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1923年4月、東北帝国大学法文学部講師となり、人文地理学(地政学)の講義を担当{{Sfn|荒俣|1991|pp=236,253-256。同書p.254では「法学部」としているが、同書p.236では「法文学部」としており、{{Harvtxt|加藤|1998|pp=55-56}}および{{Harvtxt|田中館|1934a|loc=表題・奥書}}は、1934年頃の肩書きを「東北帝国大学法文学部(経済地理学研究室)講師」としているため、「法文学部」とした。}}。
 
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1927年、[[プラーグ]]の[[国際地球物理学会議]]、ローマの[[国際湖沼学会議]]に出席のため渡欧、[[イタリア王立ナポリ学士院]]の会員に推薦される{{Sfn|加藤|1998|pp=55-56}}{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。

2021年6月17日 (木) 01:54時点における最新版

田中館 秀三(たなかだて ひでぞう、1884年6月11日-1951年1月29日)、旧姓で下斗米 秀三(しもとまい ひでぞう)は、日本の地理学者火山湖沼学地質学人文地理学兵要地誌など広範な分野で業績を残した。1908年に東京帝国大学を卒業後、東北帝国大学農科大学・北海道帝国大学で地質学の講師・助教授を務め、1910-1914年にイタリアヴェスヴィオ山の調査、1919-1920年に青島で鉱物資源などの兵要調査を行なった。1923年から東北帝国大学法文学部講師として地政学を担当。1942年2月の日本軍によるシンガポール占領直後に現地入りし、ラッフルズ博物館植物園の接収、資料の軍事活用を担当した。1943年の帰国後、立命館大学教授、東北帝国大学法文学部教授。1945年9月に大本営から兵要地図を譲り受け、東北大学など各地の大学に保管した。1948年から法政大学講師、翌年から同大学教授を務めた。先編集者由亜辺出夫

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1884年6月11日、岩手県二戸郡福岡町字横丁で、下斗米与八郎、たよの間に、6人きょうだいの5番目(3男)として生まれる。命名「秀二郎」。[1]

1897年、岩手県立盛岡中学校に入学。同級生に、野村長一(胡堂)久保田晴光板垣征四郎、1学年上に金田一京助小野寺直助田子一民郷古潔及川古志郎、1学年下に石川啄木伊藤圭一郎がいた。[1]

1902年3月、同校を卒業し、同年9月に京都第三高等学校に入学[1]

1905年9月、東京帝国大学理科大学地質学科に入学。当時の地質学科教授には小藤文次郎神保小虎横山又次郎、同級生には河野密大湯正雄出口雄三小林儀一郎村田析がいた。[1]

在学中に「秀三」と改名。また樺太を旅行した。[1]

1908年7月、同学科卒。卒業論文は神保小虎の指導による「樺太の琉化鉄鋼の研究」。卒業後に中国南部を旅行した。[1]

東北帝国大学農科大学講師・助教授時代[編集]

1908年11月、札幌の東北帝国大学農科大学の講師となり、学部で岩石学・海洋学などの講義を担当[2][1]

翌1909年にも東北帝国大学農科大学の学部で「岩石学」ないし「海洋学」の担当教官を務めた[3]

1909年9月、東北帝国大学農科大学水産学科教授、兼農科大学助教授[1]

1910年2月、文部省により、地理学及び海洋学研究のため、3カ年の予定でに派遣される[1]。同年から、ナポリでヴェスヴィオ火山の調査を行なう[4]

また赴任中にアルゼンチンで開催された汎アメリカ会議に出席した[1]

1914年には、ナポリで火山学を講じていたジュゼッペ・デ・ロレンツォの紹介により、ナポリの王立東洋学院(ナポリ東洋大学の前身)の教師となる[4]。ナポリでは下斗米(しもとまい)の姓で知られていた[4]

1915年12月、日本に帰国[4][1]田中館愛橘の娘・美稲子と結婚し、田中館家の養子となる[5][6]

この頃、田中館愛橘の日本式ローマ字普及運動に協力し、『ローマ字の世界』にしばしば寄稿[1]。妻との間に一女をもうけたが、その後離婚[7]。離婚後も「田中館」の姓を用いた[7]

1915,1917年に東北帝国大学農科大学の学部で講義を担当[3]

北海道帝国大学農学部講師時代[編集]

1919年、北海道帝国大学農学部講師兼附属水産専門部講師[1]

