虞翻

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'''虞 翻'''(ぐ ほん、[[164年]] - [[233年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の[[政治家]]・[[学者]]・[[医者]]。[[字]]は'''仲翔'''(ちゅうしょう)<ref name="cn1top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P113</ref>。高祖父は[[虞光]]。曾祖父は[[虞成]]。祖父は[[虞鳳]]。父は[[虞歆]]。子は[[虞汜]]・[[虞忠]]・[[虞聳]]・[[虞昺]]ら男子11名。 == 生涯 == === 少年期 === [[揚州]][[会稽郡]][[余姚県]](現在の[[浙江省]]余姚)の出身<ref name="cn1top"/>。虞翻は次男で実家は医師の家であった<ref name="cn1top"/>。虞翻は父親から医術の心得を授けられ、本人も学問好きでめきめき知識を吸収して成長した<ref name="cn1top"/>。ただ自尊心が高く孤高を好むようにもなった<ref name="cn1top"/>。そのため人は虞翻は狷介だといった<ref name="cn2top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P114</ref>。 12歳の時、虞翻の兄を訪ねてきた友人がいたが、虞翻も知っている人物で敬愛もしていた<ref name="cn2top"/>。ところが友人は虞翻のところに顔を見せなかったため、虞翻は友人に対し手紙を書いた<ref name="cn2top"/>。その中身は「私は琥珀を腐った塵芥を引き付けず、磁石は曲がった針を受け付けないと聞いております。こちらにお出でになりながらお訪ねをいただけなかったのも、不思議ではございません」とあった<ref name="cn2top"/>。友人は12歳の少年が書いた内容の非凡さに驚き赤面した<ref name="cn2top"/>。このことが知れ渡り、虞翻の評判は高くなった<ref name="cn2top"/>。 === 王朗の時代 === [[会稽郡]]は当時[[王朗]]が支配していたが、虞翻は彼に召しだされて[[功曹]]に任命された<ref name="cn2top"/>。[[孫策]]が江南平定を目指して会稽郡に進軍してきた時、虞翻は父親を亡くしてその喪に服していたが、喪服を着たまま郡庁の門の前までやって来たので、王朗は喪服の姿で役所に入ることを許さなかった<ref name="cn2top"/>。すると虞翻は喪服を脱ぎ捨てて役所に入ってきて王朗に「孫策の軍は精鋭で勢いがあり、攻められたら会稽はひとたまりもありません。太守様はどこかに非難して鉾先をかわすべきです」と進言した<ref name="cn2top"/>。しかし王朗はその進言を受け入れず孫策軍を迎え撃って敗北した。虞翻は[[東シナ海]]を船で南下して逃げた王朗を追い、部侯官(現在の[[福建省]][[福州]])に着いた<ref name="cn3top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P115</ref>。ところがこの地の長官は城門を閉ざして王朗を受け入れようとしなかった<ref name="cn3top"/>。虞翻は長官に面会し、渋る長官を説得して入城した<ref name="cn3top"/>。すると王朗は虞翻に対して進言を受け入れず敗走したことを謝罪し、虞翻には年老いた母がいるから会稽に戻って母親に孝養を尽くすべきと説得した<ref name="cn3top"/>。虞翻は最もと思い、王朗と別れて会稽に戻った<ref name="cn3top"/>。 === 孫策の時代 === 会稽に戻った虞翻は孫策から仕官の誘いを受けた<ref name="cn3top"/>。孫策は虞翻の噂を聞き知っており、丁寧な手紙を書いた。手紙には「郡の役人の一人として貴方を遇するなどと思ってくださらないように。今の事態に力を合わせつつ対処していきたい」とあった<ref name="cn3top"/>。さらに孫策はわざわざ虞翻の家を訪ねてきたので、虞翻は感じ入って仕官した<ref name="cn4top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P116</ref>。 孫策は軽はずみなところがあり、狩猟好きでわずかな供回りだけ連れるだけの時が多かった<ref name="cn4top"/>。虞翻はそれを危ぶんで「人の上に立つ者として軽々しい行動を慎まれるように」と諫言していた<ref name="cn4top"/>。 孫策は[[豫章郡]]を手に入れるため、ここの太守であった[[華歆]]を説いて帰順させるように虞翻に命じた<ref name="cn4top"/>。虞翻は葛巾の頭巾をかぶって華歆と会い、孫策の強さと勢いを強調して戦うことの無意味さを説いた。華歆は帰順した<ref name="cn4top"/>。