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(ページの作成:「'''山﨑 拓'''(やまさき たく、1936年(昭和11年)12月11日 ‐ )は、日本政治家近未来政治研究会([[自由民主...」)
 
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'''山﨑 拓'''(やまさき たく、[[1936年]](昭和11年)[[12月11日]] ‐ )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[近未来政治研究会]]([[自由民主党]]の石原派、旧山崎派)最高顧問。
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<nowiki>'''山﨑 拓'''(やまさき たく、[[1936年]](昭和11年)[[12月11日]] ‐ )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[近未来政治研究会]]([[自由民主党]]の石原派、旧山崎派)最高顧問。
  
 
本名は'''山﨑 拓'''(やまさき ひらく<ref name="asahi">「[http://www.taku.net/media/show_text.php3?ID=6LAzt 朝日新聞社「一冊の本」 ―落日燃ゆの気概を秘めて―](雑誌『一冊の本』1999年4月号 朝日新聞社)」 [http://www.taku.net/ Fight TAKU!]、2010年4月24日閲覧。</ref><ref name="hanaiMiyazoe">花井寛脚本、[[みやぞえ郁雄]]絵「ひらく――山崎拓青春ストーリー」『[http://www.taku.net/profile/manga/04.html taku.net]』。</ref>)。自身のウェブサイトおよび報道等では'''山崎 拓'''(やまさき たく)と表記される。なお、本名「山﨑拓」の「﨑」の文字には[[JIS X 0208]]のコードが割り当てられておらず、コンピュータ上での使用に難があるため、報道などでは「崎」で代用されることが多い。また、本名の[[読み仮名]]は「やまさき ひらく」であるが<ref name="asahi"/><ref name="hanaiMiyazoe"/>、政治家になって以降は、[[有職読み]]のように名を[[音読み]]して「やまさき たく」と呼ばれることが多い。自身が出稿した[[選挙公報]]の記事内でも「やまさき たく」の読み方を使用している。
 
本名は'''山﨑 拓'''(やまさき ひらく<ref name="asahi">「[http://www.taku.net/media/show_text.php3?ID=6LAzt 朝日新聞社「一冊の本」 ―落日燃ゆの気概を秘めて―](雑誌『一冊の本』1999年4月号 朝日新聞社)」 [http://www.taku.net/ Fight TAKU!]、2010年4月24日閲覧。</ref><ref name="hanaiMiyazoe">花井寛脚本、[[みやぞえ郁雄]]絵「ひらく――山崎拓青春ストーリー」『[http://www.taku.net/profile/manga/04.html taku.net]』。</ref>)。自身のウェブサイトおよび報道等では'''山崎 拓'''(やまさき たく)と表記される。なお、本名「山﨑拓」の「﨑」の文字には[[JIS X 0208]]のコードが割り当てられておらず、コンピュータ上での使用に難があるため、報道などでは「崎」で代用されることが多い。また、本名の[[読み仮名]]は「やまさき ひらく」であるが<ref name="asahi"/><ref name="hanaiMiyazoe"/>、政治家になって以降は、[[有職読み]]のように名を[[音読み]]して「やまさき たく」と呼ばれることが多い。自身が出稿した[[選挙公報]]の記事内でも「やまさき たく」の読み方を使用している。

2020年1月8日 (水) 04:27時点における版