同年から2,3年の間、青島民政部に関係し、1922年に青島民政部の報告書『山東省ノ地質鉱山』を編じた[8]

1922,1924,1926-1928年に北海道帝国大学農学部で地質学の講義を担当[3]

1922年、北海道庁の河湖水理調査嘱託となり、1924年に報告書(田中館 1924 )を刊行[9]

1922年、日本学術研究会議本部委員[1]

1923年4月、東北帝国大学法文学部講師となり、人文地理学(地政学)の講義を担当[10]

1926年、日本学術研究会議の水理部主任となり、第3回汎太平洋学術会議に出席して講演[1]。同年噴火した十勝岳樽前山の噴火調査を行う[11][1]スタンフォード大学ベリー・ウィリス八木貞助フォッサマグナを調査[1]

1927年、プラーグ国際地球物理学会議、ローマの国際湖沼学会議に出席のため渡欧、イタリア王立ナポリ学士院の会員に推薦される[2][1]

荒俣 (1991 253-256)は、1927年7月20日に北海道帝国大学農学部兼水産専門部の講師を解嘱になったとしているが、湊 (1982 897-899)によると1928年にも同大学で講義を担当している。

東北帝国大学法文学部講師時代[編集]

1928年、ギリシャサントリン火山を調査[1]

1929年、ジャワで行なわれた第4回汎太平洋学術会議に出席して講演。世界動力工業会議に論文を発表。帰国後の同年8月に八木貞助と焼岳浅間山を調査し、同年9月にジャワ滞在中に噴火した北海道駒ヶ岳を調査した。[1]

1930年、国際地球物理学連合総会、火山学会副会長に推薦され、1933年まで在任[1]

1931年、オランダ王立ジャワ自然科学協会会員に推薦される[1]

1932年、ブラジルへ出張、南米移民団と共に渡航する。その後、北米を旅行し、翌1933年1月に帰国。[1]

1933年、昭和三陸地震の津波被害の調査に着手、研究を山口弥一郎に託す[1]

1936年、学士院の援助により、マリアナ群島の火山を調査。同年、玉田秀子と再婚し、仙台市米ヶ袋下丁で暮らす。翌1937年に娘・多美子が誕生。[1]

1939年、日本学術研究会議の水理学部長となり、1943年まで在任[1]

南方での兵要調査[編集]

1941年4月、仏印と雲南省の境界付近に賦存する燐灰石鉱床の調査・研究を行う。同年12月、東北帝国大学から学術研究(同年4月からの研究の継続)のため仏印出張を命じられる。[12]

1942年1月12日『東京日日新聞』には、仏印への農業移民を提唱する談話が掲載された[13]

1942年2月中旬、ハノイ南方軍総司令部塚田参謀長から「シンガポール攻略後の資源調査」を現地で軍と打合せて実施するよう指示を受け、同月16日にサイゴンから日本軍占領直後のシンガポールに入る[14]。占領直後、昭南特別市長のような立場にあった豊田薫からの指示で、ラッフルズ博物館植物園の接収にあたり、同年8月末まで博物館長・植物園長のような立場にあった[15]

1942年3月20日-4月15日にはジャワ、同年5月28日-6月14日にはスマトラ、同年6月26日-7月14日にはマライへ出張し研究機関や文化施設を巡回した[16]

同年9月に徳川義親が昭南博物館長・植物園長となり、佐藤瞕が植物園長代理となった後も博物館での「資源調査」を支援していたが、同年11月中旬に日本に一時帰国し、翌1943年1月16日に再び昭南入りした後、同年2月にクアラ・ルンプールタイピンの研究機関・博物館等の事務をし、2ヶ月ほど「軍の仕事」を手伝い、同年4月29日に日本に帰国した[17]。このときの「資源調査」の成果と思しき稿に田中館 (1942a )と田中館 (1942b )がある。

1943年8月、立命館大学教授となり、地理学の講義を担当[1]

1944年に著書『南方文化施設の接収』(田中館 1944 )を刊行[18]

戦中から戦後にかけて昭和新山の調査に関わり、命名を行った[4]

戦後[編集]

1945年9月、大本営から外邦図などの兵要地図を譲り受け、東北大学など各地の大学に保管した[19]

同年10月、東北帝国大学教授、理学部地理学講座担当[1]

1948年にオスロで開催された万国火山会議に昭和新山が隆起する様子を図示したミマツダイヤグラムを提出した[20]

1946年3月、定年のため東北帝国大学を退職、理学部講師嘱託となる[1]GHQ顧問(経済科学局嘱託)に就任[21]

