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'''新家 春三'''(にいなみ はるみつ、[[1814年]] - [[1896年]]以前)は、[[淘宮術]]の創始者・[[横山丸三]]の直弟子・後継者{{Sfn|井上|1896|p=228}}{{Sfn|大井|1868|p=17}}。諱は'''孝悌'''、通称は'''彦次郎'''{{Sfn|大井|1868|p=38}}。
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'''新家 春三'''(にいのみ はるみつ、[[1814年]] - [[1890年]])は、[[江戸時代]]末期の幕臣、[[淘宮術]]の創始者・[[横山丸三]]の直弟子・後継者{{Sfn|井上|1896|p=228}}{{Sfn|大井|1868|p=17}}。諱は'''孝悌'''、通称は'''彦次郎'''{{Sfn|大井|1868|p=38}}。
  
文化11年(1814)11月15日、[[白山御殿]]跡大通りに生まれる{{Sfn|大井|1868|p=38}}。
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==経歴==
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文化11年(1814)11月15日、(小石川)白山御殿跡大通<ref>人文学オープンデータ共同利用センター 江戸マップβ版 駒込絵図 [http://codh.rois.ac.jp/edo-maps/owariya/22/1854/22-214.html.ja 22-214 小石川白山御殿跡大通](景山致恭、戸松昌訓、井山能知(編)『駒込絵図』〈江戸切絵図〉尾張屋清七、1854・嘉永7、{{NDLJP|1286675}})に「新家彦次郎」の名がみえる。</ref>に生まれる{{Sfn|大井|1868|p=38}}。
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新家家は、[[御三家]]の[[紀伊徳川家]]に仕えていたが、[[享保]]期に[[奥役人]]を務めていた与五左衛門が享保3年(1718)に江戸に下向したお由利(浄円院、[[徳川吉宗]]の生母)の御供に加わり、幕臣となった家柄だった。父は純孝といい、母は幕臣・杉浦義左衛門の女だった。{{Sfn|藤田|2019|p=349}}
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16歳のときに母が死去{{Sfn|藤田|2019|p=349}}。
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天保2年(1831)に家督を相続。幕臣・高倉家から妻を娶った。{{Sfn|藤田|2019|p=350}}
  
 
天保6年(1835)、22歳のとき、天源淘宮学と称していた横山の門下に入る{{Sfn|大井|1868|p=38}}。
 
天保6年(1835)、22歳のとき、天源淘宮学と称していた横山の門下に入る{{Sfn|大井|1868|p=38}}。
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*この頃、幕府からの禄高が父の遺した負債の返済で差し引かれて家計が窮乏しており、見かねた妻の実家から、淘宮術の開運修行を勧められて入門した、という{{Sfn|藤田|2019|p=350 - 日本淘道会『淘宮』による。}}。
  
 
天保14年(1843)、6月、皆伝を許され、'''新亀斎春三'''と号した{{Sfn|大井|1868|p=38}}{{Sfn|井上|1896|p=228}}。
 
天保14年(1843)、6月、皆伝を許され、'''新亀斎春三'''と号した{{Sfn|大井|1868|p=38}}{{Sfn|井上|1896|p=228}}。
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娘は[[田安家]]に女中奉公に出ていた{{Sfn|藤田|2019|p=352 - 日本淘道会『淘宮』による。}}。先妻が死去した後、後妻として[[一橋家]]の家臣・川村喜内の二女と再婚した{{Sfn|藤田|2019|p=352 - 日本淘道会『淘宮』による。}}。
  
 
嘉永元年(1848)10月に開運淘宮術は江戸幕府によって講義集会を禁止された{{Sfn|大井|1868|pp=15,42}}{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。横山は安政元年(1854)に死去した{{Sfn|大井|1868|p=20}}{{Sfn|井上|1896|p=228}}。
 
嘉永元年(1848)10月に開運淘宮術は江戸幕府によって講義集会を禁止された{{Sfn|大井|1868|pp=15,42}}{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。横山は安政元年(1854)に死去した{{Sfn|大井|1868|p=20}}{{Sfn|井上|1896|p=228}}。
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嘉永期(1848-1854)には[[小普請組]]に所属した{{Sfn|藤田|2019|p=350}}。
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新家は、幕末期から明治初期にかけて、[[大奥]]の女中たちと淘宮術を通じた交流をもっていた{{Sfn|藤田|2019|p=352}}。[[徳川記念財団]]には、新家が[[天璋院]]付の女中・歌川(たか)らに宛てて書いた書状20数通と、慶応3年(1867)から同4年(1868)頃、天璋院付の女中に宛て書いたとみられる書状の写しをまとめた横半帳の冊子が、天璋院の[[用箪笥]]に収納されて伝わっており{{Sfn|藤田|2019|pp=353-356,367}}、書状の内容や、用箪笥に淘宮術関係の資料が残されていたことから、天璋院自身も淘宮術の「修行」に励んでいた、とみられている{{Sfn|藤田|2019|pp=356-359,368-369}}。
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*{{Harvtxt|藤田|2019|pp=356-365}}は、新家は淘宮術の主旨として、天璋院に現状の肯定、新政府への恭順を勧めていたが、天璋院の新政府に対する批判的な言動から、天璋院自身よりも[[徳川家達]]に期待を寄せるようになっていき、家達に淘宮修行を勧めるよう女中たちに働きかけるようになった、と指摘している。
  