'''山﨑 拓'''(やまさき たく、[[1936年]](昭和11年)[[12月11日]] ‐ )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[近未来政治研究会]]([[自由民主党]]の石原派、旧山崎派)最高顧問。 本名は'''山﨑 拓'''(やまさき ひらく<ref name="asahi">「[http://www.taku.net/media/show_text.php3?ID=6LAzt 朝日新聞社「一冊の本」 ―落日燃ゆの気概を秘めて―](雑誌『一冊の本』1999年4月号 朝日新聞社)」 [http://www.taku.net/ Fight TAKU!]、2010年4月24日閲覧。</ref><ref name="hanaiMiyazoe">花井寛脚本、[[みやぞえ郁雄]]絵「ひらく――山崎拓青春ストーリー」『[http://www.taku.net/profile/manga/04.html taku.net]』。</ref>)。自身のウェブサイトおよび報道等では'''山崎 拓'''(やまさき たく)と表記される。なお、本名「山﨑拓」の「﨑」の文字には[[JIS X 0208]]のコードが割り当てられておらず、コンピュータ上での使用に難があるため、報道などでは「崎」で代用されることが多い。また、本名の[[読み仮名]]は「やまさき ひらく」であるが<ref name="asahi"/><ref name="hanaiMiyazoe"/>、政治家になって以降は、[[有職読み]]のように名を[[音読み]]して「やまさき たく」と呼ばれることが多い。自身が出稿した[[選挙公報]]の記事内でも「やまさき たく」の読み方を使用している。 [[福岡県議会]]議員(1期)、[[衆議院議員]](12期)、[[防衛庁長官]]([[宇野内閣|第47代]])、[[建設大臣]]([[宮沢内閣|第57代]])、[[自由民主党国会対策委員長|自民党国会対策委員長]]、[[自由民主党政務調査会長|自民党政務調査会長]]、[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]、[[自由民主党副総裁|自民党副総裁]]、自民党安全保障調査会長、自民党外交調査会長などを歴任。「山拓」「拓さん」の愛称で有権者に親しまれ、聴衆をひきつける演説、政治家としての高い見識、リーダーシップに定評があった<ref>http://www.data-max.co.jp/2013/05/10/post_16452_ymh_01.html</ref>。 == 来歴・人物 == === 出生から政治家になるまで === [[満鉄調査部]]員であり後に[[相模女子大学]][[学長]]を務める山崎進の子として、[[関東州]][[大連市]](現在は[[中華人民共和国]]の大連市)で生まれる。たまたま、同じ日に母方の祖父の山口慶八が、[[福岡県]][[三池郡]]開村(現在の[[みやま市]]の一部)で炭鉱開発に成功したため、父親に生まれてきた子の名を「開」とするよう電報を打った。父親は開拓の「拓」の字を名付け、読み仮名を炭鉱開発と満州開拓を掛けて「ひらく」とした<ref name="asahi"/><ref name="hanaiMiyazoe"/>。父方の祖父の[[山崎和三郎]]は、[[飯塚炭鉱]]を経営し、[[玄洋社]]の幹部であった。 [[第二次世界大戦]]の終戦後に帰国し、[[福岡県]][[福岡市]]で育つ。[[小学校]]3年生の時に、片目を[[失明]]し、[[隻眼]]となる。[[福岡教育大学附属福岡中学校|福岡学芸大学附属福岡中学校]]、[[福岡県立修猷館高等学校]]、[[早稲田大学]][[商学部]]卒業。付属福岡中学校の後輩に、中選挙区時代同選挙区で「拓・誠戦争」を争った[[太田誠一]]。なお、[[朝日ジャーナル]]編集長、[[朝日新聞]]編集委員などを務めた[[伊藤正孝]]とは、中学・高校・大学での同期で親友であった。[[学位]]は商学士(早稲田大学)。大学卒業後は、大手[[タイヤ]]メーカーの[[ブリヂストン]]で、5年間の[[サラリーマン]]生活を送る。 === 政治家としての経歴 === [[1967年]]に福岡県議会議員に当選。当時から演説では並はずれた弁舌で聴衆を引きつけ、大いに期待される存在であった。