1948年4月に、法政大学講師となり、翌年4月に同校教授となる[1]

1951年1月29日、東京の病院で胃癌のため死去、満66歳7ヵ月[1]。国際火山学会の会誌に追悼文が掲載された[22]

兵要地誌[編集]

青島民政部時代の経験[編集]

田中館は、1919年から数年間、青島民政部に関与していたが、このとき同部はドイツ時代に作られた図書館を全部解散して、書籍を日本の各中等学校に数冊ずつ配布することを決定、また諸調査機関の書庫を解放して重要な文書を離散させていた[23]

このとき田中館は、図書館を廃止して図書を離散せしめるのは文化の破壊、ドイツに対する怨みを国民に植え付けることにもなる、として当時の秋山民政長官に反対を申し入れたが、お叱りを被っただけで、受け入れられなかった、という[23]

田中館 (1944 5-6)によると、青島民政部の報告書『山東省ノ地質鉱山』(田中館 1922 )は、このとき田中館が現地の図書館や諸調査機関の書庫中にあった「重要書類」を参考にして、地下資源の調査資料としてまとめたものである。

シンガポール占領後の資源調査[編集]

田中館は、シンガポール陥落前にシンガポール植物園の園長・副園長だったR.E.ホルタム、E.J.H.コーナー、市庁水産局長だったW.バートウイッスルら当時「敵性外国人」とされていた英国人を捕虜の身分で協力させ、1942年2月中旬から、「軍参謀」の許可を得て、コーナーとともに外出して市内の行政機関事務所や要人宅から図書や備品などを収集(掠奪)して博物館附属図書館に集め、整理・仕分け作業を行った[24][25]

この資料収集(略奪)には、3月中旬に「或要務」を帯びて仏印・サイゴンから昭南博物館に出張して来た南方総軍獣医部の古賀忠道少尉や、3月26日にサイゴンから昭南入りした昆虫学者の江崎悌三九州帝国大学教授、植物学者の本田正次東京帝国大学助教授、地質学の大塚弥之助・東京帝国大学助教授ら3人も参加し、田中館が3月20日から4月15日にかけてジャワ出張で不在の間も、作業は続けられた[24][26]

略奪を行った事務所や個人宅の詳細は、田中館 (1944 58-63,66-67,72)に記載があり、また加藤 (1998 61)によると、コーナーの回顧録の原著の付録に略奪を行った場所と内容の記録がある。

田中館 (1944 62-63)は、1942年3月中に約4万の図書を集め、5月頃にもまだ図書を収集していた、としており、加藤 (1998 61)によると、コーナーの原著には、活動により集められた資料は4万冊を超え、その後、倍の8万冊になったとの記載がある。

集めた図書は博物館付属図書館で整理されたが、このうちの相当数が日本へ送られたとみられている。1946年3月に設置された占領軍の民間財産管理局(CPC)は、1947年4月30日に指令第000.3号「シンガポールのラッフルズ博物館図書館より持ち去られた財物について」を発しており、図書の移入先となり、戦後図書の返還作業を行なった帝国図書館員の回想の中に「ラッフルズ」に送り返したものが「万という数」「数え切れない」ほどあった、との叙述がみられる[27]

また田中館はジャワ・スマトラ・マレー各地を出張した際に各地の文化施設・研究機関を見て廻り、スマトラ島・メダンでは学術研究機関が占領当時のまま放置されていたため、当時の軍政部長・黒川大佐に図書館設立の必要を説き、場所を決めて市内各所に散在していた図書約2万冊を集め、元アプロス農業研究所員のオランダ人・シュリーケを図書係にして図書を整理させ、整理作業中にシンガポールに戻ったが、後で「大変役に立った」と感謝され、却って恐縮した、としている[28]

大本営の兵要地図の譲受と保管[編集]

1945年9月に、東北大学理学部地理学講座の教授をしていたとき、東京・市ヶ谷にあって、閉鎖に向けて業務処理中だった大本営陸軍部を訪問し、旧知の間柄で、部下と共に執務にあたっていた渡辺正参謀に兵要地図の寄贈を求めた[19]

渡辺参謀の承諾を受け、同本部や神田の明治大学地下にあった参謀本部分室から大量の外邦図や国内の地形図を、応急整理の上、リヤカーで搬出。神保町スズラン通り裏手にあった貸事務所の一室を借り、岡本次郎三田亮一が参謀本部との間片道約4キロメートルを何度も往復して地図を運んだ。[19]

