マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

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rxy=森谷辰也=LTA:ASPELTA:DCHANCELTA:SASHOという動かせない事実。{{独自研究}} '''マーティン・ルーサー・キング・ジュニア'''('''Martin Luther King, Jr'''、[[1929年]][[1月15日]] - [[1968年]][[4月4日]])は[[アメリカ合衆国]]の[[プロテスタント]][[バプティスト派]]の[[牧師]]である。'''キング牧師'''の名で知られる、[[アフリカ系アメリカ人]][[公民権運動]]の指導者的役割を果たした[[活動家]]。 「'''I have a dream'''」(私には夢がある)で知られる有名な[[スピーチ]]を行った人物。[[1964年]]の[[ノーベル平和賞]]受賞者。[[2004年]]の[[議会名誉黄金勲章]]受賞者。アメリカの[[人種差別]](特に[[アフリカ系アメリカ人]]に対する差別)の歴史を語る上で重要な人物の1人である。 == 生い立ち == === 初めての差別 === [[1929年]]、[[ジョージア州]][[アトランタ (ジョージア州)|アトランタ市]]で[[バプティスト派]][[牧師]]マイケル・ルーサー・キングの息子として生まれる。父・マイケルと同じ名前を付けられたがマイケルは[[1935年]]に'''マーティン'''と改名し、息子も同様としたため「'''マーティン・ルーサー・キング Jr.'''」となった。[[宗教改革]]をはじめた[[マルティン・ルター]]から父親が名前を取ってつけた名前である。 幼少の頃隣に[[白人]]の家族が住んでおり同年の男の子2人と遊んでいたがマーティンが6歳のある日、彼らの母親が「([[黒人]]であるマーティンとは)二度と遊ばせません!」と宣言した。これが人生で初めての[[差別]]体験であった。また高校時代には[[討論大会]]で優勝したが帰り道にバスの中で白人から席を譲れと強制され、激しく怒った。これが後のバス・ボイコットにつながっていく。 === 牧師として === [[モアハウス大学]]卒業後、[[ペンシルヴァニア州]]のクローザー神学校を経て父親と同じくバプティスト派の牧師となる。その後[[1955年]]に[[ボストン大学]]神学部で[[博士号]]を取得した。 ボストン大学に在学中、コレッタ・スコット・キング(Coretta Scott King)と知り合って結婚した。コレッタは4人の子供を育て、マーティンが亡くなった後も夫の意思を継ぎ「非暴力社会変革センター」を設立。映画やTV、ビデオ・ゲームなどの暴力シーンを無くす運動を精力的に行ったり無暴力運動、人種差別撤廃、貧困層救済の運動を指導して世界を行脚した。彼女は[[2005年]]8月16日に[[脳卒中]]で倒れて[[半身不随]]となり、[[2006年]][[1月31日]]に78歳で死去した。 またボストン大学在学中に飲食店に入った際、マーティンが黒人である事に腹を立てて店員が注文を取りに来なかったがボストンが北部であったため、店員は人種差別として即逮捕となった。マーティンには南部で当たり前だったこの行為に、ひどく驚いたという。 == 公民権運動 == === 法的差別 === [[Image:ColoredDrinking.jpg|thumb|240px|right|有色人種専用の水飲み場([[1950年代]])]] [[1862年]]9月に[[エイブラハム・リンカーン]][[大統領]]によって行われた[[奴隷解放宣言]]によりアメリカ合衆国での奴隷制は廃止され、主としてアフリカ系アメリカ人は奴隷のくびきからは脱していた。しかし奴隷制度からの解放は直ちに[[人種差別]]の撤廃を意味するものではなく、その後も人種によって取り扱いを異なるものとすること、特に[[学校]]や[[便所|トイレ]]、[[プール]]などの公共施設や[[バス (交通機関)|バス]]などの公共交通等において[[白人]]と[[有色人種]]等の区別に基づき異なる施設を用いることは容認されたままであった。この様な状況は、アメリカが「自由で平等な{{要出典}}」、「[[民主主義]]の橋頭堡{{要出典}}」として参戦した<ref>[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領はミシガン州デトロイト市の大工業地帯を「民主主義の工廠」と呼んだ。</ref>[[第二次世界大戦]]後も続いており、むしろ法令上もかかる取り扱いを義務付けていたことすらあった。 [[1954年]]以来、[[アラバマ州]][[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]]のバプティスト派教会牧師も兼ねていたが[[1955年]]12月にモンゴメリーで発生した[[ローザ・パークス]]逮捕事件に抗議してモントゴメリー・バス・ボイコット運動を指導する。11ヶ月後に裁判所から呼び出しがあり運動中止命令かと思っていた所、[[アメリカ連邦最高裁判所|連邦最高裁判所]]からバス車内人種分離法違憲判決(法律上における[[人種差別]]容認に対する違憲判決)を勝ち取る。これ以降、アトランタでバプティスト派教会の牧師をしながら全米各地で公民権運動を指導した。 === 「非暴力主義」 === [[Image:Martin Luther King - March on Washington.jpg|thumb|right|240px|[[1963年]]8月、[[ワシントン大行進]]にて、“[[I Have a Dream]]”の演説を行うキング]] マーティンの提唱した運動の特徴は徹底した「[[非暴力|非暴力主義]]」である。[[インド]]独立の父、[[マハトマ・ガンディー]]に啓蒙され、また自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴力を貫いた。一見非暴力主義は無抵抗で弱腰の姿勢と勘違いされがちだが、マーティンのそれは「非暴力抵抗を大衆市民不服従に発展させる。そして支配者達が「黒人は現状に満足している」と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中にハッキリと見せる」{{要出典}}という決して単なる弱腰姿勢ではなかった{{要出典}}。 事実、[[1963年]]5月にアラバマ州[[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム]]で起きたデモの中で丸腰の黒人青年に[[警察犬]]をけしかけ襲わせている警官や[[警棒]]で滅多打ちにする警官、高圧ホースで水をかける警官などの姿が映し出され世論は次第にそれらの暴力に拒絶反応を示していった。 公民権運動にあたっては、主として南部諸州における人種差別的取扱いがその対象となった。通常、差別的取り扱いには州法上の法的根拠が存在し運用を実際に行う政府当局ないしは警察なども公民権運動には反対の姿勢をとることが多かったことから、公民権運動は必然的に州政府などの地域の権力との闘争という側面を有していた。合衆国においては州と連邦との二重の統治体制が設けられている中で連邦政府ないしは北部各州は南部各州の州政府に比れば人種差別の撤廃に肯定的であり、州政府ないしは[[州兵]]に対し連邦政府が連邦軍兵士を派遣して事態の収拾を図るケースも見られた。 なおマーティンも[[1963年]][[4月12日]]にバーミングハムで行われた抗議デモの際自らバーミングハム市警に逮捕され、[[4月19日]]まで拘置所の独居房に投獄されたこともある。 === 「I Have a Dream」 === この年に行われた[[ワシントン大行進]]において[[リンカーン記念堂]]の前で有名な“[[I Have a Dream]]”(私には夢がある)で始まる演説を行い、人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体と平易な言葉で訴え広く共感を呼んだ。 当該箇所の演説は即興にて行われたものといわれるがその内容は高く評価され、[[1960年]]に就任した[[ジョン・F・ケネディ]][[大統領]]の就任演説と並び[[20世紀]]のアメリカを代表する名演説として有名である。 === 勝利 === [[Image:Lyndon Johnson signing Civil Rights Act, 2 July, 1964.jpg|thumb|right|240px|[[ホワイトハウス]]で公民権法施行の文書に署名する[[リンドン・B・ジョンソン]]大統領(後列中央がキング)]] マーティンを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せついに[[リンドン・B・ジョンソン]]政権下の[[1964年]][[7月2日]]に公民権法(Civil Rights Act)が制定された。これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。 なお、公民権法案を議会に提出したのはジョンソン大統領が[[副大統領]]であったケネディ政権時代のことである。そのためケネディ大統領は黒人社会から絶大な支持を受け、一方で南部支配(白人の保守派)層からは敵意にも似た批判を浴びることになっていく。また、ケネディ大統領を継いだジョンソン大統領は人種差別を嫌う自らの信条のもとマーティンとともにこれを推進し公民権法の早期制定に持ち込んだ。 なお公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための[[非暴力]]抵抗運動」を理由にマーティンに対し1964年度の[[ノーベル平和賞]]が授与されることに決まった(受賞は[[12月10日]])。これは史上最年少の受賞であり、黒人としては3人目の受賞である。「受賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」とコメントした。ただし当時の全てのアフリカ系アメリカ人がキングに同意していたわけではなく、一部の過激派は[[マルコムX]]を支持しマーティンの非暴力的で融和的な方針に反発した。 === マルコムXとの関係 === [[Image:MartinLutherKingMalcolmX.jpg|thumb|right|240px|マルコムX(右)とキング]] 上記のように暴力的手法を含む強行的な手段による人種差別の解決を訴え同時期に一気に支持を得て台頭し始めていたマルコムXが[[1965年]]2月に[[暗殺]]されると、マルコムXとはその手段において相当の隔絶があったにも関わらず「マルコムXの暗殺は悲劇だ。世界にはまだ、暴力で物事を解決しようとしている人々がいる」と語った。