「SKK昭和組工作所」の版間の差分

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1943年1月頃から、[[ポンティアナク市]]に工場を建設するとともに造船を開始し、5ヵ月後に[[海務院型機帆船]](100トン型)・興海丸を[[興南海運]]に引き渡すなど、1年間で3隻を建造した{{Sfn|赤道会|1975|pp=34-35}}。
 
1943年1月頃から、[[ポンティアナク市]]に工場を建設するとともに造船を開始し、5ヵ月後に[[海務院型機帆船]](100トン型)・興海丸を[[興南海運]]に引き渡すなど、1年間で3隻を建造した{{Sfn|赤道会|1975|pp=34-35}}。
  
1944年には[[船台]]の数を増設して8ヵ所とし、[[バトゥアンパル]]にも工場が建設され、設備が整い、人員も増員されて、200トン船の建造も行われた{{Sfn|赤道会|1975|p=35}}。
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1944年には[[船台]]の数を増設して8ヵ所とし、[[バトゥアンパル (クブ・ラヤ)|バトゥアンパル]]にも工場が建設され、設備が整い、人員も増員されて、200トン船の建造も行われた{{Sfn|赤道会|1975|p=35}}。
  
 
1944年9月頃に[[連合軍]]の空襲があり、バトゥアンパルで造船後、ポンティアナクで艤装中だった200トン船に積まれていた[[重油]]の入った[[ドラム缶]]30本ほどが機銃掃射を受けて炎上、船は沈没した{{Sfn|赤道会|1975|pp=31,35}}。
 
1944年9月頃に[[連合軍]]の空襲があり、バトゥアンパルで造船後、ポンティアナクで艤装中だった200トン船に積まれていた[[重油]]の入った[[ドラム缶]]30本ほどが機銃掃射を受けて炎上、船は沈没した{{Sfn|赤道会|1975|pp=31,35}}。

2020年6月15日 (月) 18:36時点における版

SKK昭和組工作所(えすけいけいしょうわぐみこうさくじょ)は、日本占領下の西ボルネオで活動していた日本の造船会社。1943年1月から、工場の建設とともに造船を開始し、1年間で海務院型機帆船(100トン型)3隻を建造。1944年に工場の規模を拡大し、200トン船の建造も行ったが、1944年9月頃、連合軍の空襲を受けて艤装中の船が炎上・沈没。1945年4月下旬以降の空襲でも主要な標的となり、艤装中の船3隻のうち2隻が焼失・沈没、同年6月30日に工場の責任者が機銃掃射で殺害された。

造船所建設

1943年1月頃から、ポンティアナク市に工場を建設するとともに造船を開始し、5ヵ月後に海務院型機帆船(100トン型)・興海丸を興南海運に引き渡すなど、1年間で3隻を建造した[1]

1944年には船台の数を増設して8ヵ所とし、バトゥアンパルにも工場が建設され、設備が整い、人員も増員されて、200トン船の建造も行われた[2]

1944年9月頃に連合軍の空襲があり、バトゥアンパルで造船後、ポンティアナクで艤装中だった200トン船に積まれていた重油の入ったドラム缶30本ほどが機銃掃射を受けて炎上、船は沈没した[3]

その後はしばらく空襲は途絶えたが[2]、1945年4月29日の天長節以降、終戦まで定期的に空襲が行われ[3]、空襲ではいつも、昭和組の造船工場を機銃掃射して焼夷弾を落とした後、日南造船を空襲し、戻ってきて再び焼夷弾を落とし、終わると帰っていった[2]

昭和組には艤装中だった機帆船が3隻あり、カムフラージュして河岸に繋留してあったが、うち2隻は空襲によって焼失・沈没した[4]。同年6月30日の空襲では警報が鳴らず、機銃掃射を受けたSKK昭和組工作所の責任者・井上光夫が即死した[5]

翌7月1日には社員が現地召集を受けて、歩哨に立たされるようになった[6]

付録

脚注

参考文献

  • 赤道会 (1975) ポンチアナク赤道会『赤道標』JPNO 73012073