ストリップティーズ

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ストリップティーズ(Striptease)は、舞台上で主として女性のダンサーが、音楽に合わせを脱いでいくさまを見せる出し物である。古くからの大衆の性的娯楽の一つとなっているが、その起源は不明である。日本では風俗産業の一種とされ、単に「ストリップ」と略して呼称される。

歴史[編集]

人類史上のストリップティーズの歴史[編集]

パフォーマンスアートとしてのストリップティーズの確かな起源は、わかっていない。古代バビロニアから現代までの間に、幾多の説がある。「ストリップ(ストリップティーズ)」という語の初出は1938年とされている。しかし、女性が徐々に服を脱ぐことで男性客を興奮させるという見世物は、少なくとも400年くらいは遡ることができる。たとえば劇作家トマス・オトウェイ(Thomas Otway 1652/03/03 - 1685/04/14)の1680年のコメディ作品『The Soldier's Fortune』で、登場人物のひとりの台詞に「Be sure they be lewd, drunken, stripping whores」というのがあり、「stripping」という言葉が出てきていることを確認できる[1]

ストリップの際に音楽が流されるというのも、古くからの様式のようである。一例として、ピエール・マルトーのフランス文学作品『La Guerre D'Espagne(1707年)』の、1720年にケルンで出版されたドイツ語翻訳版の中で、貴族とギャラント様式音楽の歌手が小さな城で繰り広げる乱痴気騒ぎのシーンが上げられる。

神話の中にも、ストリップとも受け取れる事象を見出すことができる。シュメールの神話の中に、女神イナンナが地獄に向かうシーンがある。7つの門それぞれで、彼女は衣類を脱ぎ、装身具をはずしていった。彼女が地獄にとどまる限り、地上は不毛であった。彼女が戻り、豊かさは蘇った。この物語は、マタイ伝14:6やマルコ伝6:21-22で言及されている、サロメがヘロデ王に見せた「7枚のヴェールの踊り」のベースになったと考える者もいる。聖書の記述がどうあれ、この「7枚の衣」が現代ストリップの源流であるという指摘がなされたのは、オスカー・ワイルドの詩劇『サロメ』が出版されたのちの1893年になってからである[2]。1905年に初演されたオスカー・ワイルドの詩劇のリヒャルト・シュトラウスによるオペラヴァージョン以降、「7枚のヴェールの踊り」は、オペラ・ボードビル・映画・笑劇などにおけるスタンダードなものとなった。初期の有名な演者としては、モード・アレン(Maud Allen 1873/8/27? - 1956/10/7)をあげることができる。彼女は1907年にエドワード7世の前でこの出し物を行った。

6世紀の東ローマ帝国ユスティニアヌス1世の妻テオドラ皇后は、いくつかの考古学的資料から判断するに、もともとは娼婦を兼ねた女優としてキャリアをスタートさせており、その出し物の中には神話にもとづいた服を脱ぐエロティックなものが含まれていた。これらの事実から、ストリップは必ずしも特別なものでも珍しいものでも目新しいものでもなかったということができる。しかし後年、こういった出し物はキリスト教会によって猛烈に反対され、中世のヨーロッパではほとんど壊滅状態に陥った。

近代ストリップの別の源流としては、北アフリカやエジプトに入植したフランス人によるガワジーダンスの再発見があげられる。ガワジーの出し物のひとつであるエロティックな「みつばちのダンス」は、クチュック・ハネム(Kuchuk Hanem)として知られているダンサーによって演じられ、フランス人作家のギュスターヴ・フローベールによって再発見され、描写された。このダンスの中で、ダンサーは服を脱ぐ。しかしこのダンスが伝統的なものであったかどうかはよくわかっておらず、商業的要請によってこのような出し物となった可能性も否定はできない。 この流れのもの、中近東由来のベリーダンス系統のものは、アメリカ合衆国では、1893年に開催されたシカゴ万国博覧会で紹介され、その後ポピュラーなものとなっていった。

フランスにおけるストリップティーズ史[編集]