地図は、仙台へ運ばれ、東北大学理学部地理学教室に収蔵されたほか、当時資源科学研究所地理部門主任と東京大学理学部地理学教室の助教授を兼務していた多田文男らにより、数ヶ所を経て大久保の資源科学研究所に収蔵されたものなど、複数の保管先に収蔵された。[19]

評価[編集]

徳川 (1973 186-187)は、「田中館くんは不思議な人で、専門は何だかさっぱりわからない。なににでも食いつくが、学位論文などは出さない。親爺が著名な学者だったので、便乗して学者らしく振舞っていたとだけしか考えられない。」とし、また「学者は多く集まったが、だれも彼を信用していなかった」としながら、「こうはいうが、ぼくは彼を高く買っている。戦いのあと、博物館、図書館、試験所、研究所などの文化施設を押さえ、憲兵をつけて、破壊と掠奪から護ったのは田中館くんである。これこそ大きな功績といってよかろう。」と評している。

徳川の田中館評に類した、田中館を「うさんくさい人物」で「経歴に嘘が多い」とする人物評は、石井 (1982 )にもみられる。

後でわかったことであるが、田中館教授の話は半分は作り話であった。彼は東北大の教授などではなく、講師にすぎなかったし、東京帝国大学教授田中館愛橘氏の娘婿であって、彼の義父は男爵ではなかった。(…)任官辞令書も紹介状も持たず、突然シンガポールに姿を現わした男が、一瞬のうちに自分で自分の存在を正当化し、占領直後の博物館長と植物園長として位置づけることに成功したのだ。

石井 1982 22

同書の著者はコーナーとされているが、同書の「訳者あとがき」によれば、コーナーは編訳者とされている石井美樹子から提供された資料を基に英語で原稿を書き、日本語版は、石井が、コーナーの原稿を基にしながらも、「コーナーが書けなかったこと」や「羽根田博士や徳川家から提供された資料」を加えて執筆し、徳川義知尾張徳川家の関係者に取材して完成させたとされている[29]。つまり、実質的な著者は石井で、必ずしもコーナーの原著にない内容も含まれており、コーナーも石井も、尾張徳川家が発信した情報に基づいて著書を執筆している。

このため、同書による「あの南の小さな島の片隅に、徳川義親マライ軍政監部最高顧問(…)を中心とする、奇妙な学者グループが出現していた…」(石井 1982 2-3)「徳川元侯爵は、その2つの組織の長であった。彼が総長であったおかげで、シンガポールの教育文化施設と機関は戦争の混乱からまぬがれたのだという」(石井 1982 196-197)などの徳川義親を「文化の庇護者」として礼賛するような評価は、戦後になってから尾張徳川家の周辺から発信された情報に依拠した評価として割引いて考えるべきであると思われ、またその田中館評も、尾張徳川家の見方を反映していることが想定される。

このように徳川義親の周辺から田中館をうさんくさい人物として貶めるような情報が発信されるようになった契機として、田中館が著書『南方文化施設の接収』(田中館 1944 )の中で、徳川義親の昭南植物園長、昭南博物館長就任について、徳川は気紛れで就任したお飾りだった、と受け取れるような書き方をし、更に同書を徳川に贈呈したことが影響していたように思われる。

もうこゝまで育て上ぐれば従2位勲3等植物学専攻理学士徳川義親侯は植物園長となっても少しも困難はない、ことに佐藤瞕氏が代理として執務して居る以上戦禍の中に拾ひ上げた捨児を御委せするのに何の心配もない、(…)

田中館秀三、昭南植物園の事務引継ぎについて [30]

然し侯爵を招聘するに適当した室がない。そこで先ず元図書館主事室をマーケース・ルームと名づけ、館に没収しおきたる家具中最も美麗なるものゝみにて飾った。そして近く侯爵の秘書として日本より来昭さるゝ妙齢の2嬢も図書館員とすることとし、その席をもマーケース・ルームの侯爵の傍に設けた。(…)其室には候の好まるゝ書を並べ毎日候の御来館を願上げたところ、8月より毎週1,2度来館され、「こゝへ来て勉強しよう。」と云はるゝに至った。そして8月28日になって、「私は博物館、植物園長をやります。」とのことであった。

田中館秀三、徳川義親の昭南博物館長就任について [31]