しかしその数年後、マーティン自身も暗殺される。 一時期は公然とマーティンの姿勢を批判し演説の中で非暴力抵抗を笑いものにしていた事さえあったマルコムXだったが、暗殺の前年には自らの過激な思想の中核をなしていたブラック・モスリムの[[ネーション・オブ・イスラム]]教団と手を切っていた。 また、新たな思想運動のステップを登るべく「なんとかキング牧師と会って話がしたい」と黒人[[社会学者]][[ケニス・クラーク]]の仲介で会談を持とうと模索している矢先のできごとであった。マーティンはそのためにマルコムXの暗殺を特に嘆いていた。 === その後の黒人解放運動 === [[ワシントンDC]]への20万人デモで最高の盛り上がりを見せ公民権法を勝ち取った黒人解放運動はその後、生前のマルコムXやその支持者を代表とする過激派や極端派などへ内部分裂を起こしていきマーティンの非暴力抵抗は次第に時代遅れなものになっていった。 黒人運動は暴力的なものになり「ブラック・パワー」を提唱する[[ストークリー・カーマイケル]]に代表されるような強硬的な指導者が現れたり(「ブラック・パワー運動」といわれる事もある)、[[ブラックパンサー党]]が結成されたり[[1967年]][[夏]]に[[ニュージャージー州]]で大規模な黒人暴動が起きるに至って世論を含め白人社会との新たな対立の時代に入っていく。また、呼応するように白人からの黒人に対する暴力事件も各地で増えていった。 キング牧師はその要因を自身の演説の中で以下のように分析し、「すべての罪が黒人に帰せられるべきではない」と結論付けた。 #公民権法成立は黒人から見ると解放運動の最初のステップでしかなかったが、白人社会は「これで問題は片付いた」とゴールだと位置づけた。 #深く根付いた差別意識は依然として教育や[[雇用]]の場に蔓延しており、黒人は階段の入り口には立てても頂点には上っていけない。 #差別意識により雇用の機会を奪われた黒人の[[失業]]問題は、白人に比べ深刻である。 #[[ベトナム戦争]]により黒人は多数徴用され、その多くは最前線で戦わせられている。彼らは母国で[[民主主義]]の恩恵を受けていないのに、民主主義を守るために戦争に狩り出されている。 #大都市では[[スラム街]]に黒人が押し込められ、戦争のためにそのインフラ整備等の環境問題はないがしろにされている。 そして「ベトナム戦争反対」の意思を明確に打ち出しながら、「ブラック・パワー」に対し「グリーン・パワー」(緑はアメリカで紙幣に使われる色、つまり「金の力」)などでさらなる黒人の待遇改善を訴えていった。一方で自身でも時代遅れになりつつあることを自覚していながらも非暴力抵抗の可能性を信じ、それを黒人社会に訴えていった。 == 暗殺 == [[Image:Martin Luther King was shot here Small Web view.jpg|right|thumb|240px|キングが暗殺されたモーテル]] [[Image:MLK tomb 2.jpg|right|thumb|240px|キング牧師の棺]] その後、マーティンは泥沼化が進むベトナム戦争反対運動にも立ち上がったが時代の中で「黒人社会」からも「白人社会」からも徐々に孤立していきマーティンを邪魔だと考える「敵」が増えていった。爆弾テロや刺殺(犯人は精神障害のある黒人女性)未遂もあったが、奇しくも命をとりとめている。 その様な状況下でも精力的に活動を続けていたものの、[[1968年]][[4月4日]]に遊説活動中の[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]で"I've Been to the Mountaintop"(私は山頂に達した)とメイソン・テンプルで遊説後、メンフィス市内のロレアンヌ・[[モーテル]]の[[バルコニー]]で白人男性のジェームス・アール・レイに撃たれる。弾丸は喉から脊髄に達し病院に搬送されたが、間もなく死亡した。葬られた墓標には「ついに自由を得た」と穿たれている。 暗殺の前日にキング牧師がおこなった最後の演説は詳しくは以下のようなものであり、自らの死を予見したかのようなその内容は“I Have a Dream”と共に有名なものとなった。 ''…前途に困難な日々が待っています。'' ''でも、もうどうでもよいのです。'' ''私は山の頂上に登ってきたのだから。'' ''皆さんと同じように、私も長生きがしたい。'' ''長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。'' ''神の意志を実現したいだけです。'' ''神は私が山に登るのを許され、'' ''私は頂上から約束の地を見たのです。'' ''私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、'' ''ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。'' ''今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。'' ''神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。'' == キングの死後 == アメリカではマーティンの栄誉を称え、[[ロナルド・レーガン]]政権下の[[1986年]]よりキングの誕生日(1月15日)に近い毎年1月第3月曜日が「'''マーティン・ルーサー・キング・デー'''」(Martin Luther King, Jr. Day)として[[祝日]]になっている。