「美」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(ページの作成:「{{otheruseslist|「美」という概念|「美」という名前のアダルトビデオメーカー|痴女ヘブン}} {{未検証|date=2008年11月}} {{独自研...」)
 
(rxy=森谷辰也=LTA:ASPELTA:DCHANCELTA:SASHOという動かせない事実。)
1行目: 1行目:
{{otheruseslist|「美」という概念|「美」という名前の[[アダルトビデオメーカー]]|痴女ヘブン}}
+
<nowiki>{{otheruseslist|「美」という概念|「美」という名前の[[アダルトビデオメーカー]]|痴女ヘブン}}
 
{{未検証|date=2008年11月}}  
 
{{未検証|date=2008年11月}}  
 
{{独自研究|date=2008年11月}}  
 
{{独自研究|date=2008年11月}}  

2020年1月8日 (水) 04:23時点における版

{{otheruseslist|「美」という概念|「美」という名前の[[アダルトビデオメーカー]]|痴女ヘブン}} {{未検証|date=2008年11月}} {{独自研究|date=2008年11月}} この記事では'''美'''(び、{{lang-la-short|venustas, bellus}}、{{lang-fr-short|beauté}}、{{lang-en-short|beauty}})について解説する。 == 概説 == まず辞書や百科事典でどのように説明されているのか見てゆく。 [[広辞苑]]ではまず次のような説明を掲載している。 *美しいこと。美しさ<ref name="koujien_v6">広辞苑第六版【美】</ref> *よいこと。りっぱなこと<ref name="koujien_v6" />。 そして3番目に哲学用語の「美」を挙げており次のような説明になっている。 *(哲学)知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの<ref name="koujien_v6" />。『快』が生理的・個人的・偶然的・主観的であるのに対して、『美』は個人的利害関心から一応解放され、より普遍的・必然的・客観的・社会的である。 [[ブリタニカ百科事典]]では、(広辞苑の3番目に挙げてある哲学的説明から入り)、「感覚、特に視聴を媒介として得られる喜悦・快楽の根源的体験のひとつ」としている<ref name="britanic">ブリタニカ百科事典【美】</ref>。 ;感覚的な美と精神的な美。様々な位相の美。 そしてブリタニカ百科事典ではつづいて次の注意点を指摘している。 * 対象にみられる均衡・充実・輝きによって惹起される(タイプの美もある)<ref name="britanic" /> * だが、直接感覚を通さない いわゆる《精神美》も考えられ<ref name="britanic" />、それは「超越美」と呼ばれる<ref name="britanic" />。 つまり、一方で 美には直接の感覚による美があるが、他方、直接感覚に依存せず 精神的に感じられる美もある、と言っているのである。人はたとえば「彼の一生懸命な生きざまは美しい」「最後まで正義を貫いたこのお方の人生は本当に美しい」などということがある。また「美しい[[心]]の持ち主」と言うこともあるわけである。 (これと関連するが)[[今道友信]]は、『岩波講座哲学 (6)芸術』の「美学と芸術理論」の章において、美は[[自然]]の事物等に対する感覚的に[[素朴]]な[[印象]]から、[[芸術]]作品に対して抱く[[感動]]の[[感情]]、あるいは人間の行為の[[倫理]]的[[価値]]に対する[[評価]]にいたるまで、さまざまな[[意味]]と[[解釈]]の位相を持っている、ということを指摘した<ref name="ip14-imamichi-13">[[今道友信]]「美学と芸術理論」『岩波講座哲学 (6)芸術』、p.13。</ref><ref group="注">今道友信は、より厳密な表現においてであるが、自然・技術・芸術・人格存在のありようにおいて、「美の位相差」を論じている。</ref>。 <!