ソニー

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ソニー株式会社(Sony Corporation)は、日本に本拠地を置く多国籍コングロマリット ソニーグループの中核企業であり、大手電子機器メーカーである。

AV機器分野においては世界最大手であり、特に音響・映像機器や放送機材では世界屈指のブランド力を持ち、かつエレクトロニクスをはじめ、エンターテインメント金融流通等多分野の企業を包括するソニーグループの中核企業の役割を荷っている。創業者は井深大盛田昭夫である。

会社概要

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ソニーは大きく分けて6分野の事業領域を形成するソニーグループの中核企業である(1.エレクトロニクス事業、2.ゲーム事業、3.金融事業、4.音楽事業、5.映画事業、6.その他事業)。

井深大と盛田昭夫らによって1946年に設立された「東京通信工業」を前身とし、日本初のテープレコーダートランジスタラジオを製造・販売し、海外に大量に輸出してきた実績があり、戦後に設立され国内電機メーカーとしては後発のスタートだったが、エレクトロニクス系企業でのブランドイメージは世界トップレベル。

またソニーの強みは「強力なサブ・ブランド」を持つことである。他社においてそれは単なるプロダクト・ネーム(商品名)の域を出ないが、ソニーでは明確なブランドとして存在する。VAIOウォークマンプレイステーションなどは、それぞれが単独で高いブランド価値を有する。

古くから本業であるエレクトロニクス事業の枠にとどまらず、エンターテイメント分野(音楽映画等)に力を入れて来ており、ハード・ソフト両面からの展開により事業拡大に成功してきた。またゲーム分野、金融保険銀行)、流通ソニープラザ、現在はソニーグループから独立)、化粧品健康食品などの異分野にも進出している。

エレクトロニクス分野では、国内の生産現場のアウトソーシング化や海外生産の割合が増えつつある。かつてトリニトロンブラウン管ブランド力を誇ったテレビ市場では、ブラウン管技術に固執した事や有機ELなどの開発に力を入れていたこともあり、現在のテレビ市場の主力となっている薄型テレビ(プラズマディスプレイ液晶ディスプレイなど)において、パネルの自社生産体制構築に乗り遅れて一時期他社に大きく差を付けられることになったが、サムスン電子との共同生産子会社S-LCDをたちあげることなどにより巻き返しを果たした。しかし、一方でこの提携はソニーの映像技術を流出させ、テレビ生産において生産高1位の地位をサムスン電子に明け渡す原因になったという指摘もある。さらに依然逼迫していたパネル調達を容易とするため、ソニーは第10世代の液晶生産でシャープと提携しシャープとの合弁に主軸を移すものの、一転し液晶への投資を抑制し、合弁の解消に向うこととなった。

一方、ゲーム分野において、コアとなる半導体部品などを自社開発することによって差別化をはかり、斬新なコンセプトにて開発されたプレイステーションプレイステーション2のヒットにより、本業であるエレクトロニクス事業の不振分以上の利益を得たが、PSXの失敗とプレイステーション3の不振などもあってゲーム事業での一時期の勢いは失われ、2007年(平成19年)以降はソニー全体の業績負担となっている。ただし、その後は量産効果の向上及び薄型PS3の売り上げ好調もあり、2009年3月期の売上高は9850億6600万円、営業利益が374億5900万円、経常利益が282億3500万円、純利益が95億5000万円を計上している。

ブランドでは、Sonyの他に低価格帯製品を主軸としたAIWAが2008年(平成20年)5月まで存在した。

会社設立趣意書

ソニーは高い創造性と技術力で目新しい商品を次々と発表し、会社設立趣意書にある、 テンプレート:cquote2 という思想から、自社開発の技術にこだわりユーザーの支持を得る事に成功してきた。しかし独自規格にこだわるあまり、それが逆に失敗となった例も多くある。

「中高年リストラ」の現場(2013年)

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東京・品川のソニー旧本社ビル──。現在、「御殿山テクノロジーセンター NSビル」と改称された8階建てのビルの最上階に、問題とされる部署はある。

「東京キャリアデザイン室」。かつて大賀典雄名誉会長が執務室を構え、役員室が置かれていた由緒正しきフロアは今、社内で「戦力外」とされた中高年の社員を集めてスキルアップや求職活動を行わせることを目的とした部署に衣替えしている。

Aさん(50代前半)も東京キャリアデザイン室への異動を命じられた一人だ。午前9時前に出勤すると、自身に割り当てられた席に着き、パソコンを起動させる。ここまでは普通の職場と変わりない。

