「古田順子」の版間の差分

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(被害者人物)
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発見当初は元の顔がわからないほど原形をとどめていなかったが、司法解剖と指紋鑑定の結果、行方不明になっていた本人のものと一致した。
 
発見当初は元の顔がわからないほど原形をとどめていなかったが、司法解剖と指紋鑑定の結果、行方不明になっていた本人のものと一致した。
  
享年17歳。
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享年17歳。誕生日目前で殺されたため、18歳の誕生日を迎える事はなかった。また、1989年1月7日に元号が「昭和」から「平成」になったが、「平成」を迎えることなく短い生涯を閉じることとなった。
 
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== 事件概要 ==
 
== 事件概要 ==

2014年8月23日 (土) 22:40時点における版

殺された古田 順子さん

古田順子(ふるた・じゅんこ)(1971年1月18日-1989年1月5日)さんは埼玉県立八潮南高等学校の学生(当時)であり、女子高生コンクリート詰め殺人事件の被害者。

被害者人物

在学当時の友人の話ではアイドルに憧れていたとの事であり、成績はトップクラスだったという。

家電量販店の就職面接もクリアしており、卒業後はそこに就職する予定だった。

1988年11月25日を最後に行方不明となっていたが、翌年3月29日、本事件の主犯格や共犯者の供述によって下記の項目の事実が明らかとなり、江東区若洲の埋立地(現在の若洲海浜公園の敷地)でドラム缶にコンクリート詰めにされた遺体として発見された。

発見当初は元の顔がわからないほど原形をとどめていなかったが、司法解剖と指紋鑑定の結果、行方不明になっていた本人のものと一致した。

享年17歳。誕生日目前で殺されたため、18歳の誕生日を迎える事はなかった。また、1989年1月7日に元号が「昭和」から「平成」になったが、「平成」を迎えることなく短い生涯を閉じることとなった。

事件概要

◆アルバイト帰りの女子高生を誘拐し、脅迫した上で不良仲間の家に連れ込む。

◆不良仲間の家に監禁し、暴走族仲間十数人で輪姦、左記を知る関係者は100人に及ぶ。

◆陰毛を剃り、陰部にロケット花火の軸木を挿入して発射させる。

◆全裸にしてディスコの曲に合わせて踊らせ、自慰行為を強要される。

◆ゴキブリを食べさせられる。

◆性器や肛門に鉄棒、ビンなどを挿入される。

◆性器や肛門に入れたビンに釘を打ち肛門内、性器内で割られた。

◆両鼓膜が激しく傷ついており、最後のほうはほとんど音が聞こえていなかった。

◆小指の生爪を剥がされた。

◆度重なる暴行に耐えかねて、「もう殺して」と哀願することもあった。

◆左乳首はペンチのようなもので潰された。

◆顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両眼瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てられた。

◆衰弱して自力で階下の便所へ行くこともできず飲料パックにした尿をストローで飲まされた。

◆鼻口部から出血し、崩れた火傷の傷から血膿が出、室内に飛び散るなど凄惨な状況となった。

◆素手では、血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、腹部、肩などを力まかせに数十回強打。

◆1.74kgのキックボクシング練習器で、ゴルフスイングの要領で力まかせに多数回殴打。

◆揮発性の高いジッポオイルなどを太腿部等に注ぎ、ライターで火を点ける。

◆固まった血で鼻が詰まり、口呼吸しかできなかった。

◆最初は手で火を消そうとするしぐさをしたものの、 やがてほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横臥したままになった。

◆あまりの地獄に、脳が自ら活動を停止する「自死」という状態だった。

◆臨死状態の被害者をこんなの仮病とばかりに容赦ない殴打を浴びせた挙句に、ダンベルを1メートル以上の高さから腹部に向けて落とす。

◆再現動画や映画と違って逮捕された四人以外からも殴打を受けており、死後も殴られている。

◆実際に被害者が亡くなったとわかったのは上記の後であり、証拠隠滅としてコンクリート詰めにして放置。

◆遺体の乳房には数本の裁縫針が入っていた。

◆監禁中の被害者の様子が撮影された家庭用ビデオテープが被害者がコンクリート詰めにされたドラム缶の中から発見された。

◆監禁された部屋に被害者の遺品となった下着が残っていた。

◆腸壁にも傷があった。

◆受精していた。

◆歯茎にまともに付いている歯は一本もなかった。

◆あまりのストレスに生前頭髪が抜け落ちていた。

◆遺体の性器には、オロナミンCの瓶が2本突き刺さっていた。

◆性器と肛門、顔面は完全に破壊され原型をとどめていなかった。

◆腕や足は、重度の火傷で体液が漏れ出していた。

◆解剖してみると、脳が萎縮して小さくなっていた。

平成元年3月29日(練馬少年鑑別所)

綾瀬警察署から2人の捜査官が派遣。平成元年1月23日に昭和63年の11月8日に強姦窃盗などにより少年鑑別所に送られた少年を取り調べた際、担当の刑事がなにげなく言った(他の事件のことでカマをかけた)。

「お前人を殺しちゃ駄目じゃないか」に、「すみません、殺しました」と自供。

この時、横山 裕史(旧姓は宮野)は、どきっとしてこの事件を知ってる他の3人が言ったと思い自供した。別室で行われてたもうひとりの取り調べ神作 譲(旧姓は小倉)の担当捜査官に連絡。このことを神作 譲(旧姓は小倉)に話すと、顔色が変わり、あまりにも凄惨な事件について話し出す。

担当官は当初の目的であった余罪の窃盗に関する調書を取ることなく、半信半疑のまま自供内容をたよりに、東京江東区若洲15号地海浜公園整備工場現場空き地へと向かった。

現場にはひとつだけドラム缶が転がっており、周囲にはタバコの吸い殻がたくさん落ちていた。ドラム缶に詰められたコンクリの隙間から変な匂いがし、305キロあるドラム缶をクレーンでトラックにつりあげ持ち帰る。