孫策は虞翻の功績を第一として評価したが、この時に「わしにはまだ討伐の仕事が残っていて会稽の役所に戻るわけにはいかない。虞翻はもう一度功曹として我が[[蕭何]]として会稽の事務を取り仕切ってほしい」と命じ、3日後に虞翻は会稽に戻った<ref name="cn5top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P117</ref>。 このように虞翻は孫策から蕭何のような政治家として信頼を受けていたが、孫策は虞翻が危惧したように[[200年]]に[[暗殺]]されてしまった<ref name="cn5top"/>。 === 孫権の時代 === 孫策の死後は弟の[[孫権]]が継いだ<ref name="cn5top"/>。この継承の際、従兄の[[孫暠]]は定部中郎将として鳥程に駐屯していたが、手勢を率いて会稽を自分のものにしようと進軍してきた<ref name="cn5top"/>。虞翻は会稽の民衆を動員して守備を固めてから、孫暠に会見して「討逆将軍(孫策)様は天寿を全うすることができず、只今軍を取りまとめて人々を率いていくのは孫権様こそふさわしい方です。会稽郡の役人や兵士たち全てと共に城に立て籠もり守りを固めていますが、これは緊急の時にお役に立てるべきこの命を今投げ出して孫権様のために害を除いて差し上げようと願ってのことでございます。どうか孫暠様にはよくよくご考慮をいただきますように」と説得し、孫暠を引き揚げさせた<ref name="cn5top"/>。 虞翻は[[楊州]]府から茂才に推挙された<ref name="cn6top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P118</ref>。当時、[[後漢]]の実権を握っていた[[曹操]]は虞翻の噂を聞き知り、[[司空]]として自分の幕僚に招こうとした。虞翻は「大泥棒がその余った財貨でもって、良家のものを汚そうというのか」と地に唾しながらその申し出を拒否した。学者だった虞翻は[[孔子]]21代目の子孫で後漢の[[少府]]にあたる[[孔融]]の著した『[[易経]]』の注釈を送ったことがあるが、それを見た孔融は礼状を書いたが、「あなたの『易経』研究の成果を拝見して、東南地が生み出すすばらしいものが会稽の竹や箭だけにはとどまらぬことを知りました。それに加え、あなたが雲の有様から未来への予兆を窺われれば、その洞察力は寒暑の移り行きのごとく確かであり、禍福の原因を尋ねられれば神秘な存在と一分の隙もなく、一体化しておられるなど事物の深奥を探って道理を究め尽くしておられるのだと申せましょう」と絶賛した。会稽郡東部都尉の[[張紘]]も孔融に手紙を送っているが、その際に「虞翻殿は以前から色々と悪く評判する者達もおりますが、優れた宝物としての生地を持っておるのですから、のみが入り、磨かれれば磨かれるほど光沢を増すのであって、そうした非難は彼を損なうに足らぬのです」と賞賛している<ref name="cn7top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P119</ref>。 ただ虞翻には人格に問題があった<ref name="cn7top"/>。張紘の手紙にある「以前から色々と悪く評判する者達」とあるように、自尊心が高くて協調性が乏しいから周囲から反感を買うことも少なくなかったし、むしろ不遜として悪口を言われることが多かった。騎都尉として孫権に対しても常に口酸っぱく諫言したため、孫権から疎まれるようになった。周囲の者らは「いずれ孫権様の逆鱗に触れて流罪にされる」とまで言われた。そして遂にある宴会の時、孫権に向かって酒癖がよくないので改めるようにと諌めたが、これが孫権の怒りに触れて宴席の席上から連れ出され、[[丹陽郡]]に流罪にされた<ref name="cn8top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P121</ref>。 [[219年]]、[[関羽]]との関係が緊張した孫権は[[呂蒙]]に関羽が留守になった[[荊州]]の攻略を命じた。この際に虞翻は呂蒙に参謀・医師として従軍した。[[蜀]]の南郡太守・[[糜芳]]は呂蒙の調略を受けて寝返った。呂蒙はこの際、すぐに城内に入って占領しようとはせず、広場で勝利の宴会を開くことにしたが、虞翻は「糜芳はともかく、城中の者たちはその全てが信用できるわけではありません。我々に敵する者もいる可能性がありますから、急いで城内に入って鍵を握るべきです」と進言し、呂蒙が受け入れて宴会をやめて直ちに城内に入ると、城内にはやはり不意討ちを狙った不穏分子がいたので、たちまちのうちに粛清した<ref name="cn9top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P127</ref>。また、関羽が先に捕らえた曹操軍の降将・[[于禁]]が[[江陵]]の牢に繋がれていたが、孫権は于禁を釈放して自ら会見を申し出、外出の際には自らの轡を並べさせたりした<ref name="cn10top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P128</ref>。