違っているのが“仕事”の中身だ。会社から与えられた仕事はなく、やることを自分で決めなければならない。「スキルアップにつながるものであれば、何をやってもいい」(Aさん)とされているものの、多くの社員が取り組んでいるのは、市販のCD-ROMの教材を用いての英会話学習やパソコンソフトの習熟、ビジネス書を読むことだ。

Aさんも英会話に励んでいるが、「自分が置かれている境遇のことで頭がいっぱいになる。いくら勉強しても身にならない」と打ち明ける。

「隣の人との会話はなく、電話もかかってこない。まるで図書館のような静けさ。時々、孤立感や言いようのない焦燥感にさいなまれることがある」ともAさんは言う。

社内で「キャリア」と略して呼ばれる同室は、品川のほかに神奈川県厚木市の「ソニー厚木第二テクノロジーセンター」、宮城県多賀城市の「ソニー仙台テクノロジーセンター」内にも設けられている。関係者によれば、3カ所合計で250人前後が配属されているとされ、人数自体も増加傾向にあるという。

ノルマも残業もなく人事評価は最低レベル

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ソニーは2012年3月期まで4期連続の最終赤字となっており、業績回復が急務だ。2012年度にグループで1万人の人員を削減する計画で、2012年5月、9月、そして2013年2月末を期限として「勤続10年以上かつ満40歳以上」の社員を対象に3度にわたり早期退職者の募集が行われた。

キャリアデザイン室が人員削減のための部署であることは、社員ならば誰もが知っている。この部署がほかと大きく異なる点は、配属された社員の人事評価が、多くの場合に「最低レベル」となり、在籍期間が長くなるほど、給与がダウンする仕組みになっていることだ。というのも、仕事の内容がソニーの業績に直接貢献するものではなく、他社への転職を含めて本人の「スキルアップ」を目的としているためだ。

同じくキャリアデザイン室に所属するBさん(40代)によれば、「ノルマや課題もなく、残業もない」という。「何をやっていてもいい」とはいうものの、「社外で英会話を学ぶ場合には自分で授業料を払わなければならず、近場での無料の講習会に参加する際に交通費が出る程度。社内の仕事を斡旋してくれることも皆無に等しく、自分で探し出さなければならない」(Bさん)。

しかし、大規模な人員削減が続く社内では新たな仕事を見つけることは困難で、必然的に転職のための活動を余儀なくされる。「上司」に当たる人事担当者とは1~2週間に1度の個別面談があり、その際に「他社への就職活動はきちんとやっているか」などと説明を求められる。

もし社内に踏みとどまろうとすれば、誰でもできる単調な仕事しか与えられない。「仕事が見つからずにキャリアデザイン室に在籍して2年が過ぎると、子会社への異動を命じられ、そこでは紙文書のPDFファイル化など、ひたすら単純作業をやらされる」(ソニー関係者)。

キャリアデザイン室に送り込まれる前の段階であっても、早期退職の勧奨が熾烈さを増している。

ソニーから生産子会社に出向中のCさん(50代前半)も度重なる早期退職の勧奨を受けた一人だ。

Cさんへの退職勧奨は、2012年11月、部長による面談から始まった。

電子メールで呼び出しがあり、指定された会議室に入ると、上司から開口一番、次のように告げられた。

「来年も今の仕事を続けるのは厳しい。社内か社外で仕事を探してください。期限は13年3月末です」

そして3度目に当たる3週間後の面談で、「13年3月いっぱいであなたの仕事はなくなります」と言われた。

「今の仕事は本当になくなるのですか」と問い返すCさんに、上司は「ほかの人がやる」と返答。納得がいかなかったCさんがさらに尋ねると、「事業規模に見合った人数にするためです。近隣の事業所に異動先はないので、社内募集に手を挙げてください」と促された。

Cさんはやむなく社内募集のエントリーシートに必要事項を記入して提出したものの、12月末には「書類審査で通らなかった」との回答があった。年をまたいだ1月の5回目の面談では、「2月末が早期退職募集の期限だから、早く社内の仕事を見つけてください」と言われた。

だが、Cさんは仕事を見つけることができなかった。会社が指定した再就職支援会社の面接も受けたが、求人内容は年収が大幅にダウンするものばかりで、これまでの経験を生かすことができる仕事はなかった。

そうした中、6回目に当たる2月の面談で、前出の上司から来年度の事業計画での戦力外を通告される。そのうえで「身の振り方を決めていないのはあなただけです」と暗に退職を求められた。その翌日の人事担当者との面談でも「あなたに合う社内募集はない。2月末が早期退職の期限なので、急いで経歴書を作ってください」と催促された。

