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2020年5月4日 (月) 18:49時点における版

ラパ・ヌイ
Rapa Nui

Isla de Pascua
イースター島の旗
詳細
公用語 スペイン語
中心地 ハンガロア
ラパ・ヌイの知事 カルメン・カルディナーリ
面積
 - 総計

163.6km²
人口
 - 総計(2005年
 - 人口密度

3,791
/km²
通貨 ペソ
時間帯 UTC-6
ccTLD .cl

イースター島(イースターとう、英語Easter Island)はチリ領の太平洋上に位置する火山島。現地語名はラパ・ヌイラパ・ヌイ語:Rapa Nui)。正式名はパスクア島(パスクアとう、Isla de Pascua)で、"Pascua"は復活祭(イースター)を意味する。日本では英称で呼ばれることが多い。

モアイの建つ島である。ポリネシア・トライアングルの東端に当たる。周囲には殆ど島らしい島が存在しない絶海の孤島である。「ラパ・ヌイ」とはポリネシア系の先住民の言葉で「広い大地」(大きな端とも)という意味。かつては、テ・ピト・オ・ヘヌア(世界のへそ)、マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)などと呼ばれた。これらの名前は、19世紀の後半に実際に島に辿り着けたポリネシア人が付けたもの。

歴史

海底火山噴火によって形成された島に最初の移民が辿り着いたのは4世紀5世紀頃だとされている。この移民は、遥か昔に中国大陸からの人類集団(漢民族の祖先集団)の南下に伴って台湾から玉突き的に押し出された人びと(→オーストロネシア語族を参照)の一派、いわゆるポリネシア人である。ポリネシア人の社会は、酋長を中心とする部族社会であり、酋長の権力は絶対で、厳然たる階級制度によって成り立っている。部族社会を営むポリネシア人にとって、偉大なる祖先は崇拝の対象であり、神格化された王や勇者達の霊を部族の守り神として祀る習慣があった。タヒチでは、マラエと呼ばれる祭壇が作られ、木あるいは石を素材とするシンボルが置かれた。イースター島でも同様に行われていたと想像できる。化石花粉の研究から、当時のラパ・ヌイは、世界でも有数の巨大椰子の同種もしくは近縁種が生い茂る、亜熱帯性雨林の島であったと考えられている[1]。初期のヨーロッパ人来航者は、「ホトゥ・マトゥア」という首長が、一族とともに2艘の大きなカヌーでラパ・ヌイに入植したという伝説を採取している。

7世紀8世紀頃に、プラットホーム状に作られた石の祭壇(アフ)作りが始まり、遅くとも10世紀頃にはモアイも作られるようになったとされる。他のポリネシアの地域と違っていたのは、島が完全に孤立していたため外敵の脅威が全くなく、加工し易い軟らかな凝灰岩が大量に存在していたことである。採石の中心は「ラノ・ララク」と呼ばれる直径約550mの噴火口跡で、現在でも完成前のあらゆる段階の石像が散乱する彫る道具とともに残されている[1]。最初は1人の酋長の下、1つの部族として結束していたが、代を重ねるごとに有力者が分家し部族の数は増えて行った。島の至る所に、それぞれの部族の集落ができ、アフもモアイも作られていった。

デザインも時代につれ変化する。第1期のモアイは人の姿に近いもので下半身も作られている。第2期のモアイは、下半身がなく細長い手をお腹の辺りで組んでいる。第3期のモアイは、頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオ(ラパヌイ語で髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてある。第4期のモアイが、いわゆる一般にモアイといって想像する形態(全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口など)を備えるようになる。モアイは比較的加工し易い素材である凝灰岩を玄武岩黒曜石で作った石斧を用い製作されていったと考えられている[2]。当時作られたモアイや墳墓石碑といった、考古学的に極めて重要な遺跡が数多く残されているが、この時期までが先史社会と考えてよく、ラパヌイ社会はこのあと転換期をむかえる[3]

よく、モアイは「海を背に立っている」と言われているが、正確には集落を守るように立っており、海沿いに建てられたモアイは海を背に、内陸部に建てられたモアイには海を向いているのもある。祭壇の上に建てられたモアイの中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなる。島最大の遺跡「アフ・トンガリキ」は島の東端にあり、アフの長さは100m、その上に高さ5mを超える15体のモアイが並んでいる[4]

少なくとも10世紀17世紀の800年もの間モアイは作られ続けたが、16世紀以降は作られなくなり、その後は破壊されていった。平和の中でのモアイ作りは突然終息する。モアイを作り、運び、建てる為には大量の木材が必要で、大量伐採によってが失われ[5]、その結果、肥えた土が海に流出し、土地が痩せ衰え、人口爆発[6]と深刻な食糧不足に陥り、耕作地域や漁場を巡って部族間に武力闘争が生じるようになる。モアイは目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたため、相手の部族を攻撃する場合、守り神であるモアイをうつ伏せに倒し、目の部分を粉々に破壊した。その後もこの「モアイ倒し戦争」は50年ほど続き、森林伐採は結果として家屋カヌーなどのインフラ整備を不可能にし、ヨーロッパ人が到達したときは島民の生活は石器時代と殆ど変わらないものになっていた。