1880年代から1890年代にかけて、ムーランルージュフォリーベルジェールなどのショウでは、わずかな衣装のみをつけた女性のダンスと活人画[3]などの見世物が行なわれていた。このような状況の中で、1890年代に「這い回る虱を探すためにゆっくり服を脱いで行く女」という出し物が演じられた。アメリカ合衆国の民俗史書『The People's Almanac』は、これが「近代ストリップの源流である」としている。

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伝説的ダンサーであるマタ・ハリ

1905年には、のちにフランスでスパイとして処刑され悲劇のヒロインとしても有名になるマレー系オランダ人の伝説的ダンサーマタ・ハリが、ギメ東洋美術館のステージでデビューして大成功した[4]。彼女のショーでもっとも有名だったのは、宝石がいっぱいついたブラジャーや体を飾る宝飾品を見せるシーンだった[5]

もうひとつのランドマークとなった出し物は、1907年にムーランルージュで行なわれたものだった。ジェルメーヌ・アイモス(Germaine Aymos)と呼ばれた女優は、わずか3つの小さな貝殻だけを身に着けていた。

1930年代、歌手としても知られるジョセフィン・ベーカーは、フォリー劇場やその他タバリン通りの劇場で演じられた「danse sauvage」の中で、セミヌードでダンスを踊った。これらのショウは、洗練された振り付けや豪華な衣装が特徴だった。

1960年代にはいると、パリのクレイジーホースなどで全裸のショーが行われるようになった[6]

アメリカ合衆国におけるストリップティーズ史[編集]

アメリカ合衆国のストリップは、移動カーニバルや道化芝居の劇場ではじまった。初期の代表的なストリッパーにはジプシー・ローズ・リー(Gypsy Rose Lee 1911/01/08 - 1970/04/26)やサリー・ランド(Sally Rand 1904/04/03 - 1979/08/31)がいる。空中ブランコ芸人だったシャーミオン(Charmion 1875/07/18 - 1949/02/06)は、1896年という早い時期に、空中ブランコの上で服を脱いでいくという見世物を行なった。その映像は、1901年にトマス・エジソンによって撮影された『Trapeze Disrobing Act[7]』という作品に残されている。

アメリカ合衆国における現代的ストリップのもうひとつの一里塚と言えるのは、1925年4月に演じられた、伝説的な「ミンスキーのバーレスク」と呼ばれる出し物である[8]。それはミンスキーブラザースによってニューヨーク42番街で演じられた。ここのバーレスク劇場でのストリップの上演は、当該劇場「グラインドハウス」の品位を低下させたとして、1937年に禁止された[9]

1960年代になって、ストリップは、トップレス・ゴーゴーダンスとして復活した。サンフランシスコ・ノースビーチにあったコンドルナイトクラブのダンサー、キャロル・ドーダ(Carol Doda 1937/08/29 -)が「最初にブラジャーを脱ぎ捨てたダンサー」として歴史に名を残している[10]。コンドルナイトクラブは1964年にオープンしたが、ドーダのトップレスダンスショーは同年6月19日の夕刻にはじまったとされている[11][11][12]。コンドルナイトクラブのショーは、1969年9月3日に、パンツも脱ぎ捨てた。そして、この「全裸スタイル」は、アメリカ合衆国におけるストリップの主流となっていった[13]

サンフランシスコには、その筋では有名な「Mitchell Brothers O'Farrell Theatre」も存在していた。この劇場は、ラップダンスEnglish版をストリップに導入した先駆者であり、この流れは合衆国中に、さらには世界中に、広がっていった[14]

英国におけるストリップティーズ史[編集]

イギリスでは、ローラ・ヘンダースン(Laura Henderson 1864 - 1944/11/29)がロンドンのウィンドミル劇場でヌードショーをはじめたが、英国の法律は1930年代に裸の女性が動くことを禁じるに至った。この禁令をかいくぐるために、モデルたちは活人画のように静止することになった[15]。このウィンドミル劇場の女たちは、ロンドンや周辺の劇場にも遠征した。彼女たちは、時としてロープを使って回転し体中をぐるっと見せることもあったが、とりあえずは自らの意思で動いてはいないという形式を整えることで、禁令をかいくぐり続けた。