結局、会社にとどまることを希望して早期退職を拒否したCさんは、3月に入っても次の異動先が提示されないままだ。Cさんは「不安な日々が続いている」と言う。

縮小する一途のソニー。巧妙なリストラ話法

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Dさん(50代前半)も2012年11月に上司から「あなたの仕事はなくなる。キャリアを生かせる場所をほかで探してほしい」と告げられた。

その後も上司との面談が続けられたが、2013年1月の面談では「(辞めないのなら)下請け会社での清掃業務や九州など遠隔地の子会社への異動もありうる」との説明があった。

CさんやDさんは「退職を強要されている」と受け止めている。だが、ソニー広報センターは本誌に「退職強要の事実はない」と説明。少数組合のソニー労働組合が問題視しているキャリアデザイン室についても、「異動先が未定の社員が次のキャリアを速やかに見つけるための調整部署。(「追い出し部屋」との)指摘のような事実はない」としている。

CさんやDさんによれば、上司は「仕事がない」と繰り返す一方で、「辞めてください」とは決して言わないという。また、「早期退職という方法がある」と話すものの、「申し込んだらどうか、とも言わない」ともいう。Cさんが「退職を勧奨しているのですか」と聞いたところ、上司は「違います。あくまでキャリアについての面談です」と返答。それでもCさんは「退職を強く促されている」と感じている。

そして退職勧奨されている社員が最も恐れているのが、キャリアデザイン室への異動だ。Cさん、Dさんとも、「絶対に行きたくない」と口をそろえる。

Cさんは、面談を受けた再就職支援会社の担当者から、次のようにアドバイスされた。

「あそこ(=キャリアデザイン室)にいると働こうとする気持ちが失せてしまい、グループ外の企業に応募しても合格しなくなる。在籍するにしても、せいぜい半年にとどめておいたほうがいいと思います」

2011年当時にキャリアデザイン室に在籍していた同僚からも、「何もしないというよどんだ空気が嫌だ。今回は退職勧奨を受けたので会社を辞める。あの部屋にだけは絶対に戻りたくない」という言葉を聞いた。

ソニーの生産子会社の期間社員として勤務した後、雇い止め撤回のための団体交渉で再就職となり、ソニーの孫会社の正社員となった3人の社員も、疎外感を抱いている。

3人は2012年7月に孫会社への就職が実現した。しかし、「キャリア育成グループ」に配属されて7カ月が経った現在も、「仕事ではほかの社員と区別され、朝のミーティングへの参加も認められていない」(3人の一人のEさん)という。

疎外感を抱く孫会社の社員たち

Eさんによれば、「担当する清掃業務に必要ない」という理由でパソコンは支給されていない。そのため、紙の勤務記録表に手書きで出退勤時間を書き込んでいる。

また、パソコンがないために社内のホームページを見ることができず、「監督者」としてソニー本社から派遣されている上司から情報を得るしかない。ところが、この上司がしばしば情報伝達を失念するために、締め切り直前まで健康診断や予防接種の連絡がなかったという。

3人の社員は2013年2月、上司に処遇の是正を求めたが、上司は「仕事の内容が違うのだから、ミーティングをほかの社員と一緒にやる必要はない。パソコンも支給しない」との考えを変えなかった。

ソニー広報センターは「雇用確保のために外部委託していた仕事を取り込むことで採用したため、(孫会社の)事務職の社員とは職場環境が異なる。同社では首都圏でも直接雇用の清掃職が存在しているが、(3人と)就業条件には差がない」と説明している。3人が具体例を挙げて嫌がらせや差別を受けていると語っていることについては、「指摘のような事実は確認していない」と回答している。

労働法が専門の西谷敏大阪市立大学名誉教授は、「嫌がらせの有無や程度にもよる」としたうえで、「退職勧奨やキャリアデザイン室への異動、孫会社での処遇が、嫌気が差して辞めるようにしむけることが目的であるならば、法的に許された域を超えてくる」と指摘する。

企業のメンタルヘルス問題に詳しい生越照幸弁護士は、「度重なる退職勧奨によって、社員本人が精神疾患を発症した場合、企業が労働契約法に基づく安全配慮義務違反を問われる可能性がある」と分析する。

企業のリストラ策にはさまざまな手法がある。中には、ある日突然、職場への出入りを禁止する「ロックアウト型」の解雇や本人に過大なノルマを課して辞めさせる手法など、ソニーのやり方をはるかにしのぐものもある。

ソニーだけでなく日本企業の多くが、中高年世代の余剰人員を抱えている。企業からすれば人員スリム化は理由のあることかもしれない。だが、企業業績の悪化→中高年への退職勧奨を続けるかぎり、ビジネスパーソンはつねに不安を抱えながら働くことになる。

