アップダウンクイズ

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{{色}} '''アップダウンクイズ'''({{lang|en|Up-Down Quiz}})は、[[1963年]](昭和38年)[[10月6日]]から[[1985年]](昭和60年)[[10月6日]]まで、毎週[[日曜日]]19:00 - 19:30([[日本標準時|JST]])に放送されていた[[毎日放送]]([[MBSテレビ|MBS]])制作の[[クイズ番組]]である。[[ロート製薬]]の単独[[提供]](第1回放送より)、[[日本航空]]の協賛で放送された。 放送開始から[[1975年]](昭和50年)[[3月30日]]放送分まではNETテレビ(現:[[テレビ朝日]])[[All-nippon News Network|系列]]の一部で放送されていたが、同年[[4月6日]]放送分以降は[[ネットチェンジ#大阪準キー局「腸捻転」の解消|ネットチェンジ]]に伴い、[[TBSテレビ|TBS]][[Japan News Network|系列]]で放送された。 この番組は、MBSが[[ラジオ局|ラジオ単営局]]・[[MBSラジオ|新日本放送]]時代の[[1952年]](昭和27年)から6年間放送されていた『[[近鉄パールクイズ]]』をベースに制作された。 [[Image:アップダウンクイズ.jpg|880px]] == 番組概要 == 解答者6名が解答席であるゴンドラに乗り、次々読み上げられるクイズを早押し・対抗形式で競い、10問正解(10段まで上り詰める)で[[ハワイ]]旅行と賞金(初期は20万円、後に10万円)が贈られた。 クイズに正解すると解答者の乗った[[#ゴンドラ|ゴンドラ]]が1段上昇(アップ)、誤答すると位置に関わらず最初まで下降(ダウン)するルールだった。 [[1963年]](昭和38年)[[10月6日]]、[[喜劇]][[俳優]]・'''[[市村俊幸]]'''の司会、当時MBS[[アナウンサー]]だった'''[[小池清]]'''の出題でスタートした。市村はロート製薬が当時発売していた[[胃腸薬]]「シロン」のイメージキャラクターであり、前年[[1月]]から放送していた同じロート製薬一社提供の前番組『[[私はナンバーワン]]』の司会者でもあった。 半年後の[[1964年]](昭和39年)[[3月29日]]放送分で市村が降板<ref>市村の降板理由は、後年(1980年?)TBS『[[奥さま8時半です]]』に小池が出演した時、市村の仕事(俳優)が多忙を極めたためだと、小池の口から語られた。なお、この時は市村がゲスト出演し、久し振りに小池と顔を合わせた。</ref>、翌週[[4月5日]](第29回)放送分より小池が司会を担当、出題を同じくMBSアナウンサーの長田淑子が務めることになった。その後、出題者は[[1971年]][[4月11日]]放送分から市毛毬子、さらに[[1972年]][[11月19日]]放送分から[[佐々木美絵]](いずれもMBSアナウンサー)が担当、以後「小池司会・佐々木出題」で11年間に渡り親しまれた。 番組の[[カラーテレビ|カラー放送]]移行は、[[1969年]](昭和44年)[[10月5日]]放送分からである。また、最終回まで一貫して[[音声多重放送]]は行われなかった。 出題者は冒頭の挨拶と問題読みだけであって、[[ABCテレビ|ABC]]『[[パネルクイズ アタック25]]』のように、賞品等の紹介は一切なかった(同じロート製薬一社提供の[[TBSテレビ|TBS]]「[[クイズダービー]]」も出題者は問題読みのみ)。 ABCからMBSへのTBS系列[[ネットチェンジ#大阪準キー局「腸捻転」の解消|ネットチェンジ]]に伴い、[[1975年]][[4月6日]]放送分から、TBS系列での全国放送に移行した。折しもTBS系列放映第1回がちょうど600回となり、「600回記念・クイズ天狗タレント特集」が放送された。 [[1983年]](昭和58年)[[10月]]で放送20周年を迎えるのを機にリニューアルすることとなり、同年[[9月25日]]放送分(第1004回)で小池が降板した(あくまで本人の意思によるもの)。同年[[10月9日]]放送分(第1005回)<ref>[[10月2日]]は本番組が内包された[[改編期|秋の改編期]]特番『[[タモリ]]のスター対抗クイズ大集合』が放送された。このときも佐々木が出題者として出演している。</ref>から[[俳優]]の[[西郷輝彦]]が司会となった(出題は佐々木が引き続き担当)。番組タイトルも'''『新アップダウンクイズ』'''に変わったが、“新”は半年で消えた(但し、ゴンドラセット上の看板には「新」はついていなかった)。 番組の収録は、[[毎日放送千里丘放送センター]]Aスタジオで行われていた<ref>但し、[[1970年]][[3月]]から[[9月]]に開催された[[日本万国博覧会]]に伴う関連番組制作の都合上、同年[[5月3日]]から[[10月18日]]放送分は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[六本木]]にあった[[テレビ朝日]](当時の日本教育テレビ(NET)本社と全く同じ場所)での収録となっている。</ref>。また、収録は隔週[[木曜日]]に2回分まとめて行われた(うち1回は3日後に放映)。なお末期は土曜日に収録された。 MBSが[[関西ローカル]]でプロ野球中継を放送している日は、系列キー局(NET→TBS)及び番組ネット局向けに[[裏送り]]で放送していた。 同番組の最高視聴率は[[1969年]](昭和44年)2月2日放送回の39.2%(関西)、同年5月11日の27.1%(関東)が最高(いずれも[[ビデオリサーチ]]調べ)。[[1967年]]4月21日には[[日本民間放送連盟]]賞を受賞している(他にも受賞歴あり)。 タイトルロゴは五荘千尋が手がけたものである(他のMBS制作番組も全国ネット・[[関西ローカル]]問わず多くの番組タイトルロゴを手がけている)。 == 番組のキャッチコピー == キャッチコピーは'''「ハワイへのご招待。10問正解して、夢のハワイへ行きましょう!」'''。後に海外旅行が大衆化して「夢」で無くなった[[1970年代]]前半からは、「ハワイへのご招待。10問正解して、'''さあ、'''ハワイへ行きましょう!」に改められた。 10問正解の賞品が[[海外旅行]]であることから、JALが協賛していた<ref>但し、[[1985年]][[8月12日]]の[[日本航空123便墜落事故|墜落事故]]で協賛を降板。カウキャッチャーも事故以降は放映されず、時報とともに「♪ロート…」のオープニングキャッチとなった。</ref>。「♪ロート…」の[[ロート製薬#オープニングキャッチ|オープニングキャッチ]]前に、19:00の[[時報]]とともに[[カウキャッチャー (放送)|カウキャッチャー]]として、JALの[[コマーシャルメッセージ|CM]]([[ジャルパック|JALPAK]]など)が放映されていた。また、オープニングテーマ曲が流れているときにも「協賛 [[日本航空]]」と表示された。 == 番組冒頭のあいさつなど == 小池が司会を務めていた時代は、 「ハワイへのご招待。10問正解して、さあ、夢の(「夢の」のフレーズは[[1970年]]ごろまでだった)ハワイへ行きましょう![[ロート製薬]]がお送りするアップダウンクイズ、私は司会の小池清でございます」に続き、 {{Indent|小池 「問題を読むのは佐々木さんです。」}} {{Indent|佐々木 「皆さん、こんばんは(お元気でいらっしゃいますか)。[[佐々木美絵]]です、どうぞよろしくお願いします」}}(なお、後期は「問題を差し上げます、佐々木美絵です」とアナウンス)というあいさつで番組が始まった。 当初はオープニングテーマ曲が流れ終わると小池はゴンドラの前に立ち、上半身を画面アップ状態で挨拶をした。ネットチェンジ後にオープニング曲が変更されてから、小池は司会者席に座ってあいさつをするようになった。 解答者の紹介が終わると、小池時代は、 「それでは、日航機によりますハワイ旅行を目指して、大いに頑張っていただきましょう!!」というセリフで一問目に入った(司会が西郷になってからは「[[日本航空]]で行くハワイをめざして、皆さんしっかり頑張って下さい!」と言っていた)。 西郷が司会となってから、タイトルコール・出場者紹介と結果発表のアナウンスを、当時MBSの新人アナウンサーだった[[柏木宏之 (アナウンサー)|柏木宏之]]が担当した(1984年3月限りで降板)。 「新」では柏木アナウンサーによる「[[ロート製薬]]提供、新アップダウンクイズ!司会西郷輝彦!」のオープニングコール<ref>「[[ロート製薬]]提供、(番組名)」のオープニングコールは、後継番組『[[クイズ!!ひらめきパスワード]]』で[[ロート製薬]]が[[一社提供]]を取り止める[[1991年]][[9月]]下旬まで使われた。</ref>に続き、別のゲートから西郷が入場。司会者と出題者のあいさつは普通の形になっていたが、タイトルを元に戻してからは小池と同じ登場パターンに戻している。出場者の紹介では西郷が解答者と握手する演出があったが、タイトルを元に戻してからは解答者の自己紹介に変更された。 NET系列での最終放送日となった[[1975年]][[3月30日]]は、番組最後に小池が「東京地区でご覧の皆様は、来週からは6チャンネル・[[TBSテレビ]]でご覧下さい」とアナウンスしていた。 なお、NETからTBSへのネットチェンジ後、TBS系列での1回目の放送である1975年4月6日の放送では番組冒頭に小池が「それでは、ここで簡単にルールをご説明いたします。まず問題が出ます。そしてなるべく早くボタンを押していただいて、正解されますとゴンドラが1段上がります。よろしいですね!!」と紹介し、また、2回目の放送となった[[1975年]][[4月13日]]放送でも「それでは、先週からご覧になっている皆様に、ここで簡単にルールをご説明いたします」とほぼ同様の紹介をしていた。これはネットチェンジでネット局が増えたことから、新しく見始めた視聴者への配慮をしたためだと思われる。 また、次回の予告(ゲスト特集等がある回のみ)と番組終了時、当時MBSアナウンサーだった[[吉田智子 (アナウンサー)|吉田智子]]による「アップダウンクイズ 第○○○回を終わります。提供は、[[ロート製薬]]でございました」というアナウンスもおなじみだった<ref>他にも[[ロート製薬]]単独提供であるTBS「[[クイズダービー]]」等でも言っていた。</ref>(終了時のエンドカードは、ブルーバックに「アップダウンクイズ」の白抜きタイトルロゴが右揃え(上:アップダウン、下:クイズ)でレイアウトされ、左下に白抜きで幅が狭い[[明朝体]]で“終”と書かれていた)。 [[1984年]][[4月]]頃から最終回までは、「アップダウンクイズを終わります」に変わった(後番組の『[[クイズ!!ひらめきパスワード]]』でも同様に継承された<ref>しかし1986年春の番組改編でTBS系のゴールデン・プライムタイムに放送されるすべての番組に[[クロスプログラム]]が導入されると、'''「この番組は、ロート製薬の提供でお送りしました。」'''→チャイム音入りエンドカード→次枠番組の案内から成る3部構成に変更された。</ref>)。 番組の[[クレジットタイトル]]は、[[1970年代]]までは「アップダウンクイズ 終」のエンドカード前に、青地に白抜きゴシック体で「構成*[[堤章三]] 音楽*○○○○」と入るのみだったが、ゴンドラが色分けされてからは番組エンディング時に[[クレジットタイトル|スタッフロール]]が[[ナール|ナールフォント]]で左方向に表示<ref>このスタッフロールは後番組の「クイズ!!ひらめきパスワード」でも同じ形式だった。</ref>されるようになった。 == ルール == 全国各地から毎回6人の視聴者(または特集などでペア6組<ref>ペア大会の時は、中期までは2人一緒にゴンドラに乗っていたが、後に1名が前半・後半(シルエットクイズ以降)に分けて乗る様になった。</ref>)が解答メンバーとして出場、早押しクイズに挑戦する。見事10問正解すると、後述する[[ファンファーレ]]が鳴らされる中で[[天井]](解答者席上)に吊るされた[[くす玉]]が割られて大量の紙吹雪と風船(西郷時代は大量の銀色の紙吹雪)が降る中、日航で行くハワイ旅行と賞金10万円(放送開始当初は20万円)を獲得できた<ref>[[1964年]][[4月]]からの海外旅行自由化を見据えて企画された。</ref>。 一般参加の場合、実際には「[[北海道]]・東北」・「関東」・「中部・信越」・「近畿」・「中国・四国」・「[[九州]]」の6地区から筆記クイズ・面接による厳正な予選を経て各地区1人ずつ出場するケースが多かった。 1問正解のたびに解答者席のゴンドラが1段ずつ上がったが(一部の問題では2段、または3段上がった場合もある)、不正解(お手つき・誤答)の場合は正解数にかかわらず一番下まで下がってしまい(ただし、一時期あった解答者全員参加の「三択クイズ」(サービスクイズとも言っていた)については誤答でもゴンドラ降下のペナルティーはなかった)、これを2回犯したら失格(「お出」=しおれた感じの[[バックグラウンドミュージック|BGM]]音楽も流れる)となり、画面左に設けられた失格者席に座らされた。