など、徳川に失礼な内容のように思うが、田中館はこの著書を徳川に贈呈し、これに対して徳川は、

(田中館は)精神異常者であって、知人は誰も相手にしなかった。著書として残ると記事となって、すべての人々は甚だ迷惑である。記事は全部、彼の夢想したことで事実ではない。軍の嘱託でも何でもない。戦争のどさくさに乗じて戦地の各場をまわり、自称嘱託にすぎない。戦地は順序も秩序も厳しいもので、自由に人の任免は出来ないのである。私の博物館長になった理由など彼は全々知らず彼は自分の手柄のやうに書いてあるが全々のでたらめである。此位全部捏造であることも珍しい。併しこれは人を騙さうとしたのではなく夢想した記事といった方がよい。悪意のものではないと思ふ。

徳川義親、田中館 (1944 )読後の所感 [32]

と田中館とその著書の内容を酷評している。それ以前にも何か因縁があったのかもしれないが、徳川は田中館の著書にある、自身に対する評価に腹を立てていた、とも考えられるだろう。

また、コーナーの回想録は、昭南博物館時代の同僚だったバートウィッスルと関阿根の日記に依拠して書かれたとされているが、2人の日記は、1942年9月頃に徳川の指示で書き始められたものとされているため[33]、占領当初から同年8月頃までの時期に関する記録があったかは疑問で、前記のように石井が資料の提供を受けていた尾張徳川家は田中館の著書を受贈されており、また叙述内容が類似していることから、石井 (1982 )には明記されていないが、コーナーも石井も、占領当初の時期の出来事に関しては、田中館 (1944 )の記録を参考にしていたと考えられる。ただ2書を対比してみると、石井は田中館の記述に忠実なわけではなく、かなり内容を書き直している。

田中館のシンガポール入りの経緯に関する記述の比較
石井 (1982 24) 田中館 (1944 3-5)
1946年(昭和21年)、田中館教授は東京の連合軍司令部に1つの報告書を提出した。1942年から43年にかけての東南アジアでの教授の業績を報告したものであった。教授はその写しを私に送ってくれた。しかし彼の記した概要は必ずしも事実と一致していない。日付にも間違いがある。報告書によると、1942年初め、教授は東北帝国大学から派遣されて仏領インドシナにいた。目的は燐鉱石鉱床を研究することであった。2月にサイゴンの南方軍総司令部から召集され、鉱物調査のためマラヤへ行った。そして2月15日より、報酬なしの少尉待遇で軍に雇われたという。私が教授に市庁舎ではじめて会い、植物園と博物館の保護を嘆願したあの日、教授は、とっさにある使命感を感じ取り、マラヤへきた本来の目的を私に隠して、私の持ちこんだ問題に乗り換えたのであった。 昭和16年(1941年)12月、余は東北帝国大学より学術研究のため仏印に出張を命ぜられた。(…)2月9日、南方軍総司令部へ出頭したが、2月1日(10日か)朝、軍首脳部の方々と会談するの機会を与へられた。(…)其機会に於て私は塚田参謀長にシンガポール攻略後の資源調査につき、次の如き意見を述べた。塚田閣下は現地に乗こみ、軍と打合せてやって貰ひたいとのことであった。(中略。以前の青島占領の際の経験から)此度シンガポール占領の際には先ず重要図書及諸種の書類を接収確保し、資源調査及その他の調査にこれを参考し、更に其上に新しい調査を進めねばならぬ。これ等の図書、文書はシンガポールでは私の見た範囲ではラッフルズ博物館及図書館にあり、一部は植物園にある。こゝを先づ戦禍の中から救出さねばならぬ。

2月15日、南方軍嘱託の辞令が出た、そして便あり次第戦地へ進出すべきを命ぜられた。私は今学術研究の為め南方に派遣された。然しかゝる非常時、国を挙げての総力戦に於ては戦争が第1であり、占領地建設は第2である、そして吾々専門の研究は第3であると信じてゐた。それ故私にとりては軍の命令は絶対である。然かも私の辞令には地質調査のためとある。然しすべての調査の基礎は文書の確保にある、しかもそれは私に与へられたる任務である。何の躊躇もなく此の命令を受けた。思ふにかゝる時あるに備へ、20年来私は植民地地理学、地政学などを日本で始めて帝国大学の法経学科に講義しつゝあったのである。今この時局に自分の職域に於て、第1線に派遣せらるゝことは学徒として無上の光栄である。

