全体のプロポーションも余計な装飾なくすっきりとまとまっており、洗練されたモダニズム建築であることが分かる。

しかし実際に近くで見るツインタワーはかなり威圧感があり、当時の市民の評判も決して良いものではなかった。建築評論家からも評判が悪く、モダニズムの悪い見本のように語られることもあった。しかし、門のように並ぶ直方体は、遠くから見たニューヨークのスカイラインに一目で分かる特徴を与え、すぐにニューヨークの新しいシンボルとなった。また1WTC最上階の高級レストラン「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド」や、2WTC最上階の展望台と屋上の展望デッキは新しい観光名所になった。

建設

1966年からはじまった建設作業は難工事であった。まずラジオ・ロウの低層建築やターミナルビルの立ち退きに時間を要した。これらを全て解体し更地にした後、ハドソン川からの地下水浸水を避けるために敷地全体に、地下7階の深さまでの「バスタブ(浴槽)」と呼ばれる防水を施した巨大な基礎構を掘り、そこに基柱を打ち並べ、鉄骨をつないで柱を大空へ伸ばし始めた。

バスタブ内には運行中のハドソン川横断鉄道が走っていた。これを仮線路と支柱で宙に浮かせたままバスタブ内を渡し、新しい線路や新駅を建設した。そして鉄道の経営は港湾公社に移管され「パストレイン (PATH、Port Authority Trans-Hudson、港湾公社ハドソン連絡鉄道)」と改称された。また地下鉄の新駅や大駐車場、ショッピングモールなども建設された。

ハドソン川からの地下水が浸透するのを防ぐため、バスタブの西側(ハドソン川に面した側)にはまるでダムのようなコンクリートの大防水壁が建設された。またバスタブから出た76万立方メートルもの大量の土砂は、敷地西側に隣接するハドソン川沿いの埠頭の埋め立てに使い、ここに巨大な埋立地が出現した。この埋立地は「バッテリー・パーク・シティ」と呼ばれ、1980年代後半以降ワールドフィナンシャルセンターと呼ばれる新たなオフィス コンプレックスや高層住宅が建ちならんだ。

完成

ファイル:World trade center new york city plaza fountain.jpg
トービン・プラザと1WTC、2WTC、3WTC(ホテル)。中央の噴水に立つのはフリッツ・ケーニッヒの「The Sphere」

こうして1972年に1WTC(ノースタワー)が、1973年に2WTC(サウスタワー)が完成し[1]1973年4月4日にワールドトレードセンター落成式典が挙行された。高さ世界一の座は1974年に完成したシカゴシアーズ・タワーにすぐに奪われたものの、展望デッキや展望レストランが1975年以降完成してニューヨークの新しい観光名所となり、以後多くの映画やテレビドラマにツインタワーが登場するようになった。オフィス、ホテル、合衆国税関、先物取引場など六棟からなるワールドトレードセンター・コンプレックス全体は1977年に完成した(また1987年には隣接する敷地に7WTCが追加オープンしている)。

ところがいざオープンしてみると、当初想定していた貿易会社などの入居は少なく、国際貿易の拠点としての計画は当てが外れた。完成時のキーテナントは港湾公社ほか、市や州、連邦などの機関が多く、あたかも官庁舎のような状態であった。活況を呈してくるのは1980年代以降、隣接するウォール街が世界の金融の中心として活況に満ち、モルガン・スタンレーやソロモン・ブラザーズの本社を始め、世界の銀行・証券・金融会社の多くがこぞって入居するようになってからだった。ある日通行量調査を行ったところ、一日の勤務者は5万人、来館者は20万人という数字が出た。あまりに規模が大きいので、ワールドトレードセンターだけで二つの郵便番号 (10048と10049) が与えられたほどだった。