失格者は解答者全員が早押しできなかった場合(いわゆるスルー。トントンの音が10回(小池時代末期は6回)鳴った後に不正解のブザーが鳴る。西郷時代は電子音で8つの音階が上がり、電子音でブザーが鳴る(不正解時のものとは別)。)、あるいは他の人が誤答した場合にのみ解答権があり<ref>一部のVTR問題では誤答した場合(この時点で「お出」とならない場合)でも問題VTRの続きがあるため、誤答した本人を含め、全員に解答権がある。</ref>、正解するとゴンドラに戻ることができた(「お戻り」=明るいファンファーレBGMが流れる)。「お戻り」になるとそれまでの不正解数はリセットされた。なお『新アップダウンクイズ』初期には「お出」・「お戻り」のペナルティを設けていなかったが、タイトルから「新」が消えた[[1984年]][[4月]]より元に戻った。 1度の不正解で1問正解でも9問正解でも即0点に戻ってしまう厳しい[[ルール]]が特徴だったが、正誤の判定はかなり甘かった傾向になることもあった。解答についても、他の番組に比べ多少長い時間待ってもらえたり、司会者の裁量で言い直しが認められたことがあるという。なお、早とちり・お手つきをしても、問題内容によっては正解が出る前に司会者からその続きを読んで再解答させたり(答えが複数ある場合など)、関連する解答であればおまけで正解にしたこともあった。また、特に小池が司会だった時代には、このような傾向が多く見られた。とはいえ、不正解した時のダメージも大きく、特に7段階から9段階あたりで0点になると、放送時間の関係上、良い成績が残せなかった。中にはショックの余り、[[失神]]して最後まで解答できなかった人もいた。 さらに問題は本選・予選問わずハイレベル・難問が比較的多く、間違いが許されない真剣勝負であったのも番組の特徴である。それゆえに高度な知識はもちろん、的確さ・迅速な判断力がなければクイズを制覇できなかった。 10問正解のコツは、まず解答権を早く得るトレーニングを繰り返し練習すること、収録直前あたりの新聞に隅から隅まで目を通すこと(特にMBSの母体紙である[[毎日新聞]]からはスポーツ、文化関連を中心に幅広く出題されていた)、そして毎週番組を見てもらうことだと当時のプロデューサーが語っていた。 西郷時代後期([[1984年]]〜翌年1月まで)は、連続(3段階)勝ち抜き方式で、1週目・10問正解すると1人でのハワイ旅行獲得と賞金10万円獲得、2週目・20問正解するとペアでのハワイ旅行と賞金20万円獲得<ref>勝ち抜きの解答者が2週目、3週目の時は解答者の胸に花が付けられる</ref>、3週目・30問正解でペアでのアメリカ西海岸と賞金30万円獲得、さらにゴールデン[[カップ]]が授与された<ref>このルールになってから、勝ち抜きの解答者を「チャレンジ1・2・3」と呼び、1週目の10問正解者をV1と呼び、2週目の10問正解者をV2と呼び、さらに3週連続10問正解してペアでのアメリカ西海岸旅行と賞金30万円獲得者をV3と呼び、なおかつ「V3[[チャンピオン]]」と呼んでいた(この辺りから、アップダウンクイズで「チャンピオン」と表現するようになった。それまでは長いこと「チャンピオン」(但し、20周年記念特集の際に小池が「チャンピオン」と言っていたことがある)や「優勝」とも一切言わず、「10問正解・ハワイ旅行」と表現していただけだった)。</ref>。但し、西郷時代末期のゲスト特集は自動的にハワイ旅行・賞金10万円であった。 「10問正解=優勝」というのが挑戦したクイズプレーヤーの認識だが、実際は時間内なら何人でもハワイ旅行を獲得できるチャンスに孕んだ番組だったため、レギュラー版での優勝という制度は成立しなかった。この番組(10問正解・ハワイ旅行獲得)と[[テレビ朝日]]の『[[クイズタイムショック]]』(パーフェクト達成)、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の『[[クイズグランプリ]]』(チャンピオン大会優勝)での3つの[[クイズ番組]]を制した挑戦者は、いわゆる「三冠王」<ref>但し、[[1980年]]に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の『[[クイズグランプリ]]』が終了、代わりに[[ABCテレビ|ABC]]の『[[パネルクイズ アタック25]]』(優勝)が加わった。</ref>、「クイズ荒らし」といわれた。また、「クイズマニア」と言われるきっかけも作った。 出場者募集の宛先はMBS<ref>MBSが制作・放送していた番組の多くは、[[大阪府|大阪]][[吹田千里郵便局|吹田千里局]]、[[大阪中央郵便局]](『突然ガバチョ!』)、[[東京都|東京]][[芝郵便局]](『[[世界まるごとHOWマッチ]]』、『[[世界まるごと2001年]]』)だった。</ref>宛てではなく、[[ロート製薬]]の本社がある大阪[[生野郵便局 (大阪府) |生野局]]宛てだった(理由は後述)。また、クイズ荒らし防止の観点から、一度番組に出場すると3年間は応募できなかった。 == クイズの内容 == 開始当初は基本的に一般問題中心だったが、てこ入れとして次のようなコーナーも登場した。 === シルエットクイズ === [[1967年]](昭和42年)[[2月26日]]放送分から登場。番組の目玉コーナーといわれ、最終回まで続いた。これはかつて[[日本放送協会|NHK]]で放送された『[[私の秘密]]』、『[[それは私です]]』の[[コンセプト]]を取り入れたものといえる。なお当初は「'''ゲストクイズ'''」という名称だった。 ゲストをシルエットで見てもらい、3つのヒントから当てるもので、正解すると第1ヒントなら3段、第2ヒントなら2段、第3ヒントなら1段ゴンドラが上がった。第1ヒントはゲストの性別と職業、第2ヒントは簡単な経歴、第3ヒントは具体的なことだったが、後に第1ヒントはシルエットのみに改められた。第3ヒントではシルエットが横向きになった。 ゲストは[[歌手]]・[[俳優]]・[[タレント]]などの芸能人、[[プロ野球]]選手・[[大相撲]]の力士・[[プロボクサー]]などのプロスポーツ選手、その他[[政治家]]や[[作家]]・[[評論家]]・[[芸術家]]・[[漫画家]]など、時の話題の人たちがゲストとして呼ばれた。但し、スポンサーが[[ロート製薬]]一社だった関係から、放送当時に同業他社の[[広告]]に出ていた人は、ゲストとして呼ばれなかった。 当初は中CM明けに行われており、開始音楽や[[スーパーインポーズ (映像編集)|テロップ]]は無かったが、TBS系全国ネット後(推定)からセットをバックに開始のジングルを流した。ゴンドラが色分けされてからはジングルを行進曲のファンファーレ調に変更すると同時に、「シルエットクイズ」とテロップが出る様になる(構成は上に「シルエット」、下に「クイズ」)。そして西郷時代には、中CM手前に移動、ジングルを一新し、シルエットをバックにテロップが出る様になった(構成は右上がり一直線に「シルエットクイズ」)。また小池時代は、ジングル→説明→問題という順番だったが、西郷時代は説明→ジングル→問題という順番になり、説明は小池時代よりも少なくなった。一時期このクイズの正解者にはゲストからゲスト賞が進呈されていた。 IQサプリでもやっていた ただしゲストは人ではなく ものだった 笑っていいともでも末期 の火曜日と水曜日の 冒頭にやっていた 火曜日の方はゲスト が女性に固定されている 水曜日の方は男性の時もある === ラッキークイズ === シルエットクイズと同時期に登場。ボーナスクイズの一つで、毎回ゲスト本人から出題された。正解するとゴンドラが2段上がった。 当初はシルエットクイズに続きゲストに関係する問題を3問、そしてゲストへのインタビュー後にこのクイズという流れだったが、ゴンドラが色分けされてからは最終問題となった。 ちなみにゲストへのインタビュー後に自身が問題を出題するという流れは西郷時代末期に復活したが、正解しても1段階しか上がらない単なる通常問題であった。 === 目で見るクイズ === [[1966年]][[8月7日]]放送分から登場。画像を見ながら答えるもので、2問出題(この問題のみ問題を読み上げる出題者の顔を見ることができた)。 1問は絵を見て当てる三択、もう1問はある物の部分をスライドで5枚見てもらい、それが何かを当てた。後に、アシスタントが[[ホワイトボード]]に線を描いて道府県や島の名前を当てる問題、有名人の顔写真を分解したものを見てもらいそれが誰かを当てる問題、VTRを見て都市や島、建造物の名称を当てる問題なども追加された。司会が西郷になってからは内容が一部変わった。 === 音楽クイズ === 「最近のヒット曲」、「今の季節にふさわしい曲」など、テーマを決めて3問出題された。ほとんどは曲の「題名」を答えるものだったが、歌謡曲を「歌っている人」、あるいは「作曲者」や「歌詞の続き」を答えることもあった(1問目は「題名」、2問目は「歌っている人」、3問目は「作曲者」を答えるということもあった)。 西郷時代は「サウンドクイズ」と言うタイトルで、当初はいろんな音を当てる問題だったが、後に音楽に戻っていた。 また、出題は3問まとめて行われていたが、西郷時代の末期になると番組中のどこかで出題されるようになっていた(「ではここで、〜をお聞きいただきます」で開始。直前の問題と関連した問題として出題されることもあった)。 === イエス・ノークイズ === [[1975年]]から数年間あった。5問出題され、設問が本当か嘘かを当てる問題。簡単そうな問題だが「引っ掛け問題」もあり、間違えて0点になったり「お出」になる人も多かった。 === テーマクイズ === 小池が司会だった時代にあり、季節の事柄や行事話題などを5問出題した。そのうち2問に必ず音楽に関する問題が出された。 === ご当地クイズ === [[1975年]][[10月12日]]放送分から設けられた。出場者の居住地にまつわる話題にちなんだ問題が出されるが、解答権は全員にあった。ゴンドラが灰緑1色時代は後半に行われたが、色分けされてからは前半に出題された。 === 小学生クイズ === 小池時代末期にあった、小学生視聴者からの投稿クイズ。当然ながら、クイズは小学生レベルの問題だった。投稿者には、番組特製の置時計(左に時計、右には番組セットのミニチュア)がプレゼントされた。なお問題読み上げは、当初は投稿者の肉声だったが、後に佐々木出題者が読み上げるようになった。 === この人クイズ === 小池司会末期の、[[1982年]]〜[[1983年]]にあった。<!--このクイズ形式について、詳細な情報を求む--> === しりとりコンピューターアニメクイズ === 西郷時代後期に登場。「目で見るクイズ」の発展形というべきもので、1枚のイラストが、しりとりで次に続く名前の違うイラストへ段階的に変化していくので、何に変化していくのかを当てる。2問出題。 === シンクロクイズ === 西郷時代からスタートした、ボーナスクイズの1つであり、従来の「ラッキークイズ」をパワーアップしたもの。当初は「ラストファイブ」のタイトルになっていた。 * 残り5問になると電子音が鳴り、ゴンドラ後方の電飾がスクロールした。 * 解答者がボタンを押すとスクロールが止まり、解答権を得た解答者の席に電飾が止まったらドアチャイムが鳴ってシンクロ(ボーナスチャンス)となり、後方(壁)の電飾が赤くなった(通常は青)。また、暗転で始まっていた頃はOPテーマ曲に合わせて青⇒赤⇒黄と変化し、スタジオが明るくなると青に戻った。この問題で正解すると2段上がった。それ以外の解答者が正解しても1段上がった。この時の最終問題は2択形式だった。 === リポータークイズ === 西郷時代から登場。[[Japan News Network|JNN]]各局の[[アナウンサー]]が[[リポーター]]を務め、その土地の風習や[[グルメ]]などを毎回1問ずつ出題していた。[[熊本放送]]からの出題は、アナウンサーではなく同局のテレビ・ラジオで長年にわたってレギュラー番組を担当している[[ローカルタレント]]の[[大田黒浩一]]が務めた。 == ゴンドラ == この番組に欠かせない演出の「ゴンドラ」は3代目まで存在した。 <div style="float:right; border:1px solid; padding:2px"> '''{{colors|white|#2f3695|ロート}}{{color|#2f3695|{{resize|150%|アップダウン}}クイズ}}''' </div> 第1回から最終回までゴンドラの上に、白地に紺色で(「ロート」の部分のみ白抜き)、右のような形で番組とスポンサー名のロゴが掲げられた(但し、司会者はABCテレビ「[[パネルクイズ アタック25]]」で「東リ・パネルクイズアタック25」と言うように「ロート・アップダウンクイズ」とは言わずに、単に「アップダウンクイズ」と言っていた[つまり、[[冠スポンサー]]番組ではない])。