もうひとつの禁令突破法として考えられたのは、扇ダンスだった。扇ダンス型では、裸のダンサーは動いてポーズを変えるが、その間は扇が裸体を隠しており、静止した裸体を見せるという方法がとられた。

1942年、フィリス・ディキシー(Phyllis Dixey 1914/2/10 - 1964/6/2)は、会社を設立し、ロンドンにホワイトホール劇場を開いて、「ホワイトホール・フォリーズ」と呼ばれるセクシーな時事風刺劇をはじめた。

1950年代まで、ストリップの巡回興行は、さびれたミュージックホールにとって、観客を集められる出し物として行われていた。ポール・レイモンドは、彼の巡回鉱業を1951年にはじめているが、その後ソーホーでドーリア式ダンスを学び、1958年にはプライベートな会員制倶楽部「レイモンド・レヴューバー」を開いた。これは、イギリス初のストリップクラブであった。1960年代に法律が改訂されたことから、ソーホーではストリップクラブのブームが巻き起こり、また全裸でのダンスも一般化した[16]。会場としてはパブがしばしば使われた。中でもパブが集中するショラディッチ地区のイーストエンドに多く見られた。このパブ・ストリップは、トップレス・ゴーゴーダンスの流れを汲んだものと考えられている[17]。これらのパブはしばしば地域警察などからのいやがらせを受けたものの、それらのうちいくつかは現代も生き残っている。これらのパブ・ストリップに特徴的な習慣として、ストリッパー自身が演じる前にビールジョッキを持って客席を回り観客からチップを集めるというものを挙げることができる。この習慣は、1970年代に、トップレス・ゴーゴーダンサーが「全裸が見たければ金を出しな」という趣旨ではじめたものであると考えられている。また、更に猥褻でもろ出しの「プライベート・ダンス」と呼ばれるものをパブ内の個室で演じるということも多くのパブで行なわれている[18]

日本におけるストリップティーズ史[編集]

神話世界でのアメノウズメ天岩戸の前での踊りが、日本のストリップの元祖という話が決まって出るほど馴染みが深いものであり、日本人は元来そのようなものに一定の理解があった。前史として、浅草のレビュー「カジノ・フォーリー」で「金曜日に踊り子がズロースを落とす」(つまり中身が見えてしまう)という噂によって大入りを続けたことがある[19]

一般的な形でのストリップは1947年1月15日、東京都新宿角筈(現在の新宿三丁目)の帝都座で「名画アルバム」という催物として始まったこの時のモデルは甲斐美晴。乳房は露出していたが、陰部は扇で隠されていた[20]。モデルが動けば風俗擾乱として摘発する旨がGHQから寄せられていたため、実際の女性が西欧の裸体画に扮し、踊りはなくじっとしているものであったので額縁ショーと呼ばれていた。 その後、規制は緩和され、変化を付けるため、行水ショーなど様々に工夫された。1948年台東区浅草常盤座にて初めて踊りを取り入れたストリップショーが開催された。その後、全国的な広がりを見せ、大衆娯楽へとなった。特に松竹(東劇バーレスク・ルームや浅草公園劇場「パークバーレスク」。ジプシー・ローズ)、東宝日劇ミュージックホール)といった日本の二大興行主も一時参入したのが特筆される。当時の映画に「カルメン故郷に帰る」があり、ストリップをめぐる世相も伺うことができる。

1950年代、フランス座ロック座、カジノ座、東洋劇場など浅草公園六区、そしてムーランルージュ解散後の新宿セントラル劇場、新宿フランス座といったストリップ劇場では幕間にコントが行われ、佐山俊二谷幹一関敬六戸塚睦夫海野かつを渥美清や、由利徹八波むと志財津一郎伊東四朗石井均萩本欽一、やや間があって1970年代のビートたけしなど、昭和を代表する喜劇人や井上ひさしなどの脚本家を連綿と輩出する舞台にもなっていた(その後も1980年代のコント赤信号渋谷道頓堀劇場)から浅草キッド(フランス座)の頃まで、その流れは徐々に衰退しながら続いていく)。 またこの頃、ストリップダンサーはバタフライといわれる一種の前張りを股間に付けていた(後に出るOS系に比し、いわゆるTS系と呼ばれる)。

