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{{サッカー選手 |名前=ラモス瑠偉 |画像= |本名= |愛称=カリオカ |カタカナ表記=ラモス ルイ |アルファベット表記=RAMOS Ruy |原語名=帰化前 |原語表記=Ruy Gonçalves Ramos Sobrinho |国={{JPN}} |誕生日={{生年月日と年齢|1957|2|9}} |出身地={{BRA}} [[リオデジャネイロ市|リオデジャネイロ]] |身長=181cm |体重=71kg |血液型=O型 |所属チーム名= |ポジション=[[ミッドフィールダー|MF]] |背番号= |利き足=右足 | 年 = 1977-1996<br />1996-1997<br />1997-1998 | クラブ = <small>[[読売サッカークラブ]]/[[ヴェルディ川崎]]</small><br />[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]<br />ヴェルディ川崎 | 出場(得点) = 302 (83)<br />20 (0){{0}}<br />39 (0){{0}} | 代表年 = 1989-1995 | 代表国 = {{JPNf}} | 代表出場(得点) = 32 (1){{0}} | 監督年= 2006-2007 | 監督チーム = [[東京ヴェルディ1969]] | クラブ成績更新日 = 2007年1月27日 | 代表成績更新日 = 2007年1月27日 }} '''ラモス瑠偉'''(ラモス ルイ、Ramos Ruy、[[1957年]][[2月9日]]-)は、[[ブラジル]]出身の[[日本]]の元[[サッカー]]選手、サッカー指導者。元[[東京ヴェルディ]]監督。ブラジル名はRuy Gonçalves Ramos Sobrinho(ルイ・ゴンサゥヴェス・ラモス(ハモス)・ソブリニョ)。 == プロフィール == ブラジルの[[リオデジャネイロ]]でサッカー好きな税理士の父の元、5人兄弟の4番目の子として生まれる。愛称の'''カリオカ'''は「リオっ子」という意味で出身地に由来する。なお、カリオカとは厳密にいえばリオ市中心部出身者を意味するが、実はリオ中心部出身でないという説も一部にはある。そのためフルミネンセ(リオ市郊外)もしくは、本当はパウリスタ(サンパウロ出身者)ではないかという噂もある。 [[1977年]]に来日。[[1989年]]に日本に[[帰化]]。[[1984年]]に結婚した初音夫人との間に1男1女。 === 現役時代 === 少年時代リオから[[サンパウロ]]に移り、20歳の時に当時[[読売サッカークラブ]](現[[東京ヴェルディ]])でプレーしていた[[ジョージ与那城]]にスカウトされる。[[1977年]][[4月]]に来日し入団。当時のニックネームはラモスの細い肉体に着目して名づけられた「[[鉛筆|エンピツ]]」。その後「カリオカ」の愛称で親しまれる。 [[ミッドフィールダー|MF]]として有名だが、本人によればブラジル時代は[[ディフェンダー (サッカー)|DF]]としてプレイしていたという。そして来日からしばらくは[[フォワード (サッカー)|FW]]としてプレイした。初めは若さと[[日本語]]もわからなかったためトラブルを起こし、異例ともいえる1年間の出場停止処分を受けた事もあった。国内唯一の"クラブチーム"、ブラジルスタイルの"プロの集団"である読売クラブに対しては、日本サッカー協会や実業団チームからの妬みや反発が強く、クラブを代表してラモスが被害を被った側面もある。しかし1年間の出場停止が解け復帰した1979年はいきなり、"得点王"と"アシスト王"の二冠を獲得。この偉業は[[日本サッカーリーグ]]史上、[[釜本邦茂]]とラモスしか成し遂げた者はいない([[日本プロサッカーリーグ |Jリーグ]]ではアシストの個人表彰を行っていない)。 サントスFC、ウルグアイ代表、マレーシア代表を招いた1985年[[キリンカップ]]では、日本代表と並んで読売クラブが参加した。この大会でも読売クラブは単独チームとして世界のプロ相手に善戦、ラモス自身もテクニックが高いことを十分に証明し、海外クラブに勝てないどころか、対読売クラブ戦にすら惨敗した日本代表とは対照的であると言えた(因みに当時日本代表レギュラーの約半分が読売クラブ出身)。国の代表として全く良いところ無く終わった日本代表に対して、読売クラブの、そしてラモスのテクニックが「世界基準」であることを改めて証明した大会であった。 このころより[[セルジオ越後]]らと共に全国で少年サッカー教室を開き、後のJリーグ世代となる多くの子供たちの憧れの選手となる。 