しかし、全国ネット番組でのゴンドラのオブジェー化は予定していない。 === 初代(1963年10月から1974年12月まで) === 前面に解答者の番号ランプと「横反転リーフ式(いわゆる[[反転フラップ式案内表示機|ソラリー式]])賞金表示板」があった。また各解答者席の後方(画面右斜め上)には、[[ロート製薬]]の主力製品名([[パンシロン]]、[[ロート製薬の製品|Vロート]]など)が掲出されていた。 問題が分かった時に解答ボタンを押すと、[[弓矢]]の的のような赤と白の丸い板(別名 ペコン板)が立ち上がる。複数の解答者が押した場合、最も押すのが早かった解答者の番号ランプが点灯し、解答権を得る。段階表示(スケール)は一瞬左向きの[[矢印]](←)になってから1から10までの数字が表示された。 解答ボタンは丸型で、ゴンドラ左側(解答者からは右側)に設けられていた。 金額表示は5桁で、10問正解時は9問正解時の金額がそのまま表示された。表示する時「バシャバシャ…」という独特な音がした。 不正解の時は、"×"(罰点)を立体にした物をアシスタントが持ってきて表示した。 放送開始当時、ゴンドラ一式の製作に600万円も掛かった。ゴンドラメーカーの関係者は、製作はもちろん放送局やスポンサーを説得するために苦労したそうである。 番組のカラー放送移行時(推定)にゴンドラの一部変更が行われ、解答者席の後方部分がこれまでの長四角から半円形になり、併せて段階表示もなくなった。ゴンドラの色は[[パープル]]、後方部分がグレーで、ゴンドラレールも淡いパープルに塗られていた<ref>新井たかし『クイズで儲けろ』の表紙カバーに当時のゴンドラ写真あり。</ref>。 === 2代目(1975年1月から1983年9月まで) === 従来のゴンドラに改良を加えたもので(以前、大相撲の力士の特集で、元大関・[[三根山隆司|三根山]]=当時は高島親方=の乗ったゴンドラが1段も上昇しないハプニングが起き<ref>『[[毎日放送]]の40年』174〜175ページに記載。当時のゴンドラは150kgが限度だった。</ref>、それを契機にした改良となり、250kgまで耐えられ、なおかつ2人乗りも可能になった)次のようになった。 このゴンドラでも当初は解答者席後方に[[ロート製薬|ロート]]の製品名(例:「キャシロン」「なみだロート」他)が付いていたが、[[#歴代テーマ音楽担当|オープニングテーマ音楽]]が変更(1976年1月?)されてからは付かなくなった。 * 段階表示の[[電光掲示板]](横5ドット・縦7ドット)が(画面から見て)賞金表示の左に設置された。 ** 最下段の時は無表示、そして"1"から"10"が表示される。設置当初から[[1980年代]]初めまで、10問正解の時は数字が"9"か無表示だったが、後に"10"まで表示されるようになった(10の"0"を極端に細くしてドットの列に収めた)。数字の切り替わりは左から1列ずつ流れるようになっていた。 * 賞金表示板の右上に解答者の名札が付いた。 ** ゲスト特集を除き、氏名に加えて解答者の住所地(○○県(都道府)○○市。但し、各府県庁所在地及び[[北海道]]内の各[[支庁]]所在地の場合、道府県名は無表示)も併記された。[[東京都]]の[[特別区]]在住者は「[[東京都]]○○区」と表記されていたが、これは特別区が[[市町村]]とほぼ同等の権限があるものを考慮したものである。なお、当初は、解答者の名札はゲスト特集のみであった。その際、早押しボタンを押して解答権を得られた際、一般出場者には小池が「はい、○番!」などと番号で呼んでいたが、ゲスト特集だった時や後に一般出場者の名札がつけられてからは「はい、○○さん!」と言う。 * 賞金表示は "¥40,000" のように"¥マーク+5桁"で表示し、10問正解で賞金が10万円になった時でも9問正解時の "¥80,000" のままであった。またゴンドラが最下段に居て賞金ゼロのときは "¥ 0,000" と表示されていた。 * ゴンドラ背面のレールの色は、ゴンドラに製品名が付いていたときから1976年頃までは明るい茶系だったが、1977年頃からは[[ターコイズ|ターコイズ色]]となり、後に明るい紺色となった。 [[1979年]][[12月]]から、各ゴンドラがそれまでの灰緑一色から、[[赤]]・[[オレンジ色|橙]]・[[黄色|黄]]・[[緑]]・[[青]]・[[紫]]の6色に色分け<ref>正面部分のみ。側面はブロンズのような色であった。</ref>されたうえ、解答者席後方に電飾が付いた。解答者の紹介及び1段階上昇するごとに1秒間だけ点灯し、10問正解時には3つに分かれて点滅、その後もクイズが継続される場合は常時点灯していた(点灯色は白)。また賞金表示も従来の"¥マーク"が無くなり6桁表示となり、10問正解時も "100,000" と表示できるようになった。 {| style="float:right;border:1px solid;" |- style="background-color:#eee;" !1||2||3||4||5||6 |- style="text-align:center;" |{{color|red|■}}||{{color|orange|■}}||{{color|yellow|■}}||{{color|green|■}}||{{color|blue|■}}||{{color|purple|■}} |} 小池司会の末期([[1982年]]1月?〜83年9月)では、ゴンドラが大きくマイナーチェンジされた。 * 賞金と段階表示が黒色に変わり、賞金表示が白抜き文字に変わった。なお、千の位はフラップの表記が0と5しかなかったが、0から5に表示を変えるときは、従来どおり5コマ分回転していた。 * ゴンドラの色の描かれ方が、解答権ランプの周りだけになり、両端は銀色になった。 * 解答者席後方の電飾がゴンドラと同様に色分けされた。 * ×マークは当初は2問不正解で2つ置かれるパターンが継承(アシスタントが設置・回収)されていたが、後に新しく黒地に白く「×」の書かれた板がゴンドラに搭載され、誤答ブザーと同時に自動で立ち上がる構造に変更された。解答者が失格者席から復活するときには、×板も自動的にリセットされた。 * ゴンドラ背面のレールの色はグレーとなり、枠の上部のみ茶系の色となった。 * 9問正解者がボタンを押し10問正解に[[リーチ (ゲーム)|リーチ]]が懸かると、途端にスタジオ内が暗転して解答者に[[スポットライト]]が当たり、不調和で緊迫感のある[[スネアドラム|ドラムロール]]が流れ、小池が「さあ、○○さんいいですか。落ち着いて、さあ、いきましょう!」などとしゃべり、正解の場合ファンファーレと共にくす玉が割れて紙吹雪と風船だが、不正解なら0へ逆戻りしてスタジオ内が再び明るくなる演出技法がなされていた。 * 失格席は×マークの電飾が点いた仕様となり、失格者が着席している間は点灯する演出が付けられた。 このゴンドラを最後に、『新アップダウンクイズ』以降に使用される新しいゴンドラへとバトンタッチされた。 === 3代目(1983年10月から最終回まで) === 司会者の交代とともに、セットやゴンドラについてもこれまでとは180度の転換になり、豪華で近未来的なものになった。 * セットそのもののうち、ゴンドラがセットされている部分が開放され、各ゴンドラの両脇に電飾が付いた。これが「新アップダウンクイズ」から登場した「シンクロクイズ」の際に使用された(シンクロクイズ以外でもクイズを行っている間はゴンドラの上昇分だけ点灯した。但し、不正解下降中はだんだん短くなるように点滅、さらに×マークが表示されるようになった)。 * ゴンドラの段階表示は[[デジタル数字]]に変わり、名札は少し大きくなった。段階表示は以前のものと違い、“0”が表示された(但し、10問正解の際は"10"の数字は太くならなかった)。 * 賞金表示が廃止され(ちなみに賞金は途中から1問=1万円に増額)、解答者の名札はかつての賞金表示機のあった場所(段階表示の右)に付けられた。 * 解答権ランプはゴンドラ一杯に大きく四角く表示され、数字も大きくなった。また、ボタンを押した時と解答権を得たときの表示を全てこのランプで行うようになったため、以前までボタンを押したときに立ち上がる丸い板は廃止された。 ** このランプは解答ボタンを押すと、数字の周りのみが光る。さらに解答権を得た人は全て光り、番号の部分のみ点滅。不正解の場合は×を表示した。 * 以前と同様に、解答者席後方に電飾が付いていた。 * ×マークは1回目はゴンドラに内蔵され、ブザーと同時に下から飛び出す。2回目には×マークが閉じる代わりに「お出」となった解答者のゴンドラを開けるとき、新しくなった番組のロゴマークに白の×マークを重ねた表示板をアシスタントが持ってきて表示した。無論復活の際には表示板は回収された。 * 効果音はゴンドラ上昇時(正解チャイムとほぼ同じ音)や下降時(しおれた感じのBGMと同じ音)に電子的な音が加わる形になり、当初は以前のものを引き継いでいたシンキングタイムの効果音も、放送数回で電子音に差し替えられた。それに対して早押し時のチャイムや誤答時のブザーはそのまま引き継がれた。 * このセットは番組終了後も[[毎日放送千里丘放送センター|千里丘放送センター]]に保管していたが、2007年7月下旬で放送センターは廃止された。道具倉庫は後継施設である[[毎日放送千里丘ミリカセンター|千里丘ミリカセンター]]に設けられ、同所にて保管されている(非公開)。 * 小池時代のゴンドラは[[ワイヤー]]ロープでゴンドラを上昇させていた([[エレベーター]]と同じ原理)が、西郷時代は[[チェーン]]でゴンドラを上昇させる方式に変わった<ref>両者の相違点はゴンドラが上下する際の音が、小池時代のワイヤーロープ式は動く時に“ゴン”と強く響くのに対し、西郷時代のチェーン式は“カチャ”っと弱い音が動く時と動きが止まるときに発するのが特徴</ref>。 == 10問正解達成解答者に対する演出 == === くす玉・大量の紙吹雪・風船・タラップによる演出 === *10問正解してゴンドラが頂点に上がると[[ファンファーレ]]が鳴り、解答者席上(天井)に吊るされていた[[くす玉]]が割られて(くす玉は小池時代前期は造花であり、後期は銀色である。西郷時代はくす玉の代わりにセット上の天井から丸いランプが点滅しながら)、大量の[[紙吹雪]]と[[風船]](色は[[赤]]・[[橙]]・[[黄]]・[[緑]]・[[青]]の5個、番組開始当初と西郷時代には銀色の紙吹雪のみで風船は入っていなかった)が降り、日航で行く「夢の[[ハワイ]]旅行」と賞金10万円獲得となった。なお、降ってきた風船は出場者あるいは観客の子供たちが貰うことができた。 *全ての解答者席上にくす玉が設置された[[1973年]][[12月]]以降のくす玉割りは、同じロート製薬提供で[[TBSテレビ|TBS]]の『[[クイズダービー]]』同様、スタッフの機械操作で行われていた。 *紙テープは入っていないが、新井たかしの『クイズで儲けろ』(1972年刊・[[廣済堂]])に、[[宝田明]]が10問正解・ハワイ旅行達成の瞬間で紙吹雪を浴びる場面の写真、映画『[[ALWAYS 三丁目の夕日'64]]』のオフィシャルムック『三丁目の夕日の時代 写真資料とで読む昭和39年大図鑑!!』([[小学館]])にハワイ旅行達成の瞬間でくす玉が割れて(くす玉は二つだけだった)紙吹雪が降る場面の写真(番組初期の頃)にも紙テープ(くす玉の中央部分にまとめて貼り付けてあった。紙吹雪はあったが、当時風船は無かった)が入っていた。 * [[クイズ番組]]で最初にくす玉・紙吹雪・風船・紙テープの演出を始めたのがこの番組である。ちなみにテレビ番組全体は[[NHK紅白歌合戦]]がさきがけである。 * 放送開始当初はまだ[[海外旅行]]が自由化(または「為替自由化」ともいっていた)されておらず、ハワイ旅行は文字通り夢であった。番組開始の半年後である[[1964年]][[4月]]から海外旅行が自由化された。また開始当初の賞金は20万円だったが、その後製薬業界においても宣伝・景品に関する自主規制(紳士協定)が制定され、賞金上限が10万円と定められた。 * 紙吹雪が降った後、10段目に上がったゴンドラに飛行機の[[タラップ]]に相当する階段を寄せ、当初は日航の[[客室乗務員]]が解答者に「おめでとうございます!」と言いながら、フラワー[[レイ (ハワイ)|レイ]]をかけてエスコートした。その際、その階段を客室乗務員が上がり、ゴンドラの扉を開けて、10問正解者を出迎え、専用席でシルエットゲストから副賞の賞金10万円の目録が手渡された(但し、前半(シルエットゲストがいない時)で10問正解を達成した場合は小池が手渡した)。ゴンドラが色分けされてからは、テニスウェアを着たアシスタント(ゴンドラギャルズ)がレイを掛けにいくようになり、専用席で日航の客室乗務員が目録と航空バッグを渡す形になった。 * 10問正解達成・ハワイ旅行獲得者の栄誉を称え、[[バックグラウンドミュージック|BGM]]に、ハワイアン曲の「[[ブルー・ハワイ (曲)|ブルー・ハワイ]]」が流れた。ただし[[1979年]][[3月]]〜[[11月]]はオープニングテーマのアレンジ([[宇崎竜童]]作曲)に変更、ゴンドラ色分けから2年間は「珊瑚礁の彼方に」、そして西郷が司会をしてからは「[[アロハ・オエ]]」をベースにした独自の曲となった。 ** チャレンジ3・ペアでの西海岸旅行獲得者が出た場合、決定時の音楽と後のBGMが異なっていた。 * ハワイ旅行を獲得した解答者のゴンドラには「10問正解・ハワイ旅行」のプレートが掲げられた。但し、初期はその解答者席の上に吊るされている割られたくす玉が下ろされた。小池末期のゴンドラ以降は、「新Vロート」のパッケージに準じたデザインに変更され、西郷が司会になってからも継承された。 ** チャレンジ1~3制では、「V1 ハワイ旅行」「V2 ペアでのハワイ旅行」「V3 ペアでの西海岸旅行」のプレートが掲げられた。また、チャレンジ2・3に挑戦する回答者は予め「チャレンジ2(3)」の名札を回答者席の氏名の下に掲示していた。 ** なお、「大学生大会」や「ゲスト大会」などの特集回は「ハワイ旅行」のプレートが掲げられた。 * ゴンドラから降りてきた人は専用席に座るが、この椅子はソファーになっていて横に花が飾られていた。ゴンドラが色分けされてからは、背景に[[ワイキキビーチ]]の写真が描かれたものに変更された。 * 10問正解者が出ても、時間が余っていれば出題は続行。1回の放送で複数のハワイ旅行獲得者が出たこともある。また最終問題で10問正解者が出ても時間がない場合には、タラップに相当する階段を使わず、そのままゴンドラに乗ったままエンディングを迎えた解答者もいた。その時には「そのままハワイへ飛んでいって下さい」という台詞もあった。 * 小池時代と西郷時代の前期では、10問正解達成の瞬間、画面には全く[[スーパーインポーズ (映像編集)|スーパー]]は出なかったが、西郷時代の後期になって出た。'''「おめでとう!ハワイ旅行獲得!!」'''、'''「ペアでのハワイ旅行獲得!!」'''、3週連続10問正解があった時は'''「ペアでのハワイ アメリカ西海岸旅行獲得!!」'''という字幕スーパーが出た。 === くす玉・紙吹雪に関するハプニングなど === * 10問正解・ハワイ旅行獲得時に割られるくす玉は当初1つだけで、10問正解しそうな解答者のゴンドラ上に来るよう後ろでスタッフが操っていた。しかし、収録中スタッフが誤ってセット上にぶつけて割り、紙吹雪と風船を降らせてしまったため、収録が一時中止となったことがあったことから、その後は2つ設置された。しかしながら、[[1973年]][[11月25日]]放送の「ヤングレディ特集」の大会で初めて10問正解者が3人出て、3人目にはくす玉が用意されなかったというハプニングがあったため<ref>この時はスタッフがはしごによじ登ってザルに入れていた紙吹雪を撒いて行っていた。</ref>、これを機会にすべてのゴンドラ上に設置されるようになった<ref>[http://mainichi.jp/graph/2012/04/30/20120430k0000m040035000c/image/001.jpg 訃報:小池清さん80歳=元毎日放送アナウンサー](2012年4月30日<同日閲覧> 毎日新聞)の写真後方のゴンドラ回答席の頭上に、6人分の[[造花]]で覆われたくす玉が吊るされてあるのが掲載されているが、解答者の位置によって吊るす高さが一定ではなく、異なっていた。</ref>。 * 小池時代後期に放送中、問題を読んでいるときに、何かの拍子で誤って全てのくす玉が割れてしまい、紙吹雪と風船を降らせるハプニングもあって、小池がお詫びをしたこともあった。くす玉を割るための機械にトラブルが発生して、くす玉を割るボタンを押していないにもかかわらず、機械が割れるという信号を出して割れてしまったことが原因と思われる。くす玉を割るための機械があること自体があまり知られていないものであるが、『クイズダービー』でも使われていた(『クイズダービー』も参照)。 *紙吹雪が大量のため、10問正解・ハワイ旅行達成者の両隣の解答者が浴びることも少なくなかった。このため頭や肩などに紙吹雪が付着したままの状態でクイズに参加していた。 *風船が隣の解答者に落ちたり、ステージ上に落ちたりすることもあった。 *1978年8月27日放送の「15周年記念全国大会・中部甲信越地区大会」でも、下に記した通り隣の解答者に落ちた風船が割れるハプニングがあった。 **5の解答者(女性)がラッキークイズで10問正解を達成(結局2人目の10問正解達成者が出ず、決勝進出も決定)、くす玉が割られた。その後、前半に2問誤答でお出となった4の解答者(男性)が復帰。風船が引っ掛かっていたのを知らずに解答して正解、風船が割れる音に驚いた。そこで小池が「5の方の風船が割れました、ごめんなさい」と謝罪した。 **右端の6の解答者(男性)のゴンドラにも風船が降り、1回目の誤答時までそのまま置かれていたことと、10問正解・ハワイ旅行を獲得していないのに大量の紙吹雪を浴びたこと。風船は1回目の誤答後にアシスタントが除けたが、紙吹雪は終盤に2問誤答でお出となる際に慌てて払い落とした。この理由は本来ならば5の解答者のくす玉が割れ紙吹雪と風船を大量に浴びなければならないのに、右隣にいる6の解答者のくす玉を誤って割ってしまったのである。 *10問正解を達成したにもかかわらず、くす玉が割られず、紙吹雪と風船が降らなかったこともあった、逆に10問正解を達成していないにもかかわらず、くす玉が割れ、紙吹雪と風船が降ったこともあった。 *なお、紙吹雪は小池時代の頃、細かく刻んでいた。そのため、小池は「あとで払い落として下さいね」と言っていた。 *西郷時代の時、紙吹雪は銀色一色で少し大きめになり、風船は入らなくなった。また、初期にはゴンドラ上(やはり天井)にあったランプが点滅した。 == 賞金 == === 第1期 === (番組スタートから[[1979年]][[12月16日]]放送分まで) # ¥1,000 # ¥2,000 # ¥3,000 # ¥4,000 # ¥5,000 # ¥10,000 # ¥20,000 # ¥40,000 # ¥80,000 # ¥100,000 === 第2期 === ([[1979年]][[12月23日]]放送分から[[1983年]]9月まで) # ¥5,000 # ¥10,000 # ¥15,000 # ¥20,000 # ¥25,000 # ¥30,000 # ¥40,000 # ¥60,000 # ¥80,000 # ¥100,000 === 第3期 === (1983年10月から1984年9月まで) *5千円×○段階(○正解)となり、10段階(10問正解)で10万円獲得。 ([[1984年]]10月放送分から最終回まで) *1万円×○段階(○問正解)となり、10段階(10問正解)で10万円獲得。 == 10問正解を達成した芸能人・著名人 == === 小池時代 === * [[王貞治]]…NETネット時代の[[1965年]][[4月4日]](プロ野球選手特集)<ref>後に[[1967年]][[8月6日]]の「200回記念・夏休み中学生特集」ではシルエットゲストを務めている。</ref>放送回で、著名人初の10問正解を成し遂げた<ref>最終回の問題で「次のうち、有名人で初めて10問正解したのは誰でしょう? 野球の王貞治・映画監督の[[大島渚]]・作家の[[野坂昭如]]」と出題されていた。</ref>。 * [[大橋巨泉]]…NETネット時代。後に同じ[[ロート製薬]]提供の『[[お笑い頭の体操]]』→『[[クイズダービー]]』の初代司会者と「新[[パンシロン]]」のCMキャラクターに起用。 * [[立川談志]]…[[1975年]][[4月6日]]<ref>過去にも出場していたが、このときは9問目で誤答、0に転落した。</ref>(600回記念、タレントクイズ天狗特集(ほかには[[長門裕之]](1枠)、[[ロイ・ジェームス]](2枠)、[[勝呂誉]](3枠)、[[内海好江]](5枠)、[[牟田悌三]](6枠)が出演。談志は4枠)。TBS系ネットとなってから初の10問正解者。この回のシルエットゲストは[[佐藤寛子 (首相夫人) ]]。また、2011年11月26日、『[[知っとこ!]]』<ref>現在、ロート製薬が提供しているMBS制作のネット番組。</ref>の立川談志死去のニュースで、10問目でハワイを獲得する場面が放送された。 * [[フランキー堺]] * [[三笑亭夢楽]]・[[春風亭柳朝 (5代目)|春風亭柳朝]]…落語家ペア特集で。 * [[宝田明]]…NETネット時代。 * [[武田鉄矢]] * [[谷村新司]]…NETネット時代の[[1974年]][[7月]]に放送。その週の水曜日に[[文化放送]]のレギュラー番組[[セイ!ヤング]]宛てに沢山の祝電が寄せられた。 * [[野田佳彦]]…[[早稲田大学]]時代の[[1977年]]にハワイ旅行を獲得したことを、首相就任後のホノルル訪問の際に明かした。 * [[和田アキ子]]…[[1981年]][[12月27日]]放送の「年忘れ漫才特集」ではシルエットゲストとして出演。 * [[浜村淳]]…[[1979年]][[10月7日]]の「16周年記念・[[クイズ番組]]司会者特集」で。『パネルクイズ アタック25』でも優勝して画当てを正解、パリ旅行を獲得した。 * [[渡辺文雄]]…浜村と同じく「[[クイズ番組]]司会者特集」で。翌年「新[[パンシロン]]」の初代CMキャラクターに起用) * [[前田忠明]]…[[1981年]]5月17日放送の「900回記念・レポーター特集」で。 * [[モンキー・パンチ]]…[[1979年]][[4月8日]]の「新高校生特集」ではシルエットゲストとして出演。 * [[龍虎勢朋|龍虎]]…[[1980年]][[11月16日]]の「元プロスポーツマン特集」で、出題13問目で10問達成。 * [[西川のりお]]・[[上方よしお]]…[[1980年]][[12月28日]]の「年忘れ漫才特集」で。[[1982年]][[8月22日]]の「夏休み小学生特集」ではシルエットゲストとして出演。 * [[ザ・ぼんち]]…[[1981年]][[12月27日]]放送の「年忘れ漫才特集」で。[[1984年]][[1月3日]]の「新春スペシャル」(西郷時代)では[[ぼんちおさむ]]が[[川島なお美]]とペアで出演。 * [[蟇目良]]…[[1978年]][[4月30日]]にはシルエットゲストとして出演。 * [[三波豊和]](大会名不詳。余談だが小池と同じ[[8月10日]]生まれ) * [[キャシー中島]]…「私のふるさとハワイよ」と語った。 * [[ミスター梅介]] * [[西岸良平]]…『漫画家大会』 * [[森本栄浩]](MBS[[アナウンサー]]、当時は[[関西学院大学|関学大]]生)…1982年? * [[郡和子]](元[[東北放送]][[アナウンサー]]、現・[[衆議院議員]])…[[1982年]][[9月26日]]の「美人女性[[アナウンサー]]特集」(出場当時は旧姓・高橋)で。当時の[[Japan News Network|JNN系列各局]]の若手人気女性[[アナウンサー]]が競った。 <!--他に、小池時代末期で[[1982年]][[10月3日]]放送の「映画監督特集」(大森一樹らが出場)と[[10月10日]]放送の「推理小説家特集」、及び1983年[[5月22日]]放送の「連続ドラマヒロイン特集」でも10問正解・ハワイ旅行獲得者が出ていた可能性有り、ご存知の方補足願います--> === 西郷時代 === * [[東八郎]]夫妻([[1984年]][[1月3日]]・新春スペシャル) * [[森田公一]] * [[斉藤ゆう子]]([[1985年]]1月6日、二度目の挑戦で獲得) * [[寺崎要]](1985年[[5月19日]]の「放送作家特集」にて) == 15・20周年記念全国大会 == 番組開始15周年の[[1978年]]、及び20周年の[[1983年]]には、それぞれ『アップダウンクイズ○○周年記念全国大会』が行われた。 === 放送期間 === 「15周年記念全国大会」は、[[1978年]][[8月20日]]から[[9月24日]]にかけて全国6地区ごとに予選大会、[[10月1日]]に決勝大会(第773回)が行われ、[[関東地区]]代表の[[早稲田大学]]学生・宮内博之がアップダウンクイズ日本一となった。「20周年記念全国大会」は、[[1983年]][[7月24日]]から[[9月4日]]([[8月21日]]は[[ザ・プロ野球|日曜ナイター]]のため休止)にかけて全国6地区ごとに予選大会、[[9月11日]]に決勝大会(第1003回)が行われ、こちらも関東地区代表の[[東京学芸大学]]学生・[[道蔦岳史]]<ref>[[1982年]][[5月23日]]放送回でも、シルエットクイズ(ゲストは[[小松左京]])の第1ヒントで正解し、一気に10問正解を達成している。</ref>がアップダウンクイズ日本一となった。また[[8月14日]]放送の近畿地区大会で記念すべき1000回を迎えている。 15・20周年記念とも、アップダウンクイズ日本一になった宮内・道蔦にはそれぞれ副賞として「ハワイ旅行4名分」が贈られた。 === ルール === * 15・20周年記念とも、一般参加者の他に、この大会に限っては番組出場後3年以内の者も参加できた。 * ブロック毎の出場者は通常と同様、6地区に分けられ、関東及び[[近畿地方|近畿地区]]は都府県を問わず筆記問題等を上位で通過した6名が出場、その他の地区はネット局の県ごとに1人ずつ(北海道は北・南から1人ずつ)出場した。 * 地区大会では、10問正解が1人だけの場合は自動的に決勝大会出場となり、2人以上10問正解が出た場合はプレーオフ<ref>このときは通常問題終了後、ゴンドラをすべて降ろしてから出場者が解答席を離れ、プレーオフに進む出場者のみ中央寄り(3・4番)の解答席に座る形となっていた。</ref> をして1人に絞った(15周年の中国・四国・北九州地区大会と20周年の中部・甲信越地区大会が該当。ルールは[[パネルクイズ アタック25]]の同点決勝と同じで、1問正解で勝利、誤答は他の解答者に解答権移動)。また放送(収録)時間内に10問正解が1人もいなかった場合は最高得点者(段数)が決勝大会出場(20周年の九州地区大会が該当)となった。 * また決勝大会も上記のルールで行われた。 ** 通常の回と同じように、10問正解を達成した場合のくす玉割り・紙吹雪とハワイ旅行、並びにまた20周年記念の場合、例によって10問正解にリーチをかけたときのスポットライト、ドラムのロールの演出はあった。 === 大会の概要 === * 15周年記念全国大会の地区大会では、最初にオープニングテーマ曲が流れ、小池が「アップダウンクイズ15周年記念全国大会!」と宣言した後に番組タイトルロゴ+15周年記念全国大会○○大会の看板がズームアップされて、日本列島を模したパネルを背景に小池が登場し挨拶した。 * 20周年記念大会では、最初に小池が「アップダウンクイズ20周年記念全国大会○○大会!」と宣言した後にオープニングテーマ曲が流れた。この後にアシスタント(ゴンドラギャルズ)が地区ごとのプラカードを持って出場者が入場した。 * 地区大会では、過去の10問正解者はもちろん(中でも20周年記念の関東地区大会は、出場した6名全員が過去に同番組で10問正解の実績を持っていた)、他のクイズ番組で優勝実績を持つ者も多く参加し、決勝出場をめぐって熾烈な争いが繰り広げられた。 * 15周年記念全国大会のシルエットゲストは、予選では北海道・東北が[[藤山一郎]]、中部・甲信越が[[小沢栄太郎]]、関東がボクサーの[[工藤政志]]、近畿が[[玉置宏]]、中国・四国・北九州が[[いずみたく]]、中/南九州・沖縄が[[植村直己]]で、決勝大会は当時、同じ[[ロート製薬|ロート]]提供の[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[ほんものは誰だ?!]]』のレギュラーをしていた[[遠藤周作]]だった。 * 20周年記念全国大会のシルエットゲストは、関東地区大会では後に司会となる西郷、[[近畿地方|近畿地区]]では15周年の中/南九州・沖縄地区大会に解答者として出場した[[宮崎美子]]だった(他に北海道・東北は[[叶和貴子]]、中部は[[渡辺美佐子]]、中国・四国・沖縄は[[谷川浩司]]、九州は[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]がそれぞれ務めた)。そして決勝大会は[[島倉千代子]]だった。 * 地区大会から決勝に勝ち進んだ各ブロックごとの出場者には、ミニカップが贈呈され、決勝大会ではゴンドラの右側に置かれていた。そして全国大会の優勝者にはゴールデンカップが贈られた。<ref>なお、ゴールデンカップの贈呈は西郷時代の後期(3週勝ち抜き制)に復活し、3週連続10問正解・アメリカ西海岸旅行・賞金30万円の達成時に贈呈された。</ref> ** 地区大会のプレーオフ敗者や全国大会進出者も10問達成の場合、通常通りのハワイ旅行が与えられた。 これらの大会とコンセプトが類似したものとして、最終回の一つ前([[1985年]][[9月29日]]放送)に「投げたらイカン!!チャンピオン大会」が行われ、今までの10問正解・ハワイ旅行達成者の中から、さらなる成績を収めた者が出場した。 なお、小池が[[2012年]][[4月28日]]に逝去した際にも、訃報が伝えられた[[4月29日]]の[[関西ローカル]][[ローカルニュース|ニュース]]『[[毎日新聞テレビ夕刊]]』にて「15周年記念全国大会」決勝大会当日の映像と、当時のオープニングタイトルが使用された。 ==エピソード== === 小池清のエピソード === * 番組のルーツである『近鉄パールクイズ』で[[1955年]][[10月]]に入社2年目(1954年MBS(当時は新日本放送)入社)の小池が司会を担当することになり、同時に10問正解で賞金5万円となる一方、3問誤答で失格・退場となるルールに変更された。小池はこの『パールクイズ』にて臨機応変でスピード感あふれる進行ぶりを発揮し、全国区の知名度になった。その後『パールクイズ』の当時のスタッフが「これをテレビで放送したらもっと面白いだろう」と言ったのが番組立ち上げの発端だった。 * 『パールクイズ』、『アップダウンクイズ』ともに、番組構成と放送時間と編集の関係上、解答者へのインタビューはほとんど行わないほど慌しかった。 * 不正解になっても、解答者に対し、「これは意地悪な問題でしたね」等の[[毒舌]]的なことは一切言わず、「う~ん!残念!残念!」や「これは〇〇ですよ!」や「がっかりしないで下さいね!」と言う感じで語りかけていた。 * 当時「自分は不器用だから」と言っていたのに対し、当時のプロデューサーは「そんなことはない。結構勉強家で、記憶力もあり、昔出た問題や出場者、シルエットゲストまでよく覚えていて、驚きだった」と語った。 * 司会者とは言え「あくまでも主役は解答者の皆さんで、私は裏方みたいなもの」([[TVガイド]]でのインタビューより)や「良い意味での[[マンネリ]]が定着している。シンプルで内容の多様性が受けていると思う。司会者の人柄をおっしゃってくれる方もいるが、司会者が目立つような番組ではいけない。目立たない司会者ということを最初から心掛けてきた。アップダウンのルールやシステムはもう完成品で、われわれとしては繰り返してきただけ。それを長持ちさせたのは結局、解答者だ。解答者は画面そのものが明るくなるような見ていて楽しくなるような方でないといけない。スタッフだけで出来るものではなく、出場者の個性で持っていると思う」(週刊誌のインタビューより)と語っていた。 * スポンサーがロート製薬であり、製薬会社提供番組の司会者が病気で番組を休むと洒落にもならない、という経緯から健康に留意し、出題者時代から20年間・1004回の間一度も休むことなく続けた。 * 解答者が問題の途中で早押しボタンを押すと「いいんですか?」と発言することが多かった。 * クイズ終盤で、必ず「残り時間〇分少々!」とコールし、そのあとは不正解がない限りリアクションなく次々と問題が出され、最終問題になると「あ〜っ、時間なくなっちゃった!!これが最後の問題!」とアナウンスしていた。ただし、末期では最終問題になると電子合成音のチャイム(このチャイムは西郷時代も数か月使われた)が流れ、「あ〜っ、チャイムが鳴ってしまいました。ここでラッキークイズです」とアナウンスしていた。 * 解答者で現役時代の[[輪島大士]]が出た時のエピソードでは、ボタンを押したものの答えが出て来ず「えーと…」と呟いたところ「はい正解!」とゴンドラがアップ。きょとんとする輪島。実は問題の正解が「江戸」で聴き間違いと分かり、後から聞いた小池が「えー?」と驚いたとの逸話がある。 * 小池の司会の最終日となった[[1983年]][[9月25日]]放送回は、「20周年記念・20歳の青春」と題して、放送が開始された[[1963年]]生まれの者を出場者にして行われた。 **同回のシルエットゲストは、[[1967年]][[2月]]のシルエットクイズ第1号ゲスト・[[ファイティング原田]]だった。 **本番で使われた問題の多くは第1回のものが流用され、音楽クイズも小池の好きな曲で揃えられていた。長崎県の男性出場者が、小池時代最後の10問正解達成・ハワイ旅行獲得者となった。 **エンディングでは小池・佐々木と出場者、ゴンドラギャルズがゴンドラ前に並び、小池がお別れの挨拶を述べた後、佐々木から花束が贈呈された。この時、佐々木が涙ぐんでいた。その後新しく司会となる西郷が[[ジャンクション]]で登場して抱負を述べ、10月からの新しいゴンドラ前<ref>その際、この時に限って『アップダウンクイズ』の看板のタイトルロゴが丸みを帯びていたが、結局は元のロゴが継続使用された。『[[毎日放送]]の40年』にもこのシーンの写真が掲載されている。</ref>で小池とがっちり握手を交わしていた。 === その他のエピソード === <!-- なるべくどこかの節に入れたいです --> * 番組の第1回の新聞広告は、[[関東地区]]では[[朝日新聞]]の[[夕刊]]([[1963年]]当時は[[日曜日]]にも夕刊が設定されていた)に掲載された。なお、この広告は、[[ロート製薬]]の看板胃腸薬であるパンシロンの広告も兼ねていた<ref>広告の[[キャッチコピー]]は、「胃腸と肝臓にパンシロン」。</ref>。ここには新番組のPRとして次のキャッチフレーズが使われたが、それは「スピードとスリルの新型番組 動くクイズ!!」だった。さらに「ハワイへのご招待!」の旨と、10問正解の副賞は20万円とハワイ旅行(為替自由化後)と書かれていた。このことから、当時は公正取引委員会の命令によるクイズ賞金の制限や、製薬会社による[[紳士協定]]が出来る前だったと思われる。また、この広告に初代司会者で、本来はやはり同社の看板胃腸薬である「シロン」のイメージキャラクターだった市村の顔写真が載っていたが、「'''シロン'''」ではなく「'''パンシロン'''」の広告だったためか、市村の名前は書かれていなかった。 * [[毎日新聞]]にも広告が掲載された。「製作費600万円、豪華クイズ番組登場!」と書かれている。タイトルロゴは公式のものと異なっていた。 * [[名古屋テレビ放送|名古屋放送(名古屋テレビ・メ〜テレ)]]が[[1973年]][[4月]]に放送を再開した時、[[中日新聞]]にも広告が掲載されていた。「ひねった問題がいっぱい!豪華クイズ番組!!」のキャッチフレーズだった。 * 構成を担当した[[堤章三]]は、第1回から最終回まで担当し、他にも『[[パネルクイズ アタック25]]』、『[[三枝の国盗りゲーム]]』(いずれも[[ABCテレビ|ABC]])等、数々の人気[[クイズ番組]]を手がけてきた。最初に手掛けたテレビクイズ番組が、初代司会者・市村が司会を務めた『[[私はナンバーワン]]』だった。 * スポンサーがロート製薬1社だったことから、セットの各所には同社の主力製品(([[ロート製薬の製品|V・ロート]]、なみだロート、V・ロートクール、新V・ロート、[[パンシロン]]、パンシロンG、キャシロン、[[パンシロン|新パンシロン]]など)のロゴが掲げられていた。開始当初から1975年?までは、司会者席と出題者席の前、ゴンドラすべてと観客席に掲げられていた。なおこの表示は、後に同じロート1社提供番組だった[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[底ぬけ脱線ゲーム]]』『[[ほんものは誰だ?!]]』、TBS『[[お笑い頭の体操]]』『[[クイズダービー]]』、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[万国びっくりショー]]』などその他の番組でも行われていた。その後、[[1996年]][[4月]]から[[2010年]][[3月]]まで[[関西テレビ放送|関西テレビ]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の共同制作による『[[SMAP×SMAP]]』の前半に提供していた(前半提供のみのため、看板表示は無し)<ref>「スマスマ」は2010年4月以降、前半枠も[[プロクター・アンド・ギャンブル・ジャパン|P&G]](一時各社扱いの時期あり)を含む複数社提供に移行した。</ref><ref>また[[1976年]]頃までは、スタジオ内で女性アシスタントがロートのCMを行っていた(その際、スルーになった時、観客1人に解答してもらい、正解の際はロートからのプレゼントがあり、その後にCMが行われていた)</ref>。番組に出場した6名(チーム)にも参加賞としてロートの製品詰め合わせと番組セットの時計付き写真(額縁)が贈呈された。 * またANNネット時代(1975年3月まで)では、スルーになった時は観客の1人に答えさせ、正解した観客にはロートの製品が贈られた。その後、ロート製品の生CMが放送された。 * オープニングタイトルは、1979年3月頃(使用開始時期は不詳)までは、[[虹|虹色]]のパターンに『アップダウンクイズ』の公式タイトルロゴを配したものが長く使われていたが、[[宇崎竜童]]がテーマ音楽を担当してからは[[スキャニメイト]]によるアニメーションが使われた。ゴンドラが色分けされてからは、出場者がアシスタントの誘導のもと、ゴンドラに着席していくシーンとなった。 * 正解の時鳴らされる電子音によるチャイムは、『新アップダウンクイズ』以降に登場した。