1970年代頃から、関西地区を中心に全裸になって(全スト)女性器をあらわに見せる特出しショー[21]一条さゆりらが人気を博した(いわゆるOS系)。一条は摘発されたが、次第に全ストが一般的になった。また、舞台で女性出演者同士の絡む様を見せる「レスビアンショー」(レズではなくレス、である)、出演者のカップルが本番行為を行う「白黒ショー」、同様に出演者のカップルがSMプレイを行う「残酷ショー」、お客が踊り子と舞台上で性交をする「マナ板ショー」(後出)が全盛になった。徐々にTS系をどぎついOS系が凌駕していく。その頃には「ヌード・インテリジェンス」といった専門雑誌までが登場した。ショーの内容は更にエスカレートし、ポニーと踊り子による「獣姦ショー」も登場したが、1985年の風営法の施行後は警察による取締り強化のためストリップ劇場が激減した。

また1970年代のストリップとコメディとの関わりとしては、人気テレビ番組『8時だョ!全員集合』で、ドリフターズ・加藤茶による、ストリップをモチーフにとったギャグ「チョットだけよ」が一世を風靡したことが特筆される。が、低俗番組として指弾の対象となる。

1980年代は、アイドルストリッパーとして人気を博した美加マドカ、本番は行わず「オナニーショー」で有名になった清水ひとみ、後に「伝説の踊り子」と呼ばれた影山莉菜など、若くて容姿のよいアイドルダンサーが活躍した。

1990年頃以降は観客の人気を集めるためアダルトビデオに出演していた女優が舞台に上がることも多くなり、導入当初は会場前に長蛇の列が出来、入替制にするなどの人気が上がったが、集客は逓減し続け、2000年代に入る頃には全盛期と比べると見る影もない状況となった。

近年では、他の性的娯楽の選択肢が増えたこともあり、入場者数が減少し、経営が成り立たず閉鎖を余儀なくされる劇場も多い。閉鎖されていく劇場がある一方で一定程度の客数を確保している劇場も都市部を中心として複数存在するが、こうした劇場もポラロイドショーによる収入が劇場経営を支えている側面が強くなっている。また、女性客にアピールする目的で女性・カップルの優先席を設けるなどの試みを行う劇場もある[22]

各国のストリップティーズの現状[編集]

日本におけるストリップティーズの料金とサービス内容[編集]

入場料はおおよそ3,000円から6,000円で劇場によって異なる。 ゴールデンウイーク、お盆、正月、特別興行が行われる期間は割増料金になる場合が多い。 多くの劇場で学割、シルバー割引、早朝割引、深夜割引、回数券、ポイントカード(ポイントがたまると入場料割引、無料)のサービスを行っている。 通常、時間制限はないので、一度入場すれば閉館時間まで楽しむことができる。

舞台を囲むように、多くの座席があり、音楽に合わせストリッパーがダンスを演じるさまを鑑賞する。このダンスに付随して衣装が脱がれていく。大都市におけるストリップ劇場は昔のものとは異なり、舞台の構造や照明、音楽、スモーク演出がすばらしく見る者をひきつける。ほとんどの劇場で多人数の女性が順番に出演する。出演者の出演順と、演目、持ち時間を決めたものを香盤(こうばん)と呼ぶ。大都市から中都市の劇場では5名~7名の踊り子が出演している。1日の公演回数は、香盤が一巡するのを1公演として、通常4回公演となっているのが一般的であるが、後述の理由により3回ないしは2回公演となる場合がある。 一方、温泉場など地方のひなびたストリップ小屋などは40代以上の女性が一人で出演する場合もある。

多くの劇場では、踊り子が踊った後にポラロイドショーと呼ばれる有料の写真撮影会が行なわれている。これは1枚につき500円~1,000円の料金で、観客が指定したポーズで踊り子の衣装姿またはヌードを、劇場が用意したインスタントカメラで(近年はデジタルカメラを導入した劇場もある)撮影できるというサービスである。観客から踊り子へのプレゼントや差し入れなども大半がこの時に行われる。