虞翻はこれに憤激し「降伏した者がなぜ我が君と馬首を並べたりするのか」と自ら鞭で于禁を打ち据えようとしたが、孫権に制された<ref name="cn10top"/>。また孫権が長江に浮かべた楼船で重臣らと宴会を催した際、于禁も招かれて出席していたが、この宴会で音楽が奏でられた時に思わず涙を流した。それを見た虞翻は「お前はそんな心にもないことをしてまで、許してほしいのか」と怒鳴った<ref name="cn11top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P129</ref>。 [[221年]]、[[劉備]]が関羽の復仇から呉に侵攻する可能性が高まったため、孫権は[[魏 (中国)|魏]]の[[曹丕|文帝]]と[[同盟]]を締結した<ref name="cn11top"/>。この際の一環として于禁は魏に送還されることになったが、虞翻は「節を守って死ぬことができなかった于禁を送り返しても我々には何の損失にもなりませんが、罪人を放置したことと同じになります。于禁はここで斬って全軍に示し、臣下でありながら忠誠を貫くことのできぬ者への見せしめとなさるべきです」と反対したが、孫権は「于禁は武勇があり、わしはそれを惜しむ。それに于禁は関羽に敗れたわけではなく、自然現象に負けただけだ」と言って受け入れなかった<ref name="cn11top"/>。于禁の出発の際、虞翻はわざわざ近づいて「貴方は呉にしかるべき人物がいないなどと考えてはならない。たまたま私の意見が用いれられなかっただけである」と述べた<ref name="cn11top"/>。于禁はたびたび自分に敵対的な行動をとった虞翻を怨まず、魏に帰国すると虞翻を大いに賞賛してやまなかったというし、文帝は虞翻のために虚坐(本人がいなくとも取っておく空席のこと)を設けさせていたという<ref name="cn11top"/><ref name="cn12top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P130</ref>。 だが虞翻の協調性の無さは老齢にさしかかっても相変わらずで、[[222年]]の孫権が呉王になったことを祝賀する宴会で、孫権自身が立ち上がって家臣らに酒をついで回った<ref name="cn13top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P131</ref>。すると虞翻は酔っていたので床に倒れ、孫権も倒れた虞翻の前を通り過ぎて盃を与えなかった<ref name="cn13top"/>。ところが虞翻はそれからしばらくすると立ち上がって酔っていないかのようにきっちりと座りなおして端座した<ref name="cn13top"/>。それを見た孫権は虞翻が自分を侮辱したと激怒し斬り殺そうとした。この時宴席にいた[[劉基 (呉)|劉基]]が懸命に諌めたため、孫権は鉾先を収めたが虞翻は[[巴丘]]への流罪にされた<ref name="cn22top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P132</ref>。 間もなく許されて孫権の幕僚として戻されたが、[[224年]]にまた問題を起こした<ref name="cn14top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P134</ref>。「死人問答」である。孫権が呉の最長老である[[張昭]]と神仙の事で話していたが、そのやり取りを耳にしていた虞翻は張昭を指差しながら「貴方は死人ですな」と言った<ref name="cn15top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P135</ref>。張昭は激怒して虞翻に理由を正すと「この世の中に神仙など存在しません。神仙がいるとするなら、それはあの世の話です。あの世にいる話をするのですから、貴方は死人ということになります」と述べた<ref name="cn15top"/>。ところがこの理論では、張昭と神仙の話をしていた孫権も死人ということになる<ref name="cn15top"/>。孫権は激怒し、これまでの事情もあって死刑にはしなかったが[[交州]]への流罪とした<ref name="cn16top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P136</ref>。 交州では[[士燮]]という有力者がいたが、虞翻は彼に招かれて酒を酌み交わす仲になった<ref name="cn17top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P139</ref>。また虞翻は交州でも常に呉のあり方について献策し続けた<ref name="cn17top"/>。[[武陵郡]](現在の[[湖南省]]北部)の五渓の苗族対策、[[遼東郡]]の[[公孫淵]]対策である<ref name="cn18top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P141</ref>。