華北労工協会
華北労工協会(かほくろうこうきょうかい)は、第二次世界大戦中に中国の華北地方に設立された、華人労務者の供出実務を担う団体。現地政府の労務統制機関として設立され、華人労務者の募集、警備、輸送、衛生、給与や行政管理を担当していた。現地で日本軍が捕えた捕虜などを協会の労工訓練所に収容して一定期間訓練を受けさせ、行政単位への割当により供出させた人員と併せて日本へ送った。
組織
協会の事務所は北京市に所在していた[1]。
協会には、
- 第1課(動員業務)
- 第2課(行政業務)
- 資材課
- 主計課
などの部門があり、このうち第1課・第2課が企業との折衝にあたった[2]。
石門(石家荘)、天津、済南、青島、塘沽などの主要都市には協会の出張所があり、主任以下が華人労務者を集める業務に直接あたっていた[3]。
また協会は訓練所と収容所の施設を所有し、管理していた[3]。労工訓練所は済南、石門、青島、邯鄲、徐州および塘沽にあった[4]。
人員
協会の職員は日本人と中国人で構成されており、理事長などのポストには中国人が就き、課長や次席には元特務機関員の日本人が就いて、実務を担当した[3]。華人労務者の割当ての権限は、第1課の次席にあった[3]。
労工訓練所
華北労工協会は、労工訓練所ないし労工教習所を所管しており、現地の日本軍が作戦行動によって捕えた捕虜・帰順兵のうち、釈放して差し支えないと判断した者や、中国の地方法院で微罪に問われ、釈放された者を、引き受けて収容し、一定期間(約3ヶ月)の訓練を受けさせた後、華人労務者として日本に送っていた[5]。
実質的には「捕虜収容所」だったが、日中戦争開戦後も日本は形式的に中国と交戦中であることを認めていなかったため、捕虜の存在を認めず、別名称を用いた[6]。
労工供出契約
厚生省に「華人労務者」の斡旋を依頼し、「華人労務者移入計画」に基づき人員の割当てを受けた企業は、労務担当者を中国に派遣し、華北労工協会と労工供出契約を締結して、同協会所管の訓練所ないし収容所に収容されていた中国人を日本へ連行して使役した[7]。
捕虜を労工訓練所を通すことによって華人労務者として供出する方法の他に、行政単位に供出人員を割当てる方法(行政供出)によって半強制的に募った華人労務者についても、同協会が供出の実務を担当した[8]。
労工集め
華北労工協会の職員は、出張所の近所にある村落を訪問して、直接、華人労務者を徴用する業務に従事していた。「募集」の方法が強制的だったので、協会職員は華人労務者から憎まれており、身の危険を感じて生命の不安を口にしていたという。[9]
収容所
石門収容所
石門の収容所の状況について、現地に派遣され労工協会と折衝した企業担当者が書いた報告書では[9]、
- 不潔な施設だった。
- 各室に大勢のが雑居させられており、各人の両手は後ろ手に縛られていて、輸送されるまで軟禁された状態だった。
- 戸口に錠前が掛けられ、中国人に見張りをさせていた。
- 食事は饅頭(粟)とお湯のみだった。
という状況が報告されている。
塘沽収容所
各地で集められた華人労務者が乗船前に収容された天津の塘沽の収容所は、下記のように、厳重な警備が敷かれており、また生活環境は劣悪だったとの証言・報告がある[10]。
- 収容所の周囲に高圧電流の通っている鉄条網が張られており、その内外に壕が掘られていて、脱走しようとすると監視塔やトーチカで監視にあたっていた日本軍に銃撃された。門口に日本軍の衛兵所があり、労工協会の警備員も配置されていた。
- 給水、浴場、理髪などの設備がなく、衛生環境が悪かった。
- 狭い収容施設内に多数の捕虜が収容されていた。
- 食事は主食の粟や高梁の饅頭が1日2回1個、半蒸しの状態で支給され、汁が少量配給されるだけだった。
- 白河(天津河)の濁った水を澄ませて飲み水にしており、健康上問題があった。
- 日本軍が雇用した中国人の監視員が捕虜を管理していて、棒で捕虜を殴打して回っていた。
- 収容所での病死者も多かった。
青島収容所
- 青島収容所には、日本へ連行される直前の捕虜が収容された。同収容所へ連行される際に、どこへ連れて行かれるか分からないという不安から抵抗し、殺害される捕虜も多かったという。[11]
付録
脚注
参考文献
- 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042
- 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、4-342-62590-3
- 西成田(2002) 西成田豊『中国人強制連行』東京大学出版会、2002年、4-13-026603-9
- NHK(1994) NHK取材班『幻の外務省報告書-中国人強制連行の記録』日本放送出版協会、1994年、4140801670