--「{{要出典|date=2014年9月}}美は一般に、「良いこと」従って、哲学的な表現では、「[[善]]」と何かにおいて関係するものだと言える。」--> ;美しいものの具体例 人が例えば何を美しいと言うかというと、人は自分の祖国や故郷を美しいと言うことがあり、風景を見て美しいということがあり、はたまた美術作品などを見て美しいということもあり、男性は形の整った女性を美しいと言うことがあり、そして女性は形の整った男性を美しいと言うことがあり、[[数学者]]は方程式のある種の解法を美しいと述べることがある<ref name="ip14-hashigaki-i-1">「はしがき」『岩波講座哲学 (6)芸術』、i。巻頭の「はしがき」において、編者は、「大和の国は美しく、小野小町は美しく、方程式のこの解法は美しいという」と記している(引用)</ref>。<ref group="注">これらは別の「美しいもの」によって例示可能である。</ref>。<ref group="注">数学者が感じる美についての説明は「'''[[数学的な美]]'''」という詳細な記事が書かれているので、必要ならば参照のこと。</ref> また[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]や[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]の音楽は、「繊細な美しさを持つ」<ref name=ip14-hashigaki-i-2>「はしがき」『岩波講座哲学・芸術』、i。</ref>と言われることがある。 [[ヘルマン・ヘッセ]]は、作品に『青春は美し』という題をつけた。その意味で、[[青春]]も美しいとされることのあるもののひとつと言えよう(ただし、青春は人それぞれで、実に様々な形容詞がつけられている。) ;美と芸術の相違 「美」と「芸術」は異なる。『岩波哲学講座 (6)芸術』の「はしがき」を書いた人によると、美しいものは必ずしも芸術ではない<ref name=ip14-hashigaki-i-2>「はしがき」『岩波講座哲学・芸術』、i。</ref>」。美しいものすべてが芸術というわけではない。また、逆に芸術作品すべてが美しいというわけでもない。 ;美と存在論 [[プラトン]]は《超越美》(=「精神美」。上ですでに説明)は実在する、と述べ<ref name="britanic" />、個々の美しいものは、この超越美の[[イデア論|分有]]である、と述べた<ref name="britanic" />。([[イデア論]]) <!-- 「{{要出典範囲|これらの言葉の使われ方から窺えることは、「美しいこと・美」とは、何か良いこと・快いことであるが、またそれは「優れたこと」であり、また「感動」を人に与える何かであるということである。|date=2014年9月}}」 --> == 美の具体的種類 == 美を一意に定義することは困難であり、その定義づけが[[美学]]という一つの学問として成立するほどである。美の種類、もしくはカテゴリーとして次のようなものがある。 * [[自然美]] - 自然の手付かずの美、自然による造形(グランドキャニオンなど) * [[芸術美|芸術的な美]] - モナリザ、ダヴィデの像、印象派の絵画 * [[造形美]] - 建築構造物の美(宮殿、大聖堂、ピラミッド) * [[機能美]] - ハンドクラフト、織部の焼き物、パイプ、ガラス器 === 美のイメージ === ひとにとって美は、概念的に思考することのできるものであるだけでなく、同時にイメージとしても思い描かれ、それと重ね合わせて想像することもまたできるものである。 :映画:マリリン・モンロー,ブリジット・バルドー :ダンス:イサドラ・ダンカン :絵画:ビーナスの誕生,モナリザ,裸体のマハ ::(草稿ヴァージョン-以下の「哲学における美」も含め、目下、執筆途上にある文章です) ----- 哲学における「美」の概念の概説的な説明は、すでに優れた記述がある。これは、哲学における美に関する思想や理論、つまり広義の「[[美学]]」における美の概念の歴史として、一つのまとまりとして考えられる(以下の「哲学における美」を参照)。 == 哲学における美 == '''美'''とは、[[価値]][[観念]]、[[価値]][[認識]]の一つである。