翌日、警察署内で解体が行われた。中にはボストンバックに詰められた女性の死体が入っており、死後2ヶ月以上経過していたが、さほど腐敗してはいない。コンクリで密閉されていたため蠅が卵を産み付けられなかった為と思われる。死体の皮下脂肪の厚さは通常の3分の2になっており大変な栄養失調状態であった。全身に殴打による浮腫があり、浮腫→体の組織間隙にリンパ液が多量にたまり腫れ上がった状態。約半日以内に処置を行わなければ外傷性ショック状態に陥る。死因は外傷性ショックによる意識不明、胃の内容物を吐いたことによる窒息死。

遺体は顔面が変形陥没などしてひどく傷んでいたため、外見からの確認は困難だったが、指紋などの照合から、昭和63年11月25日夜アルバイト先からの帰宅途中で行方不明になった埼玉県三郷市高州1丁目の県立八潮南高校3年生古田順子さんであることが確認された。

被害者は、八潮市内のアルバイト先に行ったまま帰宅しないと吉川署に捜索願を出されていた。両親は、同女が無事に帰ってくることを心待ちにし、父親は仕事を休んで行方を必死に探していた。

その後、被害者の母親は、順子さんが死に至った詳しい経過を聞かされたあと、精神状態が不安定になり、精神科に通院治療を受けることになった。

昭和63年11月25日夜 午後6時

湊 伸治の家に横山 裕史(旧姓は宮野)がやってくる。「今日は給料日だからひったくりに行く」と誘う。知り合いの家でバイクをもう一台借り埼玉県三郷へ。その日は、バックはひったくったが現金は取れず。

午後8時過ぎ。自転車で帰宅途中の純子さんを見つけた横山 裕史(旧姓は宮野)が、「オレがうまくやってやるから、あの女を蹴れ」と指示。湊 伸治に自転車を蹴られた純子さんは、道路の側溝に自転車もろとも倒れる。湊 伸治が逃げ去った後、横山 裕史(旧姓は宮野)が現場に現れ、

「あいつはキチガイだ。オレも脅された。この辺りは危ないから送っていきましょう。」と言葉をかけ近くの倉庫内に連れ込むと態度を変える。

「さっきの奴とオレは仲間だったのさ。お前のことを狙ってるヤクザだ。オレは幹部だから、オレの言うことを聞けば、上の方になんとかとりなしてお前の命だけは助けてやる」と脅し、タクシーでホテルに連れ込む。

午後10時頃。神作 譲(旧姓は小倉)がCの家に行く。湊 伸治はまだ帰ってきておらずDが来ていた。間もなく湊 伸治が帰宅。その間、横山 裕史(旧姓は宮野)から数回電話がかかってきて

「女といっしょにいる。お前ら、やりたいか?」「11時にさっきバイクを借りた家に来い」と神作 譲(旧姓は小倉)、湊 伸治、渡邊 恭史に指示を出す。

被害者を含め合計5人になった一行は夜の町をブラブラ歩く。ときおり、「ヤクザの車が来た隠れろ」などとさらに被害者を脅迫。湊 伸治の近くの公園に行き、横山 裕史(旧姓は宮野)は湊 伸治を連れてバイクを返しに、そのまま、生花店経営者に会い酒を飲みだす。

その間、約2時間。公園に待たされた3人。寒さに耐えきれなくなった神作 譲(旧姓は小倉)とDは純子さんを連れて湊 伸治の部屋に入る。つまり、この時点で被害者である純子さんに自分たちの住んでいるところを知られてしまい、返すことができなくなった。

また、湊 伸治と被害者は初対面ではなく、美人の順子さんを気に入った湊 伸治が「手に入れる」と何度も言っていた。

11月28日

午後5時。コンビニの前で、ぶつかったという男を殴っていた横山 裕史(旧姓は宮野)が「おまえら、今日ヒマか?」と、EとFに夜になったら湊 伸治の家に来いと告げる。

午後11時。家族が寝静まった後、Fが横山 裕史(旧姓は宮野)を迎えに行く。「いいもん見せてやるから行こうぜ」と、湊の家へ。

横山 裕史(旧姓は宮野)が合図すると二階から湊 伸治が顔を出し二階に上がる。数日前にFが横山 裕史(旧姓は宮野)らと服飾店から盗んだ縞模様の長袖Tシャツと黒のスカートに、着替えされられた純子さんが部屋の真ん中に座っていた。

湊 伸治の母親が夜中に湊 伸治の部屋がうるさいということで目を覚まし、二階に上がってドアを叩き部屋の中の様子を見ているが、湊 伸治の部屋は天井の蛍光灯が壊れており、床に置かれたスタンドしか照明はなく薄暗かった為、ちゃんとした確認は出来ず。

横山 裕史(旧姓は宮野)の提案でカゼ薬を覚醒剤だということにしてみんなで飲み、ラリったふりして襲いかかる。怖がって悲鳴をあげて逃げ出す純子さんの足をつかんで倒す。横山 裕史(旧姓は宮野)はFに、

「ボサっとしてんじゃねえよ。なにかで押さえろ」

Fは近くにあったクッションを顔にかぶせ押さえつけたが再度悲鳴を上げられる。その悲鳴で目を覚ました湊の父親が、「いま、悲鳴みたいなのが聞こえたぞ。なにやってんだ」と、ドアの前まで来て言ったがCに「うるせえな。なんでもないから下いけよ」と言われ、それ以上なにも言わず。

湊 伸治の父親が来たのは純子さんが悲鳴をあげたせいだと横山 裕史(旧姓は宮野)と小倉が怒り「声だすんじゃねえよ」と、ふとももを中心に足全体を殴る。それにより、純子さんはすくんでしまい声を出すのを止めた。