1722年復活祭の夜、オランダ海軍提督のヤーコプ・ロッヘフェーンが、南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見する。発見した日がイースターのため「イースター島」と名前が付いたと言われている。この島に上陸したロッヘフェーンは、1000体を超えるモアイと、その前で火を焚き地に頭を着けて祈りを捧げる島人の姿を目の当たりにする[1]

1774年には、イギリス人探検家のジェームス・クックも上陸している。クックは倒れ壊されたモアイ像の数々を目にしたが、島のモアイの半数ほどがまだ直立していたと云う。そして山肌には作りかけのモアイ像が、まるで作業を急に止めてしまったかのように放置されていた。伝承では1840年頃に最後のモアイが倒されたとされる[1]

18世紀19世紀にかけてペルー副王領政府(→ペルー)の依頼を受けたアイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチのフランス人の手によって、住民らが奴隷として連れ出された。また外部から持ち込まれた天然痘が猛威を振るった結果、人口は更に激減し先住民は絶滅寸前まで追い込まれ、1872年当時の島民数はわずか111人であった。

1888年にチリ領になり現在に至るが、1937年に軍艦建造の財源捻出目的で、サラ・イ・ゴメス島とともに売却が検討され、アメリカ合衆国イギリス日本に対して打診があった。日本は主に漁業基地としての有用性を認めたが、在チリ国公使三宅哲一郎からアメリカ合衆国との関係に配慮して静観すべきとの意見が出されている。[7]

2010年7月11日グリニッジ標準時11日午後8時11分に皆既日食が観測された。天文ファンや観光客約4000人が押し寄せた。

地理

チリの首都であるサンティアゴから西へ3,700km、タヒチから東へ4,000kmほどの太平洋上に位置し、ペルー海流が周辺海域は渦巻き、近海は海産資源豊富な漁場であり、とくにカタクチイワシが多く捕れる。全周は60kmほどで、面積は180平方kmであり、北海道利尻島とほぼ同じ大きさである。島全体が、ラパ・ヌイ国立公園としてチリ政府により国立公園に登録されている。また1995年世界遺産に登録されている。

最も近いサラ・イ・ゴメス島でも東北東に415km離れている絶海の孤島であり、人の住む最も近い島であるピトケアン島までは約2,000kmの距離がある[8]

乾燥した気候で年間降雨量は1,250ミリメートルと少ないものの、バナナサトウキビなどの栽培には十分である。一方、河川がないため灌漑用水の確保はしにくく、タロイモ栽培などには適していない。

地質

マグマの噴出によって造られた小さな火山島であり、上空から見ると三角形をした島の各頂点には、カウ山、カティキ山、テレバカ山の3つの休火山がある。テレバカ山(海抜507m、海底からは約2千mの高さがある)が島の大部分を占め、他の2つの他に多数の噴火口や火口湖がある。ガラパゴスやハワイと同じ玄武岩で鉄分が多く75万年前に形成され、最新の噴火は約10万年前とされるが、20世紀前半に水蒸気の噴出が記録されている。

交通

島内

島の人口は約4000人。島内には、チリ海軍が駐留し、数ヶ月に1度は物資とともに海兵隊もやって来る。

鉄道は敷設されていないが、主要道路については舗装されており、島内の主な交通手段としては、乗り合いバスもしくはタクシーが、主な公共交通手段として、島民や観光客に利用されている。観光客には、レンタカー、レンタルバイクも利用されることが多い。

島内には、レストラン、ホテル、ディスコ、ガソリンスタンド、ビデオレンタルショップ、学校、病院、博物館、郵便局、放送局(テレビ局3局、ラジオ局1局)等の施設が整っており、島の暮らしは至って現代的である。

島外

ラン航空が、マタベリ国際空港とサンティアゴ、リマ、タヒチのパペーテとの間に定期便を運航している。近隣諸島との間には貨客船も運航されている。

なお、マタベリ国際空港の滑走路は、島の規模には不釣合いな3,300mと長大なものであるが、これはかつてNASAスペースシャトルヴァンデンバーグ空軍基地から打ち上げる計画を持っていたため、その際の緊急着陸地(TAL sites)のひとつとして整備されたものである。チャレンジャー号爆発事故によってこの計画も中止されたため、緊急着陸地のリストから外された。

文化

文字

住民はポリネシアで唯一文字を持っていた。ラパヌイ文字(ロンゴロンゴ文字)と呼ばれる絵文字がこれに当たる。この絵文字は古代文字によく見られる牛耕式と呼ばれる方法で書かれ、1行目を読み終えると逆さにして2行目を読むというように、偶数行の絵文字が逆さになっている。板や石に書かれ、かつては木材に刻まれたものが多数存在したようである。