[[人類]]において[[普遍]]的に存在する[[観念]]であり[[表象]]であるが、一方では、[[文化]]や[[個人]]の[[主観]]枠を越えて、超越的に概念[[措定]]しようとするとき、明確に規定困難であり、それ故、美には普遍的な[[定義]]はない、とも形容される。しかし、他方では、美は感性的対象把握において、超越論的に[[人間]][[精神]]に刻印された[[普遍概念]]であるとも解釈できる面を持っており、美の定義は発散するが、美の[[現象]]・[[経験]]は[[世界]]に遍在してあるという存在事態が成立する。 ここでは、主として[[ギリシア哲学|古代ギリシア]]・[[ローマ哲学|ローマ]]及び[[西欧哲学]]の伝統における「美」の[[本質]]探求の試みと、認識的概念としての美についての考察の諸位相を素描する。 === 美という言葉の多様性 === 哲学における「美」の概念と、それがいかなるものであるかの議論は、その前提として、本記事の冒頭で述べた通り、「美しい」とは何を意味しているのか、「美」という[[言葉]]が持つ「[[意味]]範囲」のある程度の明確な把握を前提とする。 例えば、[[ギリシア語|古典ギリシア語]]における「美(kalon)」という言葉は、通常の[[国語]]としての日本語で使う「美」の意味とは異なる意味範囲を持っているのであり、同様に、[[ラテン語]]の「美・美しいこと(pulchrum)」もまた、古典ギリシア語の「カロン(美)」とは、また違う意味範囲を持っている。異なる言語のあいだで、まったく同じ意味内包を持つ言葉はそもそも存在しないのであり、たとえばプラトンが「美」について何かを論じている場合、それは古典ギリシア語の「カロン」について語っているのだという事実は重要である。 「美」に関連した概念として、「[[徳]]」という価値概念が、プラトンによって論じられているが、「徳」に当たる古代ギリシア語「[[アレテー]]」は、日本語の「徳」にはない特殊な意味があり、それは英語の virtue にもまたないものである。しかし、ラテン語virtus は、ギリシア語「アレテー」の含意とほぼ重なる意味範囲を備えている。 このように、言語において同じ意味内包の言葉はないのだという自覚なしに、異なる[[言語]]での「美」に相当する言葉について論じられた思索や議論に言及することは、そこに危うさが伴っている。 <!--ユダヤ・キリスト教文化を、思索の基底原理として前提している西欧哲学は、明らかに古典ギリシア哲学や、ローマ哲学とは「異質」である。この原理前提の違いを無視して、プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、トマス・アクナス、カント、シラー、ヘーゲルなどと、無節操に同列に並べて論じる「美学」は、どう考えても、混乱を内含しているのであるが、私には、能力的にそこまでの問題の切り分けはできない。m_s --> === 美の概念措定 === このように「美」という概念は、それが使用される言語によって[[意味]][[内包]]が異なり、同じ言語でも時代や使用地域が異なれば、意味に差異が生じている。何が「美しいもの・こと」なのか、万民のあいだで共有できる普遍基準がないのが美の概念であるが、[[文化]]や[[言葉]]を越えて、美に相当する単語自身の意味内包に普遍性がない。 しかし哲学においては、「美の(普遍的)概念」は存在すると措定するのであり、このように措定された「美」の概念に基づいて、古典ギリシアで論じられた美や、ローマ時代の美の観念、中世初期や盛期中世等での美の概念、そして近世や近代の哲学における「美」の概念が、通約性を仮定された、或る意味、普遍的な「相」において考察されるのである。 「乙女は美しい(he parthenos kale)」という言明における「美しい(kale)」とは、あくまで[[賓辞]]([[述語]])としての[[形容詞]]であり、「美しい」と「美しいこと・美」のあいだには、明らかに大きな距離がある。このような距離を乗り越えたのは、古典ギリシアにおける、形容詞の[[中性形]]を属性[[抽象名詞]]と見做し、[[存在]](on)の類とする思考の慣習からである。その典型が[[プラトン]]の[[イデアー説]]である。 このようにして、古典ギリシアにおいて、美(kalon)は、「美しい」とされる事物が、まさに何故に美しいのか、その根拠たる「存在」として概念規定されたと言える。