その後、陰部にライターを入れ着火するなどの凌辱行為と輪姦。最初興味半分に見ていたEとFだが、さすがに怖くなり「おまえらもやれ」横山 裕史(旧姓は宮野)の命令に、「やですよ」と拒んだが、「てめえらふざけんじゃねえ」と小倉がスニーカーを手に持って振り上げEとFに投げつける真似などをして脅される。

その間純子さんは放心状態でまばたきもせず天井の一点を見ていた。

11月30日

横山 裕史(旧姓は宮野)の提案で、外の公衆電話から純子さんの母親や親友に、「友達の家にいるから捜索願は出さないで」と電話させる。

湊 伸治の母親が台所にいたとき、玄関から「今晩わ」と少女が連れられて入ってきた。「もう遅いから帰りなさい」と言ったが返事をせず二階に上がって行く。湊 伸治の父親も湊 伸治が降りてきた時「早く返せ」と言った。

翌日、湊 伸治にあの子は帰ったと言われ、深く考えずに帰ったものだと湊 伸治の両親は疑問を抱かず。この時は、純子さんが隙をうかがい外に出ようとして発見され連れもどされた時だった。

一週間後、湊 伸治の母親がトイレを掃除してたら、ゴミ箱から生理用品が出てきたので、「いやだ、まだいるんだわ」と二階にあがる。

二階には渡邊 恭史と純子さんがいた。「どうしてここにいるの」と聞いたが純子さんは答えない。

「家出するからには相当な理由があるんでしょうから、どうしても言いたくなかったらいい。でも、お名前は?」と聞いたがそれにも答えない。

住所は埼玉の方、何歳かと聞いたら高校三年生でもう就職は決まっているとだけ言った。「お母さんが心配しているでしょうから、早く家に帰りなさい」と言っても返事をしない。Dが「帰った方がいいよ」と言い、ご飯を食べてから帰すことになり、下に降りた。

食事を始める前に湊 伸治が帰ってきて食事中に父親が帰ってくる。父親は少女を見て、「ガールフレンドか。オレにも紹介しろよ」と息子に声をかけるが無視される。食事が終わった後、少女が茶碗や皿を片づけているのを見て「やっぱり、女の子はいいな」とも。

食べ終わってからは、渡邊 恭史らとテレビを見たりファミコンをやって仲良さげにしていた。また、この時、少女がタバコを吸っていたのを母親は見ている。

それから、また二階に上がって行ったので、なんで帰らないんだろう早く帰ってほしいとイライラした。

純子さんは横山 裕史(旧姓は宮野)に、「家に帰って警察に訴えたら、オレ達が捕まっても仲間のヤクザが何十人もいる。そいつがお前の家に火をつけて、家族を皆殺しにする。お前たちを必ず殺しに行くぞ」と脅されていた。また、「オレたちは、お前を狙っているヤクザからお前を守ってやってるんだ。」とも

翌日湊 伸治の部屋に母親が上がったら、少女と神作 譲(旧姓は小倉)とDがいた。

「必ず帰るのよ」と約束したのに、なぜ帰らないんだろうと「この家には、男の子が二人いるのよ。どういうことになるかわかるでしょう」「オレたちはやってないよ」と小倉。「でも、ここはヤクザみたいなの(宮野のこと)が出入りしているから、すぐ帰りなさい」と言っても動く気配なし。

自分一人の説得じゃ無理だと思い、夫の勤務先に電話するがいない。小倉宅の電話番号を知る為に、近くに住む小倉の祖母に会いに行くがこのことについて話は出来ずに帰る。

家に戻ると湊 伸治の父親が帰ってきたので、二人で二階に上がり説得を続ける。母親は少女の手を引っ張ったり腕を抱えたりして立たせようとするが立ち上がらない。「とにかく帰りましょう」と、少女のハンドバックと靴を持ち、下に降りる。なにか身元の手がかりはないかと、探した少女のハンドバックの中から自宅の電話番号らしいものを発見する。

わざわざ小倉の祖母宅に行き電話を借りる。(余計なことをしたのがばれると湊 伸治に殴られるから)

「お宅に、こういうお嬢さんはいらっしゃいますか」「おりますが、今はいません」「失礼ですが、そのお嬢さん、タバコを吸いますか」「ええ、吸いますけど」

不審に思った純子さんの母親が「どなたですか?」と訪ねたが、湊 伸治の母親は偽名を名乗り電話を切る。

家に帰ると、居間で湊 伸治の父親と少女が話をしていた。

「じゃ、帰ることにしたのね。お母さんが心配しているでしょうから、すぐ家に「これから帰る」と電話しなさい」

「いいんです。前にも電話してますから」

「それじゃ、そこまで送って行くわ」

「1人で帰れますから・・・」

「タクシー代もってる?あげましょうか」

「あります。大丈夫です」

「そう、まっすぐ帰りなさいね」

「わかりました」

少女はそう言って玄関に出た。が、外には小倉と湊 伸治の兄が待機しており、純子さんを帰すかどうか横山 裕史(旧姓は宮野)と相談するため公園で待つ。両親が寝静まるのを待って電柱をよじのぼり二階の湊 伸治の部屋に戻る。

また、帰宅した湊 伸治は、仲間からそのことを聞き、「関係ねえことするんじゃねえ」と母親を数時間にわたり殴る。以後、湊 伸治の両親は純子さんが帰ったものだと疑わず。湊 伸治の家は、敷地30坪。一階に居間兼夫婦の寝室台所浴室トイレ、二階に長男の部屋と湊 伸治の部屋。そして湊 伸治の部屋のドアノブは壊れていて内側からしか開かない。

12月始め午後4時頃

4人が昼寝してた隙に、純子さんが下に降り、110番通報。すぐ横山 裕史(旧姓は宮野)に気づかれ電話を切り殴る。警察が逆探知をして、「何かあったのですか」とかけ直してきた電話には宮野が出て誤魔化す。

