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2021年6月17日 (木) 01:53時点における最新版

太平洋学術会議(たいへいようがくじゅつかいぎ)、汎太平洋学術会議(はんたいへいようがくじゅつかいぎ)

創設[編集]

エール大学の教授だったハワイ地質学グレゴリーEnglish版らの発議で創設された[1]

第1回[編集]

1920年、ハワイのホノルルで第1回汎太平洋学術会議(Pan Pacific Science Congress)開催[1]

第2回[編集]

1923年、オーストラリアのシドニーメルボルンで開催[1]

第3回[編集]

1926年(大正15)秋、東京および京都で開催[2][3][1]。総裁:閑院宮載仁、会長:桜井錠二[1]

このとき桜井が会議名に「汎」は不要ではないかと指摘し、第4回から会議名が太平洋学術会議に改められた[1]

資料[編集]

  • 汎太平洋学術会議準備委員会(編)『第3回汎太平洋学術会議 要報』汎太平洋学術会議準備委員会、1925年、NDLJP 981233
  • 第三回汎太平洋学術会議常務委員会(編)『第3回汎太平洋学術会議 第2要報』第三回汎太平洋学術会議事務所、1926年7月、NDLJP 1885829 (閉)
  • 『第3回汎太平洋学術会議 海外参列者名簿』第三回汎太平洋学術会議事務所、1926年10月、NDLJP 1885827 (閉)

第4回[編集]

1929年(昭和4)、蘭領東インドジャカルタ(バタビア)とバンドンで開催[1][3]。同年5月16日にバタビヤで開会式が行われ、同月18日から25日までバンドンで学術会合が催された[3]

  • 同年5月9日に日食があり、日食の観測に参加した全世界の天文学者を会議にも参加させるつもりで日程が決められた[2]

大会は、物理学的科学部・生物学的科学部・農学的科学部の3部門に分かれて、各部門が部会、小部会、聯合部会、聯合小部会等を開催して、各専門的問題の協議討論を行った[3]。また会議前の同年5月14日-16日、会議中の16日-25日、会議後の26日-6月4日に、各専門に分かれて見学旅行が催行された[3]

日本代表は50数名が参加[4]。それまでの会議では主催国がある程度、各国代表の滞在費を賄っていたが、第4回会議の外国代表の参加者が多かったため、次回以降、公式代表の数が割当てられるようになった(米国25 カナダ20(のち10) 日本15 濠・英など各5)[4]

第5回[編集]

1932年、カナダバンクーバーで開催[4]ないし1933年にカナダのビクトリア・バンクーバーで開催[5]

この後しばらく、開催を申し出る国が無かった[4]

第6回[編集]

1939年、アメリカ・カリフォルニア州バークレーサンフランシスコおよびスタンフォードで開催[4]

この後、1942年に第7回会議をフィリピンマニラで開催予定だったが、太平洋戦争勃発のため実現しなかった[4]

第7回[編集]

1949年、ニュージーランドオークラインドクリストチャーチで開催[4][5]。日本は占領中で代表の派遣を許可されず、連合軍総司令部の科学者数人が日本の科学技術論文百数十編を携行して出席した[4]

第7回会議で、太平洋学術協会が事務局をハワイ・ホノルルのビショップ博物館English版におくことが決議された[4]

第8回[編集]

1953年、フィリピン・マニラ市外ケゾン市フィリピン大学で開催[4]。日本から30数人の代表団が出席した[4]

日高 (1962 42)は、この頃、フィリピンではまだ対日感情が回復していなかったが、会議で日本の科学者がフィリピンの科学者たちと交流したことが国交調整に多大の効果があった、としている。

第9回[編集]

1957年にタイバンコクチュラロンコーン大学で開催[4]。日本代表30数人が参加[4]

第10回[編集]

1961年8月21日から9月2日まで、米国ハワイ州ホノルルのハワイ大学構内で開催。日本代表約140人を含むおよそ2,600人が参加した。[1]

8月21日朝の開会式の後、同日午後からシンポジウム・部会の学術講演・討論に入り、畜産、作物、土壌、人類学、社会学、植物学、陸水学、海洋生物学、動物学および昆虫学、自然保護学、林学、森林生物学、森林経営学、林産、地理学、地球物理学、気象学、海洋学、地質学、栄養学、厚生医学、学術情報など広汎な分野で140余のシンポジウムが討議された[1]。学術講演は午前中に行われ、午後は市内や近郊の見学視察に当てられることが多かった[1]

第10回会議の理事会では、

  • 論議される学術の分野があまりに広すぎ、近代の国際会議では検討の分野が限定され、シンポジウムのような小さいグループ討論に移行しつつあるのに、時代に逆行していること
  • 太平洋という地域性と無関係な物理学化学のような分野が入ってきたこと

が問題とされ、いくつかの国際学会に分割した方がよいかなど、将来の会議のあり方に関する小委員会が結成された[4]

第11回[編集]

1966年、8月21日から9月8日にかけて、東京で開催[5]

日本学術会議は中央事務局と12部門の組織委員会を設置[5]。12部門は順に気象/海洋/地球物理/地質/生物/農学/水産/医学/社会/人類/地理/学術情報・博物館[6]

日本が正式に代表を招待した国は加盟国46カ国と名誉加盟国7カ国[7]

8月22日、日本武道館での開会式の後、同23日から27日午前にかけて東京大学でシンポジウムを開催[8]。翌週の29日から9月2日にかけて組織委員会の部門別に部会が開催され、第3週は東京以外の地域での野外の調査を目的とした旅行が催行された[9]

第12回[編集]

1971年にオーストラリアで開催(予定)[5]

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]