「美しい物・人」についての議論は、歴史的に、世界中の文化で存在するが、「美しいもの」の根拠である「美」についての思索や、「美の概念」の規定は、古典ギリシアを濫觴とする。 == 美の形而上学 == === 存在論的把握 === 美の概念は、この世界に具体的に存在する事物、また事象としての「美しいもの・こと」(独語:Das Schoene)と必然的に関わりを持つ。しかし、この「美の概念(存在)」とは何であるのか、人が経験し、ときに感動する「美しさ」の本質については、哲学史にあって異なる解釈がある。 二つの代表的な考え方があり、(1)美の存在は、事物や事象が備える固有の性質であるとする「存在論的把握」と、(2)美の存在は事物に帰属するのではなく、それを知覚し、認識する人間主観が、事物や事象に付与する性質であるとする「認識論的把握」がある。おおまかにいえば、前者(1)は古典ギリシア哲学以来優勢であった見解であり、後者(2)は近世以降に登場する哲学的見解である。 <!--美が「美しいもの」(ドイツ語 Das schoene)と呼ばれるものと関わることは異論がない。しかしこの美しさ、「美」がどこに由来するかには論者によって争いがある。代表的なアプローチにはふたつある。(1)美しいものが自体にもつ性質と考える存在論的把握と、(2)美しいと認識する人間主観の性格に由来するとする認識論的把握である。おおまかにいえば、前者(1)は古代以来優勢であった態度であり、前者(1)は近世以降登場する態度である。しかし前者(1)においても、美はたびたび感性的なもの(ド das Aesthetische) と関わるとされてきたことは付言しなければならない。--> 存在論的把握の代表的な論者は、[[プラトン]]、[[アリストテレス]]、[[プロティノス]]、[[アウグスティヌス]]、[[トマス・アクィナス]]、[[フリードリヒ・シェリング]]である。これにはさらに、(1)美の性質を部分の均整にもとめる方向と、(2)部分性を否定し斉一であることをもって美の根本規定とする方向という、まったく対立する態度があらわれる。 ただし美はまったく[[認識]]と離れて存在するものではない。すでにプラトンにおいて、美は愛すなわち認識の欲求的能力の志向的対象として把握されている(『[[饗宴]]』)。また美の性格を均整あるいは斉一に求める論も、認識への適合性に多くその論拠をおいている。トマスは美を究極には[[神]]に帰せられる属性とするが、「[[視覚]]に快いととらえられるものは美しいと呼ばれる」(『[[神学大全]]』)とし、その人間的認識能力とのかかわりを否定していない。 芸術家[[美学]]と呼ばれる[[画家]]や[[文人]]による美論も、おおくこうした方向によることが多い。[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]にとって、芸術家は自然の幾何学的構造を美というもっとも理想的な状態において再提示する能力を持つ幾何学者であり、そのことが彼をして対象のより正確な把握へと赴かせた。[[ホガース]]の美の理論は、線とその印象を追求することによって、素描の美的な効果について研究するとともに、美そのものの性質を線の形状から説明しようとした。 なおこうした、存在それ自体の性格として美を把握する方向は、多く他の価値概念と美が共通するないし同一であるとの論に帰着する。シェリングは美を客観的なものの絶対性としつつ、根本においては善や美と同一であるとする。これについては後節「[[#他の価値領域と美の関係]]」を参照。 === 認識論的把握 === 近世に入ると、美を存在の賓辞ではなく、人間の認識の構造から説明しようとする論者が登場する。これには心理学的把握と狭義の認識論的把握を挙げることができる。これはイギリス経験論と大陸合理主義哲学の影響下に発達した学説であるが、のちには実証的心理学の影響も受けて、現代における美の把握の一潮流をなしている。代表的な論者には、[[エドマンド・バーク]]、[[イマヌエル・カント]]がいる。 18世紀イギリス美学においては、心理学的な美の把握がみられる。バークは[[ジョン・ロック]]の影響下に、美を社交性への本能的欲求から説明しようとした(バークの美論については後で[[#美的範疇]]の節で詳述する)。一方ドイツでは[[合理主義哲学]]の影響下に、[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]の[[表象]]理論を継承した認識論的美論が展開される。