平井社長に社員ア然…大赤字でもトップ人事手つかず(2014年5月)

ソニーの大赤字決算を受け、社内外で「平井一夫社長(53)はなぜ責任を取らないんだ」という怒りが渦巻いている。

14日発表したソニーの2014年3月期は、売上高こそ前年を上回ったものの、本業の儲けを示す営業利益は264億円で前年比88%減だった。純利益は1,283億円の赤字とボロボロだ。

平井氏が社長に就任したのは約2年前の2012年4月。当初から、中核ビジネスの「エレクトロニクス事業を黒字転換させる」と言い続けているが、2014年3月期も赤字だった。

「エレキは3期連続で赤字です。公約を守れないのだから、退陣論が浮上して当然でしょう。ライバルのパナソニックシャープが回復基調なので、平井社長の無能さがいっそう目立ちます」(経済ジャーナリスト真保紀一郎氏)

それでも平井社長は居座るつもりだという。大株主の米サードポイントの意向を受け入れてテレビ事業を分社化し、パソコン事業を売却したことで、6月の株主総会を乗り切れると判断しているのだ。

「平井社長への不満は業績面だけではありません。社員にはつらいリストラを強いているのに、経営陣のリストラに手をつけようとしない。最悪なのはソニー迷走に拍車をかけたハワード・ストリンガーCEOの息のかかったソニー・アメリカのプレジデントを辞めさせないことです」(株式評論家の倉多慎之助氏)

ストリンガー氏は2012年4月にCEOを辞任し、2013年6月には取締役会議長も辞め、ソニーから全面的に引退。ところが、ストリンガー氏の右腕として知られた女性経営者、セリグマン氏は米国本社に君臨。ストリンガー氏の実弟も米コロムビア・レコードの会長にとどまったままなのだ。

「こうした人物を切れないところに平井社長の限界がある。かつて出井伸之元社長は、社長就任直後に本社の指示に従わない米国本社のトップを事実上解任し、社内の信頼を勝ち取った。平井社長は“前政権の亡霊”を追い出すことができない。社員は呆れていると思います」(真保紀一郎氏)

ソニー復活は、平井社長の“決断”にかかっている。

ソニーの評価

文字としての「SONY」の資産

ソニーの幹部の言によれば、この会社の最大の財産は『SONYの4文字』であるという。東京通信工業(東通工)として名を知られつつあったときに突然ソニーという名称に変更することは、取引先などからも「なぜ」あるいは「やめておいたほうが良い」という反応を招いた。社内においてもその声は強かったというが、日本語圏以外でも普通に発音できる、どこへ行っても読み方の変わらないこの名前にしたことが、現在の同社のグローバルな多角化の萌芽であったという。ブランド価値が高まった現在では、生命保険などの異業種に進出する際にも、消費者に訴求する上で有利に機能している。

フランスに赴任していた若き出井が日本に戻ってきて、欧州で学んだブランドの重要性をソニーに持ち込んだ。かつて一度だけロゴマークの変更を検討し、一般公募したことがあった。その選考結果は新聞紙面に発表され、「ブランドは変えないことに決定した」という内容であった。ブランドの普遍性、永続性を再確認したのである。

コーポレートスローガンとサウンドロゴ

「ソニー」に社名を変更した1958年(昭和33年)から1970年代までは「日本が生んだ世界のマーク」をコーポレートスローガンとしていた。また「SONY」ロゴも、のちに4代目社長となった大賀典雄黒木靖夫の手により幾度となく変更され、最終的には1973年(昭和48年)に現在の形となった。

1982年(昭和57年)より1990年代後半まで、唯一のビジュアル・アイデンティティ(VI)だった「SONY」ロゴに加え、SONYの「S」を象ったドットで形成された「Sマーク」(俗に「いくらマーク」と呼ばれた)と、テレビCMではこれに加え「It's a Sony」というサウンドロゴを用い、絵と音で「ソニー」という企業を印象づけた。
特に「It's a Sony」のサウンドロゴは2000年(平成12年)まで使用され、ソニーブランドを象徴する音として現在でも語り継がれている。また1980年代には、「Sマーク」の下に「It's a Sony」の文字を配したステッカーが、各製品やカタログ表紙に貼られていた。
1996年(平成8年)からは「Digital Dream Kids」 をコーポレートスローガンとして掲げ、デジタルシフトとホーム・エンタテインメント路線を明確にした。