田中館 (1944 3-5)によれば、田中館のシンガポール入りは日本軍(参謀部)からの命令によるもので自分で勝手に現地入りしたわけではないし、田中館が事前に仏印入りしていたことからして、シンガポール占領直後に田中館が現地入りして博物館の接収、資料の収集(略奪)を行なうことは、占領前から予期されていた軍務だったとみるべきだと思われる。1942年2月の占領当初から同年8月に至るまで、田中館の肩書きは正式なものではなかったが、同時期に「昭南市長のような」立場にあった元外交官の豊田薫にしても、またその他の職員にしても、(シンガポール占領が予定されていた軍事行動だと見なされないように)正式な辞令は受けずに執務にあたっていたはずである。

また職歴・肩書きに関していえば、田中館は欧州での調査や軍務に就いていた期間、大学における職歴が断絶していたため、田中館 (1944 )執筆当時は助教授であったかもしれないが、それ以前・以後には教授職に就いていたこともあるし、著書・論文の中には共編著も多いが、本人の著になるとみられるものも少なからずある。

このため、田中館を「うさんくさい人物」とみる評価や、「文化の庇護者」で軍に対して反抗した人物とする評価は、徳川義親を「文化の庇護者」として美化しがちな尾張徳川家由来の情報宣伝による影響が大きく、石井 (1982 )はこの目的に沿って当時の記録を大幅に改竄・美化しており、実際のところ田中館は、軍からの命令に忠実に行動し、特殊ではあるが重要な軍務を指揮していた軍政の中心人物の1人だった、と考えた方がいいように思われる。

著作物[編集]

単著[編集]

  • 田中館 (1975) 田中館秀三(著)田中館秀三業績刊行会(山口弥一郎ほか)(編)『田中舘秀三 - 業績と追憶』世界文庫、1975年、JPNO 73012802
    • 田中館秀三業績刊行会(1975)「紹介 田中館秀三業績刊行会:"田中館秀三"」『地質学雑誌』vol.81 no.8、1975年8月、p.528、NAID:110003024712
    • 矢沢(1976) 矢沢大二「書評と紹介 田中館秀三業績刊行会編:田中館秀三‐業績と追憶」『地学雑誌』vol.85 no.1、1976年、p.61、DOI 10.5026/jgeography.85.61
  • 田中館 (1944) -『南方文化施設の接収』時代社、1944年、NDLJP:1267166
  • 田中館 (1942b) -「マレー半島の鉱業」飯本信之・佐藤弘(編)『南洋地理大系 第4巻 マレー・ビルマ』ダイヤモンド社、1942年、pp.137-170、NDLJP:1875557/76 (閉)
  • 田中館 (1942a) -「フィリッピンの鉱業」飯本信之・佐藤弘(編)『南洋地理大系 第2巻 海南島・フィリッピン・内南洋』ダイヤモンド社、1942年、pp.319-346、NDLJP:1875533/168 (閉)
  • 田中館 (1941b) -(述)『仏印燐灰石の鉱床に就て』海外鉱業協会、1941年、JPNO 22217354
    • 田中館 (1941a) -「仏印燐灰石の鉱床に就て - 仏印踏査」鉱業之日本社『鉱業評論』vol.12、no.8、1941年8月、pp.24-38、NDLJP:1504744/20 (閉)
  • 田中館 (1937b) -「地理学上より見たる東北地方の開拓」『地理学』vol.5 no.4 別刷、1937年
  • 田中館 (1934b) -「北千島新火山島(武富島)噴出に関する収集資料」岩石鉱物鉱床学会『岩石鉱物鉱床学』vol.12 no.6 別刷、1934年。
  • 田中館 (1934a) -(述)『東北地方の凶作に就て』東北帝国大学法文学部経済地理学研究室、1934年、NDLJP:1100396
  • 田中館 (1931b) -「湖沼学」『地理学講座 第11回』、地人書館、1931年、pp.129-206、NDLJP:1876798/82 (閉)
  • 田中館 (1931a) -「海洋(3)」『地理学講座 第4回』、地人書館、1931年、pp.145-190、NDLJP:1876737/95 (閉)
  • 田中館 (1930b) -「海洋(2)」『地理学講座 第2回』、地人書館、1930年、pp.171-232、NDLJP:1876720/102 (閉)
  • 田中館 (1930a) -「海洋(1)」『地理学講座 第1回』、地人書館、1930年、pp.83-126、NDLJP:1876710/59 (閉)
  • 田中館 (1924) -『北海道火山湖研究概報』北海道庁、1924年
  • 下斗米 (1911) 下斗米秀三「回航日誌 ケープベルデ諸島及カナリー諸島の部」日本地質学会『地質学雜誌』vol.18 no.208、1911年1月、DOI 10.5575/geosoc.18.16、pp.16-29
  • 下斗米 (1910c) -「回航日誌 ブラジルの部」日本地質学会『地質学雜誌』vol.17 no.207、1910年12月、DOI 10.5575/geosoc.17.207_508、pp.508-521
  • 下斗米 (1910b) -「ケープ・タウンの四日間」日本地質学会『地質学雜誌』vol.17 no.204、1910年9月、DOI 10.5575/geosoc.17.389、pp.389-400
  • 下斗米 (1910a) -「モウリチアス島見聞記」日本地質学会『地質学雜誌』vol.17 no.203、1910年8月、DOI 10.5575/geosoc.17.360、pp.360-366