[[アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン|アレグザンダー・バウムガルテン]]『美学』からは、美を「感性的認識の完全性」とする定式が導出される。こうした近世の認識論的把握の頂点に来るのが[[イマヌエル・カント]]である。カントにおいて美は四つの徴表を与えられる。その認識根拠はしかし感性や[[悟性]]の[[アプリオリ]]な制約にあるのではない。この意味で美は極めて主観的である。美は共通感官(センスス・コミヌス)に基き、判断の[[普遍]]妥当性を要求するが、それ自体は対象の性質ではなく、「構想力と悟性の自由な戯れ(das freie Spiel der Einbildungskraft und des Verstands) 」に帰着される。この認識能力の自由な戯れを引き起こすものが美しいものといわれる。そして美は理性の能力の調和、すなわち上級認識能力の理想的な調和の実現として、[[道徳]]性の[[象徴]]である(『[[判断力批判]]』第1部)。 <!-- ===美の自律性=== シラーの美論とヘーゲル美学講義 --> == 美という概念の射程 == 美という価値領域を巡る理論は、主に二つの方向を取る。ひとつは他の価値領域である、[[真]]や[[善]]と美の関係である。もうひとつは美という価値領域そのものの細分化である。 === 他の価値領域と美の関係 === 美がよいものとされる限りにおいて、他のよいものとの関係が問われる。古代より、これは美と[[真]]あるいは[[善]]とのかかわり、あるいは美と快すなわち何かあるよいものによってもたらされる感覚とのかかわりとして問題化されてきた。 ==== カロカガティア ==== 古代において、価値領域の自律は自明のことではなく、むしろ逆に各価値領域の共通性が追求される事が普通であった。語源的に「美しい」を表す言葉はしばしば「良い」と共通し、現代でも多くの言語において「美しい」を示す言葉は、日常語においてはしばしば「良い」「快い」を含意して使われる。全体にこのような価値連関において、美は善と関連付けられることが多く、道徳的なものがもつよさのひとつとして考えられる。 西洋哲学の濫觴の地ギリシアにおいてもこの事情は同様である。「美しい人」(ho kalos)は容姿の美しさよりも、その社会的地位、能力、うまれのよさを指すことばであり、「美しい人」とはポリスの市民としての倫理規範を体現した「見事な人」であった<ref>[[古代ギリシア語]]カロス(kalos)は、現代日本語の「美しい」とは意味の異なる言葉である。英語の beautiful に「見事な」という意味があるように、言葉の概念が対応しない例である。</ref>。 こうした「美」の極めて倫理的な色彩をよく表す概念が「善美」(kalokagathia カロカガティア)である。善を表す語と美を表す語から造語されたこの語は、ギリシア的人間が実現すべき理想像として提示されている。 [[ヘーシオドス]]による[[パンドーラー]]の神話では、この女性の容姿は女神のように美しく、心は犬のように陋劣で、そのために世に災悪(kakia)が満ちあふれた(『[[仕事と日|仕事と日々]]』)。すなわち、美が感覚的に快である程度ならば、善(agathon)にでなく罪悪、災悪に結びつく可能性があると考えられるので、最初は美は徳から遠いものとしていわばカロカカキアが一般に認められていた<ref name=ip14-imamichi-39-1>今道友信「西洋における芸術思想の歴史的展開(古代・中世)」『岩波講座哲学・芸術』、p.39。[[パンドーラー]]、[[キルケー]]、[[ヘレネー]]などの「美しき者」はまた同時に災悪(カキアー)であった。</ref> <ref>今道友信「西洋における芸術思想の歴史的展開(古代・中世)」、p.54。「カロカカキア」というギリシア語は存在しない。『理想』に掲載した論文中で今道が造語した。</ref>。しかし容姿でなく徳の美、精神の美を認める場合がある(「汚れも咎もなく死ぬことこそ美しい」([[アイスキュロス]]『[[テーバイ攻めの七将]]』1011))。