それ以前は正解すると小池が「よろしいです!!」(発音では「よろしいです〜」を語尾を延ばしている。このフレーズは独特のものだった)とか「その通り!!」などと大絶叫するように言って、正解チャイム代わりをしていた。但し、誤答のブザーは最初から機械を使っていた。また現在、これと同じ方法で正解を司会者がチャイム代わりに告げる番組として、[[児玉清]]司会のABC『パネルクイズ アタック25』や[[みのもんた]]司会のフジテレビ『[[クイズ$ミリオネア]]』(但し、ファンファーレの効果音は流れる)、[[高島忠夫]]司会の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[クイズ・ドレミファドン!]]』などがある。 * シルエットクイズのセットが、ハプニングを呼んだことが2回あった。一つ目は、ゲストが俳優の[[上原謙]]だった時で、第1ヒントが出される前に幕を開けてしまった。二つ目は、大阪万博の都合で[[東京都|東京]](NET)での収録だった回の1つで出たゲストが[[1970年]]当時の[[東京都知事|都知事]]だった[[美濃部亮吉]]だった時、正解と同時に幕を開けた途端、勢い余って幕を美濃部の頭上に落下させてしまった。幸い大事に至らなかったが、収録後スタッフは関係者からお叱りを受けたという。 * 10問正解・ハワイ旅行獲得の最短記録は[[1967年]][[9月17日]]放送分で、出題12問目で達成。次いで[[1978年]][[12月17日]]放送分で、出題14問目で達成された。ゲスト大会での10問正解最短記録は[[1980年]][[11月16日]]放送の元プロスポーツマン特集で、[[龍虎勢朋|龍虎]]が出題13問目で10問正解を達成した。 * アシスタントが(10問正解でハワイ旅行獲得の解答者を迎えるための)タラップの階段を上がってゴンドラの扉を開けるまでの間、そのアシスタントの[[パンチラ]](必ずと言っていいほど見えた)を目的に番組の後半だけ見る人も多かった。 * [[オールナイトニッポン|アルフィーのオールナイトニッポン]]の最終回で、[[THE ALFEE]]メンバー全員が揃った際に「[[坂崎幸之助|坂崎]]がアップダウンクイズの予選に出た事があるんです」とメンバーの[[高見沢俊彦]]が明かしている。しかし予選は通過したが、結局本選の収録は「俺有名人だから出てもなぁ…」という理由で辞退したと坂崎自身が明かしている。 * 「落語家大会」に出場していた[[笑福亭松鶴_(6代目)|笑福亭松鶴]]は、早々に「お出」になった挙げ句、「お出」の方に解答権が移った際に「何だぁ!はっきり言うとくなはれ!!」と答えた。 * [[ガッツ石松]]がゲスト解答者として出演した回(1979年?)では、小池が「そして、問題を出すのは…」と言った時点で早押しボタンを押し「佐々木美絵」と答えたという(しかし、小池は[[2007年]][[12月]]に[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]]で放送された『[[こちら山中デスクです]]』内の「放送で言えなかった現場の話」にゲスト出演した際、否定している)。ガッツ石松とアップダウンクイズの逸話はこれだけではない。 * [[笑福亭鶴瓶]]がゲスト解答者として出演した回では、トイレでシルエットクイズの出演者とばったり会ってしまい、第1ヒントで正解したという。 * 小池時代は[[元日]]も[[日曜日]]だった場合は通常と同様に放送されていた。NET系列時代の[[1967年]](新春夫婦特集=[[大島渚]]・[[小山明子]]夫妻らが出場)とTBS系移行後の[[1978年]](新春俳優特集=[[江守徹]]、[[横内正]]らが出場)が当てはまる。1983年は本来放送されるはずの1月2日が特別番組編成だったため、翌3日の17:00〜17:30に「亥年タレントペア特集」として放送、西郷時代の[[1984年|84年]]も同日・同時間に「新春スペシャル・ね年タレントペア特集」として放送された(ちなみに1984年元日は同じロート1社提供の『[[クイズダービー]]お正月スペシャル』が放送されていた)。 * 小池時代には2回、新春特番として1時間拡大スペシャルが放映されていた<ref>60分通してロートの一社提供だった。製薬会社のレギュラー番組は製薬会社の紳士協定で31分以上の単独提供はできない規則になっていたが、単発番組だけは特例だった。</ref>。一つは[[1979年]][[1月2日]]14時からで、同年の[[干支]]・[[未]]に因み、同じ[[丁未|未年]]である[[1967年]]生まれの少年少女が父母とペアを組み、予選クイズと本番の二部構成で「3人ハワイ旅行獲得」をかけて臨んだ。もう一つは[[1981年]][[1月4日]]15時30分からで、プロ野球12球団の選手2人(計24人)が出演。○×と3択クイズの2部構成でポイントの高い6球団がゴンドラに搭乗するものだった。ただし9問正解が最高記録となり、ハワイ旅行獲得にはならなかった。 * [[1980年]][[1月13日]]放送回では最終問題後、6つのゴンドラに誰も搭乗していなかった。これは10問正解が3人出た上、「お出」も3人いたための珍事だった(その前の[[1月6日]]の「サル年特集」では10問正解者が3人出た)。 * [[1980年]][[12月14日]]放送回では、当時の週刊サンケイ(現・[[週刊SPA!]])の記者が出場した。前半はトップで独走していたが、シルエットクイズ(ゲストは[[木田勇]])以降はペースが減速してしまい、7問正解・賞金4万円に終わった。この時の様子が、同誌連載企画の「本誌記者・突撃体験シリーズ」(同誌[[12月25日]]号)に掲載された。 * [[1980年]][[12月28日]]の「年忘れ・東西漫才特集」では、[[ツービート]]、[[ゆーとぴあ]]、[[Wコミック]]、のりお・よしお、[[コメディNo.1]]、[[海原さおり・しおり]]が出場した(「落語家特集」と同じ、1〜3が東軍、4〜6が西軍)。ツービートは9段目まで順調にいくものの、誤答して0点に転落した一方<ref>後に、同じ堤構成の 『[[三枝の国盗りゲーム]]』にて優勝を果たした。この大会では他に[[島田紳助|紳助]]・[[松本竜介|竜介]]、[[ザ・ぼんち]](クイズ賞を獲得したものの、「坊主めくり」にて敗退)、[[星セント・ルイス]]が出場していた。しかし、海外旅行は坊主を引いて失格に終わった。また、『[[クイズダービー]]』(賭ける側の席。他に[[ラッキー7]]、[[B&B (お笑いコンビ)|B&B]]も出場)や『[[クイズタイムショック]]』の「漫才師大会」に出場していた。</ref>、後から上昇したのりお・よしおが10問正解・ハワイ旅行獲得となった。 * [[1981年]][[4月19日]]放送の「新高校生特集」では、後に『[[アメリカ横断ウルトラクイズの各大会の詳細#第13回(1989年)|史上最大!第13回アメリカ横断ウルトラクイズ]]』(1989年)で優勝する[[長戸勇人]]が初めてクイズ番組に出場し、10問正解・ハワイ旅行を達成した。 * [[1981年]][[5月24日]]放送回で、[[北川宣浩]]<ref>アメリカ横断ウルトラクイズ以前の[[1978年]][[2月]]にも出場したが、9問止まりで終わった。2年後に北川は「20周年記念全国大会・[[関東地区]]」に出場したが、決勝進出はならなかった。</ref>([[1978年]][[アメリカ横断ウルトラクイズの各大会の詳細#第2回(1978年)|史上最大!第2回アメリカ横断ウルトラクイズ]]優勝)は、前半で2回「お出」となったが、後半でリベンジして悲願の10問正解・ハワイ旅行を達成した。この時小池は、「出たり入ったり忙しかったですねぇ…」とインタビューされたという。 * [[1983年]][[4月17日]]に放送された「TBS系列人気番組対抗」では、『[[八木治郎ショー・いい朝8時]]』の司会をしていた[[八木治郎]]<ref>[[1980年]][[1月20日]]放送回ではシルエットゲストとして出演していた。</ref>が当時MBSアナウンサーだった[[野村啓司]]とペアで出場した(他には『[[料理天国]]』の[[龍虎勢朋|龍虎]]・[[芳村真理]]らも出場。最終結果は八木・野村ペアがトップだったが<ref>1983年4月19日の[[デイリースポーツ]]15面の八木の訃報記事に、八木・野村が9問正解している場面の写真が掲載。</ref>、10問正解達成ペアはいなかった)。だが、放送日に八木は講演先の[[福岡市|福岡]]で倒れ、翌日急逝した。翌週の放送内で、小池が八木の訃報をコメントしていた。 * [[1984年]][[1月3日]]の新春スペシャルでは「お年玉・敗者復活企画」として、「U」「P」「D」「O」「W」「N」のパネルでハワイ旅行をかけた。[[東八郎]]夫妻が<!-- 3問正解からリベンジして -->ハワイ旅行を獲得した。収録時間の関係でタラップは省略され「そのまま飛んで行きます…」と東はコメントした。 * [[1984年]][[6月24日]]放送では、4年半ぶりに10問正解・ハワイ行きが3人<ref>他の回ではハワイ旅行が獲得者2人までは出るが、3人目となる予定の挑戦者が8、9段目で終了したり、9段目で誤答し0に転落するケースが度々あった。一例として「20周年記念全国大会・中部甲信越地区で」、⑥の出場者が最後の「ラッキークイズ」で正解すれば3人目のハワイ旅行獲得となるはずだったのが、早とちりで誤答し、0に戻った。</ref>出た。 * 当時女性クイズ王だった[[石野まゆみ]]は通算4回出場して、すべて10問正解・ハワイ旅行([[1980年]][[8月17日]]放送の「夏休み中学生大会」にて)とアメリカ西海岸旅行(西郷時代の1985年1月放送の「3週連続」ルールにて。3週連続チャンピオンは石野が最後の達成者となった)を獲得した。 * [[1985年]][[3月24日]]放送では、TBS『[[ザ・ベストテン]]』のJNN各局追っかけマン6名を集めて、「ザ・ベストテン 追っかけマン特集」が行われた。参加局は、HBC・TBS・CBC・RCC・RKB・MRT<ref>MRTが参加した詳しい理由については不明だが、おそらく番組が基幹局以外のローカル局の参加を募り、推薦か立候補を獲て参加したものだと思われる。</ref>の6局<ref>なお、アップダウンクイズ制作局・MBSの『ザ・ベストテン』追っかけ担当だった当時アナウンサーの[[青木和雄]]は、観客席の応援に回った。</ref>の男女アナウンサーだった。ザ・ベストテン制作局のTBSからは、当時アナウンサーだった[[牧嶋博子]]が参加している。 * 10問正解・ハワイ旅行獲得が複数出た最後の大会は[[1985年]][[9月8日]]放送の「大学生大会」で、このうちの1人が、後に『[[史上最強のクイズ王決定戦]]』、『[[オールスター激突クイズ 当たってくだけろ!]]』で活躍することになる、当時[[早稲田大学|早大]]に在学していた、現在[[日本経済新聞社]]社員の西村顕治だった(1人目のハワイ行きはシンクロクイズの前で、2人目のハワイ行きだった西村は9問正解の状態でシンクロ、3人目のハワイ行きは8問正解の解答者が最終問題(2択)をシンクロ(1つ前の問題ではシンクロせず正解し2問連続)、正解)。なお、画面には「この番組は[[8月10日]]に録画したものです」という事前収録の旨のテロップが出ていた。また、2人目まではゴンドラからタラップを降りて10問正解・ハワイ旅行達成者席へ行く場面が観客の拍手に差し替えられていた。この措置は収録から2日後に[[日本航空123便墜落事故|日航機墜落事故]]が発生したため、これに配慮したものである。 * 最終回の一つ前の「チャンピオン大会」のシルエットゲストは[[山下泰裕]]で、最終回のゲストは[[江夏豊]]だった。 * 小池時代の番組エンディングは、ハワイ旅行獲得者がいた場合は小池の挨拶後、ロートの製品名が掲げられた観客席が映し出された。放送(収録)時間内にハワイ旅行獲得者が1人もいなかった場合は、優勝者待合席とゴンドラを映した。小池末期の時期は、スタッフロールの表示とともに、ゴンドラギャルズ6名がゴンドラの前に一列に起立していた。 * 番組の出場者募集・宣伝は、[[ロート製薬]]と[[戦前]]から取引があった関西地盤の老舗[[広告代理店]]・[[萬年社]]が一貫して担当していた(生みの親である[[堤章三|堤]]も一時期勤務していた)。葉書の応募先が、「ロート製薬 アップダウンクイズ係」となっていたのはそのためである。しかし同社は、ロートが創業100年を迎えた[[1999年]][[2月]]下旬に不況などが原因で倒産した。 * [[2010年]]現在も[[横浜市]]の[[放送ライブラリー]]では1作も保存・公開されていない上、全国ネットでの復活、[[スカパー! チャンネル一覧|スカパー! CS局]]等の再放送も行われていない(ただし、関西ローカルでの復活は行われている)。 *この番組が放送された時期(特に小池時代)は、[[ビデオテープレコーダ|放送用VTR]]の規格が[[2インチVTR|2インチ]]で機器・[[ビデオテープ|テープ]]とも高価で操作・編集も煩雑だったうえ、[[視聴者参加型番組]]だった都合上、個人情報や[[著作権法]]の絡みなどで番組の資料保存が制約されていた事情もあって、NETネット時代の映像についてはほとんど残っていないと考えられる<ref>[[2009年]][[2月8日]]にテレビ朝日で放送された『[[超大ヒット人気番組ぜ〜んぶ見せます!