この頃に[[中曽根康弘]]に見出され、中曽根のすすめで[[第32回衆議院議員総選挙|1969年の総選挙]]に保守系無所属で出馬するも落選。浪人生活<ref>一時期、[[シュウマイ]]屋を開き、シュウマイを「[[駅弁]]」として売り歩いたこともあるが、上手く行かずにたたんでいる。</ref>を経て、[[1972年]]に衆議院に初当選(当選同期に[[小泉純一郎]]・[[加藤紘一]]・[[石原慎太郎]]・[[村岡兼造]]・[[保岡興治]]・[[瓦力]]・[[三塚博]]・[[越智通雄]]・[[野田毅]]・[[深谷隆司]]など)。同年輩の自民党議員の中では数少ない、非世襲の叩き上げで、防衛族として頭角を現していった。[[防衛庁長官]]、[[建設大臣]]を歴任する。 [[1985年]]、中曽根首相がドイツの[[主要国首脳会議|ボン・サミット]]に出席した際、山崎は官房副長官として同行。中曽根は[[ロナルド・レーガン|レーガン]]米大統領・[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]ソ連書記長・[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]英首相・[[フランソワ・ミッテラン|ミッテラン]]仏大統領・[[ヘルムート・コール|コール]]西独首相と個別に首脳会談を行った。この時、山崎は会談内容を全て記録した上で編集し、同行記者団に発表する重責をこなした。なお、ブリーフィングする際には、外務官僚の手を借りずに自分で行い、中曽根の意図を汲み取って国際世論をリードする内容にすることを心掛けていた。 [[1990年]]ごろから、旧[[平成研究会|経世会]]主導の自民党の政治運営を批判し、当選同期の小泉純一郎、加藤紘一とともに、[[YKK (政治同盟)|YKK]]を結成して活動していた。[[1995年]]に、[[橋本龍太郎]]自民党総裁の下で自民党政調会長に就任。[[1998年]]に、[[政策科学研究所 (派閥)|旧渡辺派]]から独立し、[[近未来政治研究会]](山崎派)を結成。 [[1999年]]、[[自由民主党総裁選挙|自民党総裁選]]に出馬し首相の座を狙う。総裁に選出されなかったものの[[小渕恵三]]、加藤に次ぐ51票を集め3位であった。これ以降、自民党総裁の有力候補として注目される。 [[2000年]]に[[第2次森内閣|森内閣]]の[[加藤の乱]]で倒閣に失敗し、加藤とともに政治生命の危機とも言われた。しかし、自民党主流派による山崎派への猛烈な切り崩し工作に遭ったにも関わらず、山崎派内の議員で山崎を裏切る者は殆どいなかった。このことから、多くの脱落者を出して派閥分裂を招いた加藤と比較して、山崎の人望や求心力は党内からも高く評価され、翌年以降の復権につながっていった。 [[2001年]]、YKKの盟友である[[小泉内閣]]が成立すると、自民党幹事長に抜擢される。小泉からは貴重な理解者として厚い信頼を寄せられ、党内基盤が弱い小泉を抵抗勢力から守る役割を担い、外交経験の乏しい小泉の貴重な補佐役としても活躍した。小泉と[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・ブッシュ]]米大統領による日米首脳会談の地ならしを行い、東南アジアや中東諸国を歴訪するなどして奔走。[[リチャード・アーミテージ|アーミテージ]]米国務副長官や[[盧武鉉]]韓国大統領とも会談している。また、[[アメリカ同時多発テロ事件]]の際には、与党3党米国テロ事件緊急対策協議会の座長として[[自衛隊法]]改正について協議する等、外交・安全保障政策の分野でも活躍した。 こうした働きぶりでポスト小泉の一角として再び首相候補に目されるようになった。[[2003年]]9月、副総裁に就任。しかし同年11月の衆議院選では落選、31年間保持していた衆議院議員の席を失い、副総裁も辞職。[[2004年]]、小泉のはからいで民間人の自民党憲法調査特別顧問および[[首相補佐官]]に就任。[[2005年]]の衆院補選に当選<ref>[[古賀潤一郎]]が学歴詐称の責を問われ辞職。</ref>して議席を回復し、同年の[[郵政民営化法]]案を審議する特別委員会筆頭理事として小泉の郵政民営化に尽力していたが、[[郵政解散]]の頃から小泉とは距離を置くようになる。