それまで、仲がいいように見せていたのが全部だまされたと思い。裏切ったらどうなるか教えるために、純子さんを全員でリンチしライターのオイルを足首にかけ火をつける。

12月11日

横山 裕史(旧姓は宮野)の暴力団で忘年会が行われる。そこで、横山 裕史(旧姓は宮野)をリーダー、他3人をメンバーとした「極青会」を作る話がきまり、三次会の席で、組の銀バッチを貰う。横山 裕史(旧姓は宮野)は、恋人である渡邊 恭史の姉や友人にそのバッジを見せに行く。暴走族仲間や女友達にはかっこいいと誉められたが、渡邊 恭史の姉だけは、「そんなものもらって、あんたバカじゃないの」と言った。

事件が明るみになったあと、周囲の人間達はさして驚いた様子もなかったが、この渡邊 恭史の姉だけは、自分が知っていれば、体を張ってでも純子さんを帰らせたと言った。

湊 伸治の友人で11月28日の輪姦にも加わったEが、横山 裕史(旧姓は宮野)に誘われた極青会に入らず別の暴走グループを作ろうかと冗談で言っていたのが伝わり、なめているということで、湊 伸治の部屋まで連れてこられ、純子さんの前で、横山 裕史(旧姓は宮野)と小倉にリンチをされ頭をハサミで丸刈りに刈られる。

その後、逃げ出したが1月6日に友人の家に隠れているところを発見されイスや灰皿で頭をめった打ちにされ、三週間以上入院するケガを負うが、それでも許さず「僕は100万円でも許してもらえないので、川に飛び込みます」という遺書を書かせ近くの荒川の放水路に連れだし、3人が口に入れたクッキーを次々に川に投げ込み取ってこいと命令。

12月12日

「極青会」に入ることを断りに行ったF。前に来た2日ごろは湊 伸治らと仲良さげしてた純子さんが顔にあざを作りふとんに入っていた。Fに、「わたしどうなるの」と聞く純子さん。「自分は下のもんだからそれはわからない」と答える。

12月14日ごろ

新宿の事務所当番から帰ってきた横山 裕史(旧姓は宮野)と湊 伸治に、「飯くったら、夜来いよ」と言われたF、5回目の訪問。

神作 譲(旧姓は小倉)に「やれ」と言われたが前と同じように断るFを無視し、用意しとけとポルノ雑誌を持ってくる。が、純子さんが「湊くんは?」と(どこに行ったのか)聞いたことに腹をたてた神作 譲(旧姓は小倉)が、純子さんの喉首胸を殴りだした。

その後、関わりになることをいやがったFは居留守を使うが、結局は、ファミレスで横山 裕史(旧姓は宮野)と神作 譲(旧姓は小倉)とFの親をまじえて話し合いをすることになる。「アニキ(宮野)に恥かかせるとただじゃすまない」と、親が見ている前で神作 譲(旧姓は小倉)に数度殴られる。

12月19日

湊 伸治の家に横山 裕史(旧姓は宮野)が来て、純子さんにまたジッポオイルをかけ火をつける。それを見て湊 伸治はひどいと思ったものの、純子さんが熱がってる姿や横山 裕史(旧姓は宮野)がさせたキチガイの真似を見て面白いと思うようになった。

再度にわたる火傷により出来たウミが出てきて、匂いで湊 伸治の両親が気づいてしまうかもしれないので、下のトイレを使用させず紙パックに用を足たせることにする。

12月20日

4人の他に女が1人やってきて「化粧してやる」と言って純子さんの頬にマジックペンで髭をかいた。

純子さんは、横山 裕史(旧姓は宮野)らの友達の間で、「カンキンオンナ」と呼ばれ、暴走族が集まった際など、あるやつがナンパしようと言いだし始めた時、ナンパなんかすることねえや自分がいま、女、監禁してるんだと横山 裕史(旧姓は宮野)が言っていた。湊 伸治も、「オレの家に、面白いのがいるんだよ。明日、家に来たらやらしてあげる。」と、あちこちで言っていた。そして、最終的には100人近くがこのことを知っていたことになる。

12月20日頃

度重なる暴行により、頬が鼻の高さに並ぶまで腫れ上がり目の位置が判別できないほど。脚の部分、多数箇所に出来た火傷は治る暇なく化膿しひどく匂うようになったので性的興味を失う。そして、「こいつなんとかならないか」という勝手な被害者意識が生まれてくる。

小倉「宮野先輩、あいつをどうする気なんだよ」 湊「どうすんですかね」 小倉「山の中に埋めますか」 湊「埋めるんですか」 小倉「渡邊くん、どうですかね」 渡邊「ミンチがいいですよ。バラバラにして捨てればわかりません」 小倉「誰がどこでやりますか」 渡邊「ここの風呂場でやります」 小倉「渡邊くんはこう言ってますが、湊くんどうします」 湊「うちの風呂場は勘弁してください。それより自殺に見せかけて、青木ヶ原に投げ込みますか」

最初の頃こそ、純子さんが持っていた3,000円で出前をとって食べさせていたが、純子さんのケガや火傷が酷くなるに連れ食事風呂に対して気を配らなくなる。以降、12下旬までの食事は湊 伸治の兄が、カップラーメン、パン、牛乳、卵など家にあったものを食べさせ、それ以降からは純子さんの衰弱したせいもあり1日に牛乳をコップ1杯。

また、この兄は純子さんのことは弟のグループの友達で自分とは関係ないと思っていた。早く出ていってほしいとは思っていたが、関わりになるのが嫌でできるだけ無関心をよそおっていた。

12月21日

家に帰っても警察にはなにも言わない、信じて貰えるまでなんでもやりますと純子さんが言うので、裸になって踊れと横山 裕史(旧姓は宮野)。武田鉄也の「声援」という歌に「がんばれがんばれ」という歌詞があり、いじめるときに、それを歌いながら「お前も歌え」と純子さんに歌わせる。それ以外の時も、小さな声で自分に言い聞かせるように「がんばれ」と言っていた。