2000年(平成12年)から2005年(平成17年)までは、一定であらず変容し続ける様、双方向といった来るべきネットワーク型社会への想いを込めた「Connected Identity」というドットから成るVIをテレビCMのみで使用。

ユーザー自身がインターネット上などで入力した文字を、テレビCMの最後に「Connected Identity」として表示するという試みが行われた。またサウンドロゴも新しくなり、男女が交互に「Sony,Sony」と言うシンプルなものになった。

2004年(平成16年)からはアメリカのみで使用していた「like.no.other」というコーポレートスローガンを全世界で使用した。「異なる視点・考え方から『新しい』を創造する」「新しい何かがある」というメッセージが込められていた。テレビCMでは、各製品ごとに「like.no.other」の文字と背景の色が異なっていた。

2009年(平成21年)から現在は、「make.believe」(メイク・ドットビリーブ)を子会社も含めて全世界で使用している[1]

過去のキャラクター

東京通信工業10周年記念として1956年岡部冬彦の「アッちゃん」を採用。アッちゃん人形は各営業所にマスコットとして設置されていた。1958年ソニーへの社名変更と共に「ソニー坊や」とキャラクター名を改め、飯沢匡作詞、服部正作曲、歌ダークダックスによる「ソニー坊や」のCMソングも作られるなど人気のキャラクターとなっていたが、1961年、大賀典雄の「世界を目指す企業がこんな物を使っててはいけない」という方針により、その全てが撤廃された。

ソニーの技術

特に日本におけるソニーのブランドイメージとして、技術力があることを挙げられることが多い。古くはトランジスタラジオやトランジスタテレビ、トリニトロン方式のテレビやウォークマンなど、ユニークな製品をいち早く市場に送り込んだことから、「技術のソニー」と呼ばれる。

トランジスタはベル研究所が発明したものであり、トリニトロンはアメリカで発明されたクロマトロンが原型であるが、補聴器にぐらいしか用途がないと思われていたものをラジオやテレビに応用するなど、これらの技術に目をつけ、いち早く取り入れる姿勢がソニーの最大の強みであるとも言える。加えていわゆる「スタミナ」や軽薄短小な製品作りなど、既存の製品や技術に改良を加えるという観点からの「技術力」は高い。

それだけではなく、最近では小消費電力技術VMEなど、まったく新しい技術も生まれている。

独自規格へのこだわり

ソニーは、独自に開発した規格への拘りが非常に強い社風で知られる。一度規格争いが生じると、対立規格への参入はしないことが多く、たとえそれがデファクトスタンダードになっても参入が大幅に遅れることが多い。

たとえばウォークマンの場合、初代機においてヘッドホンと本体との接続には従来の標準プラグでなく新規開発のステレオミニプラグを採用した。これは他社にも採用され、事実上の標準となった。ところがヘッドホンが本体でなくリモコンに接続されるようになると、新たにマイクロプラグという規格を採用してきた。自らがかつて普及させたステレオミニプラグとはサイズやプラグ形状が異なるため、一般的なステレオミニプラグヘッドホンをつなぐ場合は変換アダプターを必要とし、本体・リモコン接続用と用意していた。しかし1997年末頃からはステレオミニプラグに回帰した。

ビデオのときも自社開発したベータマックスを推し進め、VHS陣営の勝利が決定的となってからもベータにこだわり続けてきた(VHS テープの供給開始は1985年、VHSビデオの生産開始は1988年である)。ベータ陣営が劣勢になってからも、「ベータマックスはなくなるの?」「ベータマックスを買うと損するの?」「ベータマックスはこれからどうなるの?」「ますます面白くなるベータマックス!」なるコピーの新聞広告を全国紙に掲載(1984年1月25日から4日連続)するなど、強気の姿勢を示していたほどであった。

またメモリーカードにおいてもメモリースティック(Duo)の性能強化(大容量化と高速化)と普及促進を行い、SDメモリーカードは自社製品への対応も行っていなかった。同社のパソコンVAIO2005年秋冬モデルから、ソニーエリクソン製携帯電話は2006年発売のSO903iNTTドコモ向け)から、サイバーショット、ハンディカムは2010年モデルから対応した。またソニー製SDメモリーカードも2010年1月29日より販売が開始された。