スペシャル]]』では、ANN時代の放送回数が過半数の599回にも関わらず、1シーンも放送されなかった。</ref>。TBS系全国ネットに移行してからの映像についても、15・20周年記念全国大会やゲスト大会を除くと、10問正解者のあった回が若干回残っている程度と考えられる。 == 番組終了とその後 == 小池司会の末期である[[1980年代]]に入ると、20周年を迎えた1983年秋[[改編期|改編]]で番組内容のリニューアルを行った。 まず、初代出題者と2代目司会者として20年担当した小池が勇退して西郷に交代。次いでゴンドラをはじめセットを豪華に変え、番組名も『新アップダウンクイズ』に改めるとともに、一部のルールを変更した。翌[[1984年]][[4月]]以降はルールを「シンクロクイズ」を除いて元に戻した。 そんな中、番組開始からハワイ旅行の協賛スポンサーだった日本航空が、[[1985年]][[8月12日]]に国内で[[日本航空123便墜落事故|墜落事故(JAL123便)]]<ref>事故の翌週から3週間はプロ野球中継に差し替えられ、再開後も断りのテロップ表示(前述)や客室乗務員登場シーンの割愛が行われた。</ref>を発生させたことで協賛継続が不可能となり、[[斎藤守慶]]社長(当時)が終了を決断せざるを得なくなった。同年6月に就任したばかりの斎藤にとっては、社長としての最初の大仕事が当番組の終了決定となってしまった。{{main|斎藤守慶#アップダウンクイズと小池清}}{{see also|日本航空123便墜落事故#事故後の日本航空}} そして1985年[[10月6日]]放送の「22年間ありがとう!!シルエット大会」<ref>この大会では、ファイティング原田、マッハ文朱など、シルエットゲスト経験者がペアでクイズに臨んだ。だが、10問正解ペアは1チームも出ずに終わった。フィナーレでは出場チーム全員が西郷・佐々木・アシスタントと共にゴンドラ前に並び、西郷が終了に当たって「'''小池清さんに敬意を表します'''」というメッセージを述べていた。</ref>をもって、22年・1084回で終了した。番組最終回放送日は第1回放送日(1963年)と同じ10月6日だった。 『アップダウンクイズ』で22年間に出題された問題は50000問以上にのぼり、総出場者数延べ6500人、そして延べ680人のハワイ旅行・アメリカ西海岸旅行獲得者を出した。またシルエットゲストを務めた人は延べ840名にのぼった。最終回エンディングでは、誰もいなくなったスタジオを背景に、「22年の記録」と称した[[スーパーインポーズ (映像編集)|字幕スーパー]]が上向き・横文字[[タイトルロール|ロール]]にて表示された。 [[10月13日]]からは、この番組と同じくロート製薬一社提供の『[[クイズ!!ひらめきパスワード]]』がスタートし、[[1992年]][[3月]]まで継続した。その後、日曜19時枠はキー局である[[TBSテレビ|TBS]]の制作枠となり、ロートと同じ大阪に本社を置く[[武田薬品工業]]一社提供の『[[さんまのからくりTV]]』を経て、現在は『[[クイズ王]]』を放送している。 その後、初代出題者と2代目司会者を担当した小池は、番組終了から26年半後の2012年[[4月28日]]、80歳で[[永眠]]した。翌日([[4月29日]])の『[[毎日新聞テレビ夕刊]]』と[[5月1日]]の『[[ちちんぷいぷい (テレビ番組)|ちちんぷいぷい]]』(小池が前年9月末まで同コーナーのナレーターを担当)では、小池の訃報を伝える際に、当番組「15周年記念全国大会・決勝大会」の冒頭映像を流した。 == 同番組のクイズ形式を行っていた番組・CMなど == [[テレビ朝日]]「[[クイズタイムショック]]」と共に特徴的な番組であるためか、放送終了後20年以上経った現在でも比較的頻繁に[[パロディ]]・[[オマージュ]]が見受けられる。以下番組として制作局のMBS並びにTBS系列で放送されたものに限って記載する。 *TBS「[[8時だョ!全員集合]]」:後半コントで、「アップダウンクイズ」のコントが放送された。ゴンドラは2代目初期の物で、コントの関係から4台しかゴンドラが無かった。このコントは、全員が2問ずつ間違えて、「お出」になるのが落ちだった。なお、このコントを演じた[[ザ・ドリフターズ]]は、MBSが1975年3月にネットチェンジする時のPRキャラクターだった。 *TBS「タモリのスター対抗クイズ番組大集合」:[[タモリ]]司会。佐々木が出題。[[1983年]][[10月2日]]、文字通り当時のTBS系列のクイズ番組が集結した2時間特番で、本番組も織り込まれた。小池最後の回と西郷最初の回のちょうど間にあたり、ゴンドラは2代目最末期のものに準じていたが、4チームだったため4台しかなかった。テーマ音楽も小池時代のものを流用。当然「ロート」の表示はなかった。このコーナーの問題で「タモリ、ヤモリ、イモリ、果たして人間は誰でしょう?」の珍問が出題された(もちろん正解は、司会だったタモリ)。 この特番が2代目ゴンドラとしての最後の出番となった。 *TBS「[[クイズまるごと大集合]]」:番組自体が終了後、番組改編時特別番組で一度だけ織り込まれたことがある。番組自体が終了してから折り込まれたため、ゴンドラは模して造られた。 *MBS「[[毎日放送開局40周年記念特別番組|40周年記念・新社屋完成記念特別番組]]」(関西ローカル):[[1990年]][[9月1日]]放送。梅田・茶屋町に移転したのを記念してMBS番組対抗で最初の復刻版が放送された。 *MBS「放送禁止06ライブ」(関西ローカル特番・1992年4月10日放送)で司会・小池、出題・佐々木のアップダウンクイズがコーナーで復活。[[清水興]]、[[野村義男]]、[[石田長生]]、[[忌野清志郎]]、[[有山じゅんじ]]、[[中島らも]](解答席順)らが挑戦したが、シルエットクイズを終えた時点で打ち切ってしまい、場面がライブに変わってしまった。ゴンドラなどのセットは西郷時代のものを使用していた。(失格時に×マークが閉じるシステムは変わらないが、アシスタントが設置する失格札は新規のものを使用していた)。正解時に小池の「よろしいです!!」や「その通り!!」のフレーズはあるが、正解チャイムが流れていた。ただし、西郷時代の電子音ではなく、普通のチャイム音(2回鳴る)である(勿論ゴンドラ落下時の電子音もなかった)。効果音はオープニングテーマとシルエットクイズのジングルが初代(1963年開始)で、小池の「ハワイ旅行を目指して大いにがんばっていただきましょう!!」(「日航機による」は外されていた)のフレーズの後のファンファーレ、シルエットクイズのシンキングタイム(各ヒント終了時)、2問不正解・失格退場のBGMは小池時代末期のものを使用していた。また冒頭のフレーズも「ロート製薬」の部分を「MBS」に変えて「MBSがお送りするアップダウンクイズ」とした。もちろんゴンドラ部分には「ロート」の文字はなく「アップダウンクイズ」のロゴのみである。 *MBS「[[新・たかじんが来るぞ]]」(関西ローカル):番組終了から8年後の[[1993年]]、[[やしきたかじん]]司会で、当時MBSアナウンサーだった[[石田敦子 (アナウンサー)|石田敦子]] が出題。西郷時代に使われたセットを使って復刻版が行われた。この時のシルエットクイズのゲスト(正解)は、当時MBSを定年退職して関連会社・[[MBS企画]]の社長を務めていた小池であり、番組誕生や秘話などのエピソードを語った。結果は[[ハイヒールモモコ]]が7問正解と言う記録を作った。問題の正誤判定もたかじんの裁量で正解と認められたり、誤答と認められた事もあった。 *MBS「[[開局記念番組#MBS 毎日放送■|開局50周年記念特番]]『激動の半世紀!復活あどランでOH!OH!』」(関西ローカル・[[2001年]][[9月9日]]放送) *:[[ヤングおー!おー!]]と[[あどりぶランド]]の特番ともいえる。一企画として、司会・小池、出題・佐々木のアップダウンクイズが復活。放送は[[MBSスタジオ in USJ]]からだったが、ゴンドラなどのセットは西郷時代のものを使用していた。このとき出演者は、セットに「ロート」の文字がないことへの違和感を語っていた。 解答者は次の通り。 *1枠 桂三枝(現・[[桂文枝 (6代目)|六代桂文枝]])・[[松井愛]] *2枠 [[月亭八方]]・[[西村麻子]] *3枠 [[赤井英和]]・[[石田敦子 (アナウンサー)|石田敦子]] *4枠 [[藤本永治]]・[[松川浩子]] *5枠 [[吉田智子 (アナウンサー)|吉田智子]]・[[上泉雄一]] *6枠 [[野村啓司]]・[[武川智美]] *三枝と野村は本放送時代にも解答者としての出演の経験者でもあり、さらに三枝は西郷時代にシルエットゲストも経験している。 *:約20問足らずで終了し、月亭八方・西村麻子ペアが4問正解という低調な記録を作った。 *その他、番組ではなかったが、[[西日本電信電話]](NTT西日本)の[[フレッツ]]で、[[天海祐希]]がCMキャラクターを勤めていた頃にアップダウンクイズをパロディ化したものが放送された。順調に正解を重ねて優勝間近というところの最後の問題で不正解となり、0点まで「お戻り」になるが、月額利用料が安くなるということで驚きながら喜ぶというオチがあった。 *FNS「[[北野タレント名鑑]]」司会:[[ビートたけし|北野武(ビートたけし)]]、[[ガダルカナル・タカ]] アシスタント:[[戸部洋子]](フジテレビアナウンサー) :解答者5名がゴンドラに乗って、クイズに正解すると1段階アップし5問正解でPRができた(4問以下だと顔出しされない)。途中から上から下に1段階下がる形に変更された。不正解だと0点に戻された。 *FNS「爆笑!オールスタークイズ王決定戦」司会:[[研ナオコ]]、[[高田純次]]、[[松本伊代]] 出題者:[[西村知江子]] :スペシャル番組として「[[金曜ファミリーランド]]」または「[[火曜ワイドスペシャル]]」で、計3回放送された。予選では、出場者6名がゴンドラに乗り正解すると1段階アップし、時間切れまでに正解数の多かった人2名が決勝に進める(AブロックとBブロックで2回行う、1回だけCブロックまで3回行われた)。 決勝は予選を通過した4名と敗者復活の2名により行われ、10問正解で優勝、不正解だと0点に戻された。[[林家正蔵 (9代目)|林家こぶ平]]、[[上岡龍太郎]]などが優勝。 *TBS「[[頭脳の祭典!クイズ最強王者決定戦!!〜ワールド・クイズ・クラシック〜]]」 :[[2011年]][[11月23日]]に放送されたスペシャル番組。参加者33名から予選および準決勝を勝ち抜いた2名による決勝戦の早押しクイズ「The Tower」にこの形式が使われた。10問正解で優勝、不正解だと0点に戻された。但しゴンドラは独自のものを使用。この決勝には本番組で3週連続10問正解を達成した[[石野まゆみ]]が進出したが、準優勝に終わった。 == 歴代テーマ音楽担当 == * 田中正史(開始〜1975?)…当初は[[ブラスバンド|ブラス]]系<ref>2007年10月10日に[[ソニーミュージック]]から発売された[[コンピレーションアルバム]]「日曜夜のテレビは哀愁」の6曲目に収録されている。</ref>だったが、後に(時期は不詳)[[オーケストラ]]に近い曲調となった。 * [[南安雄]](1976,1?〜1979)…ゴンドラ背後のロート製品名が無くなってから使われ始めた。オープニング/エンディングテーマはブラス系、シルエットクイズ開始の[[ジングル|ジングル音]]や10問正解時のファンファーレはオーケストラ調。「目で見るクイズ」のシンギング時のBGMや、「お戻り」のジングル音にもオープニングのアレンジが使われた。 * [[宇崎竜童]](1979,3〜11)…[[シンセサイザー|シンセ]]系。 * 田中正史(1979,12〜1983,9)<ref>CD「[[ブロードキャスト・トラックス]] 毎日放送編」ではこのオープニング(小池の番組冒頭のあいさつ部分を含む )とハワイ行き決定のBGMが収録されている。</ref>…ゴンドラの色分けと同時に変更され、小池司会の最終日まで使用。初代テーマのリニューアル版でオーケストラ調。オープニングでは冒頭に[[ティンパニ]]のロールがある。小池の出場者紹介後の「ハワイ旅行めざして…」と述べた後にもジングル音が入った。シルエットクイズ開始のジングル音は[[行進曲]]のファンファーレに近い。 * 中川昌(1983,10〜最終回)ブラス系。後に「お出・お戻り」ルールの復活に伴い、オープニングテーマのみ変更された(シンセ+ブラス系)。 == スタッフ == ; [[1980年]]頃から最終回まで * 構成:[[堤章三]]、[[福岡秀広]]、杉本士郎、[[三田村明彦]](堤以外の3人は西郷時代のみ担当) * ナレーション:[[柏木宏之]](MBSアナウンサー・「新」のみ半年間担当) * ディレクター: ? ⇒小川智・浦川雅至⇒尾嶋啓憲<ref>1983年から最終回まで担当。