ナスカの地上絵

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テンプレート:世界遺産文化概要表 ナスカの地上絵(ナスカのちじょうえ)は、ペルーのナスカ川とインヘニヨ川に囲まれた乾燥した盆地状の高原の地表面に「描かれた」幾何学図形、動植物の絵。

概要

紀元前2世紀から6世紀の間に、「描かれた」と考えられている。

1939年6月22日、考古学者のポール・コソック博士により発見される。ドイツの数学者、マリア・ライヒェがこの地に住み着き、彼女を中心として、地上絵の解明作業と、保護が行われるようになった。

立地と環境及び「描画」の方法

ナスカの地上絵が立地する場所は、ペルー南海岸地方の北から南へ走る丘陵と東方のアンデス山脈の麓との間にあるパンパ=コロラダ、パンパ=インヘニヨと呼ばれる細長い盆地である。長い年月の間に、西方や東方の比較的高い場所からの水の流れが浸食した土砂を盆地に運び続けた。このような土砂は細かくて明るい色、黄白色をしている。この土の上に時々大洪水によって多量の石を含んだ土砂が運ばれる。細かい土は、南風によって吹き飛ばされ、比較的大粒の礫や岩石が残される。岩石は早朝は露に濡れるが、日中は焼け付くような砂漠の太陽に照らされることを繰り返すうちに、表層の岩石はやがて酸化して暗赤褐色になる。岩石が日中の太陽で熱をもつので、その熱の放射で地表に対して暖かい空気層をつくり出し、南風による表面の浸食を防ぎ、雨も殆ど降らない気候環境から雨による浸食もほとんどない状況をつくり出した。

「ナスカの地上絵」は、このような盆地の暗赤褐色の岩を特定の場所だけ幅1m~2m、深さ20~30cm程度取り除き、深層の酸化していない明るい色の岩石を露出させることによって「描かれて」いる。規模によってはもっと広く深い「」で構成されている。地上絵の線は最初に線の中心から外側へ暗赤褐色の砂利を積み上げる、それから線の中心部分に少し残った暗赤褐色の砂や砂利も取り除いて明瞭になるようにしたと推察される。

様々な図形を大規模に描き上げた方法としては、十分な大きさの原画を描き上げた上で適当な中心点を取り、そこを起点にして放射状に原画の各点を相似拡大する方法、「拡大法」が採られたという説が提唱されている。しかし成層圏などの超高々度からでなければ見えない物もあるため、上記のような方法で本当に出来るのか?で論争になっている。ただ、地上絵の端にあった杭の存在や、地上絵の縮小図の発見などを考えると拡大説が妥当であると考えられている。

編年

ファイル:Nazca colibri.jpg
地上絵の航空写真(ハチドリ hummingbird)

「地上絵」にはサルリャマシャチ、魚、爬虫類、海鳥類が描かれ、ナスカ式土器の文様との類似点が指摘されてきた。 1953年、コロンビア大学のストロング(W.Duncan Strong)は、パンパ=コロラダに描かれた直線のうち、土中に打ち込まれた木の棒で終わっているものがあるのに気づき、こうした棒のうち一本をC14法で年代測定を行ったところ、西暦525年(±80年)であることが判明した。また、1970年代のはじめ、G.S.ホーキンズ(Gerald S.Howkins)は、パンパ=コロラダでたくさんの土器の破片を採集し、ハーバード大学ゴードン・R・ウィリー(Gordon R.Willey)とカリフォルニア大学バークレー校のジョン H.ロウィ(John H.Rowe)に鑑定を依頼したところ、そのうち、85%がナスカ様式の土器であることが判明した。残りの土器はそれ以後の時代、A.D.900~A.D.1400のものであった。同じ頃、ペルー国立文化財研究所のラヴィンズ(Rodger Ravines)も、パンパ=コロラダの周辺の遺跡から土器片を収集して、観察した結果、全てナスカ様式であった。おそらく、地上絵の近隣の遺跡は地上絵を描くための一時的な労務者集団の野営地とも考えられ、これらの結果から、時期的には、先行するパラカス文化の終わる紀元前200年から紀元後800年のナスカ文化の時代に描かれたものであることがほぼ確定されている。

地上絵の性格

マリア・ライヒェなどによる暦法関連説

地上絵の線についてはマリア・ライヒェが、夏至冬至に太陽が日没する方向に一致するものがあることを明らかにした。さらにマリア・ライヒェは、平行でない一連の直線は数世紀にわたる夏至と冬至に日没する方向を示していると考えている。また、ホーキンズも線の方向についてコンピューター分析を行ったところ、1年の太陽の運行の方向に合うものが偶然と考えられる場合の2倍に達するという結果を得ている。 このことからナスカの地上絵には暦学的性質があることがわかる。乾燥した南海岸地域の人々にとって夏至と冬至は、雨季乾季の始まりであり、当然農業を行う時期とか祭儀とかに深く関連することが推察できる。