WTCは、公共建築や大型ビルを建てる際はその建設費の1%をパブリック・アートに使うという、現在では全米各地に広まっている条例を適用した先駆的なビル群だった。エントランスのロビーにはルイーズ・ネーベルソンジョアン・ミロル・コルビュジエらの大きな作品が、プラザの中心にはフリッツ・ケーニッヒ (Fritz Koenig) の「The Sphere」が、またその周辺には流政之の「雲の砦」、ジェームズ・ロザッティ (James Rosati) の「Ideogram」などが置かれていた。またWTC7建設後にはアレクサンダー・カルダーの「スタビル」などが設置された。ビルの各テナントもおのおの美術コレクションを所有しており、たとえば1WTCの上層階にあって社員のほとんどが犠牲となった金融会社はロダンの彫刻のコレクションで知られていた。このようにWTC全体には美術館ができるほどの数と質の美術品があったが、アメリカ同時多発テロ事件によってそのすべてが灰燼に帰した。プラザに毅然と君臨していたケーニッヒの「The Sphere」はずたずたの残骸になって発見された。再度組み立てられたのち、バッテリーパークに移設されて、現在では「テロの仮祈念碑」となっている。

WTCへのテロ

1993年爆破事件で、爆発物を満載したバンが爆発した地下駐車場
ファイル:September 17 2001 Ground Zero 01.jpg
崩壊直後のWTC(1WTCの外壁残骸と、中心部を全壊した6WTC)

ワールドトレードセンターは2度テロの標的になった。

1993年爆破事件

1993年2月26日の正午過ぎ、反米テロリストの仕掛けた爆破物を満載したバンがタワー直下の地下駐車場で爆発、地下に居合わせた6人が死亡した。駐車場の火災により発生した煙が両タワーのエレベーターシャフトを伝わって全階に広がり、WTCは全館全員緊急退去という騒然とした状況に包まれたが、幸い人的被害は最小限にとどまった。

事件後の調査で、爆発はタワーの構造強度に微塵のダメージも及ぼしてはいなかったことが判明、またここで得られた数値をもとにシミュレーションを行った結果、仮に爆発規模が数倍のものであったとしてもタワーの構造強度に深刻な影響は及ぼさなかったことがわかった。このため、事件後セキュリティー面を徹底的に強化したWTCは2ヵ月半後には「最も安全なオフィス環境」として再オープンした。

詳細は「世界貿易センター爆破事件」を参照。

9/11テロ事件

2001年9月11日の午前、イスラム系国際テロ組織アルカイダ実行犯がハイジャックした民間航空機二機が両タワーに次々に自爆突撃、乗員・乗客・テナント・消防・警察など、あわせて2749人もの死亡者を出す大惨事となった。

WTC建造物への被害は以下のとおり:

  • 1WTC:ノースタワー (110階) → 94–98階に航空機が直撃、完全崩壊
  • 2WTC:サウスタワー (110階) → 78–84階に航空機が直撃、完全崩壊
  • 3WTC:マリオットホテル (22階) → 2WTC崩壊により半壊、1WTC崩壊でほぼ全壊
  • 4WTC:オフィスビル (9階) → 2WTC崩壊によりほぼ全壊
  • 5WTC:オフィスビル (9階)) → 9階から3階まで両タワー崩壊によりほぼ全壊
  • 6WTC:合衆国関税局/先物取引場 (7階) → 両タワー崩壊によりほぼ全壊
  • 7WTC:オフィスビル (47階) → テロ発生8時間後に完全崩壊

詳細は「9/11アメリカ同時多発テロ事件」を参照。

再建

跡地は2001年の暮れに公開され、残骸撤去と遺体捜索が続く中、周囲は祈りの場となった。跡地から見つけられた十字架状の鉄骨は崩壊跡地にたてられており、「鉄骨の十字架」と呼ばれている。