他にも、以下のような事例がある。

  • DVDレコーダーBDレコーダーではDVD-RAMには対応せずDVD+R/+RWに対応。DVD-RAMに関しては他のDVD-RW陣営のメーカーも全面対応には否定的な状況であるが、ソニー製品に関しては再生も不可能な機種が数多く存在する。
  • ミニディスク(MD)やその関連技術(ATRAC)に固執するあまり、アップルHDD携帯音楽プレーヤーiPod』とソフトウェアiTunes音楽配信サービス『iTunes Store』に次々と先を越され、ウォークマンのシェアが世界中で落ちてしまった。最近はXperiaなどのAtracに対応していない製品が出始めている。Atracは仕様非公開のプロプライエタリな音声コーデックであったが、FFmpegの開発コミュニティによってリバースエンジニアリングされており、FFmpegベースのプレイヤーで再生することができる(ただしAtrac3plus、ATRAC Advanced Losslessは再生不可能)。また、RockboxにおいてもFFmpegのコードを移植しているために再生可能である(ただしAtrac3のみ)。
  • VAIOでは電子楽器メーカー製造の周辺機器との親和性が良くない機種が存在する。

また、この傾向は同系列会社でも顕著で、最も判り易い例がソニー・ミュージックエンタテインメント系列の音楽配信が殆どの場合moraとその提携先の一部サイトに限られており、アップルの音楽配信サイトであるiTunes Store等、多くの主要音楽配信サイトではアリオラジャパン(旧BMG JAPAN)所属の一部アーティスト・新人を中心とする一部の洋楽アーティスト・ソニー・ミュージックディストリビューションに販売を委託しているレーベルの一部(zetimaなど)を除いて、2012年(平成24年)11月まで全く音楽配信がされなかった事が挙げられる。

一方でこれらが近年の業績不振の一因とみたのか、近年ではオープン規格対応に転じている。そして、次世代DVD「Blu-ray Disc」では、長年のライバル、パナソニックと同じ陣営になり、HD DVDに対するBlu-ray勝利の一因となった。

株式

普通株式は、東京証券取引所(東証)のほか、大阪ニューヨークロンドンの各証券取引所に上場されている。他にも世界各地で上場していたが、名古屋証券取引所2004年(平成16年)9月6日に、福岡証券取引所は2004年9月7日に、札幌証券取引所は2004年9月10日に、トロント2005年(平成17年)11月22日に、ウィーンは2005年12月16日に、パシフィック2006年(平成18年)1月6日に、パリは2006年1月17日に、フランクフルトデュッセルドルフは2006年2月15日に、シカゴは2006年2月27日に、スイスは2006年2月28日に、ブリュッセルは2006年4月28日に、それぞれ上場廃止となった。

この外、かつては子会社連動株式(トラッキング・ストック)型の種類株式が東証に上場されていた。この種類株式は、ソニー株式会社の子会社であるソニーコミュニケーションネットワーク株式会社(SCN、現ソネットエンタテインメント株式会社)の業績に連動した配当が支払われるものであった。しかし2005年(平成17年)12月にSCNがマザーズに上場されると同時に終了となった。

主要商品

現行商品ブランド

販売終了ブランド

  • オーディオ
  • カーナビゲーション
  • エンターテインメントロボット
  • その他
    • Sonett(電磁調理器、シェーバー、エアコンなどの一般家電、1977年~1987年)
    • Lasermax (レーザーディスクプレイヤー)
    • QUALIA(完全受注生産の高級AV機器ブランド)
    • NEWS(UNIXワークステーション)
    • SOBAX(電卓)
    • PRODUCE(日本語ワープロ)
    • LIBRIee-Bookリーダー)
    • DATA EATA
    • データディスクマン(電子ブックプレイヤー)
    • 黒でん(コードレス電話機

沿革

社業沿革

製品分野別の沿革

オーディオ分野

  • 1950年(昭和25年)、国産初のテープレコーダーの試作に成功、発売する。
  • 1952年(昭和27年)、日本初のステレオ・テープ・レコーダーを作り、NHKラジオ第1・第2の2波を使ったステレオ試験放送(当時は立体放送と言っていた)に使われる。
  • 1974年(昭和49年)、自社初のPCMレコーダーの試作に成功。
  • 1976年(昭和51年)、世界初のビデオデッキを使ったPCMオーディオプロセッサー「PCM-1」を発売。
  • 1978年(昭和53年)、世界初の16ビットPCMオーディオプロセッサー「PCM-1600」を発売。
  • 1978年(昭和53年)、実験的高級オーディオブランドSONY ESPRITの展開を開始(のちのRシリーズに受け継がれる。また、現在のESブランドはこの名残である)。
  • 1979年(昭和54年)、ウォークマン「TPS-L2」を発売し大ヒットした。
  • 1982年(昭和57年)、自社が中心になって開発したDASHフォーマットを使用した、24チャンネルマルチPCMデジタル録音機「PCM-3324」(定価:3300万円)を発売。
  • 1982年(昭和57年)、コンパクトディスク (CD) を発表、10月1日に第1号機「CDP-101」(定価168,000円)を発売。
  • 1984年(昭和59年)、世界初の携帯CDプレイヤーディスクマン「D-50」を発売。
  • 1987年(昭和62年)4月、民生用DATデッキ「DTC-1000ES」を発売。
  • 1989年(平成元年)、世界初の48チャンネルマルチPCMデジタル録音機「PCM-3348」(定価:3800万円)を発売。
  • 1992年(平成4年)、ミニディスク (MD) を発表、プレーヤー「MZ-1」を発売(同年11月1日)。
  • 1996年(平成8年)、ΔΣ変調を使ったDirect Stream Digital (DSD)録音方式を開発、デモを行う。
  • 1999年(平成11年)5月21日、DSD技術を用いた世界初のSuper Audio CDプレーヤー「SCD-1」(定価:50万円)を発売。
  • 2004年(平成16年)、MDの拡張規格であるHi-MDを発表、プレーヤー「MZ-NH1」を発売。
  • 2007年(平成19年)、SDリピーターを発売。