ポラロイドショーは観客にとっては踊り子の姿を記念に残すとともに、短時間ながら踊り子と直接ふれあえる貴重な機会である。また劇場サイドにとってもポラロイドショーによる収入は入場料収入と並んで大きな収入源のひとつとなっている。

その反面、特に人気踊り子が出演した時などにポラロイドショー希望者が多数となった場合、ポラロイドショーが長時間にわたることがあるため(ダンスの時間よりポラロイドショーの時間の方が長い、ということも、しばしば発生するようになった。)、公演の時間進行に大きく狂いを生じる場合があり、ひいては風営法に定める営業時間制限を過ぎてしまう恐れがある。このため、劇場によってはポラロイドショーの時間制限・人数制限を行っている所もあり、またあくまでもポラロイドショーの時間を確保するためにステージの時間を短縮する所もある(2人以上の踊り子を同時に出演させる、踊り子1人あたりのステージ時間をカットするなど)また、前述のように通常は1日4回公演となっているところを3回ないしは2回公演に短縮する場合もある。 なお、浅草ロック座ではレビュー形式の舞踏中心の出し物がメインのためポラロイドショーは行われていない。

演目としては以下のものが主に行われている。

ソロベッド
ダンスを中心としたショーで、進行に合わせて少しずつ衣装を脱いでいく。
タッチショー
複数の観客に、順番にバストを触らせる。
指ポンショー
複数の観客に、順番に指を膣に挿入させる。
天狗ベッド
天狗の面、張型等を用いてオナニーを演じる。
SMショー
男女のペアもしくは女性単体で、SMあるいは自縛ショーを演じる。
白黒、生板
後記参照
花電車
女陰で吹き矢を飛ばす、ラッパを鳴らす、習字を書く、バナナ、キュウリを折る、あるいは女陰から卵、炎を出す様などを見せる。

応援[編集]

ストリップ劇場における踊り子に対する応援方法で最もオーソドックスで手軽なものは、踊り子のダンス曲にあわせた手拍子である。手軽ではあるが、極端に大きな音を立てたり、テンポがずれて周辺の客の顰蹙を買う場合もある。なお、踊り子の登場・退場時と、お盆に乗った時、ポーズを決めた時は拍手をするのがマナーとなっている。

また、手拍子と並んで代表的なものとして、タンバリン及びリボンを用いた応援がある。 タンバリンによる応援は、手拍子の代わりにタンバリンを打ち鳴らすものであり、とりわけ熟練したタンバリン使いにより発せられる軽快なリズムは踊り子のステージに華を添えるものである。

リボンによる応援は、踊り子がダンス中にいわゆる決めのポーズを行ったときなどに、5m~10m程度の長さ(劇場の広さ・リボン使いのポジショニングなどにより異なる)のリボンを、結婚式などで投げられる紙テープと同じように舞台に向かって投げ、リボンが空中で伸びきったところで瞬時に巻き上げるという応援方法であるが、紙テープと異なり何度でも再利用できる上にゴミにならないという利点がある。何本ものリボンがステージ上を舞い、そして瞬時に引き戻される様は大変美しく、タンバリンと同様に踊り子のステージをより華々しくさせる。

その反面、あまり熟達しないうちにリボンを投げた場合、あるいは相当熟練したリボン使いでも僅かな手元の狂いによって、リボンを踊り子や観客に当ててしまう危険性もはらんでおり、またタンバリンによる応援もわずかなリズムの狂い、叩く力の入れすぎなどによって観客や踊り子にとっては単なる騒音となってしまうという危険性もある。また劇場によっては近隣に住宅地があるため、近隣住民に対する騒音問題が発生するおそれもある。

リボンやタンバリンによる応援は大部分の劇場で容認されているが、年配客を中心に静かにじっくりステージを見たいという要望、あるいは前述した近隣への騒音対策などの理由により、劇場によっては制限を設けている場合もある。(タンバリン・リボンの人数制限、土日祝日のみ可、午後6時までは可など)また、大阪東洋ショーのように、タンバリン及びリボンを用いた応援は全面禁止としている劇場もある。

