佐渡丸 (1898)

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佐渡丸(さどまる、1898年 - )は、日本郵船が所有していた貨客船。1898年に竣工し、欧州定期航路に就航した。日露戦争中には徴用され、1904年6月15日常陸丸とともにロシアの軍艦の攻撃を受けて損壊し、乗組員に死傷者を出したが、沈没はしなかった。

建造

船主・船名

  • 日本郵船による新造船。船名は旧国名に因んで付けられた[2]

性能

船種
貨客船[2]
総トン数
6,219トン[1]
最高速力
14ノット[2]
船客設備
計160名[2]
船型
2本檣、3番船艙に短い揚貨柱を装備[2]
船体材質
鋼船[2]

航路

  • 欧州定期航路に就航した[2]

遭難事件

日露戦争中の1904年6月[3]14日夜、野戦鉄道員や陸軍軍人、非戦闘員など600人を超える乗員を載せて宇品港を出航し、翌15日午前10時頃、常陸丸に続いて馬関海峡を航行中に、ロシアの軍艦に遭遇。常陸丸は停戦命令に応ぜず逃走するも、攻撃を受けて火災を起こし、すぐに沈没した。佐渡丸は停船したところ、ロシア軍の将校が臨検に来て40分後に爆沈すると予告を受けた。英国人の船長らが先に逃げてしまったこともあって乗員の避難が遅れ、一部は避難用のボートに移ったが、多くの乗員が佐渡丸に残っている状態で、40分後に1発目の水雷を受け、同日12時頃に2発目の水雷を受けた。[4]

しかし佐渡丸は沈没せず、午後は悪天候になったが沈没せず、夜になっても沈没しなかった。翌16日になって、佐渡丸に残っていた乗員は長崎から新潟に廻航していた宮川丸に救助され、同日深夜に救助にきた水雷艇に乗り移り、翌17日朝に伊勢丸に乗り移って門司港に帰還した。このほかに避難用のボートで逃げた乗員は、長崎の沖ノ島あたりに漂着した。[4]

生き残った乗員は同月20日頃までに集合したので、7月1日に部隊が再編成されて丹波丸に乗船し門司を出港。同月5日に大連に到着した。このときも、軍艦が不足していたので護衛艦はつかなかったという。[4]

満洲昔話の会記事 (1928 90-93)は、乗員のうち、敵船が近付いたときに自殺したり、海に飛び込んだりした人や、避難時にボートから海に落ちた人、水雷にあたった人などで、160-170人が死亡した、としている。日本郵船 (2005 40)は、乗組員の使者は20名としている。

結局このとき、佐渡丸は沈没せず、のちに長崎のドックに入り、日本海海戦のときは仮装巡洋艦として再度出航し[4]東シナ海で哨戒行動を行った[5]

姉妹船

神奈川丸型と同一要目(総トン数6,100トン前後・船客定員160名)だが、船型はやや近代的な2檣で、3番船艙に短い揚貨柱を装備した7隻の同型貨客船。船名は旧国名に因む。[2]

阿波丸 - 若狭丸 - 因幡丸 - 丹波丸 - 備後丸 - 佐渡丸 - 信濃丸

付録

脚注

  1. 1.0 1.1 松井 2006 33
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 松井 2006 6
  3. 満洲昔話の会記事 1928 91頁に、「5月に東京で編成を了えて7月1日に軍用列車で出発」とあり、遭難事件は7月のことと解釈されるが、同書93頁に事件後「7月1日に再び部隊を編成して(…)」とあり、他書を参照すると出発は6月1日だったようである。
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 満洲昔話の会記事 1928 90-93
  5. 野間 2008 134

参考文献

  • 野間 (2008) 野間恒『増補 豪華客船の文化史』NTT出版、2008年、ISBN 9784757141889
  • 松井 (2006) 松井邦夫『日本商船・船名考』海文堂出版、2006年、ISBN 4303123307
  • 日本郵船 (2005) 日本郵船歴史博物館(編)『日本郵船歴史博物館 常設展示解説書』日本郵船、2005年
  • 満洲昔話の会記事 (1928)「満州昔話の会記事(第1回)露治時代から佐渡丸遭難まで」『満蒙』v.9 n.12、満蒙社、1928年10月、NDLJP 3564684/50 (閉)