同年、自民党安全保障調査会長に就任。これ以降、[[中国]]、[[韓国]]との関係をより重視する加藤紘一や[[福田康夫]]、[[古賀誠]]と連携を密にする。[[2006年]]に政権に就いた[[安倍晋三]]とは、対北朝鮮政策を巡って度々対立。安倍の外交姿勢は圧力に傾倒しており、日本の孤立化を招き、国益を損ねると批判した。 [[2007年]]1月、北朝鮮を電撃的に訪問し、行き詰まった北朝鮮の核問題や拉致問題の状況打開を図る。平壌で北朝鮮の[[宋日昊]]・日朝国交正常化交渉担当大使と会談。北朝鮮の核放棄や拉致被害者の日本帰国を迫ったが、実現には至らなかった。 2007年、[[安倍内閣]]が退陣すると、ポスト安倍に福田康夫を支持した。[[福田康夫内閣]]が成立すると、自民党外交調査会長に就任、引き続き外交や安全保障政策を中心に活動を行う。次いで[[麻生内閣]]においても再任された。自民党が大敗した[[第45回衆議院議員総選挙]]で、再び落選する。落選後も、山崎派会長職を2012年に[[石原伸晃]]に譲るまで務めた。 [[2010年]]の[[第22回参議院議員通常選挙]]に[[参議院比例区|比例区]]からの立候補を目指していたが、自民党の定年制度により公認されなかった。2010年3月頃、[[国民新党]]代表の[[亀井静香]]に同党入党を前提とした内閣参与入りを要請されたが、即時拒否した<ref>上野央絵「[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100413ddm005010064000c.html 亀井・国民新党代表:内閣に拓さん? 普天間問題など電話で懇願]」『毎日新聞』2010年4月13日東京朝刊。</ref>。[[2012年]]、次の選挙には出馬せず、引退を表明した。現在は自身が設立した近未来政治研究会の最高顧問を務めている。 == 政策 == === 安全保障政策 === [[憲法改正論議|憲法9条改正]]を長年にわたり主張し続けている。自身の著書『憲法改正―道義国家をめざして』の中に記述のある通り<ref>『憲法改正―道義国家をめざして』の第二部【自らの手で守る日本】の(五、新憲法の安全保障規定)に記載あり。山崎拓の公式サイト内で公開されている。</ref>、条件付きの陸・海・空軍の保持を唱えている。 山崎拓の主張する新憲法試案・改正条文(安全保障): 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、自衛権を行使する場合を除き、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、永久にこれを放棄する。日本国の主権と独立を守り、国の安全を保つとともに、国際平和の実現に協力するため、内閣総理大臣の最高指揮権の下、陸、海、空軍、その他の組織を保持する。」 <!--{{雑多な内容の箇条書き|date=2008年11月}}--> === 外交 === ==== 対北朝鮮外交 ==== 山崎は、朝鮮半島の非核化・拉致問題解決による日朝国交正常化を、自身の最重要政治課題の一つとしている。北朝鮮に対しては圧力一辺倒の外交姿勢でなく、制裁よりも対話を重視し、北朝鮮の政府関係者とも頻繁に会談を行ってきた。 [[2004年]][[4月1日]]、[[平沢勝栄]]と共に[[中華人民共和国|中国]]を極秘に訪れ、[[北朝鮮による日本人拉致問題|拉致問題]]について[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の高官と直接交渉を試みた<ref name="47news20040401">[http://www.47news.jp/CN/200404/CN2004040101003819.html 山崎、平沢両氏が訪中 拉致問題で北朝鮮と接触]. [[共同通信社]]. [[47NEWS]]. (2004年4月1日) 2014年4月25日閲覧。</ref>。山崎らの訪中は対北朝鮮交渉を政府間ルートに一本化するとの外交方針に反する可能性があるとして問題視された<ref name="47news20040401"/>。