日本サッカーが低迷する時代、読売対[[日産自動車サッカー部|日産自動車]](現在の[[横浜F・マリノス]])だけはラモスの活躍もあり「黄金カード」として注目の的であり続けた。敵チームながら[[木村和司]]らと不遇の日本リーグ時代を支え、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]開幕、W杯出場へと日本サッカー発展させた功労者の一人。当時のラモスを木村和司は「非常に汚い選手だった…うまいけどね」と振り返る。 1989年に日本に帰化し[[サッカー日本代表]]に加わり、中心選手として活躍。[[1993年]]の[[FIFAワールドカップ]]・[[アメリカ]]大会アジア予選の日本代表に選出されるが、ブラジル流サッカーを信奉するラモスは、規律と組織を重視する[[ハンス・オフト]][[監督]]批判をマスコミ上で展開したため、一時期代表を外されかねない危機もあった。オフトとの和解後は代表のキーマンとして活躍するも、[[ドーハの悲劇]]を経験。 Jリーグの発足で、読売FCからヴェルディ川崎になっても中心選手としてJリーグ創生期のクラブ黄金時代を支える活躍を続けていたが、[[1996年]]夏にヴェルディの監督に就任した[[エメルソン・レオン]]とは以前から確執があったことから、レオンの下でプレーする事に対して拒絶反応をあからさまに示し[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]へ移籍する。しかし翌[[1997年]]夏にレオンが退任するとすぐさま古巣のヴェルディ川崎に復帰。入団時に「関西のサッカーを盛り上げるために来た」と発言しながら、結果的には腰掛けにされた形の京都のサポーターの中には、このためにラモスに対して反感を持つ者も少なくない。 [[1998年]][[11月]]に現役を退く。[[1999年]][[8月]]には[[三浦知良]]や[[武田修宏]]、[[北澤豪]]などのヴェルディ・オールスターズとJリーグ選抜軍によるJリーグ初の公認引退試合が[[国立霞ヶ丘競技場]]で開催された。この試合の最後の挨拶でファンに向けて「生まれかわっても、日本に来てワールドカップへ出たい」と涙ながらに語った。 === 引退後 === 引退後は評論家として活動。一時、解説業も行っていたが、サッカーへの情熱が人一倍強いがゆえに、プロ意識の低い選手をストレートに批判する際に乱暴な言葉遣いになってしまうことから、テレビ局側から敬遠されてしまう。 [[2000年]]にブラジル政府より「リオ・ブランコ[[勲章]]」を受勲した。 [[2002年]]に、[[沖縄かりゆしFC]]([[九州社会人リーグ]]所属)のテクニカルアドバイザー兼任の形で現役復帰を果たすが、シーズン終了後の経営陣との対立からの退団でチーム内選手の集団退団騒動にまで発展した。またこの年、[[NHK朝の連続テレビ小説|連続テレビ小説]][[さくら (朝ドラ)|さくら]]に[[居酒屋]]の主人役で出演した。かりゆしFC退団後は、退団選手が中心で、恩人・与那城ジョージが監督を務める[[FC琉球]]([[日本フットボールリーグ|JFL]])のテクニカルアドバイザーを務める。 [[2004年]][[10月]]にJリーグの監督を務めるために必要な[[JFA 公認S級コーチ|公認S級コーチ]]の[[資格]]を取得。[[2005年]]に[[ビーチサッカー]]日本代表の監督に就任し、ビーチサッカーワールドカップではベスト4の躍進に貢献。同年[[9月13日]]、J1リーグで降格争いの真っ只中にあった[[柏レイソル]]のコーチに就任。古巣ヴェルディのJ2降格を決定させる試合の対戦相手として引導を渡す役目になるという皮肉な巡り合わせもあった。柏では監督の[[早野宏史]]よりもメディアに取り上げられるなど話題性はあったが、チームはヴェルディともどもJ2降格となりコーチを辞任。 [[2006年]]からはJ2落ちした古巣の東京ヴェルディの監督に就任。前年度のレギュラーの殆どを失うチーム状況の中、「1年でJ1復帰」を掲げ、J2に加え[[AFCチャンピオンズリーグ|ACL]]出場のため登録メンバーを大幅に増やして臨んだが日程は過密となり、前年からの課題であったディフェンス面での不安を解消することが出来ず、J2初年度は7位で終了した。 [[2007年]]も指揮を執ることが早々と決定。チームは[[名波浩]]、[[服部年宏]]ら実績あるベテランを獲得。在籍メンバー大半を入れ替える大型補強を行い、開幕前にはJ1昇格候補の筆頭に挙げられた。体制発表の際にクラブの萩原代表からは、圧倒的な強さを見せられなかった場合は早期解任の可能性まで示唆されており、背水の陣で臨むシーズンとなった。