仮にこの、徳(arete)としての美をプラトンのように根拠づけ得るならば、美(kalon)と善(agathon)とはひとつになり、カロカガティア(kalokagathia)なる理念が成立すると考えられたのである<ref name=ip14-imamichi-39-2>今道友信「西洋における芸術思想の歴史的展開(古代・中世)」『岩波講座哲学・芸術』、p.39。</ref>。ただし、この語は、[[クセノポン|クセノポーン]]に由来し<ref name=ip14-imamichi-39-2 />、プラトンにおいてはkalos kagathosなる慣用句が多用されている。 ==== 真理との関係 ==== また美は真理ともしばしば関係させられる。[[プラトン]]や[[プロティノス]]において、美はときに哲学者(愛知者)がしるべき最高の対象とされる。このような文脈下では、美は真と同一視されている、ないし美を知ることは真なる知識の枢要をなすと考えられている。このような場合、善と知もまた本質的には同じものであるとされることが多い。 そこから、美は独立の価値領域ではなく善や真に従属的なものであり、ここから逆に善や真を表現するために美をもちいるという発想がうまれてくる。宗教芸術や王侯の権力を示現するための装飾などは、このような美の利用といえる。 === 美の自律性 === 美を独自美の感受が感性的なものに直接関わることから、美が善や真とは違う領域であることは、古代から意識されてきた。プラトンには詩があたえる見かけの快さと真のよさの区別についての議論がみられる(『[[国家]]』)。人間の理性的能力の分類はすでに[[アリストテレス]]によって行われているが(『[[ニコマコス倫理学]]』、そこでは真理を知る能力としての知、倫理的実践を行う能力としての思慮、ものを作り出す能力としての技術知が区別される(ただしここでは技術知はとくに美しいものだけに関わる能力ではなく、制作一般の能力である)。しかし古代には美が独自の領域であるという主張は積極的にはなされなかった。 美が固有の能力であるとする立場の確立は、[[感性]]に独自の尊厳を与える試みと並行している。[[アルフレッド・ボイムラー]]は17世紀を「感性の時代」と呼び、この時代の感覚論や[[趣味]]論に、後の美的自律性の把握の契機を見ている。 [[イマヌエル・カント|カント]]によって美の自律性(ド Autonomie)は確立する。カントは美と道徳の関係を主張したが、しかし各領域の自律性の確立が伝統的な価値領域のもっていた緩い交流を寸断したことは否定できない。[[フリードリヒ・シラー]]はこうしたカントの厳格主義に抵抗を感じ、美と倫理の積極的な関係を主張した(『美的教育論』など)。美学者[[クーノ・フィッシャー]]はシラーの試みを「人間論的美学」と呼んでいる。しかし全体としては、美の自律性を主張し擁護する動きが近世から近代にかけては主流となる。こうした傾向は多様な美を表現する可能性を芸術家に開いたものの、その表現が時代にとっては受け止めがたくなるという副産物を伴った。その反動として、現代芸術においては、ふたたび社会と芸術の接近がいかにして可能であるかが問われている。しかしテーゼとしての美の自律性は、ほとんど疑われることなく通交しているということができよう。 === 美的範疇 === 西欧においては、特に近世以降、美を細分化し、それぞれに独自な定義を与えるとともに、相互の関係を定式化しようとする動きがある。こうした細分化された美的なものの領域を美的範疇と呼ぶ。 美的範疇の内実は時代と論者によって異なるが、代表的な美的範疇には、美のほかには[[優美]]・[[崇高]]・[[醜]]・[[フモール]](滑稽)・[[イロニー]]などがある。日本の[[芸道論]](茶道、歌学)あるいは[[国学]]でいう、[[わび]]・[[さび]]・[[しをり]]・[[もののあはれ]]なども美的範疇の一種である。 <!-- ・崇高論の成立:バークからカントへ --> 醜は伝統的には美の対立概念である(美の欠如)と考えられた。このため醜を芸術において表現するということはほとんどの論者から取り上げられなかった。しかし近代には醜もまた積極的な価値をもつ美的範疇のひとつであるという主張がなされ、芸術において醜を表現する試みも登場した。 == 漢字における「美」の含意 == [[日本語]]で使われる「美」の文字は[[漢字]]であり、中国において3000年以上前に発明されたものである。この「美」という漢字は、「[[義]]」や「[[善]]」と同様に、一種の要素合成によって造られており、それぞれの上半分の部分は、「[[ヒツジ|羊]]」という文字である。 