遼東に関しては孫権がこの地に産する名馬がほしくて海を通じて誼を求めようとした<ref name="cn18top"/>。虞翻は遼東郡は海を隔てて遥か彼方にあるのだから、向こうから使者を送って服属したいと申し入れてきたのを認めてやったとしても、こちらにはなんの得るところもない。まして今、わざわざこちらから使節や財宝を送って馬を手に入れようとしたりしても、国の利益とならないし、馬も手に入るとは限らない。遼東郡については慎重に考え直すべきであると進言したが、孫権は聞き入れずに公孫淵と関係を深めて裏切られ、虞翻の忠告を思い出したという<ref name="cn19top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P142</ref>。 [[229年]]、孫権が大帝として即位すると虞翻は流刑先を交州から蒼梧郡猛陵(現在の[[広西チワン自治区]]藤県)に移され、ここから祝賀の上奏を行った<ref name="cn19top"/>。それによると「陛下は聖名の徳を身に受けられ、舜帝や兎王と同様の孝を体得されました上に、時勢の大きな巡り会わせに会われ、天の意志に沿って万物を済うべく、この世界を治めよとの天からの命令を慎み受けられました。臣はこれを喜んで独り手を打ち、舞を舞っておりますが、その術がございません。遥かにご座位のあたりを仰ぎ見てかつは喜び、かつは悲しんでおる次第でございます。伏して自らを深く反省いたしますに、我が生命は雀や鼠よりも軽く、一厘一毛ほどのものに過ぎませんのに、罪はたとえようもなく重く誅殺を被っても当然でありますところ、天恩は限りなく広大に、死すべき命を許されて既に5年となりました。御前より退いて誅戮さるべき罪を思い巡らせるがよいとの思し召しで何とか生命だけはお助けくださり、これまで生を盗んでまいったのでございます。臣は年は耳順になりましたが、自分の過ちを思いやっては憂いと憤りとに沈み、身体は憔悴し尽くし、髪は白く、歯は抜け落ちてしまいました。まだ生きてはおりますが、自ら悲しみますのはこのまま命を終わって宮廷や百官たちの盛んな様子や皇帝のご乗輿や黄金の車駕の煌びやかさを目にすることができぬことでございます。盛んに立ち昇る民衆達のほめ歌を仰ぎ見、鉦や太鼓の調和した音楽を遠く聞き及びます時、永遠に海のほとりに身を潜め、辺境の地に棄てられた身ではございますが、悲しみと懐かしさとに耐えず、大きな慶びごとに心を緩め、喜びに自らの罪を忘れて、ご祝賀を申し上げる次第でございます」とある<ref name="cn20top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P143</ref>。 233年、流刑先で70歳で没した<ref name="cn20top"/>。 大帝は公孫淵外交で失敗して虞翻の忠言を聞き入れなかったことを後悔し、虞翻を懐かしく思った<ref name="cn20top"/>。そこで直ちに流刑先に対して虞翻の安否を問い合わせ、存命ならば虞翻のために人数と船を用意し首都の[[建業]]に迎え、死んでいるなら棺を故郷に送り返し、息子らを出仕させようとした<ref name="cn21top">伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P144</ref>。だがこの時、虞翻は既に死去していた<ref name="cn21top"/>。 虞翻には11人の息子がいたが、虞汜は大帝に取り立てられて散騎中常侍・監軍使者に取り立てられて[[扶厳]]討伐で功績を立てた<ref name="cn21top"/>。他の息子らも各地([[宜城郡]]・[[河間郡]]・[[済陰郡]])の太守に昇進した<ref name="cn21top"/>。 大帝と対立して流罪にされた遺族がここまで取り立てられているのは異例ともいえる。伴野朗は大帝と虞翻の間には厚い信頼関係があり、流罪にされた先や時期([[219年]]前後の関羽戦、[[222年]]の[[夷陵の戦い]]直前、[[226年]]の交州制圧の直前)、即位の際の上奏文などから大帝の密命を受けて諜報員として暗躍していたのではないかと推測している。 小説『[[三国志演義]]』でも王朗の部下として登場。次は孫権の部下として登場しているが、史実ほどの活躍は描かれていないし、孫権に流罪にされた事実にも触れられていない。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * [[伴野朗]] 『中国・鬼謀列伝』([[実業之日本社]]、[[2002年]]) {{DEFAULTSORT:く ほん}} [[Category:中国の儒学者]] [[Category:学者]] [[Category:後漢の人物]] [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:呉の人物]] [[Category:寧波出身の人物]] [[Category:医者]] [[Category:164年生]] [[Category:233年没]]