ロバート・クオック

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ロバート・クオック英語Robert Kuok Hock Nien中国語郭鶴年1923年10月6日 - )は、マレーシアクオック・グループ香港ケリー・グループEnglish版を率いる実業家

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1923年10月6日、ジョホール・バルで、郭欽鑑(Kuok Keng Kang)と鄭格如(Tang)夫人の次男として生まれる[1]。兄・郭鶴挙(Philip Kuok Hock Khee、フィリップ)は当初一族の企業に関わっていたがのちに外交官となり、弟・郭鶴麟(William、ウィリアム)マラヤ共産党に参加し早逝した[1][2]

1939年、ジョホール・バル英語学院English版卒、シンガポールラッフルズ大学入学[1]

戦時中はシンガポールで三菱商事の米穀部門に勤務[3]

食料品産業[編集]

1948年、父・欽鑑が死去[4]。父の死後、一族が経営していた東昇公司(Tong Seng & Co.)[5]は整理・解散され[6]、郭は翌1949年4月にクアラルンプールで設立された東昇公司の事業承継会社・郭兄弟有限公司(Kuok Brothers Sdn. Bhd.:KB)の取締役となった[7]。同社の初代会長兼社長は兄・鶴挙[3]

1955年、郭はシンガポールの貿易会社・リクウド社(Rickwood & Co.)を買収、同社は1960年代に郭兄弟シンガポール有限公司 Kuok Brothers Singapore と改称した[8]。KBは同社を通じて世界的な商品取引に進出することになった[9]

1959年10月、KBは日新製糖三井物産と合弁で、北マラヤのプライ (マレーシア)Bahasa Melayu版マラヤ製糖Bahasa Melayu版(MSM)を設立[10]。マレーシアにおける砂糖消費の増加を背景に、砂糖の生産・精製に乗り出した[1]。MSMは1964年に精糖業を開始した[11]

1960年、郭はロンドンを訪問した際に、ロンドン砂糖取引所English版(Sugar Terminal)の会員権を購入[11]。国際的な砂糖の取引網に関わり、東南アジアの「砂糖王(Sugar King)」として知られるようになった[11]

1962年2月、KBは政府と合弁で[12]ポート・クランEnglish版の自由貿易区に小麦粉の生産会社フェデラル・フラワー・ミルズ(Federal Flour Mills Bhd.: FFM)を設立した[13]

1966年、兄・鶴挙がKBの会長・社長を退任[14]

1968年11月、KBはプルリス州チュピンEnglish版サトウキビ栽培を行うプルリス・プランテーション社English版(PPB)を設立[15]。同社は1973年に生産を開始した[16]。また連邦土地開発庁English版(FELDA)と合弁で第2の製糖工場を運営するフェルダ・プルリス製糖社(Kilang Gula Felda Perlis Sdn. Bhd.)を設立、PPBが株式の50%を保有した[16]

1976年にPPBはMSMを買収し、栽培、加工、精製、流通など砂糖産業の主な要素を統轄する会社となった[16]。PPBは1988年にはFFMも買収した[16]

海運業[編集]

1960年代にマレーシア政府は国有の海運会社創設を志向し、原糖の輸入に船をチャーターしていたKBに、海運会社創設の可能性について調査を依頼した[17]

1967年9月に日本とマレーシアの間で血債協定が締結された際に、マレーシアのラーマン首相は金銭賠償のかわりに特注船2隻を日本から得ることにした[18]

1968年11月、マ政府と諸企業の合弁会社でマレーシア国際海運公社English版(MISC)が設立され、メッカ巡礼基金運営庁English版(Lembaga Urusan dan Tabung Haji: LUTH)と曹氏有限公司(Frank Tsao & Co. Ltd. (Liberia))およびKBが設立当初の主要株主となり、郭はMISCの初代会長となった[18]

シャングリラ・ホテルと観光業[編集]

1967年に、 シンガポールにシャングリラ・ホテルの建設を決定[19]

1968年、マレーシア・シンガポール航空会長[20]

いつ?マレーシア観光開発公社English版(Tourist Development Corporation Malaysia)会長に就任[20]

1971年6月 ペナンラサ・サヤン・ビーチ・ホテル社(Rasa Sayang Beach Hotel Bhd.)設立[19]

いつ?同ホテルのほか、バトゥ・フェリンギEnglish版にあるゴールデン・サンズ・ホテル(Golden Sands Hotel)とパーム・ビーチ・ホテル(Palm Beach Hotel)も支配[19]

1970年代、KBと都市開発庁English版の投資部門・プレンバ(Peremba Sdn. Bhd.)との共同所有企業・Uda ブキ・ナナス社(Uda Bukit Nanas: UBN Holdings)が、クアラルンプールに「シャングリラ多目的ビル」を建設[21]

郭は上記のほか、香港タイフィジーにもホテルを建設し[19]シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツの経営など多角的な事業を展開するグループを作り上げた要出典

交友関係[編集]

学友[編集]

学生時代に郭は、スジャク・ビン・ラヒマン(Datuk Haji Sujak bin Rahiman)[22]タイブ・アンダクBahasa Melayu版[23]とともに学んだ[24]

また後にマレーシア首相となるラザクフセイン・オン、シンガポールのリー・クアンユーエディー・バーカーEnglish版とも共に学んだ[24]。マレーシア第2代副首相のトゥン・イスマイルEnglish版(Tun Dr. Ismail)もジョホールの出身で、同窓生[25]

王室[編集]