12月28日

横山 裕史(旧姓は宮野)が部屋に入ったら、純子さんがおなかを押さえて倒れており「お水下さい」とすがるように頼んできた。横山 裕史(旧姓は宮野)が栄養をつけよう生傷にいいと牛乳を飲ませるが量多くなるにつれ吐いてしまったので、「みんなで殴りました」。

上半身を裸にして12月の寒空のベランダに立たせる。たばこを2本同時に吸わせ、苦しさの余りこれらを吐いたところで、両大腿部、膝、すね等にジッポオイルをかけて点火。純子さんが熱がってその火を消そうとするや、手にもオイルをかけて点火し、火が消えると、またオイルをかけて点火するなどの繰り返し。

その湊 伸治の部屋と隣家のベランダは40センチしか離れていないが、そのようなことが行われてるとは、まったく気づかなかったと証言している。

12月暮れ

湊 伸治の母親が「二階に誰もいないようだから、盗品などがないかようすを見てきて欲しい」と頼むが父親は酒を飲んでおり面倒くさがり調べず。

昭和64年1月3日

湊 伸治の家に叔父叔母が年始くる。湊 伸治、渡邊 恭史の家に行く。神作 譲(旧姓は小倉)も来て三人でファミコンをする。

1月4日

朝早く渡邊 恭史の家に横山 裕史(旧姓は宮野)がやってきて、「面白くねえ。麻雀で大負けだ。おい、サウナでも行くか」「先輩、サウナは10時からですよ」「そうか。じゃあそれまであいつのところに行くか。負けたのはあいつのせいだ。これから行っていじめてやろうじゃないか」

午前7時ごろ、途中コンビニエンスストアにより、小倉羊羹、ロウソクなどを買い4人は湊 伸治の家に着く。

純子さんに買った小倉羊羹を見せ、名前を聞く。純子さんが答えると小倉を呼び捨てにするとはなんだと殴り、困った純子さんが、今度は品物にさんを付けて呼び直すと品物にさんづけするとはなにごとだと殴る。

神作 譲(旧姓は小倉)が湊 伸治に、「おい、あれやれよ」と言って小泉今日子の「なんてったってアイドル」のテープをかけた。歌詞の中の「イエーイ」に合わせて脇腹に思いっきりパンチをいれる。「痛い」と声を出すとまた殴られるため、こらえるので口が変なふうに歪む。「先輩、この顔が面白いんですね」と神作 譲(旧姓は小倉)。

曲が終わったってからも全員で殴る。純子さんの顔にロウソクをたらしたり小便を飲ましたりした。渡邊 恭史はいつもは無関心でいるが、宮野や小倉に、なぜお前殴らないんだと言われるのが怖くなりリンチに加わった。すでに、純子さんは鼻や口から血を流しており、自分の手に血が付くことをいやがった渡邊 恭史は、横山 裕史(旧姓は宮野)が吸っていたシンナーのビニール袋を手にはめ殴る。

その後、横山 裕史(旧姓は宮野)は疲れたのでタバコを吸う。小倉と湊は、純子さんを真ん中に立たせ神作 譲(旧姓は小倉)が右から湊が左から、肩や顔に回し蹴りを数発いれていた。

そのうち、純子さんにパンチがもろに入りステレオにぶつかり倒れる。全身を硬直させブルブルと痙攣して前のめりに手をつきながら倒れてきたのを見て、「仮病だ、このやろう」とCがすごい勢いで怒る。

横山 裕史(旧姓は宮野)も、蹴るとかでは甘いんで、もっとひどいことをやってやろうと思い、鉄球の着いた鉄棒を持ち出し純子さんの腹の上に落とし顔面などを殴った。殴り終わった後、反応しなくなったので怖くなりいつものようにライターのオイルをかけ火をつけた。最初は動いたが最後になったら動かなくなった。

宮野「こいつ、死ぬんじゃないか」
湊「大丈夫ですよ。こいつはいつもこうなんですよ」

ガムテープで純子さんの両足首を二周か三周縛る。10時になったので「いい時間になった。サウナに行こう」と部屋を出る。

また、その同日、F宅に綾瀬母子殺人事件の聞き込みのために刑事が来ていた。そのとき、Fは宮野らに脅されてることを話そうと、「ちょっと相談したいことがあるんですけど・・・」と言ったが、刑事は忙しいから少年課に行ってくれと

1月5日

昼過ぎ。港の兄から事務所に純子さんの様子がおかしいと電話。

宮野、小倉、湊の三人で港の家に行く、渡邊 恭史は事務所の留守番として残した。湊の部屋は外から開かないので、湊の兄の部屋からベランダに回ってのぞいてみると純子さんが敷きっぱなしの布団の上で倒れていた。

「死んでるのか」
「まさか」
「お前、入れ」
「いやだよ」
「オレ、こえーよ」

と10分弱押し問答の末、湊と湊の兄が部屋に入って体を押してみると冷たくなっていた。

横山 裕史(旧姓は宮野)は以前勤めていたタイル工場に行き、モルタル砂ドラム缶など調達。「お前、人を殺したんか」と店の人は確信を持って聞いたが届けでず。

遺体をバックにつめ、横山 裕史(旧姓は宮野)の家の前で三人でドラム缶に入れコンクリートを流し込んだ。近くの川に捨てようとしたが、Bが「家が近いので怖い。化けて出るかもしれない」と反対して東京湾に捨てることになった。横山 裕史(旧姓は宮野)が借りてきたワゴンを運転して東京湾の埋め立て地に行ったが、適当な場所が無く道路脇の草むらに捨てた。

1月中旬

東京都足立区綾瀬一帯の暴走族「ワラ人形」と葛飾区堀切方面の暴走族「K」が合同で行なった集会に参加。そのときの横山 裕史(旧姓は宮野)は、すがすがしく、いつもに比べ変にいきがった様子だった。