開幕5試合で4勝1分とスタートダッシュに成功したが、その後課題のディフェンス面の不安が露呈し連敗を重ね、第7節(対[[アビスパ福岡]]戦)から第12節(対[[サガン鳥栖]]戦)まで6連敗を喫してしまい、「(この先)2連敗なら解任」などといった厳しい状況に追い込まれた。そのような状況の中、第13節(対[[水戸ホーリーホック]]戦)も大敗を喫しクラブワーストタイの7連敗となり、しかも不調の水戸に大量得点での今期初白星を献上するという失態に、次節の結果に関係なく解任濃厚(後任はコーチの[[柱谷哲二]]の昇格が有力)と報道された。しかし、続く第14節(対[[京都サンガF.C.]]戦)で4-1と大勝し、一転続投が決まった。その後こだわり続けた4-4-2から3-5-2へとシステムを変更、守備の立て直しを図り、以後は安定して勝ち点を得られるようになった。9月頃からは[[フッキ]]を1トップに据えた4-5-1へとシステムを変更したがこれがぴたりとはまり、8連勝を記録するなど追い上げを見せ、2位でシーズンを終了。J1復帰を成し遂げた。シーズン終了後に監督を勇退し、エグゼクティブディレクターとして東京Vのフロント入りすることが発表された。 同年[[9月15日]]、母がリオデジャネイロの病院で心臓発作のため82歳で死去した。だがこの事を選手にも伝えず、帰国もしないで指揮を執り続けた。 == プレースタイル == 技術・攻撃的能力が高く、FW、攻撃的MF、ボランチと中盤から前ではどのポジションでも一流の実績を残した。日本リーグ時代のプレー振りからドリブラーの印象も根強くもたれているが、本質的にはパサーであり、当時の同僚たちは「ラモスのように正確でやわらかいパスを出せる選手はその後現れていない」との言葉を残している。 元々DFだったため守備的能力も高い。最も印象的な(得意な?)プレイは、中盤で相手のパスを奪ってそのままダイレクトに素早く縦パスを出すもので、93年のドーハの悲劇の時、韓国戦で取った[[三浦知良|カズ]]の得点は、ラモスのこのカウンター気味のパスから生まれた。また、スライディングタックルの名手でもあり、ドリブルする相手選手の斜め後方からトップスピードでスライディングタックルを仕掛けてもファウルを犯さずボールを奪える技術を持っていた。 ただし来日当初はうまい選手とは思われていなかった。その後、悪質な反則(本人曰くブラジルではあたりまえのプレー)で1年間の出場停止を食らい、試合に出られず練習しかできない日々の中で技術的に向上したと思われる。当時を知る者は「下手な選手だったけど、日本に来てからうまくなった珍しい選手だ」と評価する。 現役引退後でも、親交のある選手(いわゆる"ドーハ組"など)の引退試合等に招待出場する機会があると、現役選手に混ざっていても色あせないプレーを見せ周囲を驚かせる。[[生田智子]]([[中山雅史]]の妻)はテレビ番組で「ラモスさんは技術があったから40歳までプレーできた」とコメントしている。 2007年にTBS[[スーパーサッカー]]の企画にて、現役バリバリのサッカー女子日本代表を揃えた「なでしこオールスターズ」を相手に、元日本代表で固めた「スーパーサッカーオールスターズ」の一員として参加。年下の[[小倉隆史]]や[[福田正博]]をさしおいて当時49歳とは思えないプレーでチームの挙げた得点の半分である5得点を叩き出し衰えない技術を披露。この活躍ぶりに[[加藤浩次]]から賞賛の意味で「今季は(ヴェルディで)[[プレイングマネージャー]]でいけるんじゃない?」とコメントをもらった。 == エピソード == * 子供のころ、体格的に細身だったのでジーコ(Zico・やせっぽち)とも呼ばれていた。これは前・日本代表監督である[[ジーコ]]とおなじ理由である。 * 食事面でも日本にも慣れ親しんだが、本人曰く海産物は苦手。[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』の「食わず嫌い王」出演の際には、[[豆腐]]も「味がしない」という理由で食べられないとコメントしていた。なお酒は[[生ビール]]しか飲まない。 * 左肩に妻の名前とハートマークに弓矢の刺さった[[刺青|タトゥー]]を施しており、Jリーグ開幕前後に多数あったスポーツニュース系番組での密着取材の際に愛情の証として度々披露していた。 * [[ディスコ]]好きで有名。また私服時は靴下は履かず、常に裸足で靴を履くこだわりを持つ。 * 「もっとも卑怯なフェイント」(一部のファンが良い意味で言っていることだが)こと「審判が笛を吹いた」フェイントの考案者として知られている。これは、相手選手とボールを奪い合っている真っ最中に、突如動きを止めて両手を広げ「おい、今のプレイのどこが[[ファウル (サッカー)|ファウル]]だって言うんだ!」