 
[[明治維新]]後、横山の門弟のうち、[[佐野量丸]]と[[青木十丸]]は[[内務省]]の許可を受け、[[大成教会]]の管理下で、再び一般に淘宮術の宣伝を行うことができるようになった{{Sfn|西川|1914|p=125}}。
 
[[明治維新]]後、横山の門弟のうち、[[佐野量丸]]と[[青木十丸]]は[[内務省]]の許可を受け、[[大成教会]]の管理下で、再び一般に淘宮術の宣伝を行うことができるようになった{{Sfn|西川|1914|p=125}}。
  
 
新家は、佐野と意見が合わないところがあり、別に公の許可を得て一派を形成した{{Sfn|西川|1914|p=125}}。また正統を継いだのは新家で、淘宮の本家のように言われていた、ともいう{{Sfn|井上|1896|p=228}}。
 
新家は、佐野と意見が合わないところがあり、別に公の許可を得て一派を形成した{{Sfn|西川|1914|p=125}}。また正統を継いだのは新家で、淘宮の本家のように言われていた、ともいう{{Sfn|井上|1896|p=228}}。
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*[[立花種恭]]は新家から皆伝を許された{{Sfn|藤田|2019|p=352 - 日本淘道会『淘宮』による。}}。
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*[[明治]]・[[大正]]期の医師で、淘道の革新主義を提唱した[[森友道]]は、新家の門人だった{{Sfn|西川|1914|p=130}}。
  
 
隠居後も蓄髪し、'''春三'''と称した{{Sfn|大井|1868|p=38}}。
 
隠居後も蓄髪し、'''春三'''と称した{{Sfn|大井|1868|p=38}}。
  
1896年より少し前に没した{{Sfn|井上|1896|p=228}}。没後は夫人某が門跡を継ぎ、1913年に病没した{{Sfn|西川|1914|p=126}}。その男子・河村某は別に一家門を成した{{Sfn|西川|1914|p=126}}。
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1890年(明治23)没{{Sfn|藤田|2019|p=348}}。没後は夫人某が門跡を継ぎ、1913年に病没した{{Sfn|西川|1914|p=126}}。その男子・河村某は別に一家門を成した{{Sfn|西川|1914|p=126}}。
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==子孫==
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*子の鍬次郎は、慶応2年(1866)に新設された[[奥詰銃隊]]を勤めた{{Sfn|藤田|2019|p=350 - {{Harvnb|樋口|1998}}による。}}。
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*孫の[[新家孝正]]は、[[沼津兵学校]]から[[工部大学校]]へ進み、建築家(工学博士)として知られた{{Sfn|藤田|2019|p=350 - {{Harvnb|樋口|1998}}による。}}。
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==著書==
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* 新家春三『十二宮伝』{{Sfn|井上|1896|p=229}}
  
 
== 付録 ==
 
== 付録 ==
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===関連文献===
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*{{Aya|樋口|year=1998}} 樋口雄彦「沼津兵学校関係人物履歴集成」『沼津市博物館紀要』{{ISSN|09120092}}、No.22、1998{{Sfn|藤田|2019|pp=370-371}}
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* 樋口雄彦「淘宮術と明治の旧幕臣群像」『沼津市博物館紀要』{{ISSN|09120092}}、No.43、2019{{Sfn|藤田|2019|p=371}}
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=== 脚注 ===
 
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=== 参考文献 ===
 
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*{{Aya|大井|year=1868}} 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、{{NDLJP|2209062/10}}
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*{{Aya|大井|year=1868}} 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、{{NDLJP|2209062/10}}
 
*{{Aya|井上|year=1896}} 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、{{NDLJP|1080793/118}}
 
*{{Aya|井上|year=1896}} 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、{{NDLJP|1080793/118}}
 
*{{Aya|西川|year=1914}} 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、1914・大正3、{{NDLJP|908681}}
 
*{{Aya|西川|year=1914}} 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、1914・大正3、{{NDLJP|908681}}
 
*{{Aya|鈴木|year=1966}} 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、7-9頁、{{NDLJP|2985880/8}}{{閉}}
 
*{{Aya|鈴木|year=1966}} 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、7-9頁、{{NDLJP|2985880/8}}{{閉}}
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*{{Aya|藤田|year=2019}} 藤田英昭「幕末維新期の大奥と『淘宮術』」『論集大奥人物研究』東京堂出版、pp.345-371、ISBN 978-4490210200
  
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新家 春三(にいのみ はるみつ、1814年 - 1890年)は、江戸時代末期の幕臣、淘宮術の創始者・横山丸三の直弟子・後継者[1][2]。諱は孝悌、通称は彦次郎[3]

経歴[編集]