社会事業説

ワリ「帝国」の研究で知られるW.イスベルは、ナスカの地上絵の機能について、イリノイ大学のザウデマ(R.Tom Zuidema)のインカ社会についての研究の次のような事例が参考になると考えている。つまり、インカの首都クスコからは、あらゆる方向に仮想直線が伸びていて、その位置は、一連の神殿によって示されていた。そして1年中毎日、クスコの住民のうちそれぞれ違う一族がそれぞれ違う神殿を礼拝した。クスコの「谷の広場」には、1年の儀式カレンダーが精密に記され、農耕順序や社会的義務や軍事活動などに関する情報は、その都度、クスコの人々に象徴的に伝えられた。またインカの人々は、クスコを「ピューマ」とよび、そこの住民たちを「ピューマの体内の構成員」と呼んだ。谷間の地形によって多少歪んでいるものの、都市計画としては、クスコはピューマに似たプランで築かれている。

また、イスベルは、ナスカの社会には、ワリやクスコのような中央集権的な食料管理制度と食料貯蔵施設がなく、局所的、家族的なレベルで豊作時の食料を保管していたので、豊作時に人口が増え、不作時に死亡者がでやすい状況にあった。そのため、不作時に死亡者が出ることがないよう、豊作だった場合の個人貯蔵分について、大規模な労働力を投入する必要のある儀式活動に注意を向けさせ、地上絵を「描く」、北海岸のモチェ文化でたとえるならアドベのピラミッドを建設する、ような祭祀「施設」の「建設」活動に従事する労務集団に食糧を供給するために強制的に取り立てるシステムができていた、そして、一方で、暦に関する資料については、暦を特に天文学的観測と詳しく照合する必要のあるときには、キープによる方法は非実際的で、記録することは難しいと考えられることから、利用可能で最も永続する素材としても地表が選ばれた、と考えている。

イスベルのこの考え方は、彼がインカや先行するワリの研究から、日本の律令時代の雑徭のような労働力を税として「公共事業」に提供する制度であるミタ制度の先駆と想定していると思われる。

研究者たちは、文字を持たない社会がどのように組織を動かすかという重要な情報を貯えようとする試みが地上絵に反映されていると考えている。

雨乞い儀式利用説

ナスカの地上絵が作られた理由については、次のようなホスエ・ランチョ氏の説もある。ナスカの地上絵は一筆書きになっており、それが雨乞いのための楽隊の通り道になったというのである。ペルーの国宝の壺にもこの楽隊が描かれたものがある。また、現在も続いている行事であるが、人々は雨乞いのために一列になって同じ道を練り歩く。この道筋としてナスカの地上絵が作られたのかも知れない。

ペルー人考古学者のジョニー・イスラ氏も雨乞い説をとっている。地上絵の線の上や周辺から見つかった赤いスポンディラス貝の破片は、隣国エクアドルでしか取れない貴重な貝であり、当時は雨乞いの儀式で使用されたことが他の遺跡研究から分かっているためだ。

主な地上絵の規模

ファイル:Nazca Lines from 1 5m in height.JPG
地上約1.5mから撮影した地上絵。「木」と呼ばれる地上絵の範囲を撮影している。通常の人の目の近さからは地上絵は全く確認できない。
ファイル:Nazca Lines from 3m in height.JPG
地上約5mから撮影した地上絵。このくらいの高さからかろうじて線が確認できる。何が書いてあるかまでは全く判らない。

主な動物を描いた地上絵の規模としては、長さ46mのクモ、50mのハチドリ、55mのサル、65mのシャチ、180mのイグアナ、135mのコンドルが挙げられる。最大のものは、ペリカンサギ、もしくはフラミンゴを描いたと思われる285mの鳥類の絵である。花や木々、装身具や織物のような日常生活の道具を描いたものや「宇宙飛行士」などと呼ばれているもの、片手が4本指の「手」など不可思議な図柄もある。

最大の地上絵

近年、アメリカの資源探査衛星ランドサット南緯14度45分、西経75度15分付近で撮影した画像に、全長50kmにも及ぶ巨大で正確な矢印を発見した。この地上絵は成層圏はおろか、上空900Kmからでないと形がわからない。また巨大なのに矢印の形があまりにも正確で誤差がないため、矢印の先には超巨大な滑走路のようなものがあるのではないかと言われている。しかし矢印の先は風化が進み、巨大な滑走路などはいまだ発見には至っていない。

世界遺産の登録

1994年12月17日、UNESCOの世界遺産(文化遺産)に登録された。登録名称は『ナスカとフマナ平原の地上絵』(Lines and Geoglyphs of Nasca and Pampas de Jumana)


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  • 所在地:リマから南へ約444Kmにあるナスカ高原

関連項目

外部リンク

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