夏侯惇

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夏侯 惇(かこう とん、? - 220年)は、中国後漢末期の武将元譲(げんじょう)[1]。子に夏侯充夏侯楙夏侯子臧夏侯子江。孫に夏侯廙夏侯佐。曾孫に夏侯劭。兄弟に夏侯廉

生涯

豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の出身[1]前漢劉邦に仕えた夏侯嬰の後裔という[1]

若い頃から激情の持ち主で、先生について学問していたがその先生を侮辱した男がいたため、すぐさまその男を殺害してその気性を知られるようになった[1]曹操の挙兵時から従う股肱であり、呂布との戦いで流れ矢を左眼に受けて以後『盲夏侯』と呼ばれた[1]。勇猛の武将でその名は敵味方に広く知られた[1]

219年王国の前将軍に任命される。それには裴松之の駐によると、当時の諸侯は全員曹操の魏王国から官位を得ていたが、夏侯惇だけはあくまで後漢王朝の家臣で官位も後漢から得ていた。そこで夏侯惇は上疏して自分は不臣の礼(臣下として扱わない特別待遇、つまり曹操の家臣ではない特別の存在として夏侯惇は厚遇されていた)に該当するほどの人間ではないと述べた。曹操はそれに対し「最高の扱いは臣下を先生として遇することであり、その次は臣下を友人として遇することであるとわしは聞いている。そもそも、臣下とは徳義を尊ぶ人のことである。取るに足りぬ魏が、どうして臣下として君に頭を下げさせようか」と言ったのだが、夏侯惇はあくまでも魏の官位を要請したため、前将軍にしたという。

夏侯惇は陣中にあっても先生を迎え、親しく講義を聴いていた[2]。性格は清潔で慎ましやかで余分な財貨があると人々に分け与え、不足の場合は役所から支給を受けて蓄財することはなかった[2]

220年、曹操が亡くなり息子の曹丕が跡を継ぐと、夏侯惇は大将軍に任命される[2]。しかし曹操の後を追うように数ヵ月後に死去した[2]

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 伴野朗『英傑たちの三国志』、P84
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 伴野朗『英傑たちの三国志』、P85

参考文献