昭和63年11月25日「略取・誘拐」

昭和64年1月4日の最後の暴行に加わった4人が家庭裁判所の審判で「刑事処分相当」とされ刑事裁判をかけられる。

初公判1988年7月31日。そして、1990年7月19日東京地検419号法廷

判決文

残忍かつ極悪非道である点でおいて、過去に類例を見出し難く、重大かつ凶悪犯罪。動機はきわめて反社会的かつ自己中心的であり、被害者の女子高生はなぶり殺しにされたとしか言いようがなく、動機に酌量の余地はない。

そして、被害者の両親の激しい怒りと悲しみと、社会に与えた衝撃や不安を強調し、被告人らの行動は人の仮面を被った鬼畜の仕業と断ぜられるを得ない。

昭和63年11月25日から翌1月4日まで41日に渡って不法に監禁し、その間、同女に対し、ほとんど連日、筆舌に尽くしがたい殴る蹴るなどの暴行を加えた他、身体に火をつけて皮膚を焼くなどの、凌辱の限りを尽くし、精神的にも、肉体的にも衰弱の度合いを深め、最後には常識では考えられないような仕打ちまで受け入れざるをえず、助けを求めるすべもないまま、あえなく絶命し、揚げ句はコンクリート詰めにされて捨てられるなど、被害者の身体的および精神的苦痛苦悶ならびに被告者らへの恨みの深さはいかばかりのものであったか、まことにこれを表現する言葉さえないくらいである。

「主文。被告人・宮野 裕史(現在は横山)を懲役17年に、被告人・小倉 譲(現在は神作)を懲役5年以上17年以下に、被告人・湊 伸治を懲役4年以上6年以下に、被告人・渡邊 恭史を懲役3年以上4年以下に、それぞれ処する」

最後に裁判長は4人を立たせ、ひとりひとりの顔を見ながらこう言った。「判決は以上の通りですが、事件を各自一生考えつづけてください」

上記の犯行を行った少年達

A 横山 裕史(旧姓は宮野)

昭和45年4月30日 葛飾区生まれ。 父親が証券会社社員。 母親がピアノ講師。 妹1人。

夫婦仲に問題があり、母親が留守をしがちで食事を作って貰えない日も多かった。 頭は切れるほうで、話し上手で面白いと評判。 小5でパンチパーマ。

小倉の通っていた小学校にヌンチャク木刀を持ってなぐり込みに行く。悪いことはかっこいい、大人になったら人を殺そうと言っていたが、6年生の時に出来た勉強好きの親友に影響され真面目になる。

卒業文集には「少年院の院長になりたい。オレ、悪いことをいっぱいした。万引き、ケンカ、たいがいのことはやった。だから、悪いことをやった奴の気持ちがわかる。オレなら非行少年と呼ばれてる連中を立ち直らせてやれる。オレに向いてるのはそういう仕事だと思う。」

中学入学と同時に周囲の人のすすめで、柔道部に入部。体型は小柄で160センチぐらいだったが、練習熱心で3年の時にベスト5に選ばれ、それにより、東海大付属高へ推薦入学。

高校の柔道部の先輩、顧問などにひどく体罰を受ける。(←宮野の父親が裁判所に訴えたほど)。その反動で、外に出て手当たりしだいにケンカを売るようになり、家中のものを壊し母親を殴り肋骨を折る重傷を負わせる。

高校を中退し、中学の頃から付き合っていた同級生(渡邊 恭史の姉)と同棲。18になったら結婚しようと昭和62年から1年半、タイル工として真面目に働くが、自動車学校の合宿場で知り合った暴力団員と知り合い、銀座にシマを持つ生花商でアルバイト。「やめたい」が言えるような雰囲気でなく、現実逃避するためにシンナーを始める。シンナーを吸っている時、強姦してる時にしか楽しいと感じないような生活を送る。

出所後は平成19年5月に川口市で解体業に従事していた。


▼2013年1月10日 詐欺容疑で逮捕された。 『パチンコ必勝法』の情報料名目で現金を騙し取る手口を繰り返す詐欺で、 口座の所有者でした。 2009年夏に満期出所、 その約3年半後に再び悪事に加担。

▼2013年1月31日に詐欺事件については黙秘を貫いて不起訴処分になった、 詐欺グループは素人集団に近い、 ちなみに不起訴は無罪判決ではありません。

B(サブリーダー)神作 譲(旧姓は小倉)

昭和46年5月11日生まれ。小3の時、両親が離婚、母親により育てられる。妹ひとり。小学校の頃「ひらけポンキッキ」の相撲大会に出場。中学での宮野の後輩。私立高校に入るが3ヶ月で退学。

2004年5月再犯により逮捕。実名が公開される。

「かみさくじょうです」。名前を尋ねた裁判官に、180センチあまりの長身の男は答えた。7月28日に開かれた、逮捕監禁致傷事件の被告・神作譲(33)の初公判。被害者男性に東京・足立区内で暴行を加え、車に乗せて母親の経営する埼玉県三郷市内のスナックに監禁。「俺の女を取っただろ」 とさらに殴る蹴るの暴行に及んだという事件である。

検察側は神作被告が、『俺は人を殺したことがあるんだぞ。本当に殺すぞ』、『俺は10年懲役に行ってきた。警察や検事を丸め込むノウハウを学んだ。何があっても出てこられる』などと脅迫したと主張したが、被告はこれを否認。「これだけで逮捕監禁とは、なんとも言えないんですけど」と述べるなど、その姿に反省の色はなかった。

