小原鎮実

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小原 鎮実(おはら しげざね、又はしずざね)(生没年不詳)は戦国時代の武将。大原資良(おおはら すけよし)と同一人物と思われ、大原肥前と記載されることもある。今川義元氏真の重臣。三河国吉田城遠江国宇津山城駿河国花沢城今川氏の城代。

三河国吉田城代

駿河国守護今川義元は三河国へ進出し、東三河の吉田城を確保し、城代として伊東元実の後に小原肥前守鎮実を置いた。

この永禄3年(1560年)、今川義元は三河守となり、大軍で上洛を試みたが、尾張国織田信長勢を前に桶狭間の戦いで敗死する。三河守義元の下にあった松平元康(後の徳川家康)は三河国岡崎城(同県岡崎市康生町)で自立を始め、当主と成った今川氏真の怒りを買う。鎮実は氏真の意に従う。

永禄7年(1564年)あるいは永禄8年(1565年)、小原鎮実の籠もる吉田城(同県豊橋市今橋町)は松平家康に包囲され落城。

遠江国宇津山城代

三河国吉田城を出た鎮実は永禄10年(1567年)に、反乱を起こして徳川家臣となった朝比奈真次の籠もる遠江国宇津山城静岡県湖西市)を攻略して入城した。しかし翌年には徳川家臣・酒井忠次の侵攻に遭い、小原鎮実の家老、増田団右衛門は討死、小原鎮実は逃亡。

駿河国花沢城代

西の徳川家康だけでなく、北の甲斐国山梨県)の武田信玄までも今川領の駿河国への侵略を開始し、永禄13年(1570年)、小原鎮実守る花沢城(同県焼津市)に武田軍が攻撃を開始した。1月4日に開戦したが、1月8日には開城して、鎮実は城から逃亡し、遠江国高天神城(同県掛川市)で小笠原長忠と共に抗戦を続けたが、落城後の行方は不明である。