ストリップにおける本番行為[編集]

男女の出演者が舞台上で性交の様子を見せるものを「白黒ショー」と呼ぶ。また、観客の中から参加希望者を募り(2人以上の場合じゃんけんで選ぶ)、舞台上で客とダンサーが本番行為を行うことを、「生板本番」「生板ショー」「まな板ショー」と呼ぶ。 「生板ショー」には、2組もしくは3組の客とダンサーのペアが同時に本番行為を行う「ダブル生板ショー」「トリプル生板ショー」の他、客席とステージの間をスクリーンで区切り、スクリーンの内側で本番行為を行い、その様子をライトを用いてスクリーンに影絵として投影し、観客に鑑賞させる「シルエット生板ショー」がある。 「シルエット生板ショー」は客席から性交を直接見られないことから、通常の生板より参加客の緊張が少なく、初心者向けとなっているので若者の参加が多かった。

かつては全国で比較的多く見られたが、公然わいせつもしくは売春行為にあたるため、警察からの度重なる摘発を受け、埼玉県、千葉県、栃木県の一部地域にわずかに残るのみであった。生板ショーに出演する踊り子については、最盛期は若い日本人、フィリピン人が出演することもあったが、近年では、ほとんどがコロンビア人であった。こうしたコロンビア人が人身売買の対象になっていると国際的に批判を受けたため、警察が入管法違反を理由とした摘発を強化し、最近全国的にほぼ壊滅した いつ?

一般的な「生板ショー」の流れと作法[編集]

  1. 「生板ショー」担当の踊り子のダンス。 ※2分~3分程度の短時間のダンスで衣装は着たままで終わるか、終盤に上半身を露出させる程度。
  2. 劇場従業員が舞台の袖から敷布団を運び出し、舞台上に敷く間に、「生板ショー」参加希望者は舞台に上がるようアナウンスがされる。 ※参加を希望する場合は、アナウンス終了と同時に起立し、他に起立した観客がいない場合は、速やかに舞台に上がる。他に起立した観客がいた場合は速やかにジャンケンを行い、勝者が出場権を得る。 ※注意:参加希望者が複数いた場合であっても、ジャンケンをするようにとのアナウンスはない場合が多いが、速やかにジャンケンを行わなければならない。
  3. 参加者は靴を脱いで舞台に上り、ズボンを脱いで、布団の上に座って踊り子の再登場を待つ。 ※自分で脱ぐのはズボンのみである。(パンツは踊り子が脱がせてくれる) 注意:靴下は脱がなくてよい。
    1. 踊り子は「ウエットティッシュ」と「コンドーム」を入れた樹脂製の籠を持って登場し、布団の上に、客と向かい合わせに座り、上半身をお客に約1分間触らせる。
    2. 踊り子は、客を仰向けに寝かせ、パンツを脱がせ、ウエットティッシュで陰茎、陰嚢を清浄し、コンドームを装着する。
    3. 約2分間、69の体位(踊り子が上)でフェラチオが行われる。 注意:客は踊り子の陰部をソフトタッチできるのみで、舐めたり、指を挿入してはいけない。
    4. 踊り子は客が性交可能な程度に勃起したあとに、ウエットティッシュを取り出して広げ、3センチ程度の切れ目を入れた後に、切れ目に陰茎をくぐらせる。
    5. 踊り子が仰向けに寝て、客は、ウエットティッシュを付けたまま正常位で挿入し、射精に至るか時間切れ(おおよそ5分以内)になるまで正常位のまま腰を振りつづける。 ※客が射精を終え、膣から陰茎を抜いた直後に、観客は盛大な拍手で健闘をたたえる。本番中に拍手をすることは、客が緊張し射精できない大きな要因になるため厳禁である。
  4. 踊り子がウエットティッシュとコンドームを客の陰部から取り除き陰茎を清浄したあとに、精液の溜まったコンドームを観客に見せたり、オープンショー(舞台上を移動しながら立ったままや、しゃがんだ状態で、陰唇を指で大きく広げてお客に見せる)を行い終了となる。
  • 客は自分でパンツ、ズボンを穿かなければならない。
  • 性交前の清浄は入念に行われるが、性交後は亀頭のみの簡易な清浄で済まされる場合が多い。
  • 客が著しく短時間で射精にいたってしまい、大幅に時間が余ってしまった場合、残った時間はタッチショー(客が踊り子の胸部、陰部を触れる)になる場合がある。生板の参加希望者がいなかった場合も同様に残り時間はタッチショーになる。