オーディオ・ビジュアル分野

  • 1960年(昭和35年)、ポータブルトランジスタテレビ「TV8-301」を発売。
  • 1965年(昭和40年)、家庭用VTR ビデオコーダー「CV-2000」を発売。
  • 1968年(昭和43年)、世界初のトリニトロン方式によるカラーテレビ「KV-1310」を発売。
  • 1969年(昭和44年)10月29日当時の松下電器日本ビクターと共に、3/4インチカセット式VTRの"U規格"を発表。
  • 1971年(昭和46年)10月10日U規格VTRの第1号機を、"Uマチック"という商標を使って発売する。
  • 1975年(昭和50年)、ベータ方式の家庭用VTRベータマックス「SL-6300」「SL-7300」を発売。
  • 1976年(昭和51年)、米アンペックス社と共に、放送用の1インチVTRを開発。第1号機「BVH-1000」を発売。
  • 1982年(昭和57年)、BVH-1000を改良した、世界初の1インチのハイビジョン・アナログVTRを開発。
  • 1982年(昭和57年)、ENG取材の機動力を高める為のVTR・カメラ一体型のカムコーダを開発し、それ用の新規格VTR"BETACAM"を発表。カムコーダ、据え置き型録画再生機共に同時発売。
  • 1985年(昭和60年)、放送局向けに、1インチのハイビジョン・アナログVTR「HDV-1000」の受注販売を開始。(当初はNHKに納入された。)
  • 1985年(昭和60年)、8ミリビデオ規格を発表。VTR「EV-S700」、ビデオカメラ「CCD-V8」を発売。
  • 1987年(昭和62年)、世界初のデジタルVTRを発表、発売(D1方式、定価:700万円)。
  • 1988年(昭和63年)、VHS方式のVTR「SLV-7」を発売。VHS/βのVTR規格争いが終了。
  • 1988年(昭和63年)、新しい方式のデジタルVTRであるD2-VTRを発表、発売。
  • 1989年(平成元年)、世界初の1インチデジタル・ハイビジョンVTR「DVH-1000」受注販売開始(定価:2000万円)。(当初は日本放送協会フジテレビジョンに導入される。)
  • 1989年(平成元年)、コロンビア映画(現、ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)を買収。
  • 1993年(平成5年)、BETACAMにデジタル録画・再生を可能にした"Digital BETACAM"が開発、商品化される。
  • 1997年(平成9年)、DVDビデオプレーヤー「DVP-S7000」を発売。
  • 1997年(平成9年)、DRCを搭載したフラットブラウン管テレビ「WEGA」を発売。
  • 1997年(平成9年)、Digital BETACAMのハイビジョン(HD)版、"HDCAM"が開発、商品化される。
  • 2001年(平成13年)、初代DVDレコーダー「RDR-A1」を発売。同機種はパイオニアOEMだった。
  • 2002年(平成14年)、アイワ株式交換により完全子会社し、その後合併した。
  • 2002年(平成14年)、8月にベータマックス機器の年内生産終了を発表。27年の歴史に幕。
  • 2002年(平成14年)、11月にCoCoonシリーズを発売。以降デジタルレコーダーのラインナップを大幅に拡充。
  • 2003年(平成15年)、4月に当時世界初のBDレコーダー「BDZ-S77」発売。
  • 2003年(平成15年)、11月にスゴ録シリーズを発売。
  • 2003年(平成15年)、12月にPSXを発売。ただし、同時期に発売したスゴ録に人気が集中した。
  • 2003年(平成15年)、HDCAMの高画質改良版、"HDCAM SR"を開発、発売。
  • 2004年(平成16年)、S-LCDを設立。
  • 2004年(平成16年)9月、HDV規格による世界初のHDV 1080i対応の家庭用ハイビジョン・ムービー「HDR-FX1」を発売。
  • 2005年(平成17年)、6月に初代デジタルチューナー搭載スゴ録「RDZ-D5」を発売。
  • 2005年(平成17年)、9月に薄型テレビのブランド名をWEGAからBRAVIAに変更。
  • 2006年(平成18年)、世界の液晶テレビの出荷におけるシェア率で初の1位となる。
  • 2007年(平成19年)、3月末でアナログチューナーのみの録画機全般から撤退。デジタル放送対応に移行。
  • 2007年(平成19年)、4月でブラウン管テレビの国内向け販売終了。
  • 2007年(平成19年)、9月12日に国内向けのDVDレコーダー市場からの完全撤退を発表。BDレコーダーに移行。
  • 2007年(平成19年)、11V型有機ELテレビ「XEL-1」を発売。[1]
  • 2008年(平成20年)、同年3月末でリアプロジェクションテレビ市場からの撤退を発表。
  • 2008年(平成20年)、中南米向けのトリニトロン製品の生産を完全終了。41年の歴史に幕。