C(被害者の監禁宅)湊 伸治

昭和47年12月16日生まれ。父親は病院の事務長母同病院の看護婦。兄1人。中学で宮野の2年後輩。工業高校に入るが2学期には中退。

平成18年秋ルーマニア人と結婚。トーカイ21(寝屋川市)で福祉の仕事をしていた。

湊 靖人(父68歳)、湊 ます子(母67歳)無罪。湊 恒治(兄、昭和47年1月21日生)も監視役で無罪。京都市伏見区ニノ丸町151向島市営住宅に住んでいた。

D 渡邊 恭史

昭和46年12月18日生まれ。両親離婚、母に育てられる。姉ひとり。宮野の中学の後輩。工業高校に入るがすぐ中退。

横浜市金沢区六浦東OO住宅に母ヤスと2人暮らし

E 中村高次

宮野らの友人。宮野、小倉、湊の3人にリンチされ病院に。

現在は地元スナックでこの事件のことを面白おかしく語る無反省人間。

F 伊原真一

宮野らの友人。事件後特別少年院に送られる。

結婚し娘をもうけ、新聞配達員を経て、某建築会社で社員として働いている

準主犯格・神作譲(33)ほか “鬼畜”加害少年たちは今…(2004年)

「かみさくじょうです」。名前を尋ねた裁判官に、180センチあまりの長身の男は答えた。7月28日に開かれた、逮捕監禁致傷事件の被告・神作譲(33)の初公判。被害者男性に東京・足立区内で暴行を加え、車に乗せて母親の経営する埼玉県三郷市内のスナックに監禁。「俺の女を取っただろ」 とさらに殴る蹴るの暴行に及んだという事件である。

検察側は神作被告が、『俺は人を殺したことがあるんだぞ。本当に殺すぞ』、『俺は10年懲役に行ってきた。警察や検事を丸め込むノウハウを学んだ。何があっても出てこられる』などと脅迫したと主張したが、被告はこれを否認。「これだけで逮捕監禁とは、なんとも言えないんですけど」と述べるなど、その姿に反省の色はなかった。

再犯経緯

「深夜2時ごろ、家の前に車が止まっていた。あいさつするといきなり『テメエ、この野郎』と殴りかかってきた」。復讐を恐れ、法廷に用意された異例の衝立の中で証言するのは被害者、円山勝男(27)=仮名、以下同=の同居人、大木勇三。2004年5月19日、かねてから円山に「女を取った」と濡れ衣を着せていた神作は、計画的に円山を襲撃したのだ。

「右手をグーにして5、6発殴り、路上に血が落ちた。車のトランクを開け、金属バットを円山君の顔の高さぐらいまで上げて『これで殴って殺すぞ』と脅した。それで円山君はトランクに入り、連れ去られた」。

翌朝6時、大木の携帯に「迎えに来い」と神作から電話がかかる。神作は三郷市内にある母が経営するスナック内で朝まで円山を監禁し、リンチをしていたのだ。

その後、神作は「今回はこんなもんで済んだが、これからもっとエスカレートしていく」と2人に捨てゼリフを吐いて解放する。「今度は殺されると思い、2人で警察に届けを出した」(大木)。神作は逮捕監禁致傷容疑で再び警察の厄介になったのだ。

「殺される」と2人が思ったのはワケがある。神作はコンクリ殺人の前科を「実はオレが主犯だった」などと、あたかも輝かしい経歴として笑いながら自慢。そして「平然と『捕まっても警察をだますのは簡単だ』『簡単に刑務所から出れる。精神鑑定にひっかかるフリをすればいい』といっていた」(同)。

神作が豪語した巧みな法廷戦術。早くも公判で「人を殺したとは言っていない」と検察側の調べを一部否定してみせた。また、法廷に入る都度、裁判長と弁護士にキチンと頭を下げ「いい子ちゃん」ぶりをみせる。

「証人は行方不明です」-。心苦しそうに語るのは検察官。神作を追い詰めようと検察側が法廷で証言させる予定だった被害者、円山は「(復讐を)怖がっていた。ノイローゼ気味になり、8月なかばにいなくなった」(大木)。

被害者の蒸発という異例の展開。希代の犯罪者は、また何をしでかすかわからない。

女子高生コンクリート詰め殺人事件

神作被告がかつて起こした事件。それが15年前の、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」である。’88年11月25日、三郷市の高校3年生古田順子さん(当時17)はバイト先から自転車で帰宅途中に姿を消した。発見されたのは’89年3月30日。コンクリートを詰められたドラム缶の中の腐敗した遺体という変わり果てた姿だった。

宮野(当時18)、小倉(神作被告・同17)、湊(同16)、渡邉(17)の4人らは、順子さんを猥褻目的で誘拐して足立区綾瀬の湊の自宅2階に監禁し、41日間にわたってレイプや暴行を繰り返し殺したのだった。事件ではこの4人が起訴、ほか少年3人が少年院送致などされたが、その凄惨極まる暴力の内容は例えばこうだ。小泉今日子の『なんてったってアイドル』の曲に合わせて、「イエイ」と歌うたびに殴る。武田鉄矢の曲で「頑張れ」のフレーズに合わせてリンチを加え、女子高生は呟くようにしてその歌を歌っていた。50数キロあった体重は30キロ台に…。

また、監禁現場の目撃証言によれば、「女のコが全裸で柱に縛りつけられ、部屋の中にはシンナーや酒がごろごろあって、もうひどかった」という状況。まさに鬼畜の所業である。

’91年7月、東京高裁は宮野に懲役20年、神作被告に懲役5年以上10年以下、湊に懲役5年以上9年以下、渡邉に懲役5年以上7年以下を言い渡した。主犯格の宮野以外はすでに出所している。彼らの「今」を追った。

少年B=神作被告の出所後

神作被告は’99年8月に出所。4年前に中国人女性と結婚、昨年離婚していた。「神作は日本では働けないと思い、中国で生活するために結婚したようだ。だが、離婚でそれは実現しなかった」とは、さるジャーナリストの話だ。