[[北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会|救う会]]は山崎らの行動を「拉致問題を政治利用している」と非難した<ref>[http://www.47news.jp/CN/200404/CN2004040401002206.html “「拉致問題を政治利用」 山崎、平沢両氏に批判集中”]. 共同通信社. 47NEWS. (2004年4月4日) 2014年4月25日閲覧。</ref>。 [[2006年]][[6月14日]]、[[2006年自由民主党総裁選挙|自民党総裁選挙]]で北朝鮮制裁派の安倍晋三が最有力候補になると、その対抗馬として「『ポスト小泉』の重要課題は『日朝国交正常化だ』と[[福田康夫]]に出馬を託し、自らの出馬を見送ることを宣言したが、このときの総裁選挙に福田は立候補しなかった。[[11月]]になり、北朝鮮の核問題について[[麻生太郎]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]が「隣の国が持つとなった時に検討も駄目、話もできない、意見交換も駄目というのは一つの考え方だが、いろいろ議論しておくことは大事だ」と発言したことに対して、「北朝鮮の核開発はけしからんと言っているときに、場合によってはわが国もやるぞ、という議論は成り立たない」と非難した。 [[2007年]][[9月18日]]の「内外情勢調査会」における講演で、北朝鮮の核実験を「核保有がはっきりしたという意味でやらせてよかった」と発言し、物議をかもした(後日、山崎は「北朝鮮の核実験を肯定するものではなく、北朝鮮が核兵器を放棄するよう全力で取り組む」と釈明している)。 [[2008年]][[6月12日]]、安倍が山崎が会長を務める[[日朝国交正常化推進議員連盟]]が北朝鮮への制裁解除と対話路線への転換を主張していることについて、「国会議員が、交渉を行っている政府よりも甘いことを言ってしまったのでは、政府の外交交渉能力を大きく損なう。百害あって一利なしだ」と批判をすると、「圧力一辺倒は幼稚な考えで、何ら前進がなかった」と反論した。17日に、山崎が安倍に発言の撤回と謝罪を要求したが、20日に、安倍は「対話路線で拉致問題が進展しなかったことを学習してもらいたい」と発言の撤回と謝罪を拒否した。21日、山崎は「国民感情として“拉致問題が完全解決しないと後のことはどうでもいい”というような感覚がありすぎる」と発言し、拉致問題だけを取り上げて北朝鮮批判一色の[[日本国]]の世論に苦言を呈し、「北朝鮮の核問題で重要な展開がある。足の引っ張り合いをやっている時ではない」と主張した。さらに[[6月28日]]、「安倍前首相の対北朝鮮外交は犬の遠吠え。[[小泉純一郎|小泉]]元首相のように直接乗り込んで交渉しないとダメだ」と[[テレビ西日本]]の報道番組で発言し、2002年以降は北朝鮮を訪問していない安倍を批判した<ref>“安倍外交は「犬の遠ぼえ」山崎氏、対北朝鮮で”. 産経新聞. (2008年6月28日)</ref>。[[7月24日]]には、拉致問題の進展がなければ北朝鮮への経済・エネルギー支援に参加しないとの日本政府の方針に対して『中国や韓国などとの関係で日本が窮地に陥る。6カ国協議での朝鮮半島の非核化実現ほど重要なものはない』と発言した。 [[2009年]][[3月18日]]、北朝鮮が日本に向けた核ミサイル発射実験を行うことを表明すると、[[麻生太郎]]はミサイルを迎撃することを宣言した。これに対して、山崎は「阻止するためには対話しかない。北朝鮮の金英逸首相が北京に行ったこの機会が現時点では一番いい機会だ。制裁を強化しても構わないが、今まで効果がほとんどなかった。国際社会と足並みをそろえてやっていくべきだ」と、中国と連携した対話路線を行うことを求めた。 == 政歴 == * [[1967年]] - 福岡県議会議員に当選。 * [[1969年]][[12月27日]] - [[第32回衆議院議員総選挙]]([[福岡県第1区 (中選挙区) |旧福岡1区]]・無所属)落選。 * [[1972年]][[12月10日]] - [[第33回衆議院議員総選挙]](旧福岡1区・無所属)当選。 * [[1976年]][[12月5日]] - [[第34回衆議院議員総選挙]](旧福岡1区・自民党公認)2期目当選。 * [[1978年]][[12月7日]] - [[厚生省|厚生]][[政務次官]]就任([[第1次大平内閣|第1次大平正芳内閣]])。 * [[1979年]][[10月7日]] - [[第35回衆議院議員総選挙]](旧福岡1区・自民党公認)3期目当選。 * [[1980年]] ** [[6月22日]] - [[第36回衆議院議員総選挙]](旧福岡1区・自民党公認)4期目当選。 ** [[7月17日]] - [[防衛庁|防衛]]政務次官就任([[鈴木善幸内閣]])。 * [[1983年]][[12月18日]] - [[第37回衆議院議員総選挙]](旧福岡1区・自民党公認)5期目当選。 * [[1984年]][[11月1日]] - [[内閣官房副長官]]就任([[第2次中曽根内閣第1次改造内閣|第2次中曽根康弘内閣第1次改造内閣]])。 * [[1986年]][[7月6日]] - [[第38回衆議院議員総選挙]](旧福岡1区・自民党公認)6期目当選。 * [[1989年]][[6月3日]] - [[防衛庁長官]]就任([[宇野内閣|宇野宗佑内閣]])。 * [[1990年]][[2月18日]] - [[第39回衆議院議員総選挙]](旧福岡1区・自民党公認)7期目当選。 * [[1991年]][[11月5日]] - [[建設大臣]]就任([[宮澤内閣|宮澤喜一内閣]])。 * [[1993年]][[6月18日]] - [[第40回衆議院議員総選挙]](旧福岡1区・自民党公認)8期目当選。 * [[1996年]][[10月20日]] - [[第41回衆議院議員総選挙]]([[福岡県第2区|福岡2区]]・自民党公認)9期目当選。 * [[1998年]] - 旧渡辺派を離脱して山崎派([[近未来政治研究会]])を結成。 * [[1999年]][[9月22日]] - [[自由民主党総裁選挙]]に出馬。3位で落選。 * [[2000年]] ** [[6月25日]] - [[第42回衆議院議員総選挙]](福岡2区・自民党公認)10期目当選。 ** [[11月20日]] - [[加藤紘一]]と共に[[第2次森内閣|森内閣]]の倒閣運動をしたため失脚する([[加藤の乱]])。 * [[2001年]]4月 - [[自由民主党幹事長]]就任。 * [[2003年]]9月 - [[自由民主党副総裁]]就任。 * 2003年[[11月9日]] - [[第43回衆議院議員総選挙]](福岡2区・自民党公認)落選。自民党副総裁を辞職。 * [[2004年]][[9月27日]] - [[内閣総理大臣補佐官]]就任([[第2次小泉改造内閣|第2次小泉純一郎改造内閣]])。 * [[2005年]] ** [[4月24日]] - 衆議院議員補欠選挙(福岡2区・自民党公認)11期目当選。 ** [[9月11日]] - [[第44回衆議院議員総選挙]](福岡2区・自民党公認)12期目当選。 ** [[11月9日]] - [[靖国神社]]とは別に新たな追悼施設の建設を目指す議員連盟「国立追悼施設を考える会」を発足させ、会長に就任。 * [[2007年]][[12月18日]] - [[自由民主党朝鮮半島問題小委員会]]を創設して最高顧問に就任。 * 2008年 ** [[5月16日]] - 公明党の[[東順治]]、民主党の[[川上義博]]らと[[日朝国交正常化推進議員連盟]]を発足させ、会長に就任。 ** [[6月9日]] - [[加藤紘一]]と一緒に、[[森喜朗]]と[[青木幹雄]]のもとに出向き、[[加藤の乱]]について「迷惑をかけた」と発言した。 * [[2009年]][[8月30日]] - [[第45回衆議院議員総選挙]]にて、民主党新人の[[稲富修二]]に大差をつけられ敗北。[[惜敗率]]の差で比例復活も叶わず落選。 * [[2012年]][[12月20日]] - 山崎派([[近未来政治研究会]])会長辞任、最高顧問就任。 == 主な役職 == *[[自由民主党朝鮮半島問題小委員会]](最高顧問) *障害保健福祉推進議員連盟(会長) *[[国立追悼施設を考える会]](会長) *[[液化石油ガス|LPG]]対策議員連盟(会長) *[[国際連合|国連]]ハビタット(国連人間居住センター)推進議員連盟(会長) *[[日本とインドネシアの関係|日本・インドネシア]]友好議員連盟(会長) *[[日越関係|日本・ベトナム]]友好議員連盟(名誉会長) *[[日韓議員連盟]] *[[日朝国交正常化推進議員連盟]](会長) *[[北京オリンピックを支援する議員の会]] *自民党九州ブロック両院議員会(会長) *自民党障害保健福祉推進議員連盟(会長) *日本[[置き薬]]議員連盟(会長) *有床[[診療所]]の活性化を目指す議員連盟(会長) *自民党全国保育関係議員連盟(顧問) *[[新憲法制定議員同盟]](顧問) *柔道振興議員連盟(最高顧問) *[[日本ソフトボール協会]](会長) *福岡県[[ボウリング]]連盟(会長) == その他 == * 2012年、同年秋の叙勲の中では最高位の[[旭日大綬章]]を受章。皇居・宮殿「松の間」で行われた親授式で、天皇から勲章を手渡された<ref>http://www.47news.jp/CN/201211/CN2012110801001420.html</ref>。 * 1999年、第12回日本メガネベストドレッサー賞を受賞している(政界部門)<ref>http://www.ioft.jp/Concurrent-Events/</ref>。 * 2005年5月21日に、郵政民営化をめぐって解散総選挙の可能性が浮上していた頃、自民党県連パーティーで「衆院解散・総選挙は小泉政権のブラフ(脅し)と言う人もいるが、解散になって一番困るのは先月当選したばかりの私だ」と、2005年4月に自分が補選で当選してきたことをあげて笑いを誘った。 * 2003年4月22日、春季例大祭に合わせて[[靖国神社]]に参拝している。他の参拝者は[[橋本龍太郎]]、[[古賀誠]]、[[平沼赳夫]] 、[[二階俊博]]等であった。 * 尊敬する人物は、[[東京裁判]]においてA級戦犯として死刑になった元首相の[[広田弘毅]]。山崎の母校・[[福岡県立修猷館高等学校|修猷館高校]]の大先輩である<ref>http://www.taku.net/pp/jitsugen/k000.html</ref>。 == 趣味 == [[柔道]]と[[野球]]、[[囲碁]]が好きで、特に柔道は臆病な自分の心を奮起させるため中学から始め、最終的には六段になった。ソフトボールは地元事務所でチーム(拓サンデーズ)を組み定期的に試合をしている。また、[[日本ソフトボール協会]]の会長を務めている。囲碁は[[アマチュア]]五段。 == 著書 == * 『転換期の光芒―厚生政務次官日記』り-ぶる出版企画、1980年5月 * 『転機に立つ日本の防衛』り-ぶる出版企画、1982年5月 * 『アジア太平洋時代と日米安保 : 寄稿・講演・対談集』サンドケー出版局、1996年9月、ISBN 4914938987 * 『2010年日本実現』ダイヤモンド社、1999年7月、ISBN 4478180245 * 『憲法改正―道義国家をめざして』生産性出版、2001年5月、ISBN 4820117106 == 参考文献 関連書籍 == * 『山崎拓・全人像』黒田京平著、行研出版局、1993年2月 ISBN 4905786940 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == * [[YKK (政治同盟)]] * [[進藤一馬]] * [[政策科学研究所 (派閥)]]、[[近未来政治研究会]] == 外部リンク == * [http://www.taku.net/ Fight TAKU!](公式サイト) {{Wikipedia/Ja}} {{DEFAULTSORT:やまさき たく}} [[Category:日本の閣僚経験者]] [[Category:日本の内閣総理大臣補佐官経験者]] [[Category:自由民主党幹事長]] [[Category:自由民主党の衆議院議員]] [[Category:福岡県選出の衆議院議員]] [[Category:福岡県の地方議会議員]] [[Category:ブリヂストンの人物]] [[Category:隻眼の人物]] [[Category:日本の引揚者]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:満州国出身の人物]] [[Category:大連出身の人物]] [[Category:福岡市出身の人物]] [[Category:1936年生]] [[Category:存命人物]]