個室におけるピンクサービス[編集]

また別に「ピンクルーム」「愛の小部屋」などと呼ばれる個室を設け、舞台に登るダンサーから性的な(性器を刺激して性的快楽に導く)マッサージや本番行為のサービスが受けられるようにしている劇場もある。こちらは生板プレーとは異なり、個室利用料およびサービス料金として2,000~5,000円程度の別途料金が取られる。低料金の場合は、マッサージもしくはフェラチオのサービスのみとなり、生板ショーを行わない若い日本人ダンサーや、劇場専属のマッサージ嬢がサービスを行う場合が多い。 このサービスについてもかつては広く行われていたが、最近はあまり行われていない。

一般的な個室は、劇場ロビーの隅、階段下、照明室の下に部屋を設けていることが多く、広さはおおよそ2~3畳程度で、内側から鍵がかけられるようになっており、インターホンが設置してある劇場もある。 室内には、敷布団またはマットが予め敷いてあり、隅にゴミ箱と消臭剤が置いてある。 ※本番サービスがない劇場の中には椅子がおいてあるだけの場合もある。季節によっては、扇風機もしくは、電気ストーブが置かれる。広さについては1畳程しかなく、注意しないと行為中に壁に頭が激しくぶつかる劇場もある。

利用手順[編集]
  1. 出演中の踊り子による個室サービスを受付ける旨のアナウンスが流れる。
  2. 受け付けに行き「個室!」と告げると、料金を提示されるので、その金額を支払う。
  3. 樹脂製のプレートにサインペンで数字を書いた番号札を受け取り個室の前に並ぶ。(番号札の他に、コンドームとウエットティッシュを渡す劇場もある。複数の個室がある劇場の場合は、番号札の他に、踊り子の名前を書いた札も渡される。)
  4. 番号順に個室の前に並び、しばらく待つと踊子が登場し、番号札1番の客と一緒に部屋に入る。(踊り子の衣装はパジャマがほとんどである。)
  5. 自分の順番が来たら、部屋に入り鍵を掛け、靴を脱ぎ、踊り子に番号札を渡す。
  6. 踊り子からサービスを受ける。(サービス時間は決められていないが、射精したらサービスは終了であり、速やかに退室しなければならない。射精できなかった場合でもおおよそ15~20分で時間切れとなる。)
サービス[編集]

フィンガー、フェラ(日本人)の場合は、踊り子は着衣のままサービスを行い、お客は受身のみとなっている場合が多いが、お願いすると脱いでくれたり、触らせてくれたり、舐めさせてくれる踊り子も少なからずいる。 盛り上がると追加料金なしで本番をさせてくれる踊り子もまれにいる。 フィンガーもしくはフェラのサービスだが、プロ意識が強い踊り子が多いので、射精できず時間切れになることは、まずない。

本番(主に外国人)の場合は、踊り子は下だけ脱ぎ、上は着衣のままかブラジャーのみである。 ゴム装着、フェラ(おおよそ30秒から1分程度。してくれない踊り子も少なからずいる)、挿入の流れでサービスが行われ、指入れ、クンニをさせてもらえることはまずない。 基本的にゴム装着、フェラ(勃起したら終了)、挿入(正上位のみ)、発射、終了の流れとなっており、サービス精神が著しく低い踊り子が多く、バストタッチすら拒否されたり、チップを要求される事が多い。 時間は長くても10分程度であり、挿入後2~3分程度で早く射精するよう要求する踊り子が多い。 サービスは悪いが低料金で本番が出来ることから人気があり、出稼ぎの外国人労働者の利用も多い。 ゴム着用なので、感染症の恐れは少ないが、毛じらみを持っている踊り子が少なからずいる。 ※陰毛をそっていたり、タッチサービス中に陰部を掻いている踊り子には特に注意が必要である。