共編著[編集]

  • 田中館・山口 (1953) 田中館秀三・山口弥一郎『東北地方の経済地理研究』古今書院、1953年、NDLJP:3017935 (閉)
  • 田中館 (1939) -(編)「阿武隈川水路図」『文化』vol.6 no.7、1939年
  • 田中館・山口 (1938) -・山口弥一郎「三陸地方の津浪に依る聚落移動」『斎藤報恩会時報』no.141-143 別刷、1938年9-11月
  • 田中館 (1937a) -(編)『市町村名の読方及び市町村面積人口密度表』日本書房、1937年、NDLJP:1219990 (閉)
    • 地学雑誌(1937)「(書評)田中館秀三編 市町村名の読方及び市町村面積人口密度表」『地学雑誌』vol.49 no.12、1937年、DOI 10.5026/jgeography.49.600a、p.600
  • 田中館・山口 (1936) -・山口弥一郎『東北地方に於ける出作及び出稼聚落の経済地理 : 福島県南会津郡桧枝岐村の出作,岩手県二戸郡田山村の出稼』『地理学評論』vol.12 no.3 別刷、pp.218-247、1936年3月
  • 田中館 (1934c) -(編)『東北地方市町村別人口密度表:昭和5年』斎藤報恩会,1934年
  • 田中館・猪鹿倉 (1932) -・猪鹿倉忠俊『日本の水力・石炭・石油』〈岩波講座 地理学7〉岩波書店、1932年、pp.15-53、NDLJP:1240716/10 (閉)
  • 田中館・猪鹿倉 (1932) -・猪鹿倉忠俊『水力・石炭・石油』〈岩波講座 地理学5〉岩波書店、1932年、NDLJP:1240674
  • 田中館 (1926) -(編)『十勝岳爆発概報 大正15年6月25日』田中館秀三、1926年、NDLJP:981513
  • 田中館 (1922) -(編)『山東省ノ地質鉱山』青島守備軍民政部、1922年、NDLJP:960500
    • 神保(1923) 神保小虎「解題 田中館秀三 山東省の地質鉱山」日本地質学会『地質学雑誌』vol.30 no.355、1923年4月、pp.180-181、NAID:110003011645

新聞記事[編集]

外部リンク[編集]

付録[編集]

関連文献[編集]

  • 太田愛人『野村胡堂・あらえびすとその時代』教文館、2003年、pp.64-65
  • 科学朝日『スキャンダルの科学史』朝日新聞社、1997年、p.293
  • 岡山俊雄『日本の山地地形と氷河問題研究小史』古今書院、1974年,p.184
  • 山口弥一郎(著)下斗米たよ(述)田中館愛橘・田中館秀三(解注)『二戸聞書』六人社、1943年10月
    • 池田弥三郎(解説)『日本民俗誌大系 9巻』角川書店、1974年に収録
  • 『市立函館図書館蔵 郷土資料分類目録 第4巻』市立函館図書館、1966年、p.597,598,603。
  • 1942-1944年頃?『朝日新聞』に掲載された徳川義親の手記「昭南のこと」[1]
  • 『水産界』no.400-411、1916年、p.762
  • 内閣官房局『職員録』印刷局、1913年、p.30
  • 日本工学会『明治工業史 第8巻』
  • 日本地質学会『地質学雑誌』vol.15-16、1908年、p.52,154,159

脚注[編集]