9/11後膨大な床面積のオフィス物件を失い、市内からの企業流出を恐れるニューヨーク市などはローワー・マンハッタン再開発会社を設立、ここにWTCを再建する計画がスタートした。しかし再開発にあたっては遺族感情もあるため、誰もが慎重にならざるを得なかった。当初案はオフィス再建一辺倒だったため遺族の反発を買い、世界の建築家を招いたコンペを経て、ダニエル・リベスキンドの「メモリー・ファウンデーション」と題する案が1等となり採用された。ポーランド生まれドイツ在住のリベスキンドはベルリン・ユダヤ博物館に代表される祈念モニュメントの設計に定評があり、今回も尖塔までの高さ1776フィート(541m、アメリカ独立の1776年にちなむ、ただし建物部分は70階建)の自由の女神を模したフリーダム・タワーがそのデザインの中核を占めていた。またツインタワーのあった場所は慰霊の場とし、その周囲をストーンヘンジのように囲む高層ビル群は、毎年9月11日の朝の旅客機衝突時刻からビル崩壊時刻までの間、タワー跡地に影を落とすように配置されていた。

しかし港湾公社は9/11テロ直前の2001年7月、ニューヨークの不動産開発業者ラリー・シルバースタインにWTCを長期リースする契約を交わしており、その結果シルバースタインが事実上の再建施工主となったため、事態は複雑な様相を呈するに至った。商業価値を優先するシルバースタインはモニュメントとしての性格が強いリベスキンド案を嫌い、SOMのデイヴィッド・チャイルズを参加させて設計に大幅な変更を加えたため、リベスキンドとの間で訴訟沙汰となった[4]。 両者は和解し、新たにリベスキンド・チャイルズ折衷案が公表されたものの、今度は警察当局や米国本土安全保障省などから保安上の設計変更が求められ、さらに港湾公社やこれを管轄するニューヨーク・ニュージャージー両州議会などの意向も加わり、設計は変更に変更を重ねることになった[5]

2002年半ばまでに残骸は全て撤去され、以後、地下鉄やパストレインの再建が始まった。WTC再建の第一歩として、新7WTCが2006年に落成、WTC全体の再建事業完成は2010年代になると見込まれている。なお再建後の名称は従来どおり「ワールドトレードセンター」となる予定である。

ファイル:Wtc7 jan06.jpg
2006年に完成した新7WTC

新ワールドトレードセンターの構成は以下のとおり。

  • リフレクティング・アブセンス (Reflecting Absence、不在の反映): ツインタワーが立っていた部分に創られる祈念施設
  • インターナショナル・フリーダム・センター
文化施設。9/11テロの記録のほか、アメリカ先住民への圧迫やアフリカ系民族奴隷貿易など、人類が行ってきた歴史上の蛮行を併せて展示する計画となっているが、この WTC を9/11テロ犠牲者への祈念モニュメントとしたい遺族などからは根強い批判の声が上がっている。

脚注

  1. 1.0 1.1 正式名称は「One World Trade Center (1WTC)」と「Two World Trade Center (2WTC)」。なお1WTCのことをノースタワー、2WTCのことをサウスタワーと呼んだのは設計段階での仮称が建築界の間で通称化したもので、実際にはワールドトレードセンターにそうした表示は一切なかった。
  2. ただし1WTCの108–110階にはレストランと宴会場、2WTC110階には展望台がはいっていた。
  3. 揺れを感じた中心部にはWTCを管理運営する港湾公社やニューヨーク・ニュージャージー両州の知事オフィスなど、非テナント機関が入居していた。最大振幅は各タワーとも55階付近で、風の強い日には実際に窓の外のもう一つのタワーが揺れるのを目視することができた。このためこの階で過ごす一人当たりの時間を極力少なくするよう、1WTCの55階はWTCA (世界貿易センター連合) が運営するビジネススクールの講義室、2WTCの55階は港湾公社の会議室などが入っていた。それでも荒天の日には「乗り物酔い」を訴えるスクール受講生が少なくなく、稀に授業をキャンセルする日もあった。
  4. シルバースタインはテロ被害による保険金支払額をめぐっても、テロを1回と数えるか、飛行機の衝突回数から2回と数えるかで訴訟を起こし勝訴している。
  5. 最新のフリーダム・タワーのデザインに自由の女神のイメージは全くない。

関連項目

外部リンク

ギャラリー

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