チップ[編集]

原則として、窓口で払った料金のみで予め決められているサービス(フィンガー、フェラ、または本番)が受けられるが、外国人の個室サービス(本番)の場合は個室内でチップを求められる事がままある。だが、支払う必要はなく、支払っても金額に見合うほどサービスがよくなることは殆どない。

法律上の定義[編集]

ストリップ劇場は、興行場法に定める興行場として、その経営や設置につき関係諸法令の規制をうける。

また、ストリップ劇場の経営は、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風適法)に定める店舗型性風俗特殊営業のひとつに該当する。風適法第2条第6項第3号が、「専ら、性的好奇心をそそるため衣服を脱いだ人の姿態を見せる興行その他の善良の風俗又は少年の健全な育成に与える影響が著しい興行の用に供する興行場(興行場法 (昭和二十三年法律第百三十七号)第一条第一項 に規定するものをいう。)として政令で定めるものを経営する営業」を定義のひとつとしているためである。

主なストリップ劇場[編集]

2014年現在、主な大都市圏を残して、多くが閉館しているのが現状である。下記以外には主だった温泉地に社員旅行に来たサラリーマン相手の小規模な「温泉ストリップ」が多く存在した。

ストリップ劇場が登場する主な映画・演劇[編集]

日本[編集]

希少な類型[編集]

特殊なものとして、男性ストリップ(主として女性またはゲイ向け)も存在する。

(男性ストリッパーの世界を描いた映画として「フル・モンティ」、「マジック・マイク」がある。)

脚注[編集]

  1. Robert Hendrickson (1997) QPB Encyclopedia of Word and Phrase Origins.New York, Facts on File, Inc: 227
  2. Toni Bentley (2002) Sisters of Salome: 31
  3. 背景の前で生身の人間が静止し画中の人物のように見せる見世物
  4. www.crimelibrary.com - Mata Hari is Born
  5. Mata Hari
  6. Richard Wortley (1976) A Pictorial History of Striptease: 29-53
  7. YouTube
  8. これを題材として、1968年に『The Night They Raided Minsky's』というミュージカルコメディ映画が作られている。
  9. The New Victory Cinema
  10. Nudity, Noise Pay Off in Bay Area Night Clubs, Los Angeles Times, February 14, 1965, Page G5.
  11. 11.0 11.1 California Solons May Bring End To Go-Go-Girl Shows In State, Panama City News, September 15, 1969, Page 12A.
  12. (2004-07-12) Naked Profits. The New Yorker 2004-07-12 [ arch. ] 2007-07-30
  13. () 1964 [ arch. ] 2007-07-30
  14. Lap Victory. How a DA's decision to drop prostitution charges against lap dancers will change the sexual culture of S.F. -- and, perhaps, the country. SF Weekly, 8 September 2004
  15. Vivien Goldsmith, "Windmill: always nude but never rude", Daily Telegraph, 24 November 2005
  16. Murray Goldstein (2005) Naked Jungle - Soho Stripped Bare. Silverback Press
  17. It Started With Theresa
  18. Baby Oil and Ice: Striptease in East LondonLara Clifton (2002).
  19. 他に、お座敷ストリップが旅館等で特定の客相手に行われたという話もある。一例として、浮世亭信楽がお座敷で九州の一流芸者のストリップを見で仰天した話。出典:桂文楽『あばらかべっそん』
  20. 広岡敬一 『戦後性風俗大系 わが女神たち』(文庫版) 新潮社 2007年 p.36
  21. 阿波(徳島県)で始まったと言われたようである
  22. ミリオン出版『俺の旅』2010年7/5増刊号 p148

参考文献[編集]

  • 矢野誠一『昭和の演藝二〇講』
  • 市川市文学プラザ『昭和の市川に暮らした作家』
  • 『昭和の大衆娯楽 : 性の文化史と戦後日本人』イースト・プレス 2014年
  • 松竹株式会社『松竹70年史』

関連項目[編集]

外部リンク[編集]