と叫ぶというもの。相手選手は、審判がラモスのファウルを取ったと勘違いしてボールを奪う動作を中断するが、実際はオンプレイなのでその隙にラモスがボールを奪ってしまうのである。試合場はサポーターの歓声や鳴り物が響いているので相手選手が笛を聞き逃したと思ってしまう可能性は高く、面白いほど効果を挙げたそうだが、相手チームから「あのフェイントは止めろ」と言われ封印したという。 * 喧嘩サッカーを信条としており、指導者になってからも「組織力や技術が優れていても、裏づけとなる精神力・闘争心がなければそれは無駄になる。どちらも必要だ」という発言をしばしばしている。ピッチ上でもピッチ外でもラモスは闘争心を剥き出しにしており、その気性の荒さゆえにチームで浮いたり和を乱す存在と目されることもあった。1993年7月10日には当時[[ガンバ大阪]]に在籍していた[[賈秀全]]からファールを受けた際、報復行為として賈秀全の顔面にボールを投げつけ大乱闘となった(ちなみにこのとき賈秀全は退場処分となったが、ラモスはイエローカードを受けるにとどまった)。 * 1998年の[[1998 FIFAワールドカップ|フランスワールドカップ]]時に[[日本放送協会|NHK]]の番組にて、惨敗した日本代表チームのプレーについて「こんなサッカーじゃ[[オナニー]]してるのと一緒だよ」と発言し、その後同局での解説はなくなってしまった。 * いわゆる「ブラジルサッカー」の信奉者であること、また先に挙げたように精神面を重視する発言がよく取り上げられるが、選手時代に代表監督だったオフトをはじめ、引退後はヨーロッパサッカーにかかわる指導者の元でコーチ修行をするなどその思想の影響も受けており、指導者としてはイメージと裏腹の現実的な視点も持つ。[[東京中日スポーツ]]でサッカー評論を担当した際には理論的・冷静な分析を披露し、驚くサッカーファンも少なくなかった。 * 元DFだった影響かディフェンスには厳しく、[[2006 FIFAワールドカップ|ドイツW杯]]前に、日本代表の[[三都主アレサンドロ]]の守備が雑なため、サイドバックとしては使うべきではないと名指しで批判した。 * 2006年J2終盤、「J1復帰できたら丸刈りしヒゲも剃る」旨の発言があったが、同年のJ1復帰はならなかった。 * 2007年に公開された日本映画「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」に本人役で出演した。主演の広末涼子との面白い絡みのシーンがある。 * 帰化したとはいえ、もとはブラジル出身であるためか、やはり[[サンバ (ブラジル)|サンバ]]は好きなようで、2007年4月までに外苑前にあった[[コパ東京]](現在、[[成増]]へ移転した)というシュハスカリア([[シュハスコ]]料理店)では、月1回程度のペースでパゴーヂ(サンバの一種)を自ら演奏し歌っていた。なおその時の楽器は[[タンタン (楽器)|タンタン]]を担当。またラモスが出演するパゴーヂは、俗にラモパゴと呼ばれていた。監督になった今ではなかなかできないようだが、「また違うブラジル料理店でもやりたいね」と語っている。 == 語録 == *「俺のポジションを取ろうとする奴は足の骨を折ってやる。」 *「[[日の丸]]の付いたユニフォームを着るなんて本当に夢のようだった。嬉しくて涙がこぼれたよ。」 *「カミサマ…。」(ドーハの悲劇で同点ゴールを決められた瞬間に天を仰ぎ) *「みんなタレントだよ。笑い顔で。タレントばっかり」(大事な試合で負けた日本代表を解説でこう表現した) *「シュート外して笑うなよ!」「ガム食うなよ!」「戦争なんだよ! ワールドカップは!」(フランスW杯での日本敗戦直後にNHK[[有働由美子]]アナウンサーの「でも、みんな頑張りましたよね」などのフォローを一切無視して、熱く叱咤した) *(ヴェルディでの初采配となった2006年3月4日J2第1節[[徳島ヴォルティス]]戦勝利の記者会見で)「嬉しいんだけど、喜んでいない。喜んでいるんだけど、嬉しくない。何言ってるかわかんないね(笑)」 ==所属クラブ== *1975-1977 サージFC(ブラジル) *1977-1996 [[読売サッカークラブ]]/[[ヴェルディ川崎]](日本) *1996-1997 [[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]](日本) *1997-1998 ヴェルディ川崎(日本) == 個人タイトル == *[[日本年間最優秀選手賞]] 2回(1990年、1991年) *JSL得点王 2回(1979年、1983年) *JSLアシスト王 3回(1979年、1991年、1992年) *JSLベストイレブン 