なお、アメリカにおいて祝日となった故人は他に[[クリストファー・コロンブス]]と[[ジョージ・ワシントン]]の2人である。 アメリカ国内において[[アングロサクソン]]系を中心とした白人によるアフリカ系アメリカ人や[[ネイティブ・アメリカン]]、[[日系アメリカ人]]をはじめとする[[少数民族]]に対する[[人種差別]]は未だなくなっていないものの、運動の結果、公民権法が施行されたことによる法的側面からの人種差別撤廃の動きを平和的な手段によって大きく前進させた意味は大きいといえる。公民権運動に携わった時期及び凶弾に倒れた際の話は、[[日本]]の[[中学校]]3年英語教科書の教材として使用されている。 「人は兄弟姉妹として共に生きていく術を学ばなければならない。さもなくば、私たちは愚か者として滅びるだろう」は、マーティンがメンフィスで語った言葉である。 == 楽曲 == *[[吹奏楽]]曲であるJ・ホセイ作曲の『ひとつの声に導かれる時』はマーティンの公民権運動がテーマとなっている。 *[[スティーヴィー・ワンダー]]の楽曲『ハッピー・バースディ』(「[[ホッター・ザン・ジュライ|Hotter Than July]]」に収録)はマーティンの誕生日に捧げた曲である。 *[[U2]]の楽曲『MLK』『PRIDE(IN THE NAME OF LOVE)』(「[[焔|The Unforgettable Fire]]」に収録)はマーティンに捧げた曲である。 *[[マイケル・ジャクソン]]の『[[マン・イン・ザ・ミラー|Man in the Mirror]]』の[[ショートフィルム]]([[ビデオクリップ]])には、ガンディーらと共に一瞬ではあるがマーティンの映像が登場する。 == 参考文献 == *『マーティン・ルーサー・キング自伝』 [[日本基督教団出版局]] ISBN 4818404306 *『[[私には夢がある]]――M・L・キング説教・講演集』 [[新教出版社]] ISBN 4400421228 *『汝の敵を愛せよ』 新教出版社 ISBN 4400520099 *『自由への大いなる歩み――非暴力で闘った黒人たち』 [[岩波書店]][[[岩波新書]]] ISBN 4004150035 *『良心のトランペット』 [[みすず書房]] ISBN 4622049406 *『黒人はなぜ待てないか』 みすず書房 ISBN 4622049392 *『キング牧師とマルコムX』 [[講談社]][[[講談社現代新書]]]ISBN 4061492314 == 関連項目 == *[[クー・クラックス・クラン]] *[[公民権運動]] *[[非暴力]] *[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]] *[[マハトマ・ガンディー]] *[[マルコムX]] *[[フレデリック・ダグラス]] *[[南部バプテスト連盟]] == 外部リンク == *[http://www.stanford.edu/group/King/ スタンフォード大学 マーティン・ルーサー・キング・プロジェクト](英語) *[http://www.mecca.org/~crights/dream.html I Have A Dream](英語) *[http://www.americanrhetoric.com/speeches/mlkihaveadream.htm American Rhetoric : I Have A Dream] スピーチ全文&動画(英語)(20世紀の名スピーチ100中1位にランク) *[http://longtailworld.blogspot.com/2006/02/i-have-dream-speech.html I Have A Dream](和訳) *{{Google video|1732754907698549493|I Have A Dream}} *[http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_01.html 公民権運動・史跡めぐり](日本語)より :*10. [http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_18.html Selma→Montgomery(アラバマ州)選挙権獲得をめざす大行進(1965)] :*12. [http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_22.html キング牧師の暗殺(1968)](暗殺現場の現在のレポートも載せている) *[http://dreamer1.hp.infoseek.co.jp/dream.html キング牧師の部屋(日本語)音声・英文・和訳] [[Category:アフリカ系アメリカ人の人物]] [[Category:ジョージア州の人物]] [[Category:公民権運動]] [[Category:非暴力]] [[Category:ノーベル平和賞受賞者]] [[Category:キリスト教に関連する人物]] [[Category:キリスト教聖職者]] [[Category:暗殺された人物]] [[Category:1929年生]] [[Category:1968年没]] {{Wikipedia/Ja}}