出所後、一時コンピュータ関連の会社に就職したが、’02年ごろからは仕事に就かず、暴力団に出入りするようになった。同級生はこう語る。

「今回の事件報道を見て、仲間と連絡を取り合いました。みんな 『やっぱりあいつはダメだったなぁ。懲りないやつだよ』 と話していましたよ」。

母親と暮らしていたのは、埼玉県八潮市の木造2階家の2階。1階に入っている設備関連会社の関係者が言う。「お母さんは髪が長くてちょっとハデめ。気さくでいい人だったんじゃないの。せがれは昼間からラフなジャージー着てて遊び人なんだなと思ったね」

向かいの商店主はこんな印象を語る。「息子さんは髪を金色に染めていました。『黄色くなっちゃったね』と言ったら笑ってましたよ。道の向こう側を歩いていても会釈するし、あの人が昔、人間とは思えないひどい事件を起こしていたなんて信じられませんでした」

母親のスナックで、ホステスを務める女性は今回の事件後、コンクリート殺人事件を知ったという。「7月5日にテレビを見てたら、『元コンクリート事件の小倉』 だって出てて初めて知ったんです。ママからは、『ばれちゃったね。今までずっとひた隠しにしてて、ただただ無理して明るく振る舞って生きてきたけど、もうどうしていいかわからない』っていうメールがきました」。

神作被告にも前の事件の“後遺症”は出ていたようだ。ホステスが続ける。

「昼間でも『ギャー』とか、『ウー』とか叫び出すことがあったって。きっと感情を抑えられなくなるのよね。譲君は、『おふくろ、俺の前にいないでくれ。いるとおふくろを殴ってしまう』って言ってたらしい。譲君もママもずっと生き地獄なんだと思う。死刑になったほうがよかったのかもしれない…」

現在、母親は店にも顔を出さず、自宅にもいない。「たぶん、車の中で寝泊まりしているんだと思います。最近、ママと会うといつも靴が同じなんです。お店に来る前にお風呂に入り、お店が終わってからもう一度入るような人ですから、靴が同じなんて考えられないんです」(ホステス)。

7月29日に母親に会った際、母親は神作被告から手渡された手紙を見せたという。「『これからは警察の世話になるようなことは二度としないから、おふくろも心配しないでくれ。しばらくの辛抱だからしのいでくれ』って書いてありました。『そんなふうに言われると信じちゃうのよね』ってママは涙を浮かべていました」(ホステス)。

一方、事件後離婚し、別の家庭を持つ父親は本誌の直撃に、「帰ってください」と繰り返し、玄関のドアを閉めた。

神作譲被告控訴を取り下げ、懲役4年の実刑が確定(2005年5月)

東京地裁で懲役4年の実刑判決が下り、判決を不服とし東京高裁に控訴していた神作 譲被告が控訴を取り下げた。これにより、懲役4年の実刑判決が確定となった。

逮捕から判決確定まで拘置所等で過ごした未決勾留日数なども勘案すると、神作受刑者は早ければ2008年後半にも出所する可能性がある。また89年のコンクリート事件で懲役20年の判決を受け、現在服役中の主犯格の宮の受刑者もあと数年で出所するとみられ、凶悪犯人が次々と社会に戻る不安が大きい。

主犯宮野と監禁現場宅の湊は…

宮野は現在も服役中だが、2008年ごろ出所する予定だという。以下は法曹関係者の話。「宮野は関西地方の保護司と養子縁組して、まったく別の戸籍に入る手続きが取られました。妹もいるし、家庭のことを鑑みてのことでしょう」。

監禁場所だった湊の自宅は事件後取り壊され、今は別の住居が建っている。近所の住民が言う。「もう15年もたつのねぇ。仕事から帰ってきたらロープが張られていて、事件を聞いたときはもうびっくりでしたよ。湊君の両親は事件後しばらくして引越していったし、その後どうしているか…」。

両親が移ったのは埼玉県内である。父親が4~5年前まで勤めていた生花店社長はこんな話をする。「私生活のことはいっさい話さなかったから、事件のことは知らなかったよ。酒ばかり飲んでいたという印象だね」。

現在、両親が住む家を訪ねると、父親とおぼしき男性がインタホン越しに、「お話しすることはありません。お帰りください」と語るのみだった。

湊は出所後、一時両親のもとに身を寄せていたようだが、その後埼玉県内の1Kの木造アパートで暮らしていた。が、そこも1年ほど前に引き払っている。「仕事は運送業だったと思います。独身でした。4万数千円の家賃を毎月きちんと持ってきていましたし、普通でしたよ。アパートを出るときは、仕事を辞めていたようです」(アパート大家)。

今回の神作被告の事件を湊は知っていたようだが、さる友人には、「何も答えたくない」と語っている。

渡邉の母親が語った。渡邉は清掃の仕事をする母親と暮らしている。「あの事件のことは、どうして防げなかったのか今でもずっと考えています。息子は出所してから仕事はしていません。目が見えなくなる病気にかかっていて、すぐ入院しないといけないのですが、お金がなくて家でずっと寝ています。夕方になると近くの商店街に晩ご飯を買いに行き、自分の部屋に持って帰って食べています」。

姉家族だけには心を開いているようだが、母親と渡邉が顔を合わせることはほとんどないという。もっとも、最近は“日曜大工”をすることも。「エアコンを取り付けてくれたり、100円ショップでカーペットを買ってきて敷いてくれたりしています」(母親)。

事件後は(犯人の)親たちの間でこんなことがあったとも。「しばらくはお盆に親御さんが集まって、事件の家に花を捧げに行っていました。でも、最近はもう連絡を取っていません。皆さんも連絡を取りたくないでしょう」。

母親は、「買い物に行った息子に会うといけないので」と、いつもと違う道を隠れるように歩きながら語った。その姿からは、死ぬまで息子の面倒を見るしかないという諦めが伝わってきた。

順子さんが遺棄されていた、江東区若洲の現場には物流センターの建物が建ち、空き地だった当時とはすっかり様変わりしていた。「当時は寂しい所だった。あんなところに捨てられて、可哀相だったね。本当に悲惨な事件だったよ」(現場近くのセメント会社の運転手)。