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 1.19 1.20 1.21 1.22 1.23 1.24 1.25 1.26 1.27 1.28 1.29 1.30 1.31 荒俣 1991 253-256
  2. 2.0 2.1 加藤 1998 55-56
  3. 3.0 3.1 3.2 湊 1982 897-899
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 土肥 2008 13
  5. 荒俣 1991 253-256。下斗米家と田中館家は、養子縁組以前から親類関係にあった。また1914年発行の外国語論文で著者名が「下斗米(田中館)」となっていることから、婚姻に先んじて入籍していた可能性が指摘されている。
  6. 加藤 1998 55-56は、1922年に養子になった、としている。
  7. 7.0 7.1 荒俣 1991 236
  8. 田中館 1944 5-6
  9. 荒俣 1991 253-256 は、1925年刊行としているが、国立国会図書館サーチによると1924・1925年刊本のデータがあり、「1915年12月」版は正誤表付きとなっているため、初版は1924年版のようである。
  10. 荒俣 1991 236,253-256。同書p.254では「法学部」としているが、同書p.236では「法文学部」としており、加藤 (1998 55-56)および田中館 (1934a 表題・奥書)は、1934年頃の肩書きを「東北帝国大学法文学部(経済地理学研究室)講師」としているため、「法文学部」とした。
  11. 田中館 1926
  12. 田中館 1944 3
  13. 田中館 1942-1-12
  14. 田中館 1944 序2,3-9
  15. 田中館 1944 24-27,50-53
  16. 田中館 1944 38-40,44,47-48,56
  17. 田中館 1944 50-53,76-80
  18. 同書には、肩書きとして、外題・内題に「北大助教授 昭南島博物館長」、序文に「東北帝国大学法文学部」の記載があり、また奥付に職歴として「北大理学部助教授、東北大法文学部講師、昭南島博物館長、同植物園長」とある。大石 (1995 30)によると、徳川義親への寄贈本の外題ないし内題の肩書きにはペン字で「元」と記してあったという。
  19. 19.0 19.1 19.2 19.3 松岡 2010 要頁番号
  20. 左巻 2012 要頁番号
  21. 荒俣 1991 248,253-256
  22. 荒俣 1991 253-256Bulletin volcanologique vol.12 1952 pp.227-233
  23. 23.0 23.1 田中館 1944 5
  24. 24.0 24.1 加藤 1998 60-61
  25. 田中館 1944 58-63
  26. 田中館 1944 40,65-66
  27. 加藤 1998 65-66
  28. 田中館 1944 229-230
  29. 石井 1982 202,207
  30. 田中館 1944 52-53
  31. 田中館 1944 76-77
  32. 大石 1995 30-31。出典は、徳川義親「田中館秀三『南方文化施設の接収』に対する評」(昭和19年)とされているが、私家本ないし日記からの引用と思われる。
  33. 石井 1982 5,198

参考文献[編集]

  • 田中館の著書等については#著作物を参照。
  • 左巻 (2012) 左巻健男『面白くて眠れなくなる地学』PHP研究所、2012年、ISBN 978-4569809243
  • 松岡 (2010) 松岡資明『日本の公文書: 開かれたアーカイブズが社会システムを支える』ポット出版、2010年、ISBN 978-4780801408
  • 土肥 (2008) 土肥秀行「下位春吉とナポリの文芸誌『ラ・ディアーナ』-下位春吉伝(上)」(pdf) イタリア書房『イタリア図書』〈特集・日伊交渉(4)〉no.39、2008年10月、pp.11-17
  • 加藤 (1998) 加藤一夫「日本の旧海外植民地と図書館‐東南アジアの図書館接収問題を中心に(未定稿)」国立国会図書館『参考書誌研究』no.49、1998年3月、DOI 10.11501/3051416、pp.50-70
  • 大石 (1995) 大石勇「太平洋戦争(時)下の昭南島‐第25軍最高軍政顧問徳川義親と軍政」『徳川林政史研究所研究紀要』no.29、pp.21-51
  • 荒俣 (1991) 荒俣宏「よみがえる徳川政治-徳川義親と昭南博物館」『大東亜科学綺譚』筑摩書房、1991年、ISBN 4480860312、pp.209-258
  • 石井 (1982) E.J.H.コーナー(著)石井美樹子(訳)『思い出の昭南博物館‐占領下シンガポ−ルと徳川侯』〈中公新書〉中央公論社、1982年、JPNO 82050003
  • 湊 (1982) 湊正雄「北大における地質学と北海道」北海道大学『北大百年史 通説』ぎょうせい、1982年、pp.893-907
  • 徳川 (1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、JPNO 73011083