「羊」と「大」の合成が「美」であり、「羊」と「我」の合成が「義」である。[[孔子]]の『[[論語]]』の中にも記されているが、「羊」は宗教的祭式において献物として利用された動物で、「犠牲の動物」の意味があり、そこから「羊」を要素とする合成漢字には、「[[犠牲]]」の意味が含まれている<ref name="ip14-imamichi-8">[[今道友信]]「美学と芸術理論」『岩波講座哲学・芸術』、p.8。</ref>。あるいは、「犠牲」の意味を持つ概念を表現するために、これらの漢字は合成され造られたとも言える。 「義」とは「我の責任の限りの犠牲」という意味があり、「善」は、「儀式の祭具に盛る限りの犠牲」という意味があるが、「美」とは「大いなる犠牲」である。この場合の犠牲とは、「[[自己犠牲]]」であり、[[共同体]]の命運などに対し、人間として行える最大限の犠牲、つまり己が命を献げて対象を高めるという含意があり、言い換えれば、人の[[倫理]]の道において、最も'''崇高'''な行いが「美」であったのである<ref name=ip14-imamichi-8 />。 ; 白川説 「美」について『[[説文解字]]』に、「羊に従ひ、大に従ふ。」とあり、[[会意]]としているが、[[白川静]]は「美」全体を[[象形]]とし、「羊の全形」と解釈している。以下、白川の字説である。 : 羊は羊の上半身を前から見た形で、羊の後ろ足まで加えて上から見た形が「美」である。母羊の後ろから小羊が生まれ落ちるさまを「羍<ref>羍(タツ・こひつじ)について『説文』に「小羊なり」、『[[玉篇]]』に「生まるるなり」とあり、小羊の生まれるさまをいう(白川(字統) p.597)。</ref>」というが、その上部の大と、「美」の下部の大は同じであり、母羊を後ろから見た形である。羊は犠牲として神に供えられ、その羊は美しく完全であることが求められたことから、成熟した羊の美しさを美といい、のちすべての「うつくしい」の意味に用いられた。 : 「義」は、羊と我に従う会意であるが、我は[[鋸]]の象形であり、羊を鋸で截り、犠牲とする意味である。その犠牲として神に供えるのに欠陥がないことを「義(ただ)しい」という。このように、我はもと鋸を意味する字であったが、[[一人称]]の[[代名詞]]「われ」として使うようになり、我に代えて、のこぎりを意味する字として[[形声]]の鋸(キョ)が作られた。代名詞にはそれを示す適確な方法がなく、すべてその字の本義をすてて音を借りた[[仮借]]の用法になる。『説文』では「義」を会意としながらも、「己の威儀なり」と解釈しているが、仮借義で会意の字を構成することはないので、我を己と解すのは誤りである<ref>白川(字統) p.85、p.168、p.597、p.745</ref><ref>白川(常用字解) p.50、p.103、p.537</ref>。 <!-- ==美の概念史的展開== *美論の歴史 *美学の登場 *芸術学の登場と「上からの美学」批判 *20世紀美学における美論:戦前 *戦後 *現代美学における美論の状況 ==美の諸相== あるいは美の効能 ==東洋思想における美== ここはかける方よろしくです。 --> == 脚注 == ;注 <references group="注"/> ;出典類 <references/> == 参考文献 == * [[桑原武夫]]・[[加藤周一]]編『岩波講座哲学 XIV 芸術』岩波書店、1971年 * [[白川静]] 『新訂 [[字統]] 普及版』([[平凡社]]、新版2008年(初版2007年))ISBN 978-4-582-12813-0 * 白川静 『常用字解』(平凡社、新版2006年(初版2003年))ISBN 4-582-12805-X == 関連項目 == {{wiktionary}} {{Commonscat|Beauty|Beauty}} *[[美意識]] *[[美学]] *[[ランナウェイ説]]または、『 [[美人#平均美人説|平均美人説]] 』 *[[美学会]] *[[美術]] *[[美人]] == 外部リンク == {{DEFAULTSORT:ひ}} [[Category:美|*]] [[Category:芸術|ひ]] [[Category:美学の概念]] [[Category:アリストテレス]]