6回(1979年、1983年、1987年、1990年、1991年、1992年) *[[Jリーグ歴代ベスト11|Jリーグベストイレブン]] 2回(1993年、1994年) *功労選手賞 (1998年) == 個人成績 == {{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 top|yy}} {{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th|ブラジル|all}} |- |1975年||サージ|||||||||||||||||||| |- |1976年||サージ|||||||||||||||||||| |- |1977年||サージ|||||||||||||||||||| |- !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|<small>[[JSLカップ|JSL杯]]/[[Jリーグカップ|ナビスコ杯]]</small>!!colspan="2"|[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]!!colspan="2"|期間通算 |- |[[1977年のJSL|1977年]]||[[読売サッカークラブ|読売]]||||[[日本サッカーリーグ|JSL2部]]||4||5|||||||||||| |- |[[1978年のJSL|1978年]]||読売||||[[日本サッカーリーグ|JSL1部]]||0||0|||||||||||| |- |[[1979年のJSL|1979年]]||読売||||JSL1部||15||14|||||||||||| |- |[[1980年のJSL|1980年]]||読売||||JSL1部||15||7|||||||||||| |- |[[1981年のJSL|1981年]]||読売||||JSL1部||9||1|||||||||||| |- |[[1982年のJSL|1982年]]||読売||||JSL1部||13||1|||||||||||| |- |[[1983年のJSL|1983年]]||読売||||JSL1部||14||10|||||||||||| |- |[[1984年のJSL|1984年]]||読売||||JSL1部||16||9|||||||||||| |- |[[1985年のJSL|1985年]]||読売||||JSL1部||18||7|||||||||||| |- |[[1986年-1987年のJSL|1986年-1987年]]||読売||||JSL1部||15||4|||||||||||| |- |[[1987年-1988年のJSL|1987年-1988年]]||読売||||JSL1部||17||4|||||||||||| |- |[[1988年-1989年のJSL|1988年-1989年]]||読売||||JSL1部||17||3|||||||||||| |- |[[1989年-1990年のJSL|1989年-1990年]]||読売||||JSL1部||22||5|||||||||||| |- |[[1990年-1991年のJSL|1990年-1991年]]||読売||||JSL1部||21||2|||||||||||| |- |[[1991年-1992年のJSL|1991年-1992年]]||読売||||JSL1部||18||2|||||||||||| |- |1992年||[[東京ヴェルディ|V川崎]]||-||[[日本プロサッカーリーグ|J]]||colspan="2"|-|||||||||||| |- |[[1993年のJリーグ|1993年]]||V川崎||-||J||30||4|||||||||||| |- |[[1994年のJリーグ|1994年]]||V川崎||-||J||26||3|||||||||||| |- |[[1995年のJリーグ|1995年]]||V川崎||-||J||23||2||colspan="2"|-|||||||| |- |[[1996年のJリーグ|1996年]]||V川崎||-||J||9||0||||||colspan="2"|-|||| |- |1996年||[[京都サンガF.C.