宣教師らが「悪魔の文字」であるとして破壊したという俗説があるが、実際は過度の伐採により木材が常に不足している島の住民たちによって、薪や釣り糸のリールとなり、多数の文字資料が失われたという。そのため、現在はわずか26点しか存在しない。また、現在のラパ・ヌイ人は、フランス人の奴隷狩りによりタヒチに連れ去られ、戻ってきた人々の子孫であり、現行のラパ・ヌイ語タヒチ語の影響を強く受けた言語である。古代ラパ・ヌイ語についてはヨーロッパ人による貧弱な記録をたどるほかは、現行のラパ・ヌイ語から復元する以外、知る手立ては存在しない。したがって、解読は難しいとされている。

現存する資料は全て西洋人との接触後に書かれたものと見られている。ラパ・ヌイの先住民が最初に外国から来た船で西洋人と接した時、文字の存在を知り、その有効性を学び、そこから真似て自らの文字を作り上げたとする説が極めて有力である。そのため、ラパヌイ文字をポリネシアの古来からの書記言語と断定することはできない。

現代文明への教訓

閉鎖された空間に存在した文明が、無計画な開発と環境破壊を続けた結果、資源を消費し尽くして最後にはほぼ消滅した[9]という歴史は、現代文明の未来への警鐘として言及されることが多い[10]

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの』2005年 159-242頁 第2章 イースター島に黄昏が訪れるとき
  2. 18世紀になって西欧人が訪れるまで、島には銅器や鉄器の存在は確認されていない
  3. 野嶋洋子「ラパヌイ(イースター島)」/吉岡政徳・石森昭男編著『南太平洋を知るための58章 メラネシア ポリネシア』明石書店 2010年 249ページ
  4. 1994年にそこに倒れていた15体のモアイ像を、考古学者のクラウディオ・クリスティーノが55tの重量に耐えるクレーンを使って立て直したもの。なお、現在 島のアフに立っている全てのモアイ像は、近年になって復元として倒れていた石像を立て直したものである。(ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊ーー滅亡と存続の命運を分けるもの』2005年 159-242頁 第2章 イースター島に黄昏が訪れるとき)
  5. 森を破壊したのはネズミであるという説もあるが、説明可能なのは存在したと考えられる21種の植生の一つヤシだけであり森林破壊の説明になり得ない。(ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊ーー滅亡と存続の命運を分けるもの』2005年 159-242頁 第2章 イースター島に黄昏が訪れるとき)
  6. 僅か数10年の間に人口が4倍にも5倍にも膨れ上がった。当時の島の人口は1万人を超え(一説には2万人に達したとも)(ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊ーー滅亡と存続の命運を分けるもの』2005年 159-242頁 第2章 イースター島に黄昏が訪れるとき)
  7. “外交史料 Q&A 昭和戦前期”. 2013年3月5日閲覧。
  8. なお、ギネスブックに記載されている「人が住んでいる世界一孤立している島 (the most isolated inhabited island in the world) 」はトリスタン・ダ・クーニャ島 (Tristan da Cunha) である
  9. ポリネシア人がラパヌイ島に着いたと推定されている900年頃の森林は島を覆い尽くすほど茂っていたが、16世紀末頃までにほぼ消滅したと推測される。花粉分析から900年から1300年にかけて椰子を初めとする全樹木類の花粉が減少してイネ科やカヤツリグサ科などの草本の花粉が急増していき、場所によりばらつきはあるが1500年~1600年頃までには椰子、ハケケ、トロミロ、灌木の花粉が消滅する。椰子の実の化石を放射性炭素法で分析した結果でも1500年以後のものは皆無である。環境破壊をし尽くしたのは島民自身であるという説(ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊ーー滅亡と存続の命運を分けるもの』2005年)が有力で、実際に最初の入植から先の分析で示されている森林消滅の年代までに島外者が島を訪問した記録や伝承はない。西洋人との接触を切っ掛けとする説も存在はする(野嶋洋子「ラパヌイ(イースター島)」/吉岡政徳・石森昭男編著『南太平洋を知るための58章 メラネシア ポリネシア』明石書店 2010年 249ページ)が、記録に残る最初(1722年)の西洋人訪問者であるヤコブ・ロッヘフェーンにより3メートル越す樹木や茂みが全くない荒地が広がっていることが報告されており、またマゼランによる最初の西洋人による太平洋横断は1521年は先に挙げた樹木花粉の消滅時期や椰子の実の化石の消滅時期より後であることから、西洋人との接触切っ掛け説は根拠に乏しい。
  10. クライブ・ポンティング石弘之・京都大学環境史研究会訳『緑の世界史 上・下』朝日選書 1994年

参考文献

関連項目

外部リンク