いろは坂

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いろは坂(いろはざか)は栃木県日光市馬返から、同市中禅寺湖畔間の国道120号の坂道を指す。

概要

「いろは坂」の名称は、第一いろは坂と第二いろは坂の二つの坂に存在する48のカーブを、いろは48音に例えたのが由来である。

馬返から中禅寺湖への登り方向を第二いろは坂と言い、「い」から「ね」までの20のカーブが、中禅寺湖から馬返への降り方向を第一いろは坂と言い、「な」から「ん」までの28のカーブがある。第二いろは坂は馬返から明智平までが登り方向に、第一いろは坂は全線が降り方向に、それぞれ一方通行である。

第二いろは坂の途中には「黒髪平(くろかみだいら)」、「明智平(あけちだいら)」とそれぞれ呼ばれる駐車場が2か所ある。いずれも休憩場所となっている。

明智平ロープウェイも走っており、展望台からは華厳滝や中禅寺湖が一望できる。道路はここから中禅寺湖までが対面通行となっているので、中禅寺湖方面から降りてくることもできる。

急な勾配とカーブが続き、秋には沿線の紅葉が美しいところで有名である。そのためその季節はかなり混雑する。沿線には野生のサルが姿をあらわすが、最近ではサルに餌付けをする観光客が後をたたなくなってきている。このため、付近一帯はサルによって土産物等が奪われたりするなどの被害が続出している。

歴史

  • 奈良時代 - 勝道上人らにより男体山が開山され、古くから山岳信仰聖地であった。いろは坂はその頃に開拓されたのが起源とされる。
  • 明治時代初期まで - 男体山は女人禁制、牛馬禁制となっていた。その名残は、ふもとに「馬返(うまがえし)」の地名として、そして第一いろは坂の途中に、女性が男体山を拝んだ「女人堂(にょにんどう)」として残っている。
  • 明治から昭和時代初期 - 各国の大使館中禅寺湖畔に避暑地として別荘を相次いで建設した。
  • 大正時代 - 人の往来が激しくなったためそれまでの道路は整備され、今の第一いろは坂の元となった道ができた。
  • 1953年(昭和28年)5月18日 - 二級国道120号日光沼田線に指定される。
  • 1954年(昭和29年)10月1日 - 日本で2番目の有料道路として全面改修され、料金徴収を開始[1]
  • 1959年(昭和34年) - 管理が、栃木県から新規設立の日本道路公団に移る。
    当時は第一いろは坂のみであり片側一車線の対面通行であった。また、48あったカーブは整備され30となった。これにより、麓から中禅寺湖畔までの所要時間が大幅に短縮され、交通量が増大。さらに急カーブでは大型自動車同士がすれ違うには十分は道幅でなかったため、渋滞が多発するようになった。
  • 1963年(昭和38年)7月30日 - 第二いろは坂の工事を開始[2]
  • 1965年(昭和40年)9月22日 - 第二いろは坂の工事が終了[3]
  • 1965年(昭和40年)10月7日 - 馬返から明智平へと通じる第二いろは坂を供用開始し、第一いろは坂と合わせて有料道路「日光道路」として料金徴収を開始[4]
    第二いろは坂はカーブが20あるため、第一いろは坂のカーブを2つ減らし、合わせて48のカーブの道となった。
  • 1984年(昭和59年)10月1日 - 無料開放される[5]
  • 1986年(昭和61年) - 日本の道100選に選出される。
  • 1987年(昭和62年)4月 - 日本ロマンチック街道の一部となる。

脚注

  1. JH日本道路公団『日本道路公団(JH)年報(平成15年版)』2003年
  2. 同年7月29日、日本道路公団公告第27号「日光道路(第2期)一部工事開始公告」
  3. 同年9月18日、日本道路公団公告第32号「日光道路工事完了公告」
  4. 同年10月4日、日本道路公団公告第35号「有料道路「日光道路」料金徴収公告」
  5. 1976年(昭和51年)4月16日、日本道路公団公告第27号「有料道路「日光道路」の料金の額及び徴収期間の変更公告」

関連項目

和風総本家。2012年11月8日放送で取り上げられた。2014年10月19日に関東で再放送された。テロップで関東で2012年11月8日に放送されたものですと表示された

外部リンク

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