郭一族は東昇公司時代にジョホールのスルタン・イブラヒムEnglish版と親密な関係を築いており[26]、その後もスルタン・イブラヒムの孫トゥンク・スレイマンEnglish版(Y.T.M. Tengku Suleiman ibni Tengku Abu Bakar)がPPBの総務部長兼取締役、トゥンク・オスマンEnglish版(Y.A.M. Tunku Osman Ahmad)がプランギ社(Pelangi Bhd.)の会長となるなど、関係が続いた[27]

株主[編集]

KBは華人企業の中では早くからブミプトラ(地元のマレー系住民)を株主とすることに努め、1970年以前のMSMの個人株主は全てブミプトラだった[28]。またKBはジョホールの官吏を株主とすることで関係を強化した[29]

経営基盤が北部のプロヴィンス・ウェルズリーEnglish版やプルリス州へ拡大すると、プルリスのラジャのトゥンク・サイド・ブトラ・ジャマルライルBahasa Melayu版サイド・ナハル・シャハブディンBahasa Melayu版[30]も株主となり、また1964年には政府機関であるメッカ巡礼基金公社English版(Perbadanan Wang Simpanan Bakal-bakal Haji:Malaysian Muslim Pilgrims Saving Corporation)[31]プルモダラン・クバングサアン社(Syarikat Permodalan Kebangsaan Limited)も株主となっている[29]

近況[編集]

2009年にPPBグループを売却し、マレーシアの製糖業から撤退したものの、2010年には子会社を通じてオーストラリアの製糖会社・スクロージェンを買収。依然としてアジアの製糖業に影響力を有する[32]

2018年5月、マハティール政権の経済・財政政策に助言する顧問団に参加[33]

2018年の米国・フォーブス誌の富豪ランキングによると、資産額は148億ドル(約1.6兆円)でマレーシアで首位[33]

2020年の米国・フォーブズ誌の富豪ランキングによると、資産額は96億ドルでマレーシアで首位、世界で141位[34]

グループ企業[編集]

付録[編集]

関連文献[編集]

  • Tanzer (2018) Andrew Tanzer, Robert Kuok - A Memoir, John Beaufoy Publishing, ISBN 9814189731
  • 中国語版:郭鶴年(口述)Andrew Tanzer(編著)《郭鶴年自伝》香港・商務印書館、ISBN 9620757599

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 Sia 1994 74
  2. リー 1987 137,143
  3. 3.0 3.1 Sia 1994 78
  4. Sia 1994 77
  5. ジョホール・バルで米・砂糖・小麦粉などを扱う食料品店を営み、道路建設事業にも進出(Sia 1994 74,76-77)。
  6. Sia 1994 74,76-77
  7. Sia 1994 74,78
  8. Sia 1994 79
  9. Sia 1994 74,79
  10. Sia 1994 78,80-81,82
  11. 11.0 11.1 11.2 Sia 1994 84
  12. メッカ巡礼基金運営庁English版(Lembaga Urusan dan Tabung Haji: LUTH)が主要株主となっていた(Sia 1994 85)
  13. Sia 1994 84-85
  14. Sia (1994 78)。オランダ西ドイツフランスのマレーシア大使として外交職につくため(同)。
  15. Sia (1994 85)。プルリス州政府と提携して用地を取得し、1968年投資奨励法(Investment Incentives Act 1968)を利用して設立された(Sia 1994 81,85)。
  16. 16.0 16.1 16.2 16.3 Sia 1994 85
  17. Sia 1994 86
  18. 18.0 18.1 Sia 1994 86-87
  19. 19.0 19.1 19.2 19.3 Sia 1994 88
  20. 20.0 20.1 Sia 1994 87
  21. Sia (1994 88)。ラサ・サヤン・ビーチ・ホテル社とUda ブキ・ナナス社は1991年に合併した(Sia (1994 88))。
  22. のちにマレーシア関税諮問委員会(Tariff Advisory Committee)に勤務(Sia 1994 89)。
  23. フセイン・オンの従兄弟で、のち連邦土地開発庁(FELDA)とマラヤ銀行の会長を歴任(Sia 1994 89)。フェデラル・フラワー・ミルズ社(FFM)の取締役になった(同)。
  24. 24.0 24.1 Sia (1994 89)。編注:出典元に「ともに学んだ」とあるが、同級生なのか何なのかはっきりしない。ジョホールバル時代のことなのか、ラッフルズ学院の話かも不明。
  25. Sia 1994 89-90
  26. Sia 1994 76
  27. Sia 1994 90
  28. Sia 1994 90-91
  29. 29.0 29.1 Sia 1994 91
  30. ラーマン首相の甥
  31. 1969年にペナン巡礼管理局(Pajabat Urusan Haji Penang: Pilgrims Office in Penang)と合併してメッカ巡礼基金運営庁(LUTH、前出)となった。
  32. (2010-07-07) 「精糖王」クオック氏一族、豪の砂糖ビジネス買収 マレーシア・ナビ [ arch. ] 2011-02-20 [リンク切れ]
  33. 33.0 33.1 日経新聞 2018-5-25
  34. The Richest in 2020 > The Complete List > Malaysia, Forbes

参考文献[編集]

  • 日経新聞 (2018-5-25)94歳クオック氏、92歳マハティール氏に助言」『日本経済新聞 電子版』2018年5月25日 23:00
  • Sia (1994) Irene Sia「第3章 郭鶴年(Robert Kuok Hock Nien)‐大班(Taipan)株式会社」原不二夫(編)『マレーシアにおける企業グループの形成と再編』〈ASEAN等現地研究シリーズ 23〉アジア経済研究所、ISBN 4258200239、pp.73-94
  • リー (1987) リー・クーンチョイ(著)花野敏彦(訳)『南洋華人‐国を求めて』サイマル出版会、ISBN 4377307339