|京都]]||-||J||10||0|||||||||||| |- |[[1997年のJリーグ|1997年]]||京都||10||J||10||0||||||colspan="2"|-|||| |- |1997年||V川崎||10||J||10||0|||||||||||| |- |[[1998年のJリーグ|1998年]]||V川崎||10||J||29||0|||||||||||| {{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算始|4|ブラジル|}}|||||||||||||| {{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|日本|J}}147||9|||||||||||| {{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|日本|JSL1部}}210||69|||||||||||| {{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|日本|JSL2部}}4||5|||||||||||| {{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算終}}|||||||||||||| |} ==代表歴== ===出場大会など=== * [[1990年]] [[アジア競技大会|北京アジア大会]] * [[1992年]] [[アジアカップ1992]] * [[1994年]] [[1994 FIFAワールドカップ|アメリカW杯]]予選 ===試合数=== *国際Aマッチ 32試合 1得点(1990-1995) {{サッカー代表個人成績|日本|1}} |- |1990年||3||0 |- |1991年||2||0 |- |1992年||10||0 |- |1993年||14||1 |- |1994年||0||0 |- |1995年||3||0 |- !通算 |32||1 |} ==指導歴== * [[沖縄かりゆしFC]]:テクニカルディレクター 2002 * [[ビーチサッカー]]:'''日本代表監督''' 2005 * [[柏レイソル]]:コーチ 2005.9-2005.12 * [[東京ヴェルディ]]:'''監督''' 2006-2007 ==== 監督成績 ==== {| class="wikitable" text-align: center;" |- !年度!!所属リーグ!!大会名!!試合数!!勝利!!敗戦!!引分!!順位!!チーム |- ||2006年||J2||-||48||21||19||8||7位||[[東京ヴェルディ1969]] |- ||2007年||J2||-||48||26||11||11||2位||東京ヴェルディ1969 |} == CM出演 == * [[永谷園]]「Jリーグカレー」 *:放送当時、カレーを食べた少年が[[モーフィング]]という手法を用いてラモスに「変身」するCMが話題になった。 *同「お茶漬け海苔」 *:「日本人なら[[お茶漬け]]だろうが!!」のセリフで人気を集める。 *[[興和新薬]]株式会社 *:「こっちにはバンテリンがあるよ。これは有利です。」([[2002 FIFAワールドカップ]]直前) *[[久光製薬]]エアーサロンパス *:ヴェルディの選手在籍時に収録し、当時のヴェルディのカップ戦ユニフォームを着用して撮影した。しかし直後に京都へ移籍。ユニフォームの色をコンピュータ処理で京都のチームカラーの紫に着色し直したものを放送していた * [[ダイハツ工業]] [[ダイハツ・テリオスキッド|テリオスキッド]] * [[本田技研工業]] [[ホンダ・バモス|バモス]] 『バモス×ラモス篇』 [[栗山かほり]]と共演 (2007年2月 - ) == 映画出演 == *[[バブルへGO!! タイムマシンはドラム式]] - 2007.2.10公開(本人役[[カメオ出演]]) == 関連事項 == * [[日本サッカー協会]] * [[日本サッカー協会指導者ライセンス]] * [[ジーコ]] == 外部リンク == * [http://www.verdy.co.jp/ 東京ヴェルディ1969公式サイト] * [http://www.sunget.co.jp/ramos/index2.html ラモス瑠偉公式サイト] {{先代次代|[[東京ヴェルディ1969]][[監督]]|2006-2007|[[バドン]]|[[柱谷哲二]]}} {{Footybio-stub}} {{DEFAULTSORT:らもす るい}} [[Category:日本のサッカー選手]] [[Category:サッカー日本代表選手]] [[Category:帰化日本人のサッカー選手]] [[Category:ブラジル系日本人]] [[Category:読売サッカークラブの選手]] [[Category:ヴェルディ川崎の選手]] [[Category:京都パープルサンガの選手]] [[Category:日本のサッカー指導者]] [[Category:1957年生]] [[de:Ruy Ramos]] [[en:Ruy Ramos]]