カメラ分野

  • 1988年(昭和63年)、電子スチルビデオカメラ Mavica「MVC-C1」を発売。
  • 1989年(平成元年)、パスポートサイズハンディカム「CCD-TR55」を発売。
  • 1995年(平成7年)、DV規格の家庭用デジタルビデオカメラ「DCR-VX1000」を発売。
  • 1996年(平成8年)、初代サイバーショット「DSC-F1」を発売。
  • 1999年(平成11年)、Digital8規格のビデオカメラ「DCR-TRV310K」を発表。他社からの参入はなく、その後Digital8規格は消滅した。
  • 2000年(平成12年)、10月に「DSC-P1」を発売。現在もソニーのデジタルカメラとしては最も売れた機種である。
  • 2001年(平成13年)、MICROMV規格のビデオカメラ「DCR-IP7」を発表。MICROMVも独自規格のまま消滅。
  • 2004年(平成16年)、同社初の8cmDVDを使用するビデオカメラ「DCR-DVD101」「DCR-DVD201」を発売。
  • 2004年(平成16年)、10月に世界初のHDV 1080i規格のビデオカメラ「HDR-FX1」を発売。
  • 2005年(平成17年)、7月に小型HDVカメラ、ハンディカム「HDR-HC1」を発売。
  • 2005年(平成17年)、12月に中華人民共和国浙江省工商行政管理局が、デジタルカメラ13機種に対し「ホワイトバランス」「自動露出」などの項目で独自の品質基準を満たしていないとして販売停止命令。サイバーショット6機種を含む。
  • 2006年(平成18年)、同社初のHDDビデオカメラ「DCR-SR100」を発売。
  • 2006年(平成18年)、1月にコニカミノルタのカメラ事業撤退に伴い、同社の資産を一部引き継ぎ、デジタル一眼レフ分野へ参入。「α(アルファ)」を発表。
  • 2006年(平成18年)、世界初のAVCHD方式のビデオカメラ「HDR-SR1」「HDR-UX1」を発売。

コンピュータ分野

歴代社長

  1. 前田多門
  2. 井深大
  3. 盛田昭夫
  4. 岩間和夫
  5. 大賀典雄
  6. 出井伸之
  7. 安藤国威
  8. 中鉢良治
  9. ハワード・ストリンガー
  10. 平井一夫
  11. 吉田憲一郎

提供番組

TBS系列(JNN)

2013年現在、定期的に提供している、また提供クレジットがあるのは「THE世界遺産」のみで、それ以外の番組は日替わりなどで提供になる場合があるが、この場合全てPT枠で、提供クレジットはない。なお子会社のソニー・モバイルコミュニケーションズで提供される場合の提供クレジットは「XPERIA」で、ソニー・コンピュータエンタテインメントでの提供の場合は「PlayStation」となる。

かつて提供していた番組

テレビ

TBS系列(JNN)
日本テレビ系列(NNNNNS
フジテレビ系列(FNNFNS
テレビ朝日系列(ANN)
テレビ東京系列(TXN)
独立UHF放送局

ラジオ

ニッポン放送系列(NRN)

脚注

  1. ただし、「ソニーオプティアーク」や「ソニーフィナンシャルホールディングス」及びその傘下企業(ソニー銀行ソニー損害保険ソニー生命保険)では使われていない。

関連項目

外部リンク

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