自己言及のパラドックス

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自己言及のパラドックス(じこげんきゅうの-)とは、自己を含めて言及しようとすると発生するパラドックスのことである。

嘘つき(エピメデス)のパラドックス[編集]

自己言及のパラドックスの古典として知られるのが嘘つきのパラドックスである。嘘つきのパラドックスは以下のような形で知られている。

  • 「クレタ人は嘘つきである」とクレタ人が言った。

このパラドックスの出典は、新約聖書中の「テトスへの手紙」である。

クレテ人の中なる或る預言者いふ『クレテ人は常に虚僞をいふ者、あしき獸、また懶惰(らんだ)の腹なり』この證は眞なり、されば汝きびしく彼らを責めよ、彼らがユダヤ人の昔話と眞理を棄てたる人の誡命とに心を寄することなく、信仰を健全にせん爲なり (舊新約聖書 テトス書 1章12-15節)

ここではクレタ人自身がクレタ人は嘘つきと言及しているが、クレタ人が嘘つきならばクレタ人は嘘つきということも嘘になってしまう。発言自体が嘘ならばクレタ人は正直者ということになり、嘘をついたクレタ人と自己矛盾してしまう。

「クレタ人の中には嘘つきもいれば正直者もいる。」(嘘をついているのは言った本人のみ)と解釈すれば解決する。

  • 「嘘つきのクレタ人は嘘つきである」と正直者のクレタ人が言った。

あるいは、

  • 「正直者のクレタ人は嘘つきである」と嘘つきのクレタ人が言った。

とすればよい。

相対主義の自己矛盾[編集]

相対主義について非常に頻繁に持ち出される古典的批判は、それが自己言及のパラドックスに陥るために、立場として矛盾を含んでいる、あるいは完全ではない、というものである。

相対主義は典型的には「いかなる命題も、絶対に正しいということはない」というような主張を含んでいる。この主張自体を命題と考えることが可能なので、自己言及的な命題を作成すると、次のようになる。「『いかなる命題も、絶対に正しいということはない』という命題も、絶対に正しいということはない」これは命題として自己矛盾に陥っている。

平易に言い換えると、相対主義者はいかなる立場も絶対に正しいということはないことを主張するのだが、そのように主張する相対主義者自身は、果たして絶対に正しいのか、それとも、絶対に正しいということはないのか、という点をめぐる矛盾が発生する。もしも相対主義者が正しいとしたら、いかなる命題も絶対に正しいということはないはずなのだが、それならば、「いかなる命題も絶対に正しいことはない」という命題も絶対に正しいということはないはずで、すなわち相対主義者の基本的な主張は間違っていると考えることが出来る。

このように、自己言及が自己矛盾をもたらすために、相対主義は哲学的な立場としては維持不可能なものである、と批判されることになる。

しかしながら、相対主義の主張をいま一歩踏み込んで検討してみるなら、相対主義者自身は自身の主張が相対主義者にとっては正しく、相対主義者でない者にとって正しくなくとも何ら問題ではなく、この批判は相対主義者にとって重要性を持つとは言えない。すなわち、相対主義の「絶対に~ない」において重要なのは、如何なる準拠点(個人/文化/社会/主義/歴史観/自然観/概念枠…等々)に即して正しい/正しくないのか、という準拠点への注意の喚起にあるからである。逆の観点からすれば、この種の相対主義批判は、批判者の側の主義への自己言及をなしているという点で興味深い。

数学[編集]

論理的な整合性が信じられていた数学についても、ゲーデルの不完全性定理が発表され大きな波紋を呼んだ。

集合論におけるパラドックス[編集]

集合論における典型的なパラドックスは次のようなものである。これは特に、バートランド・ラッセルが議論の対象としたことで知られる(ラッセルは述語論理における同様のパラドックスについても議論している)。

まず、様々な集合を2種類に分類する。ひとつは、自分自身を要素として含むような集合で、もうひとつは、自分自身を要素として含まないような集合である。

次に、その分類で、後者に分類されるもの全てからなるような集合を想定する。つまり、この集合は、「自分自身を要素として含まないような集合の集合」ということになる。(便宜上この集合をAとする。)

このような集合Aは、果たして「自分自身を要素として含まないような集合」のひとつであるかを考えてみると、もしも自分自身を要素として含まないのであれば、AにはAが含まれないということを意味する。ところが、Aは定義により、自分自身を要素として含まない集合全てを含むはずなので、AにはA自身が含まれていなければならないはずである。ところが、もしもAにA自身が含まれているとすると、それはAが自分自身を含む集合の一種であるから、Aの一要素として含まれていてはいけないことになる。

以上のように、この集合は自己言及のパラドックスを引き起こすことになる。

自己言及とパラドックスの関係[編集]

ところで自己言及によって必ずパラドックスが起きるというわけではない。 例えば、

  • 「この文章は正しい」
  • 「自分自身を要素として含む全ての集合の集合」

は矛盾を引き起こさない。

パラドックスを引き起こすためには、自己言及とともに真偽の反転が必要である。相対主義のパラドックスにおいても相対主義の主張が絶対主義的であると考えられるが故にパラドックスを引き起こすわけである。

なお、ゲーデルの不完全性定理の証明に用いられるゲーデル命題は

  • 「この命題は証明できない」

という意味のものであるが、この場合、上記命題が証明できなくとも、それ故に正しいと考えれば、真偽の反転は起きず、パラドックスにもならない。

外部リンク[編集]

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関連項目[編集]