</ref> * [[テレビプロデューサー|プロデューサー]]:[[金子俊彦 (毎日放送)|金子俊彦]]⇒柳川正邦<ref>金子は後継番組『[[クイズ!!ひらめきパスワード]]』の構成、柳川は同番組のプロデューサーを[[1989年]]頃まで担当。</ref> * [[テクニカルディレクター (テレビ) |技術]]: ? ⇒眞田昌輔⇒三浦邦彦⇒小泉博 * 美術: ? ⇒川口勤⇒高橋輝光 * 製作著作:[[毎日放送]] == 放映ネット局 == ===1963年10月6日から1975年3月30日まで=== 系列は放送当時のもの。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !放送対象地域 !放送局 !系列 !備考 |- |[[広域放送|近畿広域圏]] |[[毎日放送]]<BR/>(MBS) |rowspan="3"|[[All-nippon News Network|NETテレビ系列]] |'''制作局''' |- ||[[広域放送|関東広域圏]] |[[テレビ朝日|NETテレビ]]<BR/>(NET) |現:テレビ朝日(EX) |- |[[広域放送|中京広域圏]] |[[名古屋テレビ放送|名古屋放送]]<BR/>(NBN) |現:名古屋テレビ放送(メ〜テレ)<br />1964年10月から1966年9月まで、1973年4月から<br />1973年3月まで日本テレビ系列とのクロスネット局 |- |[[岡山県]] |[[岡山放送]]<BR/>(OHK) |[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]<br />NETテレビ系列 |当時の放送エリアは岡山県のみ<br />1970年11月から1975年3月30日まで |- |[[山口県]] |[[山口放送]]<BR/>(KRY) |[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]] |[[山口放送#関門テレビ局開局|関門局]]のみ<br />1963年10月から1964年9月まで<ref name="kanmon">[[九州朝日放送]]では1964年10月に[[テレビ西日本]]が[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]から[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]に[[ネットチェンジ#福岡県と山口県(関門2県)のケース|ネットチェンジ]]したのに伴い、それまで関門2県のネット局だった[[山口放送]]([[山口放送#関門テレビ局開局|関門局]])の番組が徳山局(現・周南局)と同一の編成になったため当番組のネットを開始。そのため、山口放送では1年で番組が打ち切られた。ちなみに山口県での当番組の放送は1975年4月に当番組がTBS系列番組に変更されたと同時に[[テレビ山口]]で放送を再開し、山口放送関門局エリアでは10年半ぶりにネットが復活した他、山口放送周南局エリアでは初放送となった。</ref> |- |[[香川県]] |[[瀬戸内海放送]]<BR/>(KSB) |rowspan=2|NETテレビ系列 |当時の放送エリアは香川県のみ<br />1971年11月から<ref>但し、[[ネットチェンジ|腸捻転解消]]直前に終了となり、[[MBSテレビ|MBS]]・[[吉本興業]]制作の番販番組『日曜りくえすと寄席』を同枠で放送していた。</ref> |- |[[福岡県]] |[[九州朝日放送]]<BR/>(KBC) |1964年10月から<ref name="kanmon" /> |} ===1975年4月6日から1985年10月6日まで=== [[1975年]][[4月6日]]以降は[[ネットチェンジ|腸捻転]]解消に伴いTBS系番組となり、TBS系列局でネットを開始した。 <!--放送対象地域外の県は加えない事。ネット局の系列についてもネット終了時点での系列にする事--> ※系列は放送当時のもの。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !放送対象地域 !放送局 !系列 !備考 |- |近畿広域圏 |毎日放送<BR/>(MBS) |rowspan="6"|[[Japan News Network|TBS系列]] |'''制作局''' |- |関東広域圏 |[[TBSテレビ|東京放送]]<BR/>(TBS) |現:TBSテレビ |- |[[北海道]] |[[北海道放送]]<BR/>(HBC) | |- |[[青森県]] |[[青森テレビ]]<BR/>(ATV) | |- |[[岩手県]] |[[IBC岩手放送|岩手放送]]<BR/>(IBC) |現:IBC岩手放送 |- |[[宮城県]] |[[東北放送]]<BR/>(TBC) | |- |rowspan=2|[[福島県]] |[[福島テレビ]]<BR/>(FTV) |[[フジネットワーク|フジテレビ系列]] |1983年9月25日打ち切り<br />1983年3月まではTBS系列とのクロスネット局<ref>[[福島テレビ]]は[[1983年]][[4月]]にフジテレビ系列(FNN系列)に[[ネットチェンジ#福島県の事例|ネットチェンジ]]後も、視聴者保護等の関係で[[1983年]][[9月]]まで同局で放送されていた。[[1983年|同年]][[10月]]〜[[11月]]は[[福島県]]内では放送されなかった。ただし[[福島県]]内でも地域によって異なるものの[[東北放送|TBC]]、[[新潟放送|BSN]]、[[TBSテレビ|TBS]]のいずれかを受信できていれば、[[1983年]][[10月]]〜[[11月]]でも視聴できていた。</ref> |- |[[テレビユー福島]]<BR/>(TUF) |rowspan="10"|TBS系列 |1983年12月4日から |- |[[山梨県]] |[[テレビ山梨]]<BR/>(UTY) | |- |[[長野県]] |[[信越放送]]<BR/>(SBC) | |- |[[新潟県]] |[[新潟放送]]<BR/>(BSN) | |- |[[静岡県]] |[[静岡放送]]<BR/>(SBS) | |- |中京広域圏 |[[中部日本放送]]<BR/>(CBC) | |- |[[石川県]] |[[北陸放送]]<BR/>(MRO) | |- |岡山県<br />↓<BR/>岡山県<br />香川県 |[[山陽放送]]<BR/>(RSK) |1983年3月までの放送エリアは岡山県のみ<br />1983年4月より[[岡山県・香川県の放送#岡山・香川両県の民放相互乗り入れ放送|相互乗り入れ]]に伴い香川県でも放送<ref>但し、香川県では相互乗り入れ以前から[[山陽放送]](RSK)やMBSを通じて視聴可能であった。</ref> |- |[[鳥取県]]<br />[[島根県]] |[[山陰放送]]<BR/>(BSS) | |- |[[広島県]] |[[中国放送]]<BR/>(RCC) | |- |山口県 |[[テレビ山口]]<BR/>(tys) |TBS系列<br />フジテレビ系列 |1978年9月まではテレビ朝日系列との[[トリプルネット局]]<ref name="kanmon" /> |- |[[高知県]] |[[テレビ高知]]<BR/>(KUTV) |rowspan="8"|TBS系列 | |- |福岡県 |[[RKB毎日放送]]<BR/>(RKB) | |- |[[長崎県]] |[[長崎放送]]<BR/>(NBC) | |- |[[熊本県]] |[[熊本放送]]<BR/>(RKK) | |- |[[大分県]] |[[大分放送]]<BR/>(OBS) | |- |[[宮崎県]] |[[宮崎放送]]<BR/>(MRT) | |- |[[鹿児島県]] |[[南日本放送]]<BR/>(MBC) | |- |[[沖縄県]] |[[琉球放送]]<BR/>(RBC) | |} == 関連書籍 == * 『アップダウンクイズ』 ([[二見書房]]発行・サラブレッドブックスシリーズ)[[1978年]][[11月]]発行・新書判。番組放送15周年を記念しての出版で、表紙には当時のゴンドラを背景に小池・佐々木コンビの写真があり、サブタイトルとして「35000題から選び抜いたハイレベルの2000題…」と書かれている。問題集本編は、番組担当者のアドバイスから始まって、予選問題、放送された15年間の出来事を背景にした問題、番組の各クイズコーナーを元にした「トレーニング編」、そして繰り返し挑戦して実戦力を身につけられる「チャレンジ編」で構成されている。現在は[[絶版]]で古書店にもほとんど出回らず、入手は難しくなっている。 * 社史『[[毎日放送]]の40年』[[1991年]]発行、『毎日放送50年史』[[2001年]]発行(いずれもA4判・非売品)前者は開局40周年、後者は50周年を記念して発行された社史で、全国の都道府県立図書館で閲覧可能。『毎日放送50年史』の付録であるDVD-ROMには、[[1975年]][[4月6日]](第600回)放送分のハイライトシーンが収められている。 *『放送の世界に生きて』風詠社発行 2009年6月発行、「アップダウンクイズ」を長年担当してきた金子俊彦が、自身と放送とのかかわりを記述した内容で、「アップダウンクイズ」の思い出や構成者堤章三との思い出が書かれている。 == 関連グッズ == * スクールパンチ『アップダウンクイズゲーム』(タカラ[[タカラトミー|(現在のタカラトミー)]])[[1980年]] - [[1982年]]頃発売。ボードゲーム。解答者枠が4枠までしかなかった。 * 『アップダウンクイズゲーム』(タカラ[[タカラトミー|(現在のタカラトミー)]])1980年 - 1982年頃発売。パッケージには[[松下進]]のイラストが描かれている。こちらは、解答者枠が6枠まであった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[クイズ番組]] * [[世界一周双六ゲーム]](末期の裏番組で、[[朝日放送|ABC]][[ABCテレビ|テレビ]]制作・[[テレビ朝日]][[All-nippon News Network|系列]]で放送) * [[キン肉マン]](原作第7巻に本作そっくりのクイズ番組が登場、キン肉マンとミートが出場したが敗退) IQサプリ、シルエットクイズやっていた。 余談であるが今田耕司はIQサプリがやっていた裏の枠の 炎の体育会に出ている == 外部リンク == * [http://www.kitagawa.tv/quiz/tvqd/tvqd05-4.htm TVクイズ大研究-アップダウンクイズ] * [http://www.kitagawa.tv/quiz/tvqm/tvqm04-6.htm TVクイズ丸金必勝マニュアル] * [http://www.sanseiyusoki.com/ 三精輸送機](「特殊機構」の分野で、ゴンドラ昇降装置の製作を担当した) * [http://www.kobe-np.co.jp/rensai/tv50/02.html 関西素材 関西風味―テレビ50年 2.天国と地獄・長寿支えるドキドキ感] - [[神戸新聞]]の連載記事([[2003年]][[5月22日]]){{リンク切れ|date=2012-11}} {{前後番組 |放送局=[[テレビ朝日|NET]][[All-nippon News Network|系列]] |放送枠=[[日曜日|日曜]]19時台前半 |前番組=<br />[[私はナンバーワン]]<br />(1962年1月 - 1963年9月) |番組名=アップダウンクイズ<br />(1963年10月 - 1975年3月)<br />【ここまで[[MBSテレビ|MBS]]制作、<br />[[ロート製薬]][[一社提供]]枠】 |次番組=[[二郎さんのOh!マイおやじ]]<br />(1975年4月 - 1976年3月)<br />【ここから[[ABCテレビ|ABC]]制作枠】 |2放送局=[[TBSテレビ|TBS]][[Japan News Network|系列]] |2放送枠=日曜19時台前半 |2前番組=[[学校そば屋テレビ局]]<br />(1974年10月 - 1975年3月)<br />【ここまでTBS制作枠】 |2番組名=アップダウンクイズ<br />(1975年4月 - 1985年10月)<br />【ここからMBS制作、<br />ロート製薬一社提供枠】 |2次番組=[[クイズ!!ひらめきパスワード]]<br />(1985年10月 - 1992年3月)<br />【1991年10月から1992年3月までは<br />同社を含む複数社提供となる】 }} {{デフォルトソート:あつふたうんくいす}} [[Category:1963年のテレビ番組 (日本)]] [[Category:毎日放送のクイズ番組]] [[Category:テレビ朝日のクイズ番組]] [[Category:TBSのクイズ番組]] [[Category:ロート製薬一社提供番組]] [[Category:視聴者参加型クイズ番組]] {{Wikipedia/Ja}}