文化11年(1814)11月15日、(小石川)白山御殿跡大通[4]に生まれる[3]

新家家は、御三家紀伊徳川家に仕えていたが、享保期に奥役人を務めていた与五左衛門が享保3年(1718)に江戸に下向したお由利(浄円院、徳川吉宗の生母)の御供に加わり、幕臣となった家柄だった。父は純孝といい、母は幕臣・杉浦義左衛門の女だった。[5]

16歳のときに母が死去[5]

天保2年(1831)に家督を相続。幕臣・高倉家から妻を娶った。[6]

天保6年(1835)、22歳のとき、天源淘宮学と称していた横山の門下に入る[3]

  • この頃、幕府からの禄高が父の遺した負債の返済で差し引かれて家計が窮乏しており、見かねた妻の実家から、淘宮術の開運修行を勧められて入門した、という[7]

天保14年(1843)、6月、皆伝を許され、新亀斎春三と号した[3][1]

娘は田安家に女中奉公に出ていた[8]。先妻が死去した後、後妻として一橋家の家臣・川村喜内の二女と再婚した[8]

嘉永元年(1848)10月に開運淘宮術は江戸幕府によって講義集会を禁止された[9][10]。横山は安政元年(1854)に死去した[11][1]

嘉永期(1848-1854)には小普請組に所属した[6]

新家は、幕末期から明治初期にかけて、大奥の女中たちと淘宮術を通じた交流をもっていた[12]徳川記念財団には、新家が天璋院付の女中・歌川(たか)らに宛てて書いた書状20数通と、慶応3年(1867)から同4年(1868)頃、天璋院付の女中に宛て書いたとみられる書状の写しをまとめた横半帳の冊子が、天璋院の用箪笥に収納されて伝わっており[13]、書状の内容や、用箪笥に淘宮術関係の資料が残されていたことから、天璋院自身も淘宮術の「修行」に励んでいた、とみられている[14]

  • 藤田 (2019 356-365)は、新家は淘宮術の主旨として、天璋院に現状の肯定、新政府への恭順を勧めていたが、天璋院の新政府に対する批判的な言動から、天璋院自身よりも徳川家達に期待を寄せるようになっていき、家達に淘宮修行を勧めるよう女中たちに働きかけるようになった、と指摘している。

明治維新後、横山の門弟のうち、佐野量丸青木十丸内務省の許可を受け、大成教会の管理下で、再び一般に淘宮術の宣伝を行うことができるようになった[15]

新家は、佐野と意見が合わないところがあり、別に公の許可を得て一派を形成した[15]。また正統を継いだのは新家で、淘宮の本家のように言われていた、ともいう[1]

隠居後も蓄髪し、春三と称した[3]

1890年(明治23)没[17]。没後は夫人某が門跡を継ぎ、1913年に病没した[18]。その男子・河村某は別に一家門を成した[18]

子孫[編集]

著書[編集]

  • 新家春三『十二宮伝』[20]

付録[編集]

関連文献[編集]

  • 樋口 (1998) 樋口雄彦「沼津兵学校関係人物履歴集成」『沼津市博物館紀要』ISSN 09120092、No.22、1998[21]
  • 樋口雄彦「淘宮術と明治の旧幕臣群像」『沼津市博物館紀要』ISSN 09120092、No.43、2019[22]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 井上 1896 228
  2. 大井 1868 17
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 大井 1868 38
  4. 人文学オープンデータ共同利用センター 江戸マップβ版 駒込絵図 22-214 小石川白山御殿跡大通(景山致恭、戸松昌訓、井山能知(編)『駒込絵図』〈江戸切絵図〉尾張屋清七、1854・嘉永7、NDLJP 1286675)に「新家彦次郎」の名がみえる。
  5. 5.0 5.1 藤田 2019 349
  6. 6.0 6.1 藤田 2019 350
  7. 藤田 2019 350 - 日本淘道会『淘宮』による。
  8. 8.0 8.1 8.2 藤田 2019 352 - 日本淘道会『淘宮』による。
  9. 大井 1868 15,42
  10. 鈴木 1966 9
  11. 大井 1868 20
  12. 藤田 2019 352
  13. 藤田 2019 353-356,367
  14. 藤田 2019 356-359,368-369
  15. 15.0 15.1 西川 1914 125
  16. 西川 1914 130
  17. 藤田 2019 348
  18. 18.0 18.1 西川 1914 126
  19. 19.0 19.1 藤田 2019 350 - 樋口 1998 による。
  20. 井上 1896 229
  21. 藤田 2019 370-371
  22. 藤田 2019 371

参考文献[編集]

  • 大井 (1868) 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、NDLJP 2209062/10
  • 井上 (1896) 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、NDLJP 1080793/118
  • 西川 (1914) 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、1914・大正3、NDLJP 908681
  • 鈴木 (1966) 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、7-9頁、NDLJP 2985880/8 (閉)
  • 藤田 (2019) 藤田英昭「幕末維新期の大奥と『淘宮術』」『